第1話 峡谷の密約 ― 逃げ場なき滅びの雨
二日前――峡谷の奥。
赤茶けた岩場に、王都兵の死体が散乱していた。
折れた槍と鎧が泥に沈み、裂けた軍旗は血と腐肉に塗れて岩肌に張り付いている。
滴り落ちる赤黒い液は谷底を黒く濁らせ、蠅の群れがぶんぶんと渦を巻いていた。
その屍をむさぼるのは――
王都にひしめく盗賊団の中でも、最大規模を誇る『盗賊団プーランド・ソープ』。
奴らはまだ温もりを残す死体から指輪をもぎ取り、懐から血に塗れた革袋を乱暴に引き抜くと、中身の金貨がカランと転がり落ちた。
下卑た笑いと汚い罵声が、峡谷の狭間に反響して幾重にも重なり、あたかも亡者の呻きのように響いていた。
「へっ、こいつはうまい稼ぎだ!」
「鎧ごと売り払えば、銀貨百は堅ぇな!」
その喧騒は、唐突に押し潰された。
――ズズゥゥゥゥン……。
大地を踏み砕く――鉄塊が落とされたかのような、地中から響く低音。
盗賊たちの笑い声が途切れ、峡谷の空気がざらつく。
次の瞬間、林が断末魔を上げるように裂け、巨木が軋みながら倒れ伏した。
陽光を遮り、漆黒の巨躯が姿を現す。
《深淵の主》――グレイデス。
五メートルを優に超える怪物。
右腕に握られた戦鎚は、まるで砦そのものを断罪するかのように叩き潰す鉄塊だった。
黒鋼の甲冑は呪詛をそのまま鋳固めたように歪み、胸に刻まれた紋章を覆う赤黒い血管は、脈打ち、蠢き、生き物のようにうねっていた。
兜のねじれた突起は角のごとく聳え、狭いスリットの奥で赤い双眸が燃える。
その目が峡谷を一瞥するだけで、空気は凍りつき――すべての命が“死の宣告”を受けたように押し黙った。
「ひ、ひぃ……!」
「に、逃げろ……ッ!」
盗賊たちは金袋を投げ捨て、蜘蛛の子を散らすように後ずさる。
だが――その群れを押し分け、一人だけが前に出た。
《盗賊団プーランド・ソープ》総頭領、ドドンガ・レイス。
身の丈は二メートル、丸太のような腕に大斧を背負う巨漢の男。
赤黒い殺気を真正面から浴びながらも、その口元には――不敵な笑みが浮かんでいた。
「……ちょっと待ってくれや」
その声は峡谷に反響し、雷鳴のように轟いた。
「俺たちゃアンタとやり合うつもりはねぇ。――共闘しねぇか?」
赤い光がわずかに揺らぐ。
「……共闘?」
「そうだ。俺たちは金が欲しいだけだ。……見逃してくれりゃいい。
その条件があるんなら言ってくれ。アンタの望みをかなえてやる」
数秒の沈黙――谷全体が重く押し潰されるような気配。
やがて兜の奥から、冷たくも揺るぎない声が落ちた。
「――死んだ妻を、死界から呼び戻す。
日が山に沈むとき……《世界律の鍵》を使い、境界を閉じろ」
「……は?」
「扉を閉じねば、死界は開き続け、屍の群れが無限に溢れる。
だが閉じれば、すべては“死”へ還る。吐き出された屍どももまとめて消える。
……そうでなければ、妻に安寧は訪れぬ」
ドドンガの目が細まる。
「へっ……国を滅ぼす算段かと思えば、そんなことかよ――楽勝じゃねぇか」
――沈黙。
峡谷を吹き抜けていた風が、ぴたりと止む。
岩壁に反響していた盗賊どものざわめきも消え、谷全体が“無音”に押し潰された。
飛び交っていた蠅すら羽音を止め、血の匂いだけが重く残る。
グレイデスの兜の奥で、炎のような赤い光がじわりと揺らぐ。
その静かな睨みが突き刺さった瞬間、ドドンガの背に冷汗が滲む。
「ちょ……ちょっと、冗談だっ……」
巨漢の声がわずかに裏返り、喉がごくりと鳴る。
グレイデスは、ドドンガの言葉を無視するように、淡々と告げる。
「王都の財宝はすべてくれてやる。それが報酬だ。……ただ一つ、その約束だけは果たせ」
一瞬の沈黙――。
次の瞬間、谷を揺らすような豪快な笑い声が轟いた。
「アハハハッ! 脅かすなよ、ったく!
いいぜ、英雄サマよ……アンタの狂気、気に入った!
俺たちも無限のゾンビに埋め尽くされるのはごめんだ。
世界をぶっ壊したあとで、その“扉閉じ”ってやつは――俺に任せな!」
こうして交わされたのは――血と狂気に縛られた“呪縛”であった。
――グレイデスが《世界律の鍵》を奪い、死界より妻を呼び戻したその瞬間。
鍵はドドンガに託され、日が沈む時、境界を閉じる。
その短き猶予のあいだに、グレイデスは己の命を代償にして、かつて救えなかった唯一の妻を蘇らせようとしていた。
……それは、世界を滅ぼす怪物と、ただ一人の女を想う夫との――矛盾に満ちた“悲壮な決意”だった。
◇
現在――蒼鏡湖。
轟音。閃光。
湖畔全体を呑み込む渦の中心で、血翼の魔将――ドキュラが立ちはだかっていた。
次の瞬間、背の翼が大きく広がる。
無数の蝙蝠が絡み合い、黒い羽膜を軋ませながらさらに肥大化していく。
――ギュルルルルルッ!!
空気が引き裂かれた。
羽ばたき一つで地表の岩は粉砕され、湖面は逆巻いて高波を打ち上げる。
圧は地を押し潰し、森を軋ませ、戦場そのものを震わせた。
そして――
――バサァァァァァァァァッ!!!
ドキュラの身体が宙へ舞い上がった。
血に濡れた巨大な翼が昼空を裂き、戦場に圧倒的な影を落とす。
「……なっ……飛びやがった!」
ビズギットが歯を食いしばり、雷光を纏った拳を構える。
「空から……攻撃するつもりです……!」
ニルの蒼い瞳が震え、結界の輪を張り直す。
上空で旋回する影――細身の体に不釣り合いなほど肥大化した血翼。
翼の奥深くへ無数の蝙蝠が吸い込まれ――次の瞬間、鋭利な黒刃となって吐き出される。
黒曜の雨。
――ズバババババッ!!
串刺しにされる大地。
巨木が粉砕され、湖面が幾重もの波紋を広げて崩落していく。
「ぐっ……やまねぇ……!」
ビズギットの頬を掠め、血飛沫が飛ぶ。
「……っ……!」
ニルは隙をついて、カラスの死骸へ魔糸を仕込もうとした――だが、降り注ぐ刃が掠め、白い腕が裂かれた。
瞬間、熱い痛みよりも先に、血が冷たい線となって滴り落ちる。
それでも彼女は歯を食いしばり、死骸を蒼環結界の内側へ引きずり込む。
背筋を伝うのは汗か、それとも恐怖か。
無数の黒刃に包囲され、魂そのものが削り取られていく錯覚が胸を締め付けた。
◇
天を仰ぐ二人を見下ろし、上空のドキュラが咆哮する。
紅の声は雷鳴のように大気を震わせた。
「……見せてやろう、血翼の極致を……!!」
翼の影が、大地を覆い尽くすほどに広がった。
崩壊と再生を繰り返す群れが渦を巻き、赤黒の光を帯びながら収束する。
「すべてを呑み穿つ――」
空が裂けた。
翼から奔出したのは、天を蝕む紅黒の奔流。
「――蝕紅天衝ッ!!!」
――ドオオオオオオオォォンッ!!!
降り注ぐ黒刃は止むことを知らず、すでに穿たれた地をさらに裂き、針山を広げていく。水面は泡立ち、血の霧に塗り潰され、世界は一瞬で“音と光”を失った。
大地は震えることすら忘れ――“滅びの雨”に塗り潰され続けていた。
◇
その時。
電撃を纏った拳で踏み込んだビズギットの足が、泥に滑った。
「……クッ……!」
片膝をついた彼女が、それでも血を吐きながら笑う。
「あはは、膝が笑ってやがる!」
「……でも、その強がり……たまには私を元気づけてくれます」
ニルが息を荒げつつも微笑む。
汗と血に濡れた顔に、それでも凛とした光を宿して。
「は……? なに言ってやがる……!」
顔は歪んでいても、ビズの瞳もまた、微笑んでいた。
◇
二人の眼差しが同時に空を射抜いた。
血に塗れ、膝を震わせながらも、その瞳は曇らない。
「空から何が降ってこようが――全部ぶっ飛ばしてやるッ!!」
「……ビズ、合わせて。必ず地に落とします」
雷光の拳と、空を狙う魔糸。
血の雨が続く中、二人はなおも上空を睨み据えた。
――かつて、パイ一つで殺し合っていた少女たち。
その二人がいま、死地の只中で笑顔を見せあっていた。
圧倒的不利の中で――
それでも確かに、二人の中には“沈まぬ怒り”が燃えていた。




