第4話 血翼の逆襲――削られる魂二つ
忘却の聖堂――《虚の祭壇》。
異界と現界の狭間に潜むその闇で、悪魔【ナグ=ソリダ】は突如として胸奥をえぐられるような衝撃を受けた。
「……な、に……?」
それは微かな断絶。
三本ある魂糸の内の一本が、無理やり引きちぎられたような痛覚。
己の分体――《深黒の呪巫婆》シザーラの“魔魂”が、完全に潰えた瞬間だった。
「馬鹿なッ……!」
祭壇の闇が波打ち――聖堂が揺れた。
禍々しい声は震え、やがて怒気を孕む。
「我が造りし“三大将軍”……死すら喰らう巫婆が……倒された、だと!? そんなはずが――」
信じられぬとばかりに、ナグ=ソリダは掌を掲げ、聖堂中央の湖へ魔力を注ぐ。
すると――
湖の湖面が静かに揺れ、中央が円環のように開けていく。
深緑の水が鏡のごとく澄み、そこに戦場の光景が浮かび上がった。
揺れる湖畔。
崩れ落ちた呪巫婆の亡骸の前に――二つの小さな影が立っていた。
ひとりは雷を纏った拳を血に濡らし、肩で荒く息をつく少女。
もうひとりは短剣を携え、蒼い瞳で周囲を睨み据える少女。
まだ若い。
人間で言えば、ほんの十代の小娘。
「…………子供……?」
湖の映像を凝視する悪魔の瞳に、初めて明確な動揺が走る。
「我がシザーラを……この、子供らが……倒しただと……?」
唸り声は震え、そして次第に狂気じみた笑いに変わった。
「クク……クハハハハッ……! なるほど! 人の世界も捨てたものではないな……!
いいぞ……もっと踊れ。もっと我を楽しませてみせろ……“人間の子ら”よ……!」
闇に嗤い声が木霊し、虚の祭壇が不気味に震動する。
――その時。
湖面の映像が歪み、二人の前の大地から赤い閃光が噴き上がった。
◇
「来るぞ!」
ビズギットの怒号に、ニルが短剣を構える。
大地が悲鳴を上げるように裂け、地面の亀裂から黒い霧が吹き出した。
霧は瞬く間に数百、数千の蝙蝠へと形を変え、空を埋め尽くしながら狂乱の羽音を撒き散らす。
その羽ばたきは耳膜を破る呪詛の共鳴で、肉体から魂ごと削り取るかのようだった。
――ズジャシャァァァァァン!!
爆ぜる閃光と共に、地盤が砕け散る。
その中から舞い上がったのは紅の影――《血翼の吸剣将》ドキュラ=グリモワール。
その赤眼が湖畔を走り――シザーラの無惨な亡骸を捉えた。
「……なッ……!?」
紅の瞳が大きく揺らぎ、蝙蝠の羽音さえ一瞬止む。
ほんの刹那の沈黙。だが次の瞬間、紅の瞳に燃えるような怒気が宿った。
「巫婆が……倒された……? 人間ごときに……!」
牙がきしむほどに噛み鳴らされ、紅が唇を湿らせる。
「我らが使命は……グレイデスを守り抜くこと……! その一角を血袋ごときが――砕いたと……!」
嗤いが牙の隙間から滲む。
「……いいだろう。巫婆の仇に――絶望を与えてやろう」
ドキュラの怒声が闇に轟き、戦場は再び黒に沈んだ。
「行け――ナイトバット=ファムル!」
吸魂剣が天を指し、黒霧が裂ける。
無数の蝙蝠が噴き出すようにニルへ襲い掛かり、羽音は呪詛の旋律となって空を裂いた。
噛みつかれた石片すら黒煙を漏らし、触れるだけで命を削る禍々しさを放つ。
「くッ……!」
ニルの蒼い瞳が闇に覆われ、視界が奪われる。耳元で幾十もの牙が迫る――。
「ニル――ッ!!」
ビズギットが雷光を纏って跳び出す。
両掌に蒼雷を凝縮し、爆ぜる寸前の魔力球を抱え込む。
「まとめて吹っ飛べェェッ!!
爆ぜろ――《爆雷轟破》ッ!!」
――ズガァァァァァァンッ!!
稲妻の奔流が大地を裂き、湖畔を白昼のごとく照らす。
蝙蝠の群れは閃光に呑まれ、黒煙と黒羽根を散らして吹き飛んだ。
爆風で湖面はえぐれ、蒼白の残光が視界に焼き付き、森の木々が悲鳴を上げる。
「っ、助かった……!」
ニルは短剣を握り直す。
だがその瞬間――。
足元の岩盤が崩れた。
ドキュラが落ちた穴と繋がり、地が崩落していく。
「――ッ!」
体が傾き、奈落が口を開ける。
魔糸を岩壁へ張るが、無数の蝙蝠が牙で断ち切ろうと群がった。
「チィッ……ニルから離れろッ!」
ビズギットがさらに掌を突き出し、雷光を収束させる。
「爆ぜろォォッ!!」
轟音。
雷球が炸裂し、蝙蝠の群れを白光ごと薙ぎ払った。
焼け焦げた羽が雪のように散り、戦場に一瞬だけ光が差す。
だが――奈落が手招きするように、足場が崩れ落ちた。
「こっちだ、掴めッ!!」
差し伸べられた手。
穴の中のニルが跳ぶ。
指先が――触れた。
その刹那。
「……どこを見ている」
闇が裂けた。
紅の閃光が、ビズギットの腹を――横薙ぎに奔った。
「ぐッ――!!」
鮮血が弧を描く。
骨を擦る刃。
全身に走る痺れ。
内臓が凍りつくような悪寒。
血の匂い。
視界が赤に染まる。
それでも――彼女は手を離さなかった。
「うおおッ……行けェェッ!!」
叫び。
残った力で、ニルの身体を外へと弾き飛ばす。
彼女自身は膝をつき、
血を滴らせながら地に崩れ落ちた。
拳から、雷光が零れ落ちる。
魂を抉るような吐き気が、全身を焼いた。
「ビズ!!」
ニルの悲鳴が、夜を裂いた。
ドキュラは剣に滴る血を舐め取り、恍惚に顔を歪めた。
「――血袋は、潰してからが旨い」
赤黒い蝙蝠が、頭上で再び渦を巻く。
その羽音は、少女たちのわずかに残った気力すら削り取るように、戦場を覆い尽くした。
――少女たちの息は荒く、魂の灯火は今にも消えかけていた。
だが頭上の蝙蝠の渦は、むしろ歓喜に震え、血の宴を欲して蠢いている。
生と死の天秤は、いま――圧倒的に“死”へと傾いていた。




