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第十四幕  『“前任者”は、それはそれは優秀だったのだ。今回のアホの子とは違ってね』

 恥ずかしい前書きだったので削除しますた。お見苦しい真似してしまいました。書籍化云々は冗談のつもりだったのですが、不快になる人が出るかもしれないというとこまで想像が至らなかったのは僕の未熟さ故です。せっかく読みに来て下さったのに嫌な思いをさせてしまい、申し訳ないです。

 まさに地獄だった。

 見境のない憎悪が世界を支配し、全ての生命の尊厳をことごとく踏み躙り、穢し尽くしていた。

 

 燃えてはいけないモノ(・・)が―――つい先ほどまで家族の形をしていたモノ(・・)が燃えていく、身の毛もよだつ悪夢の光景。あの時、頬に感じた熱波は今も皮膚の下でジクジクと疼いている。忘れたくとも忘れられるものか。思い出すだけで、心臓が不規則に脈打ち、息が喉に詰まり、血が凍りついたかのように全身が冷たく硬直する。あれほどまでに常軌を逸した惨状を目にした者が果たしてこのセシアーヌに二人といるのか。

 森林が、田畑が、家々が、そして人間が、黒い炎に巻かれていく。凶刃が人々の営みを容赦なく切り裂き、生きながら食い殺される者の阿鼻叫喚が耳を劈く。ほんの数刻前に「また明日」と笑顔を交わした者たちが物言わぬ肉塊となって壁や地面にぶちまけられ、足の踏み場もない。泥と血と臓物が混じりあい、まるで灰汁が浮かぶ煮汁のようだ。むせ返るような悪臭が空気を穢し、喉から逆流する吐瀉物に呼吸を妨げられる。よろけた拍子に踏んでしまったそれがいつも優しくしてくれたパン屋の女主人の頭部であると気付いてしまえば、もはや灰色になった目玉と目を合わせてしまった子どもが平静を保つなど土台無理な話だ。

 当時の俺は、ヒトの死は必ず尊厳を伴うと信じて疑わなかった。どんな死にも物語的な重み(・・)があり、そこには何らかの意味を見出だせるはずだと。しかし、突き付けられた現実はあまりに(むご)く、情というものが欠如しすぎていた。正気と気力をごっそりと削られた子どもには、気を失わず立ち尽くすだけで上等だった。


『逃げろ、逃げるのだ、カークッ!!』


 突如投げかけられた逞しい声に沈みかけていた意識を弾かれる。見上げた視界に長剣を握る父の姿を見出し、その勇猛な出で立ちに涙腺が一斉に弛緩する。大きく波打つ肩と血に濡れた刃に、大勢の魔族を切り捨てて駆けつけてくれたのだと悟り、感動が胸にこみ上げる。恥じらいも忘れて今すぐその腰に抱きつきたい衝動に駆られ、眼前の父に向かって手を伸ばし―――その背後で、()の影がゆらりと陽炎のように揺らいだ。

 声を発する猶予すらなかった。

 いつも見上げ、いつか追いつく日が来るのだろうと漫然と目指していた偉大な父の背中が、風を失った旗のように呆気無く崩堕ちた。頭から降り掛かる生暖かな鮮血に濡れそぼち、ついにその場にへたり込んだ子供(おれ)に、金冠と金眼の()がゆっくりと迫る。精霊神すら目を背ける所業を後景に羽織り、金長髪の悪鬼が炎の絨毯を一歩一歩踏みしめて迫る。全身を厚く覆う黒衣(ローブ)の下、妖気を放つ双眼に冷たく睥睨される。死人のように瞳孔が収斂しきった眼球が、ぬうっと目と鼻の先まで近づけられる。

 いったい何を失えば、誰をそこまで恨めば、そんな目が出来るのか。

 眼窩の奥底から底知れぬ怨念が噴き上がり、(ふた)つの燠火(おきび)となって金色(こんじき)に燃えている―――。



いと(・・)弱き人間よ―――返してもらうぞ、()(むくろ)を』



 果たしてその言葉が何を意味するものだったのか今でもわからない。あの後、この世全てを憎悪する魔の権化からどうやって逃れられたのか、断片的に途切れた記憶には定かでない。死ぬよりも遥かにつらい責め苦を心に受けて断絶したのかもしれない。しかし、あの金色の双眼から滲み出た狂気の産物の光景だけは、一夜足りとも忘れたことはない。



「トゥ、君はまさか……」


 あの、骨も凍るほどの恐懼と絶望を、彼女は知ってしまったのか。

 常に自然と寄り添うエルフは、老いることを知らない常若(とこわか)の存在だという。ヒトを成長させ、老いさせるには容易い10年の歳月も、エルフにとっては些細なものかもしれない。見た目が少女であっても生きた年月が同じとは限らない。

 ならば、彼女はその目で見てしまったのだろうか。故郷が無残に焼き尽くされる状景を、人々が苦悶の叫びを断末魔にして黒い炎に食い尽くされる状景を、その宝石のような瞳に映してしまったのだろうか。黒煙を前に立ち尽くす彼女の姿を想像し、やるせなさが胸に沈み込んでくる。せめてその時、俺が近くにいてやれれば……。


 ふと、俺の呟きにひょいと一瞥を返したトゥが途端にじとっと不機嫌そうに片眉を上げて唇を尖らせる。いつもの―――と呼べるほど付き合いは長くないが―――少年がするような人懐っこい表情だ。濁りのない無垢な感情を向けられ、心がふわっと掬い上げられる。


「カーク。さては今、私が見た目以上に老齢だと考えましたね?」

「ち、違うのか?」

「私がそんなおバアちゃんに見えますか? 戦争は私が生まれる前に終結しました。今では復興も終えています」


 彼女は直接、戦争を経験したわけではないらしい。この美しい少女が俺と同じ不遇を背負わされなかったのだとわかって心の底から安堵する。彼女はその魂も美しいままで居て欲しい。そしてこっそり、トゥがそれほど歳を取っていないのだとわかって内心にホッと息をつく。真顔で「100歳ですが何か?」などと言われたら、やはり人生の先達として態度を改めるべきかと心配したのだ。では実際は何歳なのかと尋ねてみたいが、「女性という生き物は総じて男に年齢を知られるのを好まない」と友人のタイベリアスから忠告を受けたことを思い出す。仕草が少年のようとはいえ、トゥも立派な女性だ。ただでさえ今も機嫌を損ねてしまっているのに、下手な好奇心でこれ以上嫌われたくはない。

 二重の理由で胸を撫で下ろす俺に怪訝そうに鼻を鳴らし、視線を机上に戻したトゥが地図上の黒い積み木―――騎士団を記号化したもの―――を幾つか摘んだ。まさに今、騎士団が参集している首都にそれらを置くと、「御覧なさい」とゆっくりと前線に移動させていく。赤子が這うようなそろそろと緩慢な移動速度は、彼女が知る戦争の(ことわり)に基づいてのものなのだろう。じれったくなるようなその動きに男たちの視線が傾注される。それが純粋な知的好奇心からか、前のめりになって机に押し付けられた豊かな起伏に魅せられたのかは定かではない。


「私の国もこのセシアーヌと同じ島国でした。近隣の小競り合いの経験はあっても長距離進軍の経験は少なく、手探りの状態で戦争に踏み切りました。馴れない地で馴れない戦いを継続することがどれほど困難なことであるのか、想定が甘かったのです」


 携えていた討伐作戦書を無意識に床に滑り落としたフィリアスがこくこくと頷く。ソレに対して討伐作戦の立案者であろうクアムが露骨に顔面を歪ませるが、フィリアスがそれに気づく様子はない。直接、戦火を生き抜いたわけではないにしても、トゥの言葉の説得力は薄れていない。彼女(エルフ)の世界の戦争とは、俺たちが今まで経験してきた、たかだか百人から千人規模の小戦とは比べ物にならないし、1000年も前の言い伝えや古く曖昧な文献でしか知識を知り得ない俺たちと違い、彼女が知る戦争はたった数十年前のものだ。この皇国の誰よりも彼女は戦争について詳しい。


(“エルフは人類の及ばない膨大な知識を有する”、か)


 この世界にとって、彼女はまさに“泉”だ。エルフの世界という見えざる巨大な水源からこの大地に滾々(こんこん)と沸き立つ恵みの泉なのだ。伝承が真実であることをあらためて思い知らされ、高揚に胸がカッと熱くなる。伝説そのままのエルフと行動を共に出来る栄光が身に染みただけではない。思いもがけないトゥの知慧に一縷の希望が見いだせたからだ。彼女の―――“伝説の救世主(エルフ)の言葉であれば、或いは(あくた)に塗れた騎士団もクアムの虚言から目覚め、無謀な遠征を取りやめるのではないか、と。

 現に今も、幹部騎士たちはトゥの言葉にじっと耳を傾けている。まるで思慮深い学者のような似合わない面持ちだ。彼らがお抱えの家庭教師に教鞭を執られていた幼少時だって、ここまで真剣に打ち込んだことはあるまい。トゥは確実に彼らの心を引き寄せている。


「私の国の敗因の一つこそ、長距離の進軍に不慣れだったことによる戦線の断裂(・・・・・)。すなわち、『補給』という軍隊において実はもっとも重要である行為を二の次にしたが故の失策です」

「補給……? お、お待ちください。もっとも重要(・・・・・・)ですと? 最前列に居並ぶ騎士たちの剣槍よりも、ワインや下着が勝敗を分けると仰るのか?」

「ええ、その通りです」


 揶揄を含んだ問い掛けをキッパリと切り捨てられ、動揺の波が走る。かくいう俺自身も、その言葉の本質を理解しようと足りない頭を懸命に回転させていた。辺境のアールハント領からほとんど着の身着のままで逃げ出して首都まで流れてきた俺には、長距離の移動がどれほど労を要するのか実感を持って理解できる。しかし、俺が考えている以上に、軍隊の移動(・・・・・)にとって補給とは重要なものらしい。

 「よもやそんなことが」と口々に訝しむ幹部騎士たちを尻目に、トゥの細い指先は依然としてゆっくりと魔王軍に向けて進軍していく。腕を伸ばすごとに袖が捲れて露わになる滑らかな玉腕に誰かがごくっと喉を鳴らしたのも束の間―――言っておくが俺ではない。俺はそれ以上(・・・・)を目にした―――その指からコトリと1つ、積み木が脱落した。指を滑らせたのではなく、故意に落としたのだ。トゥの手に残った積み木たちは、たった今遅れた仲間になど目もくれず、手柄を求めて猪突していく。


「本拠地から距離を置かない今までのような戦いなら、補給のことはさほど考慮しなくても済んだでしょう。兵士たちは昼に戦って夕刻に帰れば良いのです。ですが、此度のように遠く進軍するとなればそうはいきません。兵士は例に漏れず大飯喰らいと相場は決まっています。何より、兵士は戦って傷つきます。大量の医薬が要るでしょう。必要な物資はそこらの行商や旅人などとは比べ物になりません。戦線が伸びれば伸びるほど、物資を求める集団が遠のけば遠のくほど、補給の重要性は増していきます。私たちがその事実を思い知ったのは、戦況が悪化の一方に転がり落ち始めた時でした。今のあなた方はまさにその二の舞を踏もうとしています。いえ、補給を各貴族家の自己責任としてしまっているのでは私たちより悪い結末を迎えるでしょう」


 幹部たちは胸を強打された様子でトゥを見つめた。彼らは反駁する意地も放り出してじっと耳を傾けている。彼女の言葉にはそれだけの裏付けが備わっていた。皆が皆、初めて耳にする“戦争の常識”に真剣に耳を傾けている。

 その様子を心良く思っていないのは、自身の計画を頭から否定されていく大隊長閣下(クアム)だけだ。トゥの引力に吸い寄せられ、相対的に自分から離心していく部下たちの背中を見渡し、これ見よがしに舌打ちをする。やはり奴は己の過ちを認めることはできない。哀れにも母親の胎内に精霊神の寵愛を置き忘れたのだ。

 熱弁を振るうトゥのかたわらに控えつつ、常にクアムと正対する位置に身構えて牽制する。低級騎士の眼光を疎ましく思ったか、それとも己が求めるエルフの傍に別の男がいることを良しとしなかったか、婦女子を騙すための化けの皮にビキリと亀裂のような醜い皺が刻まれる。これでいい。あのならず者が俺に敵意を浴びせることに熱中している間はトゥを黙らせようと暴挙に出る心配はない。その間に、彼女は思う存分、幹部騎士たちを説得できる。


「仰る通り、我が騎士団にとって此度のような長い進軍は初陣となります。ですが、それが原因で自滅(・・)するとは些か腑に落ちませぬ。セシアーヌから進軍して、魔王軍が陣取るヘルダオの丘の麓で接敵するまで、伝令用の早馬なら不眠不休で走れば一ヶ月と掛かりませぬ。事実、私が雇った傭兵共の斥候は一ヶ月半で帰ってきたのです。各々の貴族家が我先にと戦場に行き競えば、到着に要する月日はその程度であるはず。ならば、たった一ヶ月分の補給に固執する必要など……」


 そう言って自信なさげに語尾を濁した壮年の騎士に、刃のようなトゥの瞳がピシャリと見据えられる。


「それは“進軍”ではなくただの“早駆け”です。実際に進軍を経験したことがないあなた方の机上の空論です。そも、討伐軍はあなた方のような馬廻りばかりではないでしょう。馬匹を持たない者たちの方が多いはず。直轄の歩兵、家臣の兵、雇ったばかりの傭兵、そこらから引っ張ってきた右も左も分からぬ民兵、魔術師団、さらには身の回りの世話をする家来。これら全員が馬と同じ速さで走ることが出来るはずありません。鞭打って必死に追いすがらせても、各々の間にすぐに大きな差が開きます。いざ敵と相対した時、あなた方の周りには騎兵しか残っていないでしょう。しかも、満足に食事も休息も与えられず疲労困憊の騎兵ばかりです」


 質問をした者が口篭り、周りの者たちがなんとか納得を飲み込むのを見届け、トゥが次の動きに出る。


「これらが騎兵以外の集団です」


 いまだ緩やかに進む黒い積み木の後ろに、馬の尻尾のように一際小さな積み木が幾つも置かれていく。まるで満載の荷台を引きずるように進軍速度は急激に落ちた。


「これが本来のあなた方の速度です。想定の5倍以上は遅いと考えなさい」

「ご、5倍以上……!?」

「ええ。小さく見積もっても5倍です。普段から行動を共にしない集団がぶっつけ本番で足並みを揃えようとしても上手くいくはずがありません。それに、問題はまだあります」


 黒い馬は這いずるような速度で魔王軍に向かって歩を進めるが、積み木はその度に振り落とされて道すがらに散らばっていく。これがいったい何を意味しているのかわからず、皆が一様に不可解の表情で腕を組む。彼らは今になって自ずから考えることの大切さを学び始めたようだ。


「出発当初は一つに固まっていた軍も、慣れぬ進軍を続けるに連れて足並みに乱れが生じていきます。馬に乗る者、乗らぬ者。体力に優れる者、優れない者。士気が高い者、低い者。軽装備の者、重装備の者。戦いを職とする者、そうでない者。その上、進軍計画は稚拙で、そもそもあなた方は各家の独立意識が強すぎて単一の行動が出来ない。それぞれの貴族家が思いのままに休息を取り、好き勝手に陣を作り、独自の補給に頼って行動していれば―――」


「こんなに歪に……?」。驚愕の呻きの通り、輿地図には首都から戦場まで伸びる縞模様が描かれていた。進路上に点々と置かれた黒い積み木がまるで大蛇の表皮の様相を呈している。最初は一塊(ひとかたまり)だった討伐軍は、魔王軍が待ち受けるヘルダオへの道半ばですでに幾つもの小集団と砕かれて進路上に点在していた。まるで道端に散らばる石ころ(・・・)だ。


「個々の貴族家が勝手気ままに補給を得ていれば、足並みがまちまち(・・・・)になるのは自明の理です。2万5千の軍は、敵陣に到達する頃にはわずか数千の兵ごとに分裂した小集団の(つぶて)となっているでしょう」


 最先端の集団が、ついにヘルダオの丘に陣取る赤い積み木―――魔王軍に接敵する。翼のように拡がった敵軍との差は10倍どころではない。そこから貴族(・・)によって支配された騎士団が抱える弱点に感付き、俺は「あっ」と思わず声を漏らした。


「半分の差でも拮抗し得ないのに、10倍となれば自ずから殺されに行くようなものです。戦争では数が物を言います。『多勢が勝つ』、これは真実です。討伐軍が分散すればするほど、悠々と待ち受ける魔王軍にとっては向かってくる小群を一つ一つ倒せば良いだけとなり、各個撃破の格好の標的となります」


 岩をぶつけても打倒できるか怪しい相手に、岩を砕いて作った石ころをちまちまと投げつけても何の意味も成さない。つまり、今のままでは騎士団には万に一つも勝ち目はない。

 幹部たちは急に道に迷ったような切迫した様子で自分たちの指導者に意見を伺おうとするが、肝心の指導者が意地でも目を合わせようとしないのでやがて諦めた。盲信に閉じていた彼らの目が開きかけている内に、トゥがさらに畳み掛ける。


「また、魔王軍の兵力の配置―――“陣形”も忘れてはなりません」

「は? ジンケイ(・・・・)?」


 中年を過ぎた頃合いの騎士がぽかんと口を開ける。母親の言葉を繰り返す幼児のような口ぶりに、トゥのこめかみがピクリとひくつき、小さくない苛立ちを示す。あの男は、大層立派な鎧を纏っているくせに肝心の戦法についての造詣は少しも持ち合わせていないらしい。陣形に関する研究はここ数百年間まったくといいほど進展していないが、俺だってその言葉と効能くらいは知っている。千人以上の兵士を配下に据える者がこの体たらくでは、たしかにそこらの山賊の方がよほど役立ちそうだ。彼女の前からその間抜け顔を早く仕舞え、と内心で怒鳴りつける。


「……簡単にいえば、隊列のことです。縦列や横列をより複雑にしたもの……大勢の兵をより効果的かつ弾力的に配置して敵に当たるための戦術、といえばわかりやすいでしょう」

「は、はあ。そうですな。わかりやすい」


 絶対にわかっていない。それはトゥも察した風だったが、気づかなかったことにしたようだ。


「わかっていただければ結構です。どうも。では、貴方と、そこの貴方。私が騎士団を進めるので、魔王軍の左右をせり出して下さい。両の翼を折りたたむように、内側に閉じるのです」

「はっ、承知致しました」


 娘ほどの少女に顎で使われる上級騎士の姿に滑稽さを覚えたのも束の間、「おお」と膨れ上がったどよめきに誘われて俺も輿地図を覗き込む。

 そこには、四方を赤い輪に囲まれて身動きの取れなくなった黒い積み木の集団があった。突撃しか知らぬ猪騎士は、大きく広がった紅鳥の羽根に左右から抱かれる形となっていた。これでは討伐軍の退路は絶たれたも同然だ。


「“鶴翼の陣(カクヨクノジン)”」


 ボソリと呟かれたそれは初めて耳にするものだったが、洗練された簡素な響きには使い込まれた用語の感触があった。おそらくは、この三日月形の陣形を指すエルフの国の言葉だ。大群同士が衝突する戦争が常だった彼女の世界では、きっとあらゆる陣形一つ一つに名前がつけられているのだろう。


「トゥ、この陣形を知っているのか?」

「ええ。敵をわざと本体の前に(おび)き出し、懐に入ってきたところを左右に大きく伸ばした両翼を閉じて包囲。そのまま逃げ場をなくして皆殺しにするための容赦無い陣形です」

「しかしですぞ、魔族にはそのような芸当を叶える理性などないはず。よもや奴ら如きが……」

「いいえ。これは完璧な『鶴翼』です。先ほどの軍師の説明を思い出しなさい」


 言われ、各々が顎に手を当ててフュリアス子爵の言葉を記憶から引っ張りだす。丘の中央には魔王と、王の直衛には頼りないゴブリンの小集団。左右にはオークやドワーフ、リザードやワーウルフの強力な軍勢……。


「討伐軍を引きつけるために中央に魔王が布陣し、周囲には敢えて弱い戦力を配置して囮となる。そして左右に機動力と攻撃力に優れた戦力を置き、素早く包囲網を閉じられるように備える。それに、中央本隊は平原を見下ろす丘の上に陣取っています。戦場を容易に見渡せ、防御の容易い高所に。これ以上に好条件を揃えた『鶴翼の陣』はありません。そう、この陣形は、完璧すぎる(・・・・・)――――」


 そこで、唐突に台詞が途切れた。

 数秒経ってもトゥが再び口を開く気配はなく、男たちはおぼつかなげに視線を集めるが、見つめられるトゥは俯向く彫像と化して動かない。次第に眉をひそめて顔を見合わせ始めた幹部たちに焦りを感じ、「トゥ?」と不安げに顔を覗きこむ。

 彼女は、口に手を当てて魔王軍を―――正確には、その中央にいるであろう魔王をじっと睨んでいた。険しく細められた銀の瞳は明らかに動揺に揺らいでいる。彼女はまたもや俺たちにはわからない重大な何かに気付いたようだった。


「この陣形が、君の世界の“カクヨクノジン”に瓜二つということはわかった。確かに恐ろしい配置だ。数が多い上にここまで作戦を練られていてはまず勝ち目はないということは俺にもわかる。だけど、“完璧すぎる”とはどういうことなんだ? 今度の魔王はそれほどまでに知能が高いということなのか?」

「違うのです。いえ、それもありますが、さらに奇妙なことがあります。瓜二つどころの話ではなく、これは鶴翼そのもの(・・・・)です。この世界にこの精度の陣形があるのは不自然(・・・)なのです」

「不自然?」


 早口に囁かれた言葉の意図するところがわからずに問い返す。俺のオウム返しに、トゥは視線を地図から外さないまま、浮かび上がってくる自らの思考を反芻するようにポツポツと紡ぐ。


「カーク、陣形とはその世界の歴史そのもの(・・・・)です。陣形の発展は歴史なしでは語れません。少なくとも私の世界ではそうです。何千年にも渡って戦いの中で昇華させた戦術の結晶であり、大小様々な戦争で培われてきた膨大な経験(・・)の集積なのです。世界の裏側で考案された戦術が遠く離れた国に伝えられ、さらにそれが他の国に輸入され、改良され、逆輸入され……そうした広範かつ長大な試行錯誤と実績の積み重ねがなければ誕生し得えず、間違っても一夜の思いつきで編み出されるものではありません。しかし、この魔王は、この世界で生まれるはずのない完璧な『鶴翼』を実践してみせた……」


 さっと顔を上げたトゥが俺の目を見据える。銀色の光を放つ瞳が、胸中に渦巻く違和感を明文化できない戸惑いに喘いでいた。その瞳が俺に何を訴えようとしているのかは判然としないが、ひどく不吉らしいことだけは茫洋と理解できた。人間の過小評価を裏切って魔王が有能であるという事実以上にもっと恐ろしい、“魔王”という存在の核心に迫るような真実にトゥは近付きかけているという予感があった。


(―――なんだ、この既視感(・・・)は?)


 不意に、見つめ合う目の前の双眸が、記憶の中の何者かとピタリと重なった。それが何の根拠もない直感という自覚はあったが、ただの勘だと切り捨てる気もなかった。『鍛えた直感は第三の眼となる』と父から教えられていたし、理性では捉えられない物事を捉える第六感が働いているという奇妙な確信があった。額の裏側で、まったく異なる記憶と記憶を直感が結びつけようとしている。


 世界の救世主と、世界の破壊者。

 エルフと、魔王。

 決して似ているはずのない、似ていてはいけない正反対の両者に、共通する印象があるように思えた。

 黒衣の隙間に垣間見えた、魔王の黄金色の双眸。

 自ら輝きを放つその瞳は、そう、まるで―――



「―――もういいッ!!」




 雷鳴に似た音を床に弾かせ、机上にあったはずの積み木が派手に散逸した。喚き声と音に意識を弾かれ、固形化寸前だった直感が霧散する。ハッとしてそちらを振り向けば、大机に身を乗り出したクアムが肩を上下させてふぅふぅと息巻いていた。何がキッカケになったかは知りたくもないが、ついにこの状況が我慢の限界に達したらしい。余計なことをしてくれたと怒りを覚える反面、俺は生まれて初めてクアムに謝意も感じていた。クアムに思考を途絶されなければ、俺はとんでもなく馬鹿げた妄想を結実させてしまうところだった。


 10年前に目にした魔王の瞳が、まるで―――トゥの瞳をそのまま(・・・・・・・・・)金色にした(・・・・・)ようだったなど、本当に、馬鹿げた話だ。

前書きを書き換えたので、前書きの続きだった後書きも変えます。と言っても何を書けばいいのか…。もしも、これを読んでくれている人に、将来プロの作家さんを目指す人がいるのなら、どうか気に留めておいて欲しいことがあります。「若い内に決意して取り組むべき」ということです。それも出来れば20前半がいいでしょう。後半になってくると、職場で後輩も出来て、仕事の量や責任も増えて、同僚と仕事の出来栄えを競いながら、会社の中心メンバーとして評価されていきます。そうなると、そこから「プロの作家を目指そう」とはなかなか思いにくくなります。新しいことを始めるより、習熟で手一杯になります。だから、決意と取り組みは早いうちから行うべきです。あくまで僕の経験でしかありませんが、頭の片隅に留めて頂ければ幸いです。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 見てるかわかりませんが、面白かったです
2024/02/25 14:11 読みました
[一言] 大変面白いです!! 気長に更新お待ちいたします!
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