表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
20/26

第1話 峡谷の密約 ― 逃げ場なき滅びの雨

二日前――峡谷の奥。


赤茶けた岩場に、王都兵の死体が散乱していた。

折れた槍と鎧が泥に沈み、裂けた軍旗は血と腐肉(ふにく)に塗れて岩肌に張り付いている。

滴り落ちる赤黒い液は谷底を黒く濁らせ、蠅の群れがぶんぶんと渦を巻いていた。


その屍をむさぼるのは――

王都にひしめく盗賊団の中でも、最大規模を誇る『盗賊団プーランド・ソープ』。


奴らはまだ温もりを残す死体から指輪をもぎ取り、懐から血に塗れた革袋を乱暴に引き抜くと、中身の金貨がカランと転がり落ちた。

下卑(げび)た笑いと汚い罵声が、峡谷の狭間に反響して幾重にも重なり、あたかも亡者の(うめ)きのように響いていた。


「へっ、こいつはうまい稼ぎだ!」

「鎧ごと売り払えば、銀貨百は堅ぇな!」


その喧騒は、唐突に押し潰された。


――ズズゥゥゥゥン……。

大地を踏み砕く――鉄塊(てっかい)が落とされたかのような、地中から響く低音。

盗賊たちの笑い声が途切れ、峡谷の空気がざらつく。

次の瞬間、林が断末魔を上げるように裂け、巨木が軋みながら倒れ伏した。


陽光を遮り、漆黒の巨躯きょくが姿を現す。


深淵(しんえん)の主》――グレイデス。


五メートルを優に超える怪物。

右腕に握られた戦鎚(せんつい)は、まるで砦そのものを断罪するかのように叩き潰す鉄塊だった。

黒鋼(くろがね)の甲冑は呪詛をそのまま鋳固(いかた)めたように歪み、胸に刻まれた紋章を覆う赤黒い血管は、脈打ち、(うごめ)き、生き物のようにうねっていた。


兜のねじれた突起は角のごとく(そび)え、狭いスリットの奥で赤い双眸が燃える。

その目が峡谷を一瞥するだけで、空気は凍りつき――すべての命が“死の宣告”を受けたように押し黙った。


「ひ、ひぃ……!」

「に、逃げろ……ッ!」


盗賊たちは金袋を投げ捨て、蜘蛛の子を散らすように後ずさる。

だが――その群れを押し分け、一人だけが前に出た。


《盗賊団プーランド・ソープ》総頭領、ドドンガ・レイス。


身の丈は二メートル、丸太のような腕に大斧を背負う巨漢の男。

赤黒い殺気を真正面から浴びながらも、その口元には――不敵な笑みが浮かんでいた。


「……ちょっと待ってくれや」

その声は峡谷に反響し、雷鳴のように轟いた。


「俺たちゃアンタとやり合うつもりはねぇ。――共闘しねぇか?」


赤い光がわずかに揺らぐ。


「……共闘?」


「そうだ。俺たちは金が欲しいだけだ。……見逃してくれりゃいい。

 その条件があるんなら言ってくれ。アンタの望みをかなえてやる」


数秒の沈黙――谷全体が重く押し潰されるような気配。

やがて兜の奥から、冷たくも揺るぎない声が落ちた。


「――死んだ妻を、死界から呼び戻す。

 日が山に沈むとき……《世界律の鍵》を使い、境界を閉じろ」


「……は?」


「扉を閉じねば、死界は開き続け、屍の群れが無限に溢れる。

 だが閉じれば、すべては“死”へ還る。吐き出された屍どももまとめて消える。

 ……そうでなければ、妻に安寧(あんねい)は訪れぬ」


ドドンガの目が細まる。

「へっ……国を滅ぼす算段かと思えば、そんなことかよ――楽勝じゃねぇか」


――沈黙。


峡谷を吹き抜けていた風が、ぴたりと止む。

岩壁に反響していた盗賊どものざわめきも消え、谷全体が“無音”に押し潰された。

飛び交っていた蠅すら羽音を止め、血の匂いだけが重く残る。


グレイデスの兜の奥で、炎のような赤い光がじわりと揺らぐ。

その静かな睨みが突き刺さった瞬間、ドドンガの背に冷汗が滲む。


「ちょ……ちょっと、冗談だっ……」

巨漢の声がわずかに裏返り、喉がごくりと鳴る。

グレイデスは、ドドンガの言葉を無視するように、淡々と告げる。


「王都の財宝はすべてくれてやる。それが報酬だ。……ただ一つ、その約束だけは果たせ」


一瞬の沈黙――。

次の瞬間、谷を揺らすような豪快な笑い声が轟いた。


「アハハハッ! 脅かすなよ、ったく! 

 いいぜ、英雄サマよ……アンタの狂気、気に入った!

 俺たちも無限のゾンビに埋め尽くされるのはごめんだ。

 世界をぶっ壊したあとで、その“扉閉じ”ってやつは――俺に任せな!」


こうして交わされたのは――血と狂気に縛られた“呪縛”であった。


――グレイデスが《世界律の鍵》を奪い、死界より妻を呼び戻したその瞬間。

鍵はドドンガに託され、日が沈む時、境界を閉じる。


その短き猶予のあいだに、グレイデスは己の命を代償にして、かつて救えなかった唯一の妻を蘇らせようとしていた。


……それは、世界を滅ぼす怪物と、ただ一人の女を想う夫との――矛盾に満ちた“悲壮な決意”だった。



現在――蒼鏡湖。


轟音。閃光。

湖畔全体を呑み込む渦の中心で、血翼の魔将――ドキュラが立ちはだかっていた。


次の瞬間、背の翼が大きく広がる。

無数の蝙蝠が絡み合い、黒い羽膜を軋ませながらさらに肥大化していく。


――ギュルルルルルッ!!


空気が引き裂かれた。

羽ばたき一つで地表の岩は粉砕され、湖面は逆巻いて高波を打ち上げる。

圧は地を押し潰し、森を軋ませ、戦場そのものを震わせた。


そして――


――バサァァァァァァァァッ!!!


ドキュラの身体が宙へ舞い上がった。

血に濡れた巨大な翼が昼空を裂き、戦場に圧倒的な影を落とす。


「……なっ……飛びやがった!」

ビズギットが歯を食いしばり、雷光を纏った拳を構える。


「空から……攻撃するつもりです……!」

ニルの蒼い瞳が震え、結界の輪を張り直す。


上空で旋回する影――細身の体に不釣り合いなほど肥大化した血翼。

翼の奥深くへ無数の蝙蝠が吸い込まれ――次の瞬間、鋭利な黒刃となって吐き出される。


黒曜の雨。


――ズバババババッ!!


串刺しにされる大地。

巨木が粉砕され、湖面が幾重もの波紋を広げて崩落していく。


「ぐっ……やまねぇ……!」

ビズギットの頬を掠め、血飛沫が飛ぶ。


「……っ……!」

ニルは隙をついて、カラスの死骸へ魔糸を仕込もうとした――だが、降り注ぐ刃が掠め、白い腕が裂かれた。

瞬間、熱い痛みよりも先に、血が冷たい線となって滴り落ちる。


それでも彼女は歯を食いしばり、死骸を蒼環結界の内側へ引きずり込む。


背筋を伝うのは汗か、それとも恐怖か。

無数の黒刃に包囲され、魂そのものが削り取られていく錯覚が胸を締め付けた。



天を仰ぐ二人を見下ろし、上空のドキュラが咆哮する。

紅の声は雷鳴のように大気を震わせた。


「……見せてやろう、血翼の極致を……!!」


翼の影が、大地を覆い尽くすほどに広がった。

崩壊と再生を繰り返す群れが渦を巻き、赤黒の光を帯びながら収束する。


「すべてを呑み穿つ――」


空が裂けた。

翼から奔出したのは、天を蝕む紅黒の奔流。


「――蝕紅天衝(しょっこうてんしょう)ッ!!!」


――ドオオオオオオオォォンッ!!!


降り注ぐ黒刃は止むことを知らず、すでに穿たれた地をさらに裂き、針山を広げていく。水面は泡立ち、血の霧に塗り潰され、世界は一瞬で“音と光”を失った。


大地は震えることすら忘れ――“滅びの雨”に塗り潰され続けていた。



その時。


電撃を纏った拳で踏み込んだビズギットの足が、泥に滑った。


「……クッ……!」


片膝をついた彼女が、それでも血を吐きながら笑う。


「あはは、膝が笑ってやがる!」


「……でも、その強がり……たまには私を元気づけてくれます」

ニルが息を荒げつつも微笑む。

汗と血に濡れた顔に、それでも凛とした光を宿して。


「は……? なに言ってやがる……!」

顔は歪んでいても、ビズの瞳もまた、微笑んでいた。



二人の眼差しが同時に空を射抜いた。

血に塗れ、膝を震わせながらも、その瞳は曇らない。


「空から何が降ってこようが――全部ぶっ飛ばしてやるッ!!」


「……ビズ、合わせて。必ず地に落とします」


雷光の拳と、空を狙う魔糸。

血の雨が続く中、二人はなおも上空を睨み据えた。


――かつて、パイ一つで殺し合っていた少女たち。

その二人がいま、死地の只中で笑顔を見せあっていた。


圧倒的不利の中で――

それでも確かに、二人の中には“沈まぬ怒り”が燃えていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ