第3話 血翼対絶界――天と地の最終衝突
──北街道・小高い崖上(蒼鏡湖まで数刻)。
馬蹄が止まり、砂礫がぱらぱらと斜面を滑り落ちた。
先頭で手綱を引くのは王国騎士団長・エルダン。
背後には荷馬車の列――荷台には丸石、鎖の束、獣皮の帯。
先頭の木箱では、ゼギンアスの書状と封蝋が揺れている。
「……見えるか、あの黒い空と閃光が」
空を切り裂く蒼雷と、それを追う紅黒の奔流。
湖畔で交差する光景を睨み、エルダンは低く長い息を吐いた。
「あれが“三大将軍”……。想像以上に手こずっているな」
「団長、ここから湖畔までは……馬で二刻、荷車では三刻は掛かります」
副将ビザリが唾を飲み込む。
「無理押しはするな。荷を落とせば元も子もない。丸石、鎖、獣皮――ゼギンアス殿から託された品だ。必ず届ける」
列の中ほど――黒布で厳重に覆われた小箱馬車が一台、きしみも立てずについて来る。封蝋には老魔導士の紋。中身は、ニルが別途頼んだ「もうひとつ」。
世界一硬い鉱石で鍛えた三つの武器――反りのない細身の短剣、二メートル超の肉厚な大剣、前腕を覆う長めの腕輪型護手一対。
王都鍛冶衆が金床と槌で試したが、刃こぼれ一つ付かず、逆に工具が潰れた。折れず、欠けず、鈍らない――絶対に壊れないと、ゼギンアス自ら保証した代物だ。
「……あの子らの“手”だ。必ず届けねばならん」
エルダンは箱をそっと叩き、ビザリへ念を押す。
「急ぎましょう!」
「いや、今行けば敵に目を付けられ、奪われる恐れがある。ここで様子を見る」
エルダンは宙に広がる巨大な血翼――ドキュラの影を改めて見上げ、首を横に振った。
「警戒を敷け。馬具を点検、車軸に油。偵騎は稜線を伝い、狼煙の準備――合図ひとつで一気に下る」
風向きが変わり、遠雷が腹の底を震わせた。
◇
──蒼鏡湖・南岸。
崩れた崖、針山と化した湖畔。
昼なのに光は赤黒く、上空では“血で編まれた”巨大な翼が空を覆う。
地上には二つの影――蒼の瞳と、雷の拳。
「これでも喰らいなッ!」
ビズギットが無数の雷球を撃ち上げる。
だがドキュラは空中で素早く旋回――翼膜がしなる。ひと捻り。ひと返し。
雷光は紙一重で外れ、黒い尾を引いて空を裂くだけ。
「ちっ……!」
間髪入れず踏み込み、拳を地へ。
「――落雷掌ッ!」
――ドガァン! 地脈を這う雷が柱となって噴き上がる。
ドキュラは翼を半身に畳み、弾丸のように下降してから急上昇。
雷柱は空を掠め、泡立つ湖面だけを焼いた。
「なら、逃がすかよ――雷縄!」
両掌から稲妻の縄が射出され、空で網を張る。
ドキュラは紅い笑みのままロール。
翼端で稲線を撫で、蝙蝠を一羽わざと絡めて切り捨てる。
余った軌跡で再上昇。余裕のS字。
「くそっ、動きが速すぎる!」
石礫を蹴り上げ、踵に雷――「雷爪ッ!」
稲光を纏った礫が弾丸のように連射される。
ドキュラは翼で作る乱流にそれを巻き込み、くるり、くるり。
礫は軌道を外れ、背後の針岩を穿った。
「……ふふ。当たらんな――血袋ども」
紅の瞳がわざとらしく細められる。
翼の影が地を舐め、ビズの頬に冷笑の影。
「今度は我の番だ。――絶望の顔で愉しませてみせろ」
――バサァ。
血翼がひと打ち。空がたわみ、黒霧が渦を巻く。
吸魂剣が天を示し、紅黒の奔流が開花した。
「――蝕紅天衝ッ!!」
――ズババババババッ!!
黒刃の雨が空を裂き、森は悲鳴、岩は蜂の巣。
「――蒼環絶界!!」
ニルが両腕を開く。
蒼白の環が幾重にも立ち上がり、湖畔“全域”を抱く巨大な球殻へ。
次の刹那――
黒刃 対 結界。
最上位魔法どうし、正面衝突。
――ガガガガガァァァァァンッ!
――ドオオオオオオォォンッ!
衝突点で空間がひしゃげ、音が一度、消える。
圧縮された風が遅れて破裂し、衝撃波が山脈を駆け抜けた。
湖盆は盛り上がり、岸が沈む。
巨木は幹から軋み、根は泥を吐き、岩盤の縫い目が白く光って裂ける。
黒刃が叩きつけられるたび、蒼の外殻は拳大の皺を生み、光の破片を四散。
――だが、一片たりともニルには届かない。
二撃。三撃。――十重。
紅と蒼が交互に爆ぜ、世界の骨が軋む。
やがて、上空のドキュラが鼻で笑う。
「フン……守りばかりでは、勝てはせん!」
「じゃあ――空ごと黙らせてやるよ!」
ビズギットが踵で泥を蹴る。背骨を稲妻が駆け上がり、拳を天へ。
「穿雲雷槍ッ!!」
――ドギャァァァァンッ!!
蒼白の雷柱が球殻の“天”を貫き、雲層をぶち抜く。
砕けた雲と強烈な電場が上空で渦――過冷却の水滴が一斉に核化して氷粒が降り注ぐ。
ザザザザ――ッ!
雹。
氷弾の滝が血翼を叩く。着氷が羽膜の縁に沿って白く固まり、
慣性が削がれる――羽ばたきがひと拍、重い。
「なッ……!」
ドキュラは凍りかけの蝙蝠を背から剥離。
黒霧から新たな群れを補充しては入れ替える。
――が、入れ替えるたびに推力は目減り。動きは鈍り、呼吸は浅い。
紅の瞳に、明らかな疲労の揺らぎ。
ニルの蒼眼が細くなる。(今――)
彼女は両手を天へ突き上げた。
次の瞬間――
ニルを守る《蒼環絶界》の半球、その蒼殻が外周から離陸。
蒼殻は瞬転して、ニルの頭上で水平円盤に変わり、縁が起立→反転――
鈍ったドキュラだけを芯に、巨大な蒼の球牢が瞬時に包み込んだ。
ニルは両の掌を近づけ、まるでその手に蒼の球があるかのように――空間ごと、強引に押し潰す。
「包囲――収縮」
――ミシ……ミシミシ……!
空中の蒼い“球体”が、きゅう、と縮む。
外殻の圧が一段上がり、中で血翼がぎちぎち押し潰されて逃げ惑う。
「ぐ……ぬ……!」
両手にかかる圧の反動。
ニルのこめかみを汗が伝い、指が痺れて印が少し滑る。
視界の端に黒い点が、また一つ灯る。
(……スタミナが、……もたない)
ピシィ――ン!
蒼の球面に亀裂。
その裂け目へ、紅の影がねじ込まれる。
「抜ける……ッ!」
ドキュラが頭と胸を外へ噴き出す。
球殻は彼を孕んだまま、力なく落下を始めた。
「出すかよ!」
ビズギットが泥を蹴り、弾む。
滑り落ちる蒼の外殻へトン、と片足で乗り、曲面を駆け上がる。裂け目――一直線。
「おりゃあああッ!!」
――ドゴォッ!!
ドキュラの飛び出した上半身へ、渾身の膝。体幹が折れ、肺が悲鳴を上げる。
「ぐぼっ……!」
同時、右手の吸魂剣が閃く――串刺しの直突き。
「させるかっ!」
ビズギットは剣を躱し、密着して間合いを潰し、左肘で右前腕を外へ極め、手首の角度を殺す。
その左手で髪を鷲掴み、顎を上げさせ――右掌に蒼白の雷を一点収束。
「これなら当たんだろ!――落雷掌ッ!!」
――ブチィィィィンッ!!
至近距離――ドキュラの口中で白爆が弾けた。
雷撃が顔面を叩き割る。
後頭部が砕け、紅の両眼が弾け飛ぶ。
衝撃波が、後方の蝙蝠を孕んだ球体ごと吹き飛ばし、地面にクレーター。
宙からは、血翼の残骸がばらばらと降り注いだ。
ビズギットは、落ち行くドキュラの身体を蹴り離し、ふらつく体を着地で殺した。
背後――ニルが崩れそうな姿勢で顔を上げる。
「……やりましたね」
蒼光が薄れ、風が戻る。
雷の残滓と蒼の名残が、静かに空へ溶けていった。
ビズギットが肩で息をしながら、親指を立てる。
「……ニル」
名を呼んだ声は、かすれて掠れ、雷鳴の余韻に溶けた。
ニルが顔を向けると、ビズギットは大きく息を吸い込み――
まるで言葉を吐き出すのに、全身の力を込めるように口を開いた。
「あ……ありがとう」
「え?」
「最後まで……アタシの横に、いてくれて……」
乱暴者の口から不器用にこぼれた一言に、
ニルは血に濡れた頬を拭いながら、微笑をひとしずく浮かべた。
「――はい。どこへも、いきません」
◇
湖畔に沈黙が落ちた。
黒羽がぱらぱらと降り、蒼光の名残と雷の匂いだけが漂う。
二人は――立っていること自体が奇跡だった。
ニルは裂かれた左肩を押さえ、呼吸のたび視界が白く滲む。
ビズギットは焼き固めた脇腹がずきずきと疼き、膝が笑う。
「……はぁ、はぁ……」
蒸気の立つ湖面。砕けた岩。針山みたいな地面。
耳鳴りの奥で、世界がようやく音を取り戻していく。
ニルが顔を上げ、周囲を見渡した。
「……あれ。――バッドレイは?」
ビズギットも首を巡らせる。残るのは黒い羽の残滓だけ。
「え、アイツ……どこ行った……?」
湖畔を一望する。
呪巫婆と吸剣将は沈めた――だが、残る巨影も、バッドレイの姿も見当たらない。
嫌な汗が背を伝う。
「……まさか」
遠く、森の向こうで地が低く唸った。
ドゥン…… ドゥゥン……。
鉄塊を大地に叩きつけるみたいな、いやな鼓動。
ビズギットが歯を食いしばる。
「バカなのは知ってるけどよ――
まさか“一人で”やり合ってんじゃねぇだろな!」
「可能性は高いです」
「アイツが、バカ力なのは分かるけどよ」
「……グルザードの、あの膂力。バッドレイの攻撃を片腕で受け止める怪物でした。――探しましょう」
「……っ、当然だろ!」
ニルは折れた短剣を握り直し、ビズギットは拳に微かな雷を灯す。
ふらつく足を、互いの肩で一瞬だけ支え合う。
「行けますか」
「行けるに決まってんだろ!」
スタミナは底。見つけても、一撃だって怪しい。
それでも――二人は泥を蹴った。崖の影へ、森の裂け目へ。
仲間を、取り戻すために。
その背中を追うように、地の鼓動が一歩ぶん近づく。
ドゥン。ドゥン。――次の地獄が、待っているのか。




