居酒屋にて
2019/8に活動報告に掲載していたSSです。
「あーっ。くやしい!」
ここは居酒屋、叫ぶように店内で声を張り上げたタエを、「まあまあ」とヘアメイク担当の女がなだめている。
だがタエは「くやしい! くやしい!」とそればかりを繰り返している。
その都度流し込まれていくビールの量は一向に減らず――つまりはタエの体内にアルコールが一定速度で蓄積されている最中だった。
「今日のタエは荒れてるなあ」
この劇団のリーダーである男がこそっと耳打ちをしたのに、女が眉をひそめつつうなずいた。
「ですよね」
「やっぱあれか? 原因は」
これに女が神妙な顔で同意を示した。
「ええ。今日の稽古で台詞を噛んだのがゆるせないんですって」
「こいつ、こういうところは真面目だよなあ」
呆れたような声音には舞台人としての好意が含まれている。
呆れてはいるが――こういう女優と仕事ができることには素直に喜びを感じる。
「確かに台詞を一つ噛んだけどさ、ああいう迫力あるシーンだと逆によかったと思うけどね」
男は演出も担当しているので、こういった小さな気づきを大切にするタイプなのだ。
「ああもう、そんなふうにのんきに飲んでないでタエを止めてくださいよ。こら、タエ! あんたもう飲み過ぎ!」
「まだ全然飲んでないっ。それに飲まなきゃやってられないっつーの! お兄さーん! もう一杯お替わりっ!」
店の人間を呼ぶために勢いよく挙げたその手は、タエの大学時代の後輩によって捕らえられた。
「だめですよ。それ以上は」
180cm後半の上背ある男が接近したことで、元から薄暗い店内でタエの周囲だけが闇に覆われた。
「あら、水谷君。テレビ局の仕事は終わったの?」
ええ、と女に返しつつも、水谷はタエの手を握ったまま離さない。
「こらあ! 水谷のくせに生意気だぞー! 邪魔するなー!」
舌ったらずな暴言に、水谷が小さくため息をついた。
「はいはい」
素直に手を離すと、案の定というか、タエは「ジョッキお替わりー!」と騒ぎだした。
水谷が遠くの席へ行こうとするのを、リーダーである男が引きとめた。
「おい、ここ座れよ」
そうして双方で冷えたジョッキを半分干したところで(その間にタエは一杯軽々と飲み干している)、男がさりげなく切り出した。
「お前さ。そろそろ舞台とテレビの仕事の調整が難しくなってるんじゃないか?」
「いえ。そんなことは」
「いや、俺もお前がいてくれた方が嬉しいよ。でもなあ、ここのところ顔色が悪いぞ」
「ほんとですか?」
「いや。嘘」
束の間見つめ合った二人――。
ややすると水谷の方がぷっと吹き出した。
「なんですかそれ」
「冗談」
「あはは」
こんな風に声をあげて笑う水谷は珍しく、男は上機嫌を察するとさらなる問いかけをしていった。
「映画雑誌に載っていた水谷のインタビュー記事、読んだぞ」
「ありがとうございます」
「お前、片想いなの?」
「それ、言われると思っていました」
はは、と少し両の眉を下げてみせたものの、本心から困っているわけではなさそうだ。
「なんで告白しないんだ?」
追求はさらに続く。
実は――というか当たり前というか――男は水谷が誰に恋しているかを知っている。
この狭い劇団で朝から晩まで一緒にいるのだ、それこそ家族や恋人以上に。
ならば気づかないわけがない。
タエに恋人がいるらしいことは知っているが――それでも、これほど仲のいい二人なのだから。
だがこれに対する水谷の答えは予想外のものだった。
「告白ってしないといけないものなんですか?」
「……は?」
あっけにとられた男に、「そういえば。前にも似たようなことを言われたな」と水谷が思案しはじめた。
やがてぱちんと指を鳴らした。
「そうだ。あれは金子さんだ」
「金子さん?」
「ええ。大学時代の演劇部の先輩です。懐かしいなあ、今何をしているんだろう……」
その名を聞きつけたのだろう、同じ大学、同じ演劇部出身のタエが二つ遠い席から会話に割り込んできた。
「金子はねー、今はゲームの開発をしているんだって!」
朗らかな笑みから、あれほど根深かった悔しさはようやく消化できたようだ。
間に入っていたヘアメイク担当の女が「あっち行ってきます」と席を立ち、そこにタエが移動してくる。
「この前同期で会ったんだよ。水谷にも会いたがってた」
ししし、と笑うその手にはマヨネーズをたっぷりつけたししゃもが握られている。
と、男は向こうに座った女が意味ありげな視線を向けてきたことに気づいた。
「あ、俺トイレ」
席を立つと女がよしよしと言わんばかりにうなずいた。
*
男がトイレを済ませて女の方に行くと、女が楽しそうに耳元でささやいてきた。
「やっぱりあの二人、お似合いですよね。ふふふ」
どこの集団にも恋愛ものが好きな人種はいて、その中には他人の恋を成就させることに燃える者や、不憫な人間を無条件で応援する者がいる。
この女はまさにそういう人種だった。
「どこに記者の人間がいるか分からないぞ」
「いいじゃないですか。その方が燃えますもん」
「その「燃える」はどういう意味で言ってるんだ」
「それはご想像にお任せします」
遠目からでも、タエと水谷の会話が盛り上がっていることが見てとれた。
「あの酔っぱらいのタエを扱える水谷君もすごいし、あの寡黙な水谷君からあれだけの会話と表情を引き出せるタエもすごいですよね」
「だな」
盛り上がっているともいえるし、水谷がからかわれ遊ばれているようにも見えるが。
「なのに恋人にはならないって……不思議ですよねー」
「あのさ。さっき水谷に訊いたんだけど」
「何をですか?」
「告白しないのかって」
「きゃー! そんな会話してたんですね。で、なんて言ってました?」
「しなきゃいけないものなのかって言われた」
それどういう意味ですが、と言いかけた女は、向かいの推しの二人の元に見知らぬ男が近づくのを見た。
その男が声をかけると、タエは演技ではない本心からの笑みを浮かべ、一切の抵抗なく抱きついた。
男はタエと同質の表情でタエを受け止めた。
それから水谷と何やら言葉を交わし――二人は連れ立って店を後にした。
「……なるほど」
このシーンを一目見れば――分かる。
あれほどお互いを想いあっているカップルの間に割って入れる人間など、そうそういないだろう。
たとえ今人気急上昇中の俳優だとしても。
「……不憫ですねえ」
ぐすっと、女が鼻を鳴らした。
「でも……」
「でも?」
「だからこそ応援のしがいがあるってもんですよっ!」
どこの集団にも恋愛ものが好きな人種はいて、その中には他人の恋を成就させることに燃える者や、不憫な人間を無条件で応援する者がいる。
この女はまさにそういう人種だった。




