第4話 開戦― 規格外の三大将軍
湖畔に――天地を砕くかのような轟音が落ちた。
青空は裂け、陽光は血の色を帯び、群青の湖面は痙攣するように震えあがる。
その只中に、三つの影が立っていた。
それは、もはや人ではない。
理をねじ曲げ、世界そのものに拒まれる“邪悪の権化”。
空気は腐り、草木は黒ずみ、湖畔の大地が軋みを上げる。
まず一人。
《血翼の吸剣将》ドキュラ=グリモワール。
紅蓮のマントを翻し、手にした長剣は――音をも殺す。
背後から舞い上がる呪詛の蝙蝠が陽を喰らい、昼を闇に変えていく。
「……血袋たちよ。お前ら、異物だな」
氷刃のような声が、聞く者の肺の奥を凍りつかせた。
次に一人。
《深黒の呪巫婆》シザーラ=クロウ。
背を曲げた老女の肩に止まるのは、眼窩から血涙を垂らすカラス。
その魔杖は回るたびに、腐蝕の斧や棘まみれの槍へと姿を変え、一振りするだけで、空気を罅割れさせた。
「アハッ……悲鳴も砕ける音も、ぜんぶ混ぜて歌にしようかねぇ……♪」
掠れた嗤いは、骨の髄を震わせる呪曲そのものだった。
そして最後。
大地そのものが呻き、盛り上がる。
《鉄喰の魔剛鬼》グルザード=ゼウス。
肌は鉄を溶かしたように黒く爛れ、口からは灼熱の蒸気を吐き出す。
「グルザァァァァ!! 壊すッ!! 強ェ奴、みんな――壊すゥゥ!!」
咆哮は雷鳴をも凌ぎ、握る戦槌<ウォーハンマー>は湖を割り、岩盤を粉砕した。
天地が共鳴し、前に立つ者の逃げ場は……もはや、どこにもなかった。
◇
バッドレイたち三人は、不意の急襲に備えきれず――立ち位置を大きく乱していた。
本来なら、地形を読み、罠を仕掛け、湖畔の利を握って戦うはずだった。
だが、その計画は開始前に……無惨に踏み潰される。
「……なんで、こんなところに……?」
ニルの細い声が、湖面のざわめきに溶けて消えた。
ゼギンアスが語った“規格外”の副将たち。
まるで伝承にしか残らぬ怪物のような存在。
――まさか、準備もままならぬ状況で。しかも三体同時に遭遇するなど。
彼女の瞳に潜む冷静さは揺らぎ、そこへ焦燥の影が差していく。
「どうする、ニル。逃げるか?」
軽口を叩いたバッドレイの顔に、笑みは欠片も無い。
その眼差しは獣のように鋭く、敵影を測るというより、迫る死の気配に食らいつこうとしていた。
「バカか――逃げたって追われんだろ! ホント殺すぞ!!」
ビズギットの怒声が響く。
だがその声には震えが混じっていた。
溢れ出る魔力は苛立ちを告げると同時に、獣のように血を欲する衝動の表れでもあった。
「……体勢を整えてから戦うはずでした。状況は、最悪ですね」
ニルは短剣を逆手に構え、息を詰める。
冷静な声色の裏で、額を伝う一筋の冷汗が、彼女の内心を雄弁に物語っていた。
◇
――次の瞬間、湖畔の空気が震え裂けた。
ドキュラが細長い吸魂剣を静かに前へ翳す。
「行け、ナイトバット=ファムル――闇を食らい尽くせ!」
虚空がひび割れ、ドキュラの背から漆黒のコウモリが無数に羽ばたき出した。
羽音ひとつなく、呪詛めいた気配だけを撒き散らしながら、三人の頭上へ降り注ぐ。
まるで太陽そのものが呑み込まれたかのように、光が奪われていく。
湖畔はたちまち漆黒の帳に閉ざされた。
「うわっ、なっ……!」
ビズギットが咄嗟に雷撃を放つ。
稲光が炸裂し、数百羽が一斉に焼き払われた。
だが、悲鳴もなく霧散し、黒煙となって視界にまとわりつく。
その残滓はただの影ではない。五感を狂わせ、仲間の姿すら霞ませる幻影。
「このっ……!」
再び雷がビズギットの掌から迸る。
地面が震え、白光が湖畔を焼き尽くす――その刹那。
「……まずはお前からだ」
闇を切り裂き、ドキュラがニルへ無音で迫った。
剣筋は氷刃のごとく冷たく鋭く、彼女の背を狙って閃く。
「……ッ!」
ニルは跳び退き、紙一重でかわす。
だが夜霧のごとき蝙蝠の群れがまとわりつき、足場を奪っていく。
「……罠を張っておくべきでした……!」
悔恨の声を、シザーラの哄笑がかき消した。
「アハッ! 今さら後悔しても遅いわぁ……♪」
魔杖が天を裂く。
黒い羽根と共に降り注いだのは呪詛の結晶――触れた肉をひび割れさせ、骨ごと砕く病の矢だった。
「くっそ婆ァ……舐めんじゃねェッ!」
白雷が迸り、矢を粉砕する。
光は空を真昼のごとく照らした。――だが次の瞬間。
砕け散った呪矢は霧となり、逆に稲光を喰らって濃く増幅して落ちていく。
「……ぎゃっ……!」
撃てば撃つほど呪霧は肥大し、天から黒い滴が降り注ぐ。
ビズギットの剥き出しの肩は、蜘蛛の巣のようなひび割れが走り、血が滲んだ。
「アッハッハッ! いい声だねぇ! 泣き声と雷鳴、よく響くわねぇ!」
シザーラの嗤いが響くその背後で、影がうごめく。
「ビズ! 危ない!」
ニルの声が鋭く裂けた。
同時、闇が割れ――ドキュラの刃が音もなく迫る。
ビズギットが咄嗟に身を逸らす。鼻先を、冷たい光が掠めた。
――キィン!
火花が散る。
ニルの短剣が闇を切り裂き、死角からの一撃を受け止めていた。
「……よく読めたな」
氷のような声。剣速は目で追えず、足音すら存在しない。
「まだ――です!」
押し返した刹那、ニルは刃を返しドキュラの喉を狙う。
閃光の突き――しかし紅のマントが翻り、影が千切れて姿は霧のように消えた。
直後、闇の中の横合いから見えぬ太刀が迫る。
「ちいっ……!」
ニルは宙へ飛び退く。
頬を裂かれ、冷気が皮膚を抉り、熱い血が滴る。
ほんの一瞬遅ければ、首が飛んでいた。
「……一撃で終わらなかったのは、褒めてやろう」
闇に浮かぶ瞳が妖しく光る。
ざわめく蝙蝠が、断末魔を待つかのように、頭上で旋回していた。
――その時、巨体が影を踏み破って前へ躍り出る。
「おまえッ! 強そッ!! 壊すッ!!」
咆哮と共に、グルザードがバッドレイ目掛けて突進する。
岩山そのものが暴走したかのような質量。大地を砕き、砂礫が波のように巻き上がった。
「おー、いいねぇ~!」
バッドレイは口角を吊り上げ、両手剣を高々と掲げる。
――ズゴォォォォォーン!!
衝突の瞬間――天地が震えた。
湖畔は土煙と衝撃波に呑まれ、黒蝙蝠の闇すら悲鳴のように立ち消える。
「おっと……こりゃ、予想以上だわ!」
「グルザァァァァ!!」
崖際の大地はうねり、地層ごと震え砕ける。
木々は根を引きちぎられ、折れ伏し、戦場は荒嵐に呑まれた廃墟のごとく変貌した。
――誰もが次の一撃を予想できない。
湖畔は、もはや地獄そのものだった。




