第3話 遺書
片手しかない状態で文字を書くというのは、ことのほか大変だった。
なにせもう片方の手で手帳を抑えられないから、文字を書いているとすぐに紙がズレる。
しかも俺は利き腕を失っているので、尚更に字が上手く書けない。
最初はイライラしながら書いていたが、片手で文章を書く感覚にもどうにか慣れてきた。
人間の身体とは、案外不便にも順応できるモノらしい。
――俺は、〝遺書〟に書けるだけのことを書き記そうと思った。
この遺書は誰かに見せるつもりはない。
勿論、シャルロッテにも。
ただ俺が生きた証を――なにを想っていたのかを残したい。
誰かのためでなく、自分のために。
漠然とそう思ったのだ。
何故そう思ったのかは、俺自身にもよくわからない。
もしかしたら俺が転生者だからなのかもしれない。
俺はこの世界が、乙女ゲーム『黒のアネモネ』の世界だと知っている。
俺自身がゲームのキャラであることも。
――そして、シャルロッテが〝断罪ルート〟というバッドエンドを迎えたことも。
だがそんなこと、この世界の中で誰に言えるワケもない。
仮に言ったとしても、信じてもらえるはずがない。
この世界の真実を打ち明けられるのは、他ならぬ俺自身しかいないのだ。
だから〝遺書〟として、自分に向けて書き記す。
勿論、こんなことになんの意味もないことくらい理解している。
だがこうでもしなければ……心が壊れてしまいそうな気がしたのだ。
「……」
部屋の中で一人、俺は黙々と文章を書き続ける。
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〇月×日
この日この手帳に、俺は〝遺書〟を書き記す。
この〝遺書〟は誰かに読ませるために書いているワケではない。
だから死後の願いなど残さない。
もし今この瞬間、アドニス・マクラガン以外の誰かが誤って読んでしまっているなら、すぐに手帳を閉じてほしい。
俺は――もうすぐ死ぬ。
シャルロッテを助けることはできたが、暗殺者が放った毒が身体を蝕んでいるらしい。
あと一ヵ月生きられるか、一週間生きられるか、それとも明日までの命か……残された時間は少ないだろう。
俺にはどうしても他人に言えない秘密がある。秘めた想いがある。
だから誰かに聞いてもらう代わりに、この〝遺書〟に書き記す。
これは自分自身に向けた〝遺書〟だ。
――俺はこの世界の人間じゃない。
いや、確かにアドニスはこの世界の住人なのだが、その中身である俺の精神は日本という別世界の国に生まれた、どこにでもいる学生だ。
この世界はゲーム世界だ。
『黒のアネモネ』というタイトルの乙女ゲームで、主人公はシャルロッテ・グラナート、メインヒーローはアドニス・マクラガン。
この世界線は〝断罪ルート〟というバッドエンドを迎えている。
シャルロッテは俺と結ばれて幸せになったり、あるいは他のヒーローと結ばれて幸せになれるルートがあった。
だが、この世界線ではそうはならなかった。
この世界線では全てが終わってしまった。
俺は、本当の意味でシャルロッテを救ってやれなかった。
俺はこの世界が作り物の世界だと理解している。
自分がとある乙女ゲームのキャラクターでしかないことも知っていて、バッドエンドで無残な最期を遂げることも知っている。
俺は運命を変えられたと思った。
バッドエンドになっても、シャルロッテと一緒に生きられる未来があると思った。
だけど、結局はなにも変えられなかった。
俺は無力だった。
この世界も、自分も、他の人々もゲームのキャラクターでしかないとわかっている。
だがそれでも――俺はシャルロッテが好きだ。
俺は彼女を、心から愛してる。
ゲームのキャラだとか、俺を選ばなかったバッドエンドの世界線だとか、そんなのはどうだっていい。
シャルロッテ・グラナートは、俺にとってかけがえのない女性だ。
彼女はお転婆で、他人に頼られたくて自信のある素振りをするけど、実際は寂しがり屋でしおらしい所がある。
頼りなく見える時もあるが、それでもしっかりと芯の強さと優しさを持っている。
俺はそんなシャルロッテの優しさに、もう何度も救われてきた。
俺にとってシャルロッテは幼馴染であり、家族であり、姉であり妹であり、そして初恋の人だ。
だがこの想いは、決して伝えない。
伝えてはならない。
俺はもうすぐ死ぬから。
それに……もしかすると、もう一度暗殺者たちがシャルロッテを襲うかもしれない。
その時が来たら……俺は今度こそ、奴らと刺し違えるつもりだ。
その時まで俺の命が持ってくれることを、切に願う。
どうせ死ぬなら毒でくたばるより、シャルロッテの盾となって死んでやる。
シャルロッテ――どうか俺の分まで、幸せになってくれ。
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「……まだ書きたいことがあるけど、とりあえずこんなものかな」
下手くそな字で綴られた文章を読み返して、俺はそう呟く。
もっと書きたいことは山ほどある。
だがこのまま書いていたら、永遠に終わらなくなりそうだ。
「続きは明日にして、今日は寝よう……」
……明日目覚めるかは、わからないけどな。
そう思いながら俺は〝遺書〟を記した手帳を、ベッドの横に備え付けられてある小さな台座の上に置こうとする。
しかし手が滑って、誤って床へと落としてしまった。
「おっと……痛っ……!」
手帳を拾い上げようと身体を動かそうとするが、激しい痛みが全身を襲う。
特に傷口が広い腹部の痛みが酷く、満足に上半身すら起こせそうにない。
「……拾うのは明日でいいか」
その明日があるといいけどな――なんて思いつつ、俺は手帳を拾い上げるのを諦め、痛みを少しでも忘れるべく瞼を閉じる。
そして、深い眠りについた。
――幸いにも次の日、俺は無事に目覚めることができた。
どうやらまだ生き長らえるらしい。
しかし――床に落としたはずの〝遺書〟がいつのまにか消えたことに気付いたのも、また翌朝のことだった。
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