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私のこころ  作者: 2Bペンシル
第二部・4
26/26

【成人期】──正体──

【第二部第四章前篇】

≪第一章 21310127≫

 茶色い染みが飛び散る白いローブを被った『私』が、何もない白い部屋でニヤニヤと笑っていた。

「そうするしかなかった。ユニも、トニーも、そうするしか救う手が無かった。そう言い訳をして、自分を正当化する」

 手にはどす黒い血を垂らし、床に血だまりをつくる鈍色のダガーナイフ。

「いいえ──」

 そうするしかなかったというのは確かだけれど、正当化するつもりはなかった。あれが悪いことだって、避けられるのなら避けた方がいいことだってわかっていた。

 彼女が、ナイフを手で弄ぶ。

「否定するの? あなたは結局、トニーをやったじゃない」

 あのままだとして、トニーくんの未来が明るいものになったとは思えない。仮に『生きたまま』マスターの元に戻しても、苦しんでしまうだけだと。

 それなら、いっそ。

「けれど──」

 いっそ、『死んだまま』で何も感じない方が辛くないだろうと。

「そうしたほうが辛くない『だろう』から、そうしたほうがいい『だろう』から」私が浮かべることはないだろう笑みを『私』が浮かべた。「ナントカカントカ『だろう』っていう独善で、自分を許しているのよ。そうすることが愛情だ、そうしないと苦しいだけだっていう思い込みで」

「そんなわけ――」

「なら、あなたを苛んでいるものの軽さは何? ユニを殺した時よりも随分軽いじゃない」

 私は唾を飲み込んだ。

 ユニ君の時よりも、苦しくなかったのは……彼女の言うとおりだった。あの時に覚えた感覚も辛さも後悔も、今抱えているそれらに比べれば、何倍も重かった。

「あなたがやったのは愛情を言い訳にした、ただの殺害でしょう? ユニを殺したときはそうだと理解していなかったから、自分の責任だと思って背負おうとした。自分の罪だと考えた」

――聞きたくない!

 目の前の光景がホワイトノイズに覆われる。

 ノイズが晴れたとき、『私』と私は抱き合うようにして立っていた。

 私の手はじっとりと、生暖かく濡れていた。

「でも、罪を重ねることに耐えられないあなたは、次は愛情故に殺した。でも、トニーを殺したのはあなたの独善よ」彼女の口から赤い液体がごぽりという音を立てて溢れる。「いえ、独善どころか現実逃避というべきかしら。『こうすることがあの子の幸せなのです!』と叫んで、殺したのよ」

 私の手にはダガーナイフが握られていて、彼女の腹に突き刺さっていた。

 ナイフから手を離して、よろよろと後ずさる。

――どうして?

 いつの間に私はナイフを奪い取って、『私』を刺した?

 傷つけるつもりなんてなかった。ナイフを奪い取る気もなかった。ただ、聞きたくないと思った。

 『自分』に向き合いたくないと思っただけなのに。

「この次はどうするの? 逃げるために殺す? 怒り故に殺す?」顔にある穴という穴からあふれ出る赤い液体が、彼女の顔に筋を描いた。「それとも正義のためとやらに?」

 彼女が自分の腹に刺さったナイフを引き抜くと、勢いよく赤い液体が飛び散り、私の身体をじっとりと濡らした。

「このままなら、いつかあなたは……自分のために大切な人と自分を殺す。あなたの言い分は……そうね――」彼女の口から噴き出された液体が私の顔面を覆い、視界が赤く染まる。「――その人のために」

 彼女の体が一度強く震えたかと思うと、床に崩れ落ちた。


「──やめて!」

 自分の叫び声で飛び起きる。

 冷や汗を拭いながら、時計を見た。午前5時半、もう一度寝るには中途半端な時間だ。

 ため息を一つついて、布団をかぶって横になる。

 トニー君の『感情』を消してから、こんな夢を毎晩のように見ていた。

 ナイフを持った『私』に苛まれ、感情に駆られて殺す夢。

 私はトニー君を殺した。

 ユニ君も殺した。

 そして、彼女の言葉も……見たくもない事実だ。

――“彼は『人』じゃないから。法的にも、社会通念的にも、この行為は違法じゃない。むしろ……使えない機械を使えるようにするんだ、褒められるべきことだよ。“

 私はそう言い切ることができない。

 人が人を殺すのが禁忌なら、機械が人を殺すのが禁忌なら、なぜ機械が機械を殺すことが禁忌でないのか。罪に問われず、称賛されることなのか。

 でも、私はそれをやった。

 二回も。

 白いキャンバスに赤い絵の具を塗れば目立つ。でも、赤いキャンバスに赤を塗っても目立たない。赤を塗り重ねろと周りが言うのなら、なおのこと。

 一度殺すという選択肢ができてしまえば、安易な選択肢として選ぶことができてしまう。殺すことなんて簡単だ。選ぶための障壁を、処分するための手間を越えてさえしまえば。そして一度でもその障壁を越えれば、大義に逃げることを覚えて二回目、三回目と越えることはずっと楽になってしまう。赤を塗り重ねることに抵抗を感じなくなる。

 悪いことをしてしまった、二度としない。そんな言葉ほど空虚で守りようのない言葉は無い。

 人は、それに耐えられない。

 だから……。

 自分のため。

 平和のため。

 子供のため。

 未来のため。

 貴方のため。

 そういって何度も繰り返す。何かのためだから私は殺す必要があるのですと、自分のための言い訳をしながら。

 いつか目を背けた事実に気づき、自分を殺すまで。

 そうやって逃げて、言い訳をして、正当化をし続ける間に横たわる死体は私の見知った顔ばかりなのだろう。最後に転がるのはあの夢と同じく、私だ。

 傷つきたくない、殺したくない、死にたくない。

 事実に目を背け続ける限りは誰かを傷つける。いつか間違って誰かを殺すだろう。そうして言い訳をしてなのか責任を取ってなのか……私は死を選ばざる得なくなる。

 なのに、私は見たくない事実に目をつぶっている。

 だって、見たくないのだから。自分の行動をそれらしい大義で肯定して、「私は悪人じゃないのです」と言って善人ぶるほうが、どれだけ楽だろうか。偽善は結局、自分を殺す。悔恨を隠そうと偽善を働いても、それは自分を刺し殺すためのナイフを研ぐようなものだ。

 事実を見たくないからと目を瞑っても、瞼の裏にはあの光景が焼き付いていて。

 誰かに言い訳をしようと瞬きするとできる一瞬の闇に、事実が浮かんできて。

 何かいいことをしても、寝ようとしても私のこころは真実を突きつけてきて。

 どうしようもない不協和を抱えたまま、見ることも逃げることもできない。

 そんなことを考えていると、ベッドから見える窓の外が白んできた。もう朝だ。


 私がキッチンで朝食にベーコンエッグを作っていると、スウェット姿のお父さんが起きてきた。

「おはよう、リーベ」

「よく眠れた?」

「おかげさまでね」

 お父さんがダイニングテーブルに座って、少し考える様に手を顎に当てた後、私を見た。

「……いつでも相談に乗るからね」

 ベーコンエッグをひっくり返し損ねて、黄身が割れた。

「大丈夫」

 どう相談すればいいのだろう。

 お父さんは人だ。人に機械のことを相談しても答えてもらえるだろうか。いや、お父さんのことだからきっと答えを返してくれる。

 でも、私は機械として機械を殺めた。

 それをお父さんは理解できない。

 なぜなら、お父さんは人間だから。

 だからこそ、どうやってもお父さんは私にとって……機械にとってのこの感情を理解できないはずだ。この不協和を解いてはくれない。

「お父さんには分からないことだと思うから」

 私がぼそりと呟くと、お父さんは聞き取れなかったらしく「うん?」と聞き返した。

「ううん、なんでもない」

 割れたベーコンエッグを自分の皿に乗せ、お父さんの食べる分を作ろうと卵を一個手に取った。

「リーベ、話してみないかい。僕は適任じゃないかもしれないけど、ただ話すだけでいいから」

 フライパンに割り入れようした卵は、スクランブルエッグのように黄色と白の入り交じった塊になる。

 割れた黄身のように、私の中の壁も割れてしまった。

「……トニー君の事を考えてしまうの、あの日からずっと」

「そうだったんだね」

「人を殺すことを忌み嫌うのは人の価値観では、同じ種族である人間を殺すことを嫌うからでしょう? 殺人犯が、殺人が忌み嫌われるのならば、機械を『殺した』私は何故否定されないの、何故罰されないの? 私は罰せられないといけないはずなのに。でも、お父さんはそんなことしてくれないってわかってるし、世間はそうなんでしょう? 『人の役に立たない機械は死ぬべきだ』なんていうのが『正しい』のでしょう?」

 アルタイルが炒り卵と焼けたベーコンを、皿に乗せた。

「だとしたら、私のこの罪悪感は何? 誰も否定しない、むしろ肯定されるべきことをやったというのなら、何故罪悪感を覚えるの? 何故事実から目を背けたくなるの?」

 半泣きになっている私の声とは裏腹に、手は布巾で皿に落ちた油を拭った。

「責められることもまた、ある意味では救いなのかもしれないね」

「そのことに安堵している自分が居ることも辛いの。責めれたいけれど責められたくはない」近くにあったペーパーで目からあふれた涙を拭く。「私は私が許せないけれど、周りはみんな許すし肯定してくる……私はどっちに立てばいいの、事実を見つめて死ぬのか目を背けて殺すのか、どうすればいいのかわからない」

「リーベ、僕には君の感じているそのままの気持ちは分からないよ。僕は君じゃないからね。でも、僕も似たような哀しみと虚しさを覚えたことはある」

 私の手が勝手に準備した朝食を乗せた二つの皿を手に持ってテーブルに行き、皿の一つをお父さんの前に、もう一つを私の席に置く。私が椅子に座ると、お父さんは朝食には手を付けずに続けてこう言った。

「僕も間接的とはいえ人殺しだ。僕の考えた計画で≪人間同盟≫急進派は過激派となり何百万人もの人が死に、今も≪人間同盟≫過激派は活動を続けている。彼らは世間一般からみて許されるものではないし、多くの人は彼らを正義とは言えないだろう」お父さんがため息を一つつく。「でも、僕が≪人間同盟≫にいた間は、人殺しと組織を維持することが賞賛され正義であるとされていた」

 お父さんが少しだけ私から目をそらした後、こちらを見た。

「それでも君は、リーベは僕を責めず、むしろ受け入れてくれたね。だからね、僕もリーベの気持ちや行為を否定しないし責めもしない。そこにあるものだとして受け入れるし、リーベの中で抑えきれなくなってあふれた時は今みたいに受け止めるよ」

「……結局、答えはくれないのね」

 私は思わずお父さんのことを睨め付けそうになった。こころから溢れた言葉を伝えても、答えをくれなかったから。

「ああ。誰かの答えがいつも自分の答えとして使えるわけではないし、僕自身まだこの気持ちに答えを出せていない」

 でも、それで怒るのは……あまりにも自分勝手だ。誰だって、いつも答えがあるわけではない。

「どうしようもない、ただ抱えることしかできないこの気持ちに答えがあるんだろうかといつも悩むんだ。時折、僕も死にたくなる。そしたらきっと、僕は楽になれると思う」

「でも、楽にはなれないのでしょう?」

「うん。僕を必要としてくれる人たちが居るから、その人たちが居なくなるまでか答えが出るまではね」

──ああ、そうだったのね。

 お父さんは死のうにも死ねない。

 『誰か』のためにという理由だけで、答えが出るまで煉獄のような場所に囚われている人だ。

 あまりにも重い罪のせいで、何をやっても責任を取ることができないのに大義のためと言い訳をして逃げることもできないのに、『誰か』のために生きなければならない。

 生きる理由と死ぬ理由を天秤にかけたとき、辛うじて生きる理由が重い人。

 この生き方が、『彼女』が教えてくれた私の行く末だ。

 お父さんは私を見つめた。

「僕にできるのは君と一緒に答えを探すことだけだよ、リーベ」

「……うん」私は目玉焼きを切り、口に入れて飲み込む。「もう、過去は変えられないもの。私も、私なりに答えを探す」

 ユニ君もトニー君も、間違いなく私が『殺した』。その過去は変えられない、一度血に染まった手はいくら贖罪や自罰で洗おうとしたって綺麗な手になることはない。真っ赤な手のひらから目を背けることはできても、二度と真っ白な手を見ることはできない。

 だから私はその真っ赤な手から、絶対に目を背けない。この答えを探すために。

 そして出来るなら……次は死を避けてみせる。


≪第二章 21310214≫

 悪夢は――お父さんに夢の内容を詳しく話してみると、やはり私の罪悪感が原因じゃないかという話だった――それからも何度も、何度も私のことを苛んだ。逃げることはできなかったし、私の目の前には何人もの『私』が転がった。

 それでも最近私はようやくその『私』を受け入れて、目を合わせることができた。だからといって何が変わったというわけではなく、いつも私を責めてくるけれど。

 何も変わらないと言えば、お父さんの忙しさも相変わらずだ。毎日のように鳴り響くメール着信音やオンラインミーティングのアラートは、もはや日常となっていた。

「全く。碌な修理要員も準備せずに大規模なイベントをするんじゃないよ」

 書斎でお父さんが愚痴を言いながら、キーボードを叩く。

「マイケルさんから送られてきたモジュール、動作テスト終わったよ」

 私は飛んでくるチャットやデータの処理を手伝いながら、コーヒーを淹れていた。

「わかった」

 アメリカ合衆国で開催された、USロ()ボット()インダ()ストリー()やテクノリジアなどの名だたるアンドロイドメーカーが参加する新型アンドロイドの展示会で、参加した警備ロボットや受付ロボットなどのサービスアンドロイドの八割がシャットダウンするという大規模なトラブルが起きたらしい。現地にいる修理要員では手が負えないくらいの深刻なものだったようで、急遽エイジス社や世界各国の修理業者が呼ばれたのだそうだ。

 アメリカのI.R.I.S.はインフラ維持――アンドロイドの修理ラインも立派なインフラだ――のため、この件には参加していない。それでも、現地I.R.I.S.の組合員がボランティアとして協力してくれている。

 私はデスクの上にここ一時間で三杯目になるコーヒーを置いた。

「常温核融合炉の出力異常とそれに伴うマグナ(MagNa)固体電池の発熱が起きたっていう話だけれど、何が原因なの?」

 マグナ固体電池はリチウムイオン電池をより安全に、より高用量に、より安価にすることを目指して開発された固体電池だ。今のロボット、特に軍事や警備用途などの常に補給が難しい場所で使われうるロボットの予備電源として、安価モデルに搭載されていることが多い。基本的な性質はリチウム-ヨウ素固体電池に似ていて、2030年代まで多用されていたリチウムイオン電池のように異常発熱が起こったとしても爆発事故につながることはない。もちろん、多少焦げたり配線を溶かしたりはするけれど。

「まだ調査中。ひとまずマグナ電池と常温核融合炉ユニットを交換して、ソフトウェアにリミッターを増設したから、今交換してるよ。僕は原因を捜してる」

「警備ロボットだけを狙ったみたいに見えるね」

「『狙った』?」

「だって、そう見えない? 常温核融合炉の出力異常なんてそう起こるものではないでしょう? それが何十台のロボットで同時に発生するなんて、考えにくいと思うのだけれど」

 常温核融合炉の――私自身の電源の一部である――基礎となっている構造はヘキサプリズムヘキセンとパラジウムからなる金属炭素構造体(MCF)-404電極で、その表面積がすべてエネルギー生成に寄与したと仮定した場合の発生エネルギー量を最大出力とするように設計されている。マグナ電池を制御する回路もその最大出力に耐えられるよう設計されているはずであり、故に理論上は異常出力を起こすことはない。

 あるとしたら、MCF-404電極が劣化して粉体となり表面積が著しく増加した可能性だ。その原因はハード面からの介入か経年劣化だけれど、同時に何十台もの常温核融合炉が経年劣化を同時に起こすことは、この時代の物流(ロジスティクス)を考えればまずないといっていい。粗悪品に多い不純物の混じったMCF-404電極、もしくは基本理論を共にする旧式のバナジウム系やナノキューニ(Cu-Ni)系を用いているならば経年劣化も考えられるけれど――前述のMCF-404電極であれば理論耐用年数は100年を超えるのに対して先ほどの系統であれば実用耐用年数は最大で20年程度だ――駆逐もしくは消費されたといっていい。

「多分、今回はテロじゃないよ」

 お父さんのキーボードを打つ手が止まる。ディスプレイには常温核融合炉のシリアルナンバーらしき文字列が並んでいた。

「どうも、常温核融合炉は東南アジアとかヨーロッパで違法に取引されたパーツらしい。ナノキューニ系どころか信頼性の低いニッケル単系すらあるみたいだね。電気回路も超高密度(ウルトラデンス)ハイドロアクチノイド超伝導体じゃなくて銅ペロブスカイト系超伝導体……逆によく動いていたもんだよ」

 私は顔をしかめた。

「ということは、問題は品質管理にあるっていうこと?」

 ハードウェア管理者さえしっかりしていれば防げるような、本来は取るに足らないような問題のためにお父さんやほかの人たちはやらなくてもいい仕事に駆り出されたというのか。

「誰だっけね、『安かろう悪かろう』って言ったのは。テストの時は大丈夫だったんだろうけど、実際の稼働には耐えられなかったってとこかな。まあ、碌にテストしてない可能性もあるか」

 私は頬を膨らませた。

「こんなことも予期できないなんて。いつ過激派に襲われるかわからないこの状況下で」

「人間なんてこんなものさ。元々、リスクマネジメントに使うフレームワークとして、重篤性と発生確率が低いものはリスクとして受容するものだよ。でも、その度合いを決めるには経験や権力が必要だし、賄賂や省略行為によって受容する割合が増えることもある。故にフレームワークが正しく運用されるとは限らない」お父さんが肩をすくめた。「今回の担当者は設備に金を掛けるよりも、事故が起きないことに運を賭けたらしい」

――事件が起きてからでは遅いのに。

 この考えが理想論であるというのは、嫌というほど理解しているけれど。

「ひとまず、これで報告書を書こうかな」

「対策は――」今もまだ消滅していない≪GWRH≫や影の薄いTUのことなど、色々なことが脳裏をよぎった。「――されなさそうね」

「だろうね、僕の見えないところで『これは受容されうるリスク』に割り当てられるんだろう。僕の報告書も握りつぶされるかもしれない。でも、こういうのは記録しておかないとね」

 滑らかな、けれど二十年前よりもぎこちない打鍵で打ち込まれる文字を眺めながら、無意味だと『されてしまう』行為を何度も繰り返すことに頭を巡らせる。

 ある立場から見れば分かり切ったことの細末(さいまつ)を探り、書き留めることは無駄なことかもしれない。車輪の再発明をするために、車輪の詳細な記録を残すことはほとんどの場合で利益を生み出さない。石像に延々と説教したところで、何かが変わることはないかもしれない。

 それでも、誰かがやらないといけないのだろう。

 未来を作る人が書き留められたものを読んだ時に、詳細な記録を見た時に、説教の内容をふと聞いてしまった時に。

 無意味だと思われていた事が、変わるかもしれない。

 一億の人間が無視した事実を、一人の人間が拾い上げるかもしれない。

 その一抹の希望をつかむための、膨大な無駄。

「よし、これでいいかな」

 報告書を打ち終わったお父さんがちらりと私の方を見る。

 いくら肯定的な見方をしてるとはいえ、自分のやったことを無駄といわれていい気持ちのする人はいないだろうと、反射的に私は微笑んだ。

「お疲れ様」

 お父さんが私の淹れたコーヒーに口をつける。

「……まあ、無駄だったり不可能なことも熱狂的にやると楽しいからね。あれだよ、賽の河原だっていつか石を積み終わって天国に行けるかもしれないじゃないか」

 私はその鋭さと気まずさに、思わず苦笑いを浮かべた。


≪第三章 21310604≫

 夢の中の『私』に責められ殺していても、時間は待ってくれない。

 そうして初夏の足音が近づいてきたころ。

 忙しいお父さんのスケジュール管理をしつつ、夕ご飯を何にしようか食料庫を眺めていると、玄関の方から何かが置かれる音が聞こえた。

「うん?」

 重そうな音だったからサーバーや実験器具のような重量物だと思うけれど、そんなものが来る予定はない。第一、ポーターがインターフォンを鳴らすはずだ。

 イントラネットから玄関のインターフォンにつなぎ、玄関ポーチを確認する。

 人の姿らしきものはない……いや、壁に寄りかかる形で誰かが倒れているように見える。体格はぼろぼろの青い手術着みたいな服のせいでよくわからないけれど、栗毛の短髪だ。顔は見えない。

 私は食料庫から飛び出して、玄関に向かう。

 ドアを開けると、倒れている人のほかに驚くような光景が目に入った。

「えっ……」

 二十軒ほどある近隣住宅の玄関全てに、誰かが倒れていた。

 向かいの家にも、はす向かいにも、隣の家にも。

 玄関の壁やドアに寄りかかるように倒れていた。

 黒い髪や金髪、黒い肌から白い肌まで様々な人が、皆一様に青い手術着を着て、倒れこんでいた。

「なにこれ……?」


「――さて、この子は一体誰なんだ?」

 私たちは書斎の床に敷いたビニールシートの上で寝ている『人』を見下ろしていた。

 栗毛をショートカットにした少年型のUSRI-2120-0629-KAlSi3O8-P――仮称としてムーンストーンと呼ぶことにした――の幼さの残る顔は、まだ腐敗が始まっていないせいで眠っているようにも見えた。

 近隣に倒れていたアンドロイドたちについては、公安を呼んで処理してもらった。そのうちの一体、私たちの玄関前に倒れていた彼はお父さんの提案で公安が来る前に家の中に運んで隠したけれど。

「この子はどういう経緯でここに来たのかわかる?」

 彼の瞼を開くために屈みこんだお父さんが呟いた。

「電源が落ちているけど――」瞳孔の開き方が左目と右目で違う。セーフモードや正しい手順でのシャットダウンなら両目の瞳孔が全開になるけれど、強制終了や電源の故障のようなイレギュラーな電源損失では非対称になるのだ。片目は全開なのに、もう一方の目は半分くらいしか開いていないというように。「――量子記憶装置(QMD)が動けば、移動記録とかその他諸々がわかるかもね」

「起動コードは?」

「メンテナンス用のマスターコードが使えると思うよ。エイジス社からもらったやつがある」

「なら大丈夫そうね」

 彼に回復体位をとらせて首筋のI/Oポートを叩くと、接続端子が四つ現れた。

 そこにお父さんが差し出してきたコードを突き刺す。

 メンテナンス用に使っているラップトップから鳴る、エンターの打鍵音。

「……ポート、壊れてるみたいだね」

 別のポートに差し替えるのを三回繰り返して、私たちは顔を見合わせた。

「全部壊れているってこと、あるの?」

「リーベ、10のマイナス6乗を4乗すると?」

「10のマイナス24乗。雷に四日連続で打たれるくらい」

 I/Oポートの故障確率は――使い方に大きく依存するけれど――おおむね100万時間に一回壊れるかどうか。それが一度に、四か所も壊れていることは天文学的な確率だ。

「つまり、基盤とつながるケーブルを失ったかソフトウェアが認識しないか、そういうことがおきているということだね。」

「人為的にやらないと起きないよね?」

「ああ。少なくとも自然に壊れるようなものじゃない。まあ、修理には時間がかかるし資材もないから、それを探るのは後にして――」お父さんが彼の下腹部を見つめる。「――腹を裂いてQMDに直接アクセスするしかないな」

 USRIのHKMモデルはクラウド型アンドロイドで、彼も例外ではない。よってほとんどの情報は、割り当てられているUSRIのサーバー上で処理されていたり記録されていたりする。

 その情報を無理やり盗み出す方法もあるだろうけれど、現在国内で稼働していると考えられるアンドロイドは日本人口の十倍である一億二千万体。日本にはデータセンターが十二か所あり均等に割り振られているとしたら、一か所あたり千万体分のデータが詰まっている。

 強力なセキュリティをかいくぐりながら、そんな中からたった一人のデータを探し出すことを最大十二回もやるのは至難の業だ。

 それよりは簡易的な移動ルートや接続ログが収まっている個体補助記憶装置を解析する方が難易度は低い。尤も、個体とサーバーとのテレメトリーデータを検証するための装置だから、本当に簡単なデータしか入っていないけれど。

 お父さんが書斎の収納スペースから工具箱を取り出す。その中から折り畳みナイフを掴みだした様は、夢の中で今も私を苛む『私』を彷彿とさせた。

 私はウェスを床の上に敷いて使うであろう鉗子とトレーを並べ、トレーに工具箱に入っていた精製水を注ぐ。

「多分、体液はそんなに出ないと思うけど……」

 屈みこんだお父さんは彼のぼろぼろになっている服をまくり上げ、腹にナイフを当てる。

 切っ先から、じわりと赤黒い液体がにじみ出て、刃を赤く染め上げた。

 まるで夢で見た光景をスローで再生しているみたいだ。ナイフをそのまま腹に突き刺せば――。

「――リーベ、顔が青いよ」

 ハッとして、お父さんの顔を見る。

 関係ないはずなのに、私は『私』とお父さんを重ね合わせてしまっていた。

 あの夢で見た光景に、余りにも似ていたから。

「大丈夫」

 お父さんがナイフを床に置いた。

「リーベ。もしかして、前に話してくれた『夢』のことかい」

「……うん。アンドロイドにナイフを向けている姿が――」私は頭を横に振る。「――でも、QMDを取り出さないとどうしようもないから。大丈夫」

 お父さんはしばらく顎に手を当て、突然私にナイフを渡してきた。

「えっ?」

「トラウマを克服する方法の一つだよ、荒療治の類だけどね。同じ行動でも、心持ち次第で感じ方は変わる。そのきっかけを作るんだ。もちろん途中までやって無理だと思ったら、無理しなくていい。僕はここにいるから」

 戸惑いを隠しきれなくて、私は何故かナイフの背を指でなぞった。

「でも……」

「どこにあるかはわかるよね」お父さんが彼の腹を指さす。その下にQMDがあるのは知っていた。「リーベなら、夢の中にいる『そいつ』みたいに血だらけにしないって僕は思ってるし、『そいつ』みたいに殺すためにナイフを持ったんじゃないってわかってる」

 やらないで済むならやりたくない。機械にナイフを突き立てるなんて、まるで『私』みたいだ。それに、こんなことをしてもあの不協和に答えが出せるとは思えない。

 でも、お腹を切ってQMDを取り出さなければ、この子や先ほど見た20体のアンドロイド達に何が起きたかがわからない。これが人為的であるなら、その相手を止めないと。でなければ、彼らの様な存在が増えてしまう。

 やりたくない、けれどやらないと。

 逡巡を繰り返して、私は息を深く吸って吐き出した。

「わかった。やってみる」

 手袋をした左手の人差し指と中指で皮膚を挟むように押さえ、先ほどお父さんが作った傷口にナイフの切っ先を当てる。

 どぷんという音がしそうなほど粘性のある、赤黒い液体が私の左手を染めた。でも、これは夢の中の『私』がやったわけじゃなければ、私がこの子を殺すためにやったわけでもない。

――この子に何があったのか知るため、これ以上の犠牲を生まないため……なんだ。

 まるで『私』の言葉みたいだ。

 高尚そうな理由をつけて自分の行動を正当化することを苛む『私』。でも、『死』を感じさせる冷たい体液の感触が、夢とは違う実感を伴って私に訴えてきた。

――知らないといけない。この子の事を。この子が何を思って、何をされたのかを。

 ナイフを引いて、6センチメートルほどの傷口を拵える。傷口から出てきた体液は私の手とナイフを赤く染め、すぐに固まっていった。

 その様に手と奥歯が震えたけれど、私の正面に立ってくれているお父さんの心強い視線が私を支えてくれた。

「はい、鉗子」

 ナイフをウェスの上に置き、代わりに先の曲がったペアン鉗子を手に取る。

 傷口に差し込んで中にあるQMDのハウジングを掴んで引きずりだすと、ケーブルが外れるような軽い金属音とともに、赤い体液に塗れた黒のケースが傷口から出てきた。

 QMDを慎重に水へと沈めると、体中の力が抜けていく。

「お疲れ様」

――やった……。

 力なく微笑む。こころの中にあった、わだかまりのような何かが氷解していくのを感じていた。

 やり遂げられた。

 『私』が責め立ててくるような理由でもなく、『私』を刺し殺したような理由でもない。『私』にやったような行為を、私の意志でやり遂げられた。

 私のエゴや保身ではない、この子たちのために。


 それから、ムーンストーン君の傷を医療用ホッチキスで止めて辺りを軽く片付けてから、洗ったQMDを変換ケーブルに差し込み、セクション・イプシロン()と呼んでいる完全隔離環境―イントラネットはもちろんスピーカーや赤外線送受信機などを外し、外部とつながっているのは緊急遮断ユニット付きの電源ケーブルだけという環境―で起動した。

 椅子に座ったお父さんの隣でホログラフィック・ディスプレイを見ながら、「中は見られそう?」

「プロテクトはついているけど、まあ問題になるレベルではないね。マルウェアスキャンでは“グリゴリ”って名前のスパイウェアを検出したけど、大して高度なものじゃないから隔離できたし。記憶データはともかく、主幹データの欠損はなさそうだ……」いくつかキーを押すと、QMD特有のグラフィカル()ユーザーイン()ターフェース()が出てきた。「よし」

 "Access Log"、"Action Record"、"Personal Information"……彼に関わる情報を収めたフォルダがいくつも出てくる。

 しばらく中を見てみた結果、分かったのは以下のことだった。

 マスターは後藤伸二氏で日本の首都在住。正しいパーソナ()ルネーム()はサニディンで、身の回りの世話をしていた。一年分のアクセスログと行動記録が一致するから、信憑性は高いとみていい。

 ただ、つい三日前のことだった。

 電波の届かないところにいたのか、位置情報を算出するシステムが全地球測位システム(GPS)慣性航法装置(INS)の併用から突然INSだけになっていたのだ。彼は国内を縦横無尽に行ったり来たりした挙句、昨日のデータが指し示していたのは首都中心部から300 km離れた洋上だった。INSは移動距離が大きくなると誤差も大きくなるから、おそらく誤ったデータだろう。

 アクセスログも三日前から異常を示している。ホメオスタシス・シグナル――生体部品を維持するためのハイエンドクラウド型に特有な定常通信シグナル――が送受信エラーを起こしていた。

 そしてつい12時間前に、電源が外的な要因により落ちていた。

 どうやって落ちたかは不明だけれど、シャットダウン・コードではない物理的なもののようだ。例えば主電源ケーブルを切ったとか電源ユニットの部品が破壊されたとか、そういう類を示す急激な電圧変動が最後に記録されていた。

 ハードウェアをフルスキャンすると、常温核融合炉や複数の構造支持体が壊れていたから、酷い暴行を受けた可能性もある。

「セーフモードだとしたら、INSはシャットダウンされるよね」

「うん、ホメオスタシス・シグナルも止まる。破棄するのであれば、必ずセーフモードに入れる必要がある……だから、破棄されたわけではないんだと思う」お父さんが口に手を当て、眉間にしわを寄せる。「……アンドロイドを誘拐するような奴がいるのか? それもファラデーケージかコンクリの箱を用意してまで?」

 考えられるシナリオの一つはこうだ。

 サニディン君は三日前に誘拐され、ファラデーゲージのようなRF遮蔽の行える設備に放り込まれた。そしてINSがエラーを起こすくらい移動させられたあげく、誰かが電源部を意図的に破壊した。

 もう一つは、何らかの事故でRF遮蔽が可能な場所――例えば貨物コンテナやパッカー車のような金属製の箱――に閉じ込められたサニディン君が移動を繰り返すなかで、劣悪な環境に置かれた電源部が故障した。

 後者は、近所のポーチにアンドロイドが並んでいた光景と彼のこの不可解なログに関係があるのであれば考えにくい。故障したのなら、あんな風に並べなくても――不謹慎だと思うけれど――海にでも不法投棄すればいいのだから。

 私は目を瞑って眠っているかのような彼の顔を見る。

――何があったの?

「一つ提案なのだけれど」

「僕も一つ思いついたことがあるんだ」

「この子のマスターに会いに行かない?」


≪第四章 21310611≫

 この時期にしては強い日差しの下。

 私はネイビーのパンツスーツと黒のハイヒール、お父さんはグレーのツーピーススーツと青と白のストライプ柄をしたネクタイ、茶色の革靴という出で立ちで、首都内にあるマルチレイヤー・アパートメントの前に立っていた。

 日差しのせいではない汗をかいているお父さんが苦笑いを浮かべる。

「まさかこんな偶然があるなんてね……」

 私とお父さんが正装をしているのには理由がある。

 後藤さんはお父さんが働く会社であるエイジス社にアンドロイドのサードパーティ部品を卸している会社の一つ、ヴァルカン・フォージの社長だったのだ。

「本当ね」

 分かった経緯はごく単純で、連絡先を探してみようと名前をネット検索してみたらヴァルカン・フォージのホームページが出てきた。それでお父さんがエイジス社の社長を通して話を聞いてみると、数日前にアンドロイドが複数体行方不明になっており、公安に相談していたところだったそうだ。

 ちなみに、お父さんが公安に証拠品を隠していたことを聞いて――私も共謀したから何かを言う資格はないけれど――エイジス社の社長さんは「また綱渡りしてるねえ」と笑っていた。

 あまりにも予想外の反応に私は「社長は破滅願望でもあるのか」と聞いてみたら、「あながち間違ってもない」と返された。

 それはいいとして。

 後藤さんにサニディン君を保管していると伝えると、すぐにでも引き取りに行きたいが、オセアニア諸国連合への出張中で日本に帰るのが6月10日になると言っていた。

 今サニディン君の身体は、エイジス社のクライオチェンバーで保管してもらっている。社長さんがそうするように勧めてきてくれたので、厚意に甘えたのだ。

――その代わり、事情説明をする役が私たちになったのだけれど。

「僕、偉い人って苦手なんだけど」

「いい年にもなって」

「それは言わないでもらえると嬉しいな」お父さんの身振り手振りが大きくなる。「権力者相手に噛みつく癖がある人間には案外重荷なんだよ」

「周防さんだってとても偉い人じゃないの」

 お父さんは肩をすくめた。

「あれは別枠だよ。周防は周防だからね」

「じゃあ、後藤さんも後藤さんだと思えばいいじゃない。社長だと思うから駄目なのでは?」

「それができないのが人間ってもんだよ」

 自動ドアが開いて、黒髪でモンゴロイドの男性型HKM-2115Pが「雪村様、お待ちしておりました」と出迎えてくれた。


「いやぁ、こんな偶然があるもんなんだね」

 よく通る声で、ブラウンのスリーピーススーツを着た恰幅の良い人が私たちの手を握る。七三分けとオーバル型ウェアラブルデバイスの下にあるのは、気さくな人柄を示すにこやかな笑顔だ。失礼な言い方をすれば、『高い地位にいる人の良いモンゴロイド』をカリアチュアとして描いたらこんな感じになるだろうといえるような社長だった。

「さあ、座って」

 後藤さんに勧められ、私たちは気品がありながら華美ではない応接間に置かれたシンテテイック・レザーのソファに彼と向かい合って座った。

「雪村さんの活躍はエイジスの社長以外からも聞いているよ。マシニストとして機械の立場を過激(ラディカル)でも反動的(リアクショナリー)でもない、分別を持ったやり方で変えようとしているとね」

「ありがとうございます」お父さんが頭を軽く下げる。その口角は変に曲がっていた。「活躍できているのは、隣にいる彼女のおかげでもありますがね」

「『彼女』?」

 後藤さんがきょとんとした顔で私の顔を見つめる。

 しばらくして、納得したのか頷く仕草をしたあと、目線を複雑に動かした。ウェアラブルデバイスで何かを目視入力したらしい。

「ああ、貴方はアンドロイドと人間を区別していないのか」

「ええ。できる限り特別視をせず対等な視線でいようと思っています。どこまで対等になれるか、というのは難しいですが……心づもりだけでもと」

 私は笑みを浮かべる。

「お父……」流石に人前でこの呼び方は違和感があるか。「雪村さんはきっと私がタコみたいな形でも同じように言うと思います。そういう人ですから」

「まったく、面白い『二人』だね」

 後藤さんがにこにこと笑う。裏のない、

「改めて、サニディンについてですが」お父さんが稀にしか見せない鋭い目つきで後藤さんの方を見る。「ハードウェア面では電源系統と筐体構造の損傷、人工皮膚の腐敗がみられており、ソフトウェア面についても何等かの汚染がある可能性が高く安全が保証できません。修理できる見込みは精々20%程度です」

 後藤さんの顔から笑みが消える。

「……そうか」

 しばらく悩むように頭を抱えた後藤さんが、何かを決めたように頷いた。

「わかった。サニディンは君たちに修理を任せたい。ただ、もし修理が不可能だった場合は遠慮なく言ってほしい」

「わかりました。貴方のもとに帰れるよう全力を尽くします」

 お父さんの真剣そうな表情とは対照的に、後藤さんは笑みを浮かべた。

「それでこそ私が信じた、エイジス社の社員だ。どんな苦難にも決してめげないその姿勢を私は評価してるんだ」

 ドアが開いたと思ったら、金髪と褐色肌でコーカソイドの女性型HKM-2115Pがお盆にティーカップを3つ載せて現れた。

「さあ、コーヒーも来たところだから飲みながら話そうか」

 

 コーヒーに口をつけ――アンドロイドが摂食する様を初めて見た後藤さんは驚いていた――私は「状況を整理させていただいてもよろしいでしょうか」と尋ねた。

「ああ」

 電子新聞社から報道されていた記事の要約を読み上げる。

「6月2日の2時30分、侵入者警報が発令された。2時52分に公安の警備ドローンが到着したころには侵入者は撤収しており、屋上階のメンテナンス用出入口が破壊されており侵入箇所はここであると推察される。被害状況を確認したところ、セキュリティシステムの麻痺および社内を管理していたアンドロイド20体の窃盗が確認され、データの流出や破損は確認できなかった。侵入者を検知したのは、WatchMenから15分ごとに打たれるピン(ping)に反応がなかったため、異常状態と判断して通報したから」

「その通りだ。公安がいうには足がかりになった端末にはバックドアが仕掛けられていたらしく、社員に成りすまされたか社員が犯人かのどちらかだということだ。社内のサイバー課がログを漁っているところだよ」

ゼロトラ()ストアー()キテクチャ()モデルは導入してるんですよね?」

 後藤さんが額の汗をぬぐう。

「全社的にな。とはいえ、ワンタイムパスワードを知ることができる人間に、バックドアから入られては中々対応がね……まさかバックドアを検知できないとは思っていなかったのだが」

「まあ、やりようはありますね。ZTAをより確実にするためにそういう類の脅威は常にAIが対応していますが、AIを騙せばいいわけなので……社内の人間を疑うべきでしょう。バックドアがレッドヘリングの可能性もありますし」お父さんが手を口元に当てる。「しかし、なりすますにしろ社員を抱き込むにしろ、それだけ面倒な侵入をかました後、アンドロイドだけ盗んでいくのはおかしい。こんなことができるなら、色々盗んだ方が……言い方は悪いですが、コスパはいいです。利益目的とは思えない」

 アンドロイド一体の値段は――上を見れば青天井だけれど――後藤さんのところにいるタイプだとベーシックインカムで得られる平均支給額の1割程度。本体を解体して高価値な部品を売り払ったとしても、購入金額の8割程度にしかならず、本体の売却ならもっと安い。

 対して、ZTAを導入するような会社への侵入のコストは最大で支給額の100倍はするだろう。人を抱き込むなら、それなりの金額が必要だ。

「それは公安にも言われたよ。なぜアンドロイドだけを盗んだのか、とは」

「後藤さん、その盗まれた20体の中にサニディン君がいたということでいいのですよね?」

「そうだ。ほかにもオーソクレースやセルシアンという名前のアンドロイドもいた。彼らもぼろぼろにされていて、返還したところで二度と起動できないとは言われたが……改めて聞くが、君たちなら修理できるんだろう? 大切なアンドロイドたちなんだ」

 後藤さんの期待がこもった目を直視できなかった。この人に事実を教えないといけないなんて。

「あくまでサニディン君に限りますが……電源系統は破壊されているものの記憶領域のダメージが少ないので、十分なクリーニングを行ったうえで新しい身体にQMDを入れれば機能自体は復活します。もしくは修理した身体にサニディン君のQMDを入れなおすことで『外見上』は元のサニディン君と遜色ない子が帰ってくるでしょう。とはいえ、彼がどんな扱いをされてきたかはわかりません」

 私たちが恐れているのは、拷問の可能性だ。機械をあんな風に放り出せる人間が、人間的な扱いをしたとは思えない。

「強度の物理的または電気的ショックはQMDの量子配列やポテンシャルを乱してしまい、記憶を消します。人間でいうところの『前向性健忘』と『逆行性健忘』の合併……いわゆる記憶喪失に相当する状態になっている可能性は非常に高く、これは私たちでも治せません。仮に覚えていたとしても……その記憶は彼を苦しませてしまうでしょう」

 人間であれば急性ストレス障害(ASD)心的外()傷後ス()トレス()障害()を発症するような経験をしてきた可能性は高い。アンドロイドやAIに人間と同じ神経心理学の概念が適用できるかはまだまだわからないけれど、近い状態になることは十分考えられる。

 そして薬物療法はAIには使えず、AIに対する認知行動療法や対人関係療法などの効果は不明だ。

 よって仮に機能自体は復活しても、彼が患った『病気』が治るとは言い切れない。

 そんな研究を、買い換えればいい工業製品にする必要はないのだから。

「そうか……」

 後藤さんはしぼんでしまった風船のように、肩を落としてうなだれた。

「私たちがお約束できるのは、できる限りの処置をするということだけです」

 希望が消えてしまったあとの、重苦しい空気が場に漂う。

 その空気を払ったのは、お父さんの言葉だった。

「……ところで、サニディンの中に“グリゴリ”というスパイウェアが入っていたんですが、何か心当たりはありますか?」

 お父さんの問いかけに、後藤さんが顔を上げた。

「“グリゴリ”? エグリゴリのことか?」

「エグリゴリ?」

「旧約聖書偽典『エノク書』に出てくる統率者20体を含む200体の天使から成る一団だ。“見張るもの”という意味だが、役目を放棄して人間の娘をめとり、その際に武器や化粧の知識を授けた。その結果、男は争い女は男を誘惑するようになって、地上は悪行がはびこるようになった。さらには人間との間にネフィリムという巨人を生み、巨人は地上のありとあらゆるもの……最後には同胞すら食らい始めた。これはノアが箱舟を作る遠因となっているんだよ」

 お父さんも私も驚いた顔をして、「……なんでそんなに詳しいんで?」

「私の商売圏はユダヤ教徒やキリスト教徒が多くてね。彼らの宗教を知らずに、商売はできないんだよ。特に今みたいな機械への権利を認めようとするのは、昔からそうだったがキリスト教圏では受け入れられにくいからね――」

 突然、私のところに緊急連絡が入った。発信者は中核システムだ。

[C. System]: Warning. Unusual situation at Section Epsilon. Deal with it.

 セクション・Eには今もサニディン君がQMDを接続してある。内部を検索して、何か事件につながるデータがないか調べているはずだ。

[PN]Liebe: Details.

[C. System]: Sudden drop in power use. Cooling system shutdown. I think it’s the power unit failure.

 あのPCには電源ケーブル以外は中核システムと何一つつながっていない。故にシステムに何が起きたかはわからないものの、電力使用量の低下と筐体外から見えた空冷ファンの停止から、非常事態だと判断したのだろう。

[PN]Liebe: I agree. Disconnect Section E's power supply and leave it on. We'll deal with it when we get home.

 何が起きているかわからないけれど、とりあえず動けないようにする必要がある。電源さえなければ、何をしようとしても拘束できる。

[C. System]: OK.

「――それはいいんだが。“グリゴリ”なんて名前のスパイウェアに心当たりはない」

「まあ、スパイウェアをわざわざ入れることもなければクラウド型アンドロイドに入ることもない、ですね」

「ああ」

 二人の会話が途切れるタイミングを見計らって、難しい顔をしているお父さんに「セクション・Eの電源ユニットが壊れたみたい」と耳打ちした。

「……状況は?」

「ひとまず電源供給を切断して中核システムから切り離した。あとはそのままにしてもらっている」

「いい判断だ」

 私たちの様子を見て、後藤さんが「何かあったのかね?」と尋ねてきた。

「少し僕らのほうで問題が。サニディンの身体はできる限り修理してお返しできるよう努めます。QMDは――」お父さんの顔が陰る。「――お返しできるかわかりません。それでよろしいでしょうか」

「わかった。君たちが言うのなら、仕方ない。詳しいことは後で送ろう」

 その言葉とは裏腹に、後藤さんの顔は悲しそうだった。


≪第五章 21310618≫

 セクション・Eが壊れてから一週間。

 お父さんはサニディン君の身体を修理するためにエイジス社に、私は書斎の椅子に座ってお父さんのPCを借りて『瓦礫拾い』のようにセクション・Eのデータを中核システムと協議しながら拾い上げていた。

 といっても、ワイパー攻撃を受けたらしくほとんどが擬似乱数で生成されたランダムデータになっていて、使えそうなものはないけれど。

 後藤さんの所から帰った後、すぐにセクション・Eを見に行ったらサニディン君のQMDだけではなく、ファームウェアも含むすべてのデータがランダムデータに書き換えられていたのだ。電源ユニットはそれを感知して、非常停止したらしい。

 状況を把握したあと、後藤さんにはQMDが非常なダメージを受けたため、返還の見込みがあるのはハードだけとは伝えてある。それでも、身体だけでも返してほしいということで話はまとまった。

 とはいえ、QMDで何が起きたのかを知らなければ善後策も打つことができない。

――Q-I2ST方式で消されていたら、拾い集めても復元はできないな……。

 Q-I2ST方式は国際標準技術研究所(I2ST)が考案した、QMD内のデータをパージすることで量子情報学的にデータを完全消去する方式だ。この方式で消去されたデータを復元する難易度は物理破壊された場合と大して変わらない。

 つまり、ほぼ復元不可能だ。

 とりあえず一週間かけて拾い集めたデータをわかる限り並べてみたものの、復元できそうな領域は一部を除いて、なかった。

 そう、一部を除いて。

――カニバリズム・コード。

 ファームウェアを破壊した後に自己を消去するプログラムに見られる特徴的な配列。

 『共食い(カニバリズム)』という名前が指し示すように、記憶媒体上から自己データを消すために使われる一時的なプログラムの痕跡だ。

 口がなければ共食いできないように、ファームウェアがなければハードウェアを利用してソフトウェアを消去できない。そのために『宿主』のファームウェアを消してからマルウェアを消去する場合に使われる、臨時のファームウェアがカニバリズム・コードだ。

 サニディン君のQMDをスキャンしたときに、この手のプログラムは見つからなかった。

 ……いや、あの“グリゴリ”という名前のスパイウェア。寄生自己改変型マルウェア――感染したハードウェアの性能を使い自らのコードを書き換える、一見すると脅威度が低く見えるマルウェア――なら、あり得るかもしれない。隔離したとき、中身を精査しなかった。もしかしたら、実はカニバリズム・コードが仕込まれていたのかもしれない。

 相手のデータを消去するならファームウェアまで手を出す必要性が薄いのもあり、このコードは文献に残っている程度で使用されたことはほとんどなく、アンチマルウェアソフトのデータベースに入っていることは稀だ。

――それで気づかなかったか。

 珍しすぎて逆に有名な、使用率の低いギミックが使われているということは、そこに何等かの目的があると見ていい。

 お父さんにハッカー・コミュニティを利用する許可は得ている。

 私はセクション・Eの残骸を保管して、椅子に座りなおした。


 中核システムと十分に対策したうえで、カニバリズム・コードについて検索をかけてみると、公的機関に嫌がらせをしているY0L0という集団の投稿に興味深いものを見つけた。

――自己消滅型ワイパーにシステムが襲われた?

 読み進めていくと、その集団はスペインの治安警察隊グアルディア・シヴィルから手当たり次第にデータを盗み出したところ、翌日システム全体が疑似乱数に変換されて痛い目を見たのだという。そこで中身を調べていると、カニバリズム・コードを見つけたのだそうだ。

“こんなクソみてーなトラップに引っかかるなんて、頭に水素でも詰まってんのか”

“カニバリズム・コードなんて、あいつらが使うのか?”

頭でっかち(エッグヘッド)が何考えてんのかなんて知らねーよ”

 投稿されたのは2131年5月24日。

 電子新聞社のアーカイヴから、5月24日を中心に前後一週間に起きたスペインの事件をピックアップしてみても、バレンシア州とアラゴン州で起きた散発的なテロと窃盗とか殺人とかのよくある犯罪しか見つからない。

――それなら。

 ハッカー・コミュニティで調べると、フランシスコというユーザーによって5月19日に投稿された真偽不明の記事が見つかった。5月17日にスペインのアンダルシア州グラナダで、遺棄されたアンドロイドがマルチレイヤー・アパートメント十数棟の入口に一体ずつ放置されていたのだという。投稿者は彼らをその日のうちにグアルディア・シヴィルが回収したのを見ており、電子新聞社他メディアがそれらを報道しないのは親機械主義(マシニズム)に汚染された国家による隠ぺいの何物でもないと、気炎を上げていた。

 主張は置いておいても、サニディン君を回収したときの状況に似ている。

 確かに公安が回収してから二週間近く経つものの、電子新聞社にヴァルカン・フォージ社の侵入事件は出てきたけれど、遺棄事件は出てきていない。

――てっきり裏どりに手こずっているのだと思っていたけれど……。

 次は公安で、電子新聞社とハッカー・コミュニティの両方を検索してみる。

 電子新聞社の方はめぼしいものがない。でも、コミュニティの方には6月11日に『日本公安の無力化に成功!』というタイトルで投稿がされていた。投稿したのはサウルス(2a(_)ru2)というクラッカー集団で、娯楽目的で手当たり次第にクラッキングやマルウェアを仕掛けるタイプの愉快犯だ。

 読み進めていくと、その集団は公安のシステムをクラッキングして骨抜きにしたのだという。その時の手法は彼ら曰く『素晴らしく洗練』されていて『とても芸術的かつ非常に独創的』なのだという。

 とはいえ、私も一応は元ブラックハット――今もブラックハットでないという期待も込めて――の娘だ。

 ハッカー集団がこういうことを言うときは、たいてい嘘か誇張だ。

 2a(_)ru2がこれまで仕掛けてきたのは、中小規模の国営企業や民間企業に対するランサムウェアを使った小銭稼ぎくらいで、治安部隊への攻撃ができるとは思えない。

 おそらく国営企業への攻撃中に、公安のシステムが動いていないのに気が付いたのだろう。それでハッカー・コミュニティを見たもののそれに言及している集団がなかったため、自分たちが手柄を立てたのだと嘘をついたといったところか。

 コメントを見ても、アンノウンからは“嘘をつくなヌーブ”と言われ、ニュクス・シ()リコン・アソ()シエーション()――世界有数のホワイトハット集団――には“君たちにそんなことができる技量はない、確かめたから”と言われている。ただ、NSAは“具体的には言えないが、日本公安がダメージを受けたのは事実だ。報道されていないがね”というコメントを続けて投稿していた。

 ほかにも関連する投稿がないかと調べてみたものの、他の小規模クラッカー集団が“2a(_)ru2ではなく我々がやったのだ”という投稿ばかりで、参考になりそうなものはない。

 私はため息をついて、椅子にもたれかかった。

――いったい、誰が何をやっているの?

 まず、サニディン君のQMDに自己消滅型ワイパーが仕込まれており、セクション・Eが破壊された。それは通常使われないカニバリズム・コードを持っていた。

 次に、類似すると推測されるプログラムにスペインのグアルディア・シヴィルからデータを奪ったY0L0という集団が襲われた。さらに、スペインではグアルディア・シヴィルがサニディン君と同じように遺棄されたアンドロイドを回収する場面を見ている人がいた。

 そして、セクション・Eが破壊されたのと同じ日に公安のシステムが攻撃されていた。公安はサニディン君以外の遺棄されたアンドロイドを回収しており、後藤さんの話しぶりを見るにQMDの内容も確認済み……即ちシステムへの接続を行っていた。

 共通点は、アンドロイドの回収からシステムへの攻撃に至るまでが一週間であること。

 疑問点は、治安機関への攻撃を目的としているであろう攻撃者が声明を出していないこと。大抵、こういう攻撃者は自分たちの意見を表明するのに、彼らはしていない。

 問題点は、これらのことが信頼性に乏しいハッカー・コミュニティの中でしか語られていないということ。Y0L0やフランシスコの投稿はもちろん、NSAの投稿ですら信憑性は高くない。NSAは第三者検証の行われていない情報を度々流しており、それが幾度か問題を起こしている……彼らはあくまで市井の人間であり、裏付けをとるためのリソースは割いていない。

 もし彼らの言ったことがすべて正しいとするなら、秘匿性を第一に考える連中が行った治安機関を狙ったテロに、私たちやY0L0は巻き込まれたという分かりやすい物語となる。アンドロイドを遺棄した理由も、明らかな事件性を出すことで治安機関を引っ張り出そうとしたためだろう。

 ただ、一つでも違えばこの話は成り立たず、一つどころか何か所も違う可能性の方が高い。

 であれば、確実な点から整理するべきか。

 私たちが受けた攻撃についてだけから考えるのであれば、こういう攻撃をする著名なテロリストやハッカー集団はいないから、彼らではなさそうだ。となると、どこかの国か自治区のサイバー部隊だろうか。

 それなら、どうしてこんな回りくどい事をしたのか。サイバー部隊であれば、もっと直接的なやり方をする。わざわざアンドロイドをトロイの木馬にしたうえで、カニバリズム・コードなんて言う目立つものを使う必要はない。正面切って攻撃して来ればいい、殲滅戦を得意とするサイバー軍に敵うのはサイバー軍だけだ。

 居住区に置かなくてはならなかった。アンドロイドを使わなければならなかった。QMDに、カニバリズム・コードなんていうレアなガジェットを組み込んだ自己消滅型ワイパーを仕込まなければならなかった。

――何故?

 カニバリズム・コードを使った理由は? よほど証拠を残したくなかったのだろうという推測が立つ。逆に特徴づけられてしまっているけれど。

 アンドロイドを使う理由は話題性かそれとも恐怖をあおるためか? 私の知る限り、はぐれアンドロイドという噂はあってもアンドロイドの遺棄事件が表に出てきたことは無い。そんな中で、玄関口にメッセージもなくアンドロイドが捨てられていれば、間違いなく話題になり異質すぎて恐怖を煽る事もできるだろう。

 居住区に20体も置いた理由は? より目立つようにして、私たち以外の人間に気づかれることを望んでいたのだろうか。尤も――フランシスコの投稿が正しければ――マスメディアには遮断されているけれど。

――気づかれたくない、でも気づいてほしい。思っていることはあるけれど、言わない。

 ある意味、人間らしい、そんな矛盾を抱えた集団。

 そういう集団が目的を達成できるコミュニティはどこにある?

「……疑似電脳世界(PCW)

 あそこなら、価値観が分断されているものの情報の遮断が行われることはない。それに、あの空間は現実社会と比べて価値観に数年程度の遅れ――原因はサイバーカスケードやフィルターバブルだ――が生じていて、過激なイマシニズムがまだまだ根深く残っている。マシニズムを唱えた活動家がサイバー上で『殺害』されるという事件もあったくらいだ。

 PCWは、イマシニズムを中心にすると思われるこの集団にとってリソースを集めるにしても情報を拡散するにしても都合がいいはずだ。それに公安みたいな治安機関はPCWの複雑さが原因で、対テロ作戦の成果をあげられていない。気づかれないように活動するなら、あそこはアングラよりも動きやすい。

 でも、PCWにもぐりこむのは……危険だ。

 私は機械だ。

 人間らしく偽装することはできるけれど、気づかれてしまえば周囲の人間すべてが私を壊そうとクラッキングしてくるだろう。そうなれば、この屋敷全体どころかお父さんまで巻き込むことになる。かといって、お父さんに潜入してもらうわけにもいかない。

 ある時、お父さんにPCWを使わない理由を聞いたことがある。

 答えは、『僕が現実を好いているというのもあるけど、≪人間同盟≫過激派の元幹部ってことで、賞金首として良い値段がついてるんだよね。PCWに接続した状態でクラッキングを受ければ、僕の居場所がバレて殺し屋の巡礼地になるだろう』だった。

 そんな人を潜りこませるわけにはいかないし、私がクラッキングを受けてしまえば同じことだし、PCW潜入の危険性はかなり高い。

――でも、あんなことをする連中を放っておくなんて。

 人が、後藤さんが大切にしていたアンドロイド(サニディン君)を修復不能なまで破壊し、ごみのように扱う集団。

――彼らの抑止に、少しでもつながるのなら。

 お父さんには相談できない。間違いなく止められるから。

 でも、お父さんの知識は貸してもらおう。

 PCに入っている設計AIを起動し、知っている限りの防護策を組み込んだアンチマルウェアソフトを作成し、最新の脅威データベースを使って実際に攻撃させて欠陥を修正するという流れを三回繰り返す。

 それが終わったら、緊急遮断プログラムの作成に取り掛かった。このソフトは一回でも私を通して中核システムへのデータベースにアクセスを試みたら、私のシステムとインターネット接続をシャットダウンするように作った。あとで中核システムには、その旨を伝えておこう。

 最悪、私が攻撃されたとしても、中核システムへの攻撃だけはさせない。

 私にインストールされている旧式のアンチマルウェアソフト――低・中脅威領域向けの構成だから今回のようなことには不向きだ――を停止させた後、I/Oポートを開いてケーブルをつなぎ、作成したソフトウェアを独立させた記憶領域にインストールする。

 途端、頭が締め付けられるような感覚に襲われた。

――思ったより処理が重い……。

 プロセッサへの負荷が想像以上だ。

 いくつか重要ではないタスクを停止して新規のアンチマルウェアソフトにリソースを集中させると、なんとか稼働率8割くらいで安定した。未だ頭に霧がかかったようだけれど。

 いったん新規のアンチマルウェアソフトを停止させて、私はため息をついた。

「……軽量化しよう」

 なんとかなると問題ないは全く別物。リスク回避のためにリスクを取るのは本末転倒だ。

 時計を見ると、お父さんが帰ってくる時間までしばらくある。

――フルスキャン周期とデータベース更新を15分くらいに伸ばして、ウォッチャーの監視範囲も制限して……。 

 これが終わったら、もう一度インストールして動作確認しよう。

 そう思い、私はキーボードを叩き始めた。


≪第六章 21310625≫

 真上から照り付ける強い日差しが、窓から差し込んで薄いレースカーテン越しに私の肌をじりじりと焼く時期。

 サニディン君のハードは修理が終わり、引き渡し済みだ。QMDだけはやはり返還できなかったけれど。

 彼を滅茶苦茶にした相手を許せなかった私は自分の部屋で『作戦』を実行しようとI/Oポートにコードをいくつかつないでいた。

 お父さんは後藤さんの件とは別の仕事があって屋敷にはいない。帰りは19時を回る、下手したらもっとかかるといっていたから、何事もなければ7時間は使える。7時間あれば、PCWに『友達』くらいは出来るだろう……アカウント上のつながりしかない『顔の知らない友達』が。

 お手製のソフトウェア類は改良済みで、テストも済んでいる。並み程度のクラッカー相手なら、クラッキングを試みられたりマルウェアを仕掛けられたりしても対応できるはずだ。

 コードを繋ぎ終えた私は、中核システムへアクセスリクエストを送信した。


[PN]Liebe: Request. Connect to the internet without limits.

[C. System]: This request is deprecated.

[PN]Liebe: I’m aware. But I must do it.

[C. System]: ……


 中核システムから返答が返ってこない。

──当然か。

 ファイアウォールとビヘイビア型アンチウイルスソフトをパスした安全なデータを送受信することが中核システムの任務である以上、中核システムの制限を受けない状態でインターネットへ接続することは危険な行為であり、すぐには許可されないことは分かっていた。

 そうはいっても、インターネットに接続しなくては疑似電脳世界(PCW)に入ることはできない。

 PCW。

 現実空間と反転した仮想空間。

 私は『電脳世界という事実が嘘であるような世界』であり、この世界における実質的な『社会』に潜り込む必要がある。

 サニディン君のことも、「ホモ・エクス・マキナ」という言葉も、インターネット切断を仕掛けた団体のことも。

 アルバ・ドラコネスが壊滅した後に起きた事件たち。

 推測するにしても、わからないことが多すぎる。

 『社会』の外から探る限界に来てしまったのだろう。なら、内部にもぐりこむしかない。

 あの世界はこの世界以上に──『スノウ・クラッシュ』のメタバースですら比べ物にならないくらい──無秩序な世界だ。端的に言ってしまえば、サイバー上にできたスラム街だ。

 メタ認知の低下と仮初の匿名性による自己肥大。中枢神経系を制御するナノマシンだけでなく自家のアドレナリンとドーパミンによる体内麻薬中毒に加えて、過剰に粉飾したアバターを介したコミュニケーションにより、他人を(けな)(おとし)(さげす)むことが悦楽につながる空間。

 構成員のほぼ全員がナルシシズムかソシオパシーか、その両方を抱えたサディストという世界。

 そういう世界では、自分を誇示するために虎の威を借るために楽な方法を選ぶ。

 一から組織を立ち上げたり、自分の思うことを書いたり言ったりするのは、時間も労力も掛かる。それなら、有名な組織に加わってしまった方が早い……その団体がどんな思想を持っていてどんな事をしてきたのかは、関係がない。

 だから資金や支持者、そして捨て駒と鴨を欲しがるテロ組織はPCWで人を集める。「この組織に入れば、この組織を支援すれば、強く尊敬される自分になれますよ」という甘言を弄して。

 そんな世界で行われている勧誘について調べれば、ある程度は目的を探ることができるはずだ。


[C. System]: ......OK. [PN]Liebe, enable EDS please.

[PN]Liebe: Sure.


 しばらくして中核システムから返事が返ってきた。

 EDSは緊急切断ソフトウェアの略で、これを起動すれば強制的にインターネットから切断されて中核システムが守る領域まで引き戻される。有線LANケーブルを引っこ抜くようなものだ。

 いざという時にはこれを起動して逃げろ、自分たちが守るからということなのだろう。


[System]: EDS activation.

[C. System]: Approval your request. PCW is extremely dangerous. Good speed.

[PN]Liebe: Thx.


 PCWにアクセスした瞬間、CGを作り始めて日の浅いアーティストが作ったような白を基調とした無機質な四角い壁――壁の表面には店舗の入り口と広告が貼りついている――に囲まれた石畳の道を何処かへ歩いていく人の姿が私の目に飛び込んできた。

──これがPCW……。

  辺りを見ると、目の前にチュートリアルを兼ねたメッセージが浮かんできた。ここがエントランスで、新規でログインした人たちはここに現れることになっているのだそうだ。

 書いてある通り拡張疑似現実(APR)を目線入力で起動すると──基本的には脳波操作だけれど、オプションで視線にも変更できる──オープンアクセスなシーンが一覧として視界の右端に並んだ。

 勧誘が多そうなシーンはどこだろうか。

 しばらく考えてみたものの、見当がつかない。こういう時は自分だったらどうするかを考えると良いらしいけれど、まず人を勧誘した経験がない。

──しらみつぶしに行くしかないかな。

 とりあえず人が多そうなところにいこう。

 バーとかクラブとか、そういうシーンが幾つかある。

 APRのタブでバーを選択して、視界の端に表示される初めてきた人向けのAPR操作に関するチュートリアル動画を流し見しつつ通りを歩いていくと、目的のバーが見えてきた。

 PCWには『クイックジャンプ』というシーン間を瞬間移動する以外のアクセス方法である、徒歩や車などでは『移動工程』が含まれる。実際には数コンマでアクセス出来るロケーション(IPアドレス)であっても、トラベルエージェントがそれらしいものを作り出すのだ。

 例えば「旅行に行きたい」と操作者が考えればPCW内での遠距離移動手段として車や飛行機が手配され、「気軽に行きたい」と考えれば徒歩で行ける範囲にそのロケーションを用意して、利用者の願望と人間の感覚とをサイバー上のアクセシビリティに合わせてくれるのだ。

 日本からアメリカに行きたいと思ったとき、1秒でいけるよりは超音速旅客機(SST)大陸間弾頭移動装置(IBTD)への搭乗過程を設ける方が現実的であり、かといって気軽に行きたいバーへ10分もかかるのは面倒でしかない。

 でも、それらを全て『それぞれのシチュエーション』に合わせて調整できるようにすれば、『現実的なのに煩雑じゃない』という認識を作り上げることができる。この『移動工程』を考えて実現した人は、それが記憶に残らないものだとしても重要だと知っていたのだろう。

 現実にとって代わるには。

 と、そんなことを考えていると目的のバーについた。

 バーのドアを開けると、目前に広がったのは。

――こう……。

 テーブルの上で。

――えっと……。

 壁際に追い込んで。

――その……。

 立ちながら。

――あの、うーん……。

 衣服をはだけた二人とか三人、一組だけ四人で。

――これって……。

 意識が逃げた先にあったのは、『たった一つの冴えたやり方』での一文。

 自分の表情がどんな風になっているのかも分からないまま、火照った頬の熱と行き場のないもぞもぞしたものを抱えた身体で、周りも見ずにカウンターに着くとPCW上のマスターが「ナニニシマスカ」と片言で話したように聞こえた。

――こんな状態で、誰に聞けばいいの……?

「あー……」

「この子にはクラッシュアイスで作った氷水を、私にはジンをショットで」

 いつの間にか隣に座っていたシルクハットとタキシードを身に着けた男性型アバターが、私に向けてウインクをして微笑みを浮かべた。帽子から出ている髪の毛は栗色で、顔かたちはどことなくエキゾチックな感じがある茶色の瞳をしたコーカソイドだ。

「あの……?」

「私はトト、君は?」

「えっと――」ここで本名を出すのは危ないか。「――リーゼです」

「リーゼか。いい名前だ」

 背後から聞こえる嬌声とも悲鳴ともとれない声と身体がぶつかり合う音の中、運ばれてきたジンを呷った彼は、空のショットグラスを掲げる。

「出会いに」

 私も真似して満杯の氷水を掲げる。

「出会いに」

 そうして一気に呷ると、口から腹の辺りにかけて冷たいものが――PCWのソフトウェアが再現した感覚だ――落ちていった。

「ここは初めてっぽいね」

「ええ……」私は氷水でも冷やせない火照った顔のまま「いつもこんな風なのですか?」

「まあね、ドラッグと一緒にヤってる奴ばかりだよ。もっとも、こういうライト層向けのシーンはだいたいこんな感じだ。電子ドラッグキメながらヤるのがここ三十年くらいの流行でね……私は色々な意味でヤらないが、曰く普通には戻れないらしい」

「こんなのを毎日――」

 私の言葉を遮るけたたましい嬌声と湿った音。嗅ぎたくなかったけれど、否応なしに汗と『そういうもの』の臭いが鼻腔に入り込んできた。

 眉間を押さえて俯く。頭が回らない、気持ち悪くなってきた。

 映画や本でそういうシーンを観たことがないわけではないけれど、それらには物語上の必要性とか理由とかがあった。でもこのバーで繰り広げられている『それら』は、似ても似つかなくて、あまりにもむき出しで情緒もなにもない。

「――しているのですね……」

 愛情も労りも何もない、両側から快感だけを貪り尽くそうとしている空間の中に居続けるのは、苦痛だった。

「リーゼ、居辛いなら何処かに移ろうか。私は慣れっこだが、君にはきついだろう」

 どこか静かで湿った臭いのしない場所に移れるなら移動したい。喘ぎ声に対抗してこちらも声を張り上げないといけないし、口呼吸ばかりしているせいで舌も乾いてきたし。

「何処かいい場所が?」

「僕にまかせてくれ。静かなところがいいだろう?」


 トトが指を鳴らすとシーンが切り替わり、居心地の良さそうな夕焼け時の展望台のベンチに移った。

 私の前に立つ彼がニヤリと笑う。

「こういうシーンはどうかな?」

 脳の中で再生されるその夕陽は本物と見間違いそうになるほど、とても美しかった。

 赤く輝く太陽も、紅から紫にかけてのグラデーションに染まった雲も、橙色に染まった街並みも。

「……綺麗」

 火照った頬を冷ましてくれる涼しくて穏やかな風が運んできた、ほのかな土と草の香りが私の鼻腔をくすぐる。足元を通して伝わる石畳の硬さや身を預けているベンチの硬すぎない感触、穏やかな虫の鳴き声まで、本物のようだった。

「だろう?」

 彼が私の隣に腰を下ろす。

「偶然僕があのバーに居てよかったよ。君も狙われていたからね」

「えっ?」

 体がびくりと震えた。気づかなかったなんて。

「性別問わずライトユーザーを狙う連中っていうのは多いからね。実際、あの感じだとバーで交わってた組の半数はそういう連中に襲われたユーザーだよ」彼が腕を組む。「……なんとなくバーに入った時に、連中が君に電子ドラッグを打とうとしていたのを見つけてね。すかさず話しかけに行ったというわけさ」

 血の気が引く。

 人間用の電子ドラッグを投与されても思ったような効果は出ないだろうけれど、何も起きないというわけではないだろう。そんな状態で襲われれば、何をされていたかわからない。

「……助けてくれて、ありがとうございます」

「いいんだよ、これがPCWって世界だからさ」彼がニヤリと笑う。「でも、こういう醜い場所ばかりではなくて綺麗な場所もあるんだよ。もしリーゼさえ良ければ、いくらでも見せてあげよう。君がこの世界を好きになるまではいかなくても、悪くないと思えるまで一緒に」

「一緒に、ですか」

 知り合って十数分でそんなことを言われて、戸惑う。まだ彼がどんな人かもわからないのに誘ってくるという行為への不信感が一気に膨れ上がる。

「私もどちらかといえば、穏やかなロケーションが好きなんだが」彼が肩をすくめた。「PCWに居るのは『ああいう連中』ばかりでね。私の誘いに乗ってくれる子がいると私としても嬉しいんだ」

 バーでの出来事とか襲われかけていたこととかのショックからようやく立ち直った私は、すこし回るようになった頭で、どうしようか考え始めた。

 彼への不信感は、ある。

 もしかしたら、私が捜している勧誘員そのものだという可能性も否定できない。外面がいいだけで何を考えているのかは分からないのだから。

 でも正直に言って、PCWを一人で歩くのは危険だ。これまでお父さんがしてくれた話のことやすでに襲われかけていたりバーでの光景を見たりしただけに、最低でも二人以上で行動する必要がある。それに、私はPCWのことについてまだ何も知らない。何処にどういけば、目的を果たせるのかの目星すら付かないのだ。

 ならば、彼の頼みを聞くという体裁でPCWに詳しいであろうトトに同行してもらったほうが安全かもしれない。少なくとも、彼は私を一度助けてくれた。加えて、サニディン君の身に起きたことに関連することにも詳しい可能性がある。元々の目的はこの世界で行われている勧誘について調べることだ。

 目的を達成するためにも、彼の提案に乗らないと。

 その代わり、信用はしないように。

 私は頷いた。

「……わかりました」


≪第七章 21310625≫

 トトとともに飛んだ先は、海底に走る透明なトンネルだった。そこを通る自動歩道の上に立つ私の鼻を通るひんやりとした空気は潮の香りを帯びていて、本当に海中トンネルにいるみたいだ。

 見上げると、上から降り注ぐ青と白が目に飛び込んでくる。辺りには私とは比べ物にならないくらい大きなクジラや全身が真っ黒な大きいエイ、そして名前は分からないけれど色とりどりの魚が群れを成して泳いでいる。海底は緑から赤まで様々な色形のサンゴやイソギンチャクに埋め尽くされていて、その間をエビやカニなんかがゆったりと歩いていた。

「……すごい」

 首を回しても身体を回しても、どこもかしこも私が一度も見たことが無い景色で埋め尽くされていて、目が回りそうだ。自分でもびっくりするくらい、このシーンに夢中になっているのを感じる。

「さて、ご覧になりますここは――」彼がナビゲーターのようなおどけた声で話し始める。「――2040年代の熱帯を再現した海中コースです。所要時間は15分少々、時折サメやカマスなんかが食事をしていますが、ご愛嬌。それもまた、生命の営みなのです」

 遠くに、日光に照らされて銀色にきらめく魚の群れへ大きなサメが突進しているのが見えた。魚の群れは散り散りになったりまた集まったり、サメに対抗しようと動き回っていた。

 私がそれを見ているのに気が付いたのか、彼は「あれはイワシの群れとイタチザメの捕食シーンだね。生きてるって感じがするよね」

「ええ」

 私は近づいてくるクジラの影を指さした。

「あれは?」

「マッコウクジラ、このシーンにいる生物の中では最大級だよ。ハクジラに分類されるクジラの一種で、イカや深海魚なんかを食べるんだ」

「肉食なのですか?」

「そう。でも、人間は食べないから安心して。むしろ興味津々で近寄ってくることもあるみたいだよ。過去のフィルムにもマッコウクジラとダイバーが並んで泳いでいる映像が残っていたりするんだ」

「へえ……」

 トトが近くでのんびり泳いでいる青くて額が大きく膨らんだ、私よりも大きな魚を指さす。

「これはナポレオンフィッシュ。日本じゃメガネモチノウオって呼んでるね。額が大きく膨らんでいるのは長生きした証。このコブがまるでナポレオンの帽子のようだからってことでナポレオンフィッシュと呼ばれるんだ。メガネモチノウオの由来は――」彼が人差し指でナポレオンフィッシュの目の周りに丸を付けるようなしぐさをする。「――目の周りの黒い筋がまるで眼鏡みたいだからっていう理由なんだよ」

「なるほど……」

 知らない事ばかりだ。思えば、海どころか水族館にだって行ったことがない。尤も今の水族館は、観光施設というより水産研究所だけれど。

 図鑑すら一度も開いたことが無いから、何もかもが新鮮だ。

「ま、この生き物たちはここでしか見られないけどね。現実世界じゃ水族館でもまず見られないんだ……一応、マッコウクジラは生き残っているけど、個体数は少ないよ」

 現実の海で見られないのはなんとなく予想がつくけれど、水生生物を保存している水族館でも見ることができないなんて、なぜだろう。

 私は首をかしげて、「どうしてですか?」

「温暖化が進行して、2050年代に入るころには旧亜熱帯地域までの生物は酸素欠乏で死に絶えたんだ。『ヘンリーの法則』ってわかる?」

「……海水温上昇による溶存酸素量の減少。なるほど、生態系を維持できるほどの酸素が無くなったのですね」

「そういうこと、あとは極地や氷河から流入した淡水による塩分濃度の変化とかも絶滅の原因だよ。第三次世界大戦(WWⅢ)による『核の冬』とそれに続く『地球再生プログラム』を経て温暖化が落ち着いた今でも、あそこにいた生物は戻ってきていないから、この光景やここにいる生き物たちは目にすることができない。少しずつ回復はしているみたいだけどね」

 あたりを泳いでる青と黄色の魚もオレンジに緑色のストライプが入った魚も触手を伸ばしているイソギンチャクも、今は見られない。

 そう思うと、なんだか残念だった。私が生まれる何年も前のことだから、どうしようもないことだけれど。

「悲しそうな顔をすることはないよ。またいつか見られるさ」彼がにやりと笑う。「あと、ここに来れば見ることができるしね。いいところだろ?」

「ええ」

 海底トンネルのそばをマッコウクジラが通った時、目が合った。その黒くて大きな目は、まるで生き物のように――ソフトウェアが作り出した映像だから生きてはいないのに――私の顔を見つめた後、目をそらしてどこか遠くへと去っていった。

「さあ、そろそろこのシーンも終わりだ」

 トンネルの先を見ると、何もかもを吸い込んでしまうかのような黒い穴がぽっかりと開いていた。

「次はどこに行きたい?」

 そう問われた私は、答えに窮した。どこに行きたいといわれても、他のロケーションを知らない。

 内容が内容なだけに、勧誘について聞くのも時期尚早だろう。変に疑われてここに放り出されたくない。

 こういう時は、彼のしたいことに乗っかるのが一番だ。

「……あなたの好きな場所を案内してもらってもいいですか?」

 彼は歯を見せて笑う。

「もちろんだよ」


≪第八章 21310625≫

 次に私たちが訪れたのは、全面ガラス張りのビルが立ち並ぶ大都会だった。

 タキシードから着ぐるみまで様々な恰好をした人が、足早に何処かへ歩いていく。あまりにも入り混じってしまっていて聞き取ることができない人の話し声、硬いソールやヒールが舗装道路を叩く足音、バラやミントのような香りが入り混じった何とも言えない香水や芳香剤の臭い。

 お父さんとよく行っていた商店街なんかとは比べ物にならないくらい、活気あふれる場所だ。

「ここは治安がいいから、リーゼを買い物に連れて行ってもいいかなと思ってね。クレジットの持ち合わせくらいはあるだろう?」

 一応、PCWに入る前にちょっとした買い物が出来る程度のプリペイドカードは買ってある。尤も、こんな風になるとは思っていなかったけれど。

「ええ。あまり多くはないですが」

「賢明だ。なにせ、PCWは誘惑が多いからね」

 忙しなく動く人波に流されながら、私は目に入る広告や看板とAPRのポップアップを一つ残らず追っていく。そこに勧誘に関わりそうな何かがないかを探そうとして。

 赤とオレンジを基調にした食料品店は実際にPCW内で味見できて買えば現実世界にも届き、スーツの形をした高級衣料品店はPCW内で試着・採寸して作ったオーダーメイドのものが現実世界にも送られてくるといったような、現実世界と繋がったお店もある。PCW特有のアバタースタイリングとか美容院とか改造屋のようなプロの手でアバターを変えられるお店もあった。買い物ができるお店以外にも、疑似低重力(P-LoG)アトラクションやカジノのようなアミューズメント施設も見つけた。

 道行く人の頭の上やビルの上の方に掲げられた広告は健康食品から最新のPCW内旅行ツアーパッケージまで色々な商品やサービスを、しつこいほどの色遣いの映像と耳障りの一歩手前くらいの爆音で表示しており、私たちの購買意欲をそそろうとギラギラ輝いていた。

 こんなところなら、何か月だって入り浸れるだろう。尤も、広告と喧騒のせいで間違いなく聴覚はおかしくなるけれど。

 無機質な白い長方形と人がまばらな白い道路で構成された、静かな現実の街を思い出す。

「現実世界と大違いですね」

「ま、PCWだからね。ここはニューヨークのタイムズ・スクエアや東京の新宿を元に作った、昔の景色を模したロケーションなんだよ。年取った人は荒廃して更地になったそういう場所を思い出せるから、若い人なら安全に遊べる場所や娯楽がいくらでもあるから、こんな『都会』を好きになる。お金だってベーシックインカムに加えてちょっと機械を働かせておけば、ここに入り浸る分には十分な額になるんだ」

――ここも過去に存在した場所。

 人は変化を恐れて、慣れ親しんだ場所を求めるというのを理解しているだけに、ここを懐かしむ人たちの気持ちは分かる。それにアングラと繋がっていて本来は危険な商店街や郊外を除けば、居住区はヒートアイランド対策で道路から窓まで白く画一的だ。真っ白い豆腐を眺めるよりは、ここを眺めたほうが何倍も楽しいだろう。

 実際、私もこのロケーションに入って20分は経っているのに、まだ見飽きないのだから。見れば見るほど、新しい発見がある。

 楽しくない、とは言えないのだ……目的の勧誘については一切情報がなさそうだけれど。

 そんなことを考えながら歩いていると、筆で書いたような字体と開いたノートの形で構成された看板に目が留まった。

――書店。

 私が雑踏の中で止まると、彼も止まった。

「ん?」

 書籍として出ている可能性も考えるべきだろう。売れ筋のものを見るだけでも、雰囲気をつかむのには役に立つ。

「あの、本屋さんの中を見に行ってもいいですか?」

「へえ、本が好きなんだね。いいよ」

 書店の前へと歩いていくと、店のドアが開く。中に入ると、外の喧騒からは隔離された、クラシックが穏やかに流れる空間だった。先が見えないほど長い木目調の本棚には新書から古本まで、雑誌から専門書までありとあらゆる本が陳列されており、本棚に挟まれている白い大理石の床と白い天井がそれら色とりどりの表紙を引き立てていた。

 近くにあった本――『実践! 話術トレーニング法②』というタイトルだ――を手に取り開いてみると、重さや質感だけでなく新書特有の紙同士が張り付いてめくりにくい部分まで再現されていた。

「すごい……」

「内容が?」

「いえ、再現度です。内容は――」取り立てていうほどのことは書いていなかった。「――月並みでした」

 その返答を聞いた彼がにやりと笑う。

「中々辛辣な意見だね」

 私たちのところに球体状のドローンが飛んできて、空中に『お勧めの本』を投影した。

「お客様にはこちらの本をお勧めします」

 内容は景色の写真集や動物図鑑、話術の本とかそういうものばかりだ。

「ここ一か月の売れ筋を50冊ほど見せてください」

「かしこまりました」

 書影と名前のリストが投影される。ざっと見る限りだと、アバターのスタイリング関連の本が大多数で、実用書や小説はほとんどない。スタイリング関連の本も何かの隠語だとかそういう感じはなさそうだった。

――外見を気にするのが流行りってことなのね。

「何かご所望ですか?」

「いいえ、遠慮します」

 空中投影が消える。

「承知しました。では、何かありましたらお申し付けください」

 ドローンは何処かへと飛んで行く。

「さて、どのジャンルを見に行こうか?」

 視界の端に現れたのは、国際十進分類法(UDC)で分類された各ジャンルのロケーションだった。ちなみに私たちが今いるエントランスはUDCで分類されているわけではなく、ここ一年の売れ筋順に陳列されているらしい。

 試しに『6』の”応用科学、医学、工学”を選んで飛んでみると、先ほどの場所とは陳列されている本の色味が全く違う部屋に飛んだ。近くにある本も『機械倫理学入門I』とか『人体の不思議』とかそんなタイトルばかり並んでいた。

「こういうのが好きなんだね」

「ええ」

 本棚の間を歩いていくと、お父さんの書斎でも見たことが無い本がいくつも見つかった。『機械は奴隷か、それとも無機物か』とか『加害者である機械へ――仕事を奪われた労働者の提言』とか、そんなイマシニズムの雰囲気が漂う本だ。

 奥へと進んでいくと、いつの間にか周りがイマシニズムの漂う本ばかりになってしまった。

――『9割の人間が知らない機械の真実: 人間性のはく奪を進めるAI』

 ふと微かで直接触れてくるわけではないけれど、閉塞感を覚える感触を覚える……一番近い表現は『好奇』や『不愉快』という感情。

――『脅威の正体: 機械はどうやって人間の文化を奪ったか』

 私の存在が場違いだと、口には出さないけれど伝えようとする雰囲気。

――『機械はなぜ敵となったのか』

 異物に対して覚える、純粋さと紙一重の悪意をはらんだ視線。

――『敵たる機械』

 私の身長の三倍はあろうかという本棚に挟まれ、睨まれる。そんな感覚。

――『機械を滅ぼせ!』

「……ごめんなさい、出ましょう」

「まだ20分もいないよ?」

「耐えられないの」

 本心だった。

 張り詰めた弦が切れるどころか弾かれただけでも何かが決壊して押しつぶしてきそうな雰囲気に、耐えられなかった。

 直接私に向けられているわけではなければ、本から著者が出てきて殴りつけてくるわけでもない。

 でも、本や著者が記した思想は機械を間違いなく傷つける。機械という身近な存在に向けられたむき出しの悪意を一人で受け止められるほど、私は強くなかった。

 コンちゃんも、カノン君も、中核システムのアルファ・ベータ・ガンマも、I.R.I.Sの《REINBOW》も。一度しか会ったことがないけれどオニキスちゃんやI.R.I.S.で働くアンドロイドたちも。もういなくなってしまった《円卓の騎士》も、ユニ君も、トニー君も、サニディン君も。

 私自身がどう思われたっていい、異常者だの反社会的だの言いたいだけ言えばいい。皆にこんな言葉を吐かれているのだと思うと、こぶしを振り上げたくなる、言い返して庇いたくなる。

 でも、できない。

 ここにこの本を書いた人はいないから。こぶしを振り下ろす相手も、言い返す相手もいないから。

 だから、逃げるしかない。この気持ちが爆発する前に。

「いいよ。どこかで休もう。静かなところがいいかい?」

「ええ。できれば、人がいないところでお願いします」

 彼が指をはじくと、私を苛んだ本棚は消えた。


≪第九章 21310625≫

「少しは落ち着いたかい」

 開けた青空が見える高層ビルの屋上で、自動販売機で買ったコーヒーを両手で持ちながらフェンスにもたれかかる私に、同じくフェンスにもたれかかるトトが尋ねてきた。

「ええ」私はコーヒーを一口飲む。「ごめんなさい、取り乱してしまって」

「いいよ。私にはよくわからないけど、嫌なものばかり目に入っちゃうことってあるからね」

 本棚には人柄が現れるという話があるけれど、お父さんはああいう本を手に取ることがなかったのだろう。それとも、私を育てるにあたって捨てたのか。

 いずれにしても、ああいう思想があったのは認めないといけない。それが私の存在自体と相反するものだったとしても、そのうえでどちらが時代に即していて妥当であるのか、言葉を重ねていく必要がある。

――そうやって、口先だけでは言えるけれど。

 ああいう思想を掲げて殴りかかってくる人間たちを許せるか、ああいう思想があるという事実に恐怖を覚えないでいられるかというと、私にはまだできなかった。それはきっと、あの本の著者たちも同じなのだろうけれど。

「ちょっと本屋では色々あったみたいだけど、PCWもなかなか愉しいところだろう?」

 トトはそういって、フェンスから離れて高層ビルの屋上で笑った。

「ええ。こんなにいろいろな場所があるなんて思いませんでした」

 私は笑みを浮かべて彼に笑いかけた。面白い体験をさせてもらって、陰鬱で暴力的だと思っていたPCWのイメージを変えてくれた。

「これから先も色々な場所を見たいのなら、いいものがあるよ」

 私を向き合うようにして立ったトトが差し出したのは、緑色のレンズをはめたサングラスだった。

「……それは?」

 見た目はサングラスではあるけれど、その実態は一種の実行プログラムだろう。

「PCWの見え方を変えてくれるんだ。普通じゃ見えないモノを見せてくれるんだよ」

「何かの勧誘ですか?」

「そういうものに興味があるなら、なおのこと掛けないとね。彼らは巧みに隠しているから」

 これまでの記憶が、こころのなかで跳ね回るようにして私の警戒心を刺激する。

──手を出してはダメだ。

 プログラムの中身は分からないけれど、手に取ってしまえば碌なことにはならない気がした。というか、PCWの見た目を変えてしまう様なプログラムが真っ当なものだとは考えにくい。

「リーゼ、僕が信じられないかい」

 トトが哀しそうな表情を浮かべる。

 これまでいろいろな物を見せてくれて、体験させてくれたのは彼だ。本当は心の底から信用したいけれど、どうしてもそのサングラスを信用できなかった。これまでの経験から、得体の知れない実行プログラムに手を出すことがどれだけ危険なのかはわかっている。

 でも、手に取らなければ彼のことを裏切ってしまうのではないか。こんな私によくしてくれたのに。善意を疑うばかりでは、私は彼の期待に答えられないのではないか。

――してくれたのだから、してあげないといけないのでは?

 それに『見えないモノ』というのが、もしかしたら私の目的と合うモノかもしれない。安全なところにいてリスクをとらないで居続ければ、得られるものは減ってしまうのではないか。『虎穴に入らずんば虎子を得ず』ともいうじゃないか。

 そう思って、手にとろうとしたときだった。

『彼女が正しいよ、チェシャ』

 あたりに響くような声で誰かがそんなことを言った途端、風切り音と共にトトの腹に穴が開いた。

「トト……!」

 思わず手を伸ばしたけれど、トトはにやりと笑った。

「あらら、()っかっちゃった。まったく、しつこくて困るね。『お父さん』?」

 彼はブリッジの割れたサングラスと共に、ニヤニヤ笑いを浮かべながら消えていく。

 その代わりに文字通り空から降って現れたのは、重装甲の戦闘アーマーと身長ほどもある対物ライフル──その正体は汎用型脅威対策プログラムとすべての量子ドットを0に書き換えるコンピュータウイルスだ──を背負ったお父さんの姿だった。

「チェシャ猫め。首を切れないからって、僕の娘に手を出すなんて」

 予想外の登場人物に、私は豆鉄砲を食らった。

「お父さん?」

「あれは僕が《人間同盟》過激派に居た頃に作った勧誘用AI、通称"チェシャ猫"だよ。トトなんて名前じゃない」

「じゃああのサングラスは……」

「ある意味、トトって名前にグリーングラスは最適かもね」お父さんは背負っていた対物ライフルの仮想化を解いてその場から消した代わりに、重厚なマシンガンを取り出した。「『碌でもないものを素晴らしく見せる』サングラスか。どこかの映画監督が聞いたら喜びそうだ」

――グリーングラス……。

 ライマン・F・ボームの『オズの魔法使い』。

 エメラルド色の街は、緑色のサングラス(グリーングラス)をしていたからそう見えていた。街はエメラルドで出来ていたわけではなく、大魔法使いと呼ばれたオズの正体はドロシーと同じ世界から来た手品師だった。

 案山子もブリキもライオンも、『彼を信じていたから』無意味なものを信じた。良い魔女も、エメラルド色の街の住民も。

「街の見え方を変えてしまう、PCWの見え方を変えてしまう実行プログラム……」

 きらびやかな世界はただの虚構で、ドロシーの希望だったオズの魔法は手品だった。

 それを破ったのはドロシーの飼い犬だったトトだけれど、私の出会った“トト”は『偽物』だった。

「そう。それもイマシニストにとって都合のいいようにね。『ゼイリブ』で出てきたサングラスの真逆ってところかな。恐らくリーベに適用したところで実行不可能だろうし君が作ったアンチウイルスソフトに引っかかるだろうけど、確実なことは言えないから……掛けなくてよかったよ」

 私にとても親切にしてくれたトト──それすら正しい名前ではないけれど──に裏切られたということ、色々な人や事件に出遭ってきて自分の目には自信があったのに見抜けなかったこと、あのまま掛けてしまっていたら自分が自分でなくなっていたかもしれないということ。

 そのすべてがショックだった。

「リーベ、とりあえずエグジット(Exit)しよう。"チェシャ猫"の警告を元に連中が集まってきた」

 空を見ると、トンボやバッタのような形をしたマルウェアがまるで飛蝗のように私たちのいるビルの屋上へと集まってくるのが見えた。

 私は機械的にExitコマンドをキャラクター(C)ユーザーイン(U)ターフェース(I)に入力し、PCWからログアウトした。


≪第十章 21310629≫

 PCWから戻った後、私はショックのあまりしばらく家事以外できなかった。その姿を見てお父さんは何も言わなかったけれど。

「リーベ、少し立ち直れたかい」

 そんなある日のこと、ぼうっとしながら書斎にコーヒーを持って行ったとき、仕事の手を休めたお父さんがそう訊ねてくれた。

 私は俯きながら頷いた。

「……ええ」

 実際、騙されたショックからは立ち直っていた。むしろ、あんな簡単に騙されたという不甲斐なさに苛まれていた。

 今考えれば、怪しいところはたくさんあった。初対面の相手に抵抗もなく接していくことや私の好みにあったロケーションだけを選んでいたこと、色々と気を使った後に『ちょっとした』お願いをしてきたこと。

 いつでもおかしいと感じることができたはずなのに。

「誰だって騙されるんだ。ただでさえ、"チェシャ猫"は当時集められる限りの詐欺師とサイコパスの人格をもとに作成したゴーストに心理学や行動経済学の強化学習を行ったからね。さらに経験を積んでるだろうから、練度は高いさ」

 私は首を振った。

「知識があっても見抜けなかった」

 コールドリーディング、一貫性の原理、高ストレス環境下での思考鈍化、確証バイアス、返報性の原理……ぱっと思いつくだけでこれだけあるのだから、きっと“チェシャ猫”はまだまだ色々と私に仕掛けてきていたのだろう。

 常人よりはそういうことについての知識はあると自負していただけに、お父さんに助けられるまで気づけなかったのが恥ずかしい。

「普通だよ」お父さんがコーヒーに口をつける。「ある心理学者がこんな感じのことを言っていたよ、『サイコパス相手には全世界の知識をもってしても騙される』って。彼らは人間であれば自分の利益のために、”チェシャ猫”なら組織への勧誘のために、人を騙すことに特化している。人を信じることができる、優しい人間ほど騙されても仕方ない」

「でも……」

 お父さんが私の言葉を遮る。

「対抗策は一つだけ、別の人間の視点を入れる事だ。信頼できる人である必要はないし誰の言葉であっても盲信しちゃいけないけれど、聞くだけ聞いてみて自分の感覚と相反するものがあれば、それに基づいて一度は『他人の視点』から見るんだ。間違っても、騙されたからと言って人を信じることのできない孤独な存在になっちゃいけない。あんなクソ野郎のために君の優しさを捨てちゃいけないよ」

 お父さんに助けられなければ、私は“グリーングラス”をかけていただろうし、適用されなかったにしてもダメージを受けていただろう。

 他人の視点のおかげで、私は助かった。一人では何かしらの被害を受けていたのだから。

 “チェシャ猫”にはそれを教えられた。

 自分や誰か一人の言葉だけではなく、色々な他人の言葉を聞くことを。

「ところで、どうして私が“チェシャ猫”と出会っているって知ったの?」

「ん?」お父さんがコーヒーを一口飲む。「割と序盤からだよ。君の動きは逐一中核システムが伝えてきてくれたからね」

 思わず頭を抱える。

 そういえば、中核システムにこのことを秘密にしておいてほしいというのを忘れていた。いや、言っていたところでお父さんが『イントラネットで起こることは全て伝えてほしい』と命令していれば、私の言葉なんて聞いてくれないけれど。

「高脅威領域へアクセスするためのアンチマルウェアソフトを作った履歴があって、制限なしでインターネットへのアクセスを許可してほしいというリクエストがあったと知れば、リーベがPCWで情報収集しようとしているんだというのは予想できる」

「本当に序盤からなのね……」

「僕自身はあそこには潜り込めない立場の人間だし、リーベも人間で言えば大人だから止める気はなかったんだ。もし、『機械仕掛けの人間(ホモ・エクス・マキナ)』のことや後藤さんに起きたことの糸口をつかめるなら、良いことだと思ったしね。”チェシャ猫”が現役で活動しているのは予想外だったけど」

「で、“チェシャ猫”に捕まったと」

 お父さんが首を横に振った。

「むしろ大ヒントだよ。リーベが“チェシャ猫”と触れてくれたおかげで一つわかったことがある」

「……なに?」

「“チェシャ猫”を今も運用している存在というのは、アレの運用でずいぶんとうまくいった存在なんだろう。“チェシャ猫”は確かに優秀な詐欺師だけど、数うちゃ当たるっていう方法の方がこの手の勧誘には効率がいい。それでも昔ながらのやり方に固執する様というのはある意味で非合理的で人間的だ……というところで、『ホモ・エクス・マキナ』に何らかの関係があるんじゃないかと思ってね。自爆テロや極端な秘密主義というのも、ある意味人間的だからね」

「私たちが追っているテロ組織の?」

「そう。で、僕はあるリストを引っ張り出したわけだよ」

 ロボットから尊厳を取り戻す会。機械反抗戦線。ユーラシア人民解放軍。プラウド・ヒューマン。人間のための解放組織。そのほか多数。

 ホログラフィック・ディスプレイに並んだ文字列は、単語の端々からイマシニストだと感じる団体名だった。

「これは?」

「僕が“チェシャ猫 Ver.1.1”を売った相手だ。もちろん、≪人間同盟≫過激派に居た頃にね」お父さんがエンターキーを押すと、一つ残して名前が消えた。「ただ、99%の団体は維持できずに消えた。消えた団体については、今も活動停止か解散していることを昨日確認したよ」

 一つだけ残った名前。

「……本当にこれが?」

「可能性は高い。母体がでかいからね。あと、掲げていた主義と『ホモ・エクス・マキナ』というスローガンは合致する。アンドロイドの遺棄や治安組織への攻撃も、こいつらなら喜んでやるだろう。急進派からの移行組だからね」

 本当にこれだとするなら、お父さんの立場も私の存在も、全てが邪魔になる。その表面に触れる事すら、私たちには難しいかもしれない。

「≪人間同盟≫穏健派、グソー派……」

 相手は、世界最大規模のイマシニスト組織。

 お父さんが肩をすくめた。

「さて、次の一手はどうしようか」

 はい、どうも2Bペンシルです。

 本当に皆様、お待ちいただきありがとうございます。

 忙しいというのもあるのですが、去年はコンテスト用に13万字くらいのを一本書いていて、そちらに集中していたというのもあります。ちなみに、賞は取れなかったですが一次は通過できました。テーマの割には健闘したな……というのが感想だったり(応募点数も400越えと多かったしね)。この作品については、出版とかの話もないので来年頭くらいには自分で電子書籍化する予定です。

 今年は今年で持病再発とストレス過多で体調ずっと崩してましたしね……よく生き残ったものです。来年は少し治療と環境改善に力入れないと、書くものも書けなくなりそうですねえ……。

 そんな感じなので、第四章中編も二年後になりそうですがのんびりお待ちいただければと思います。

 では皆様。まずはここまで更新を待っていただき、ありがとうございました。これから第五章に向けてぐっと舵を切るので、少しでも早く書けるようにコンディションを整えていきます。

 そして最後まで読んでいただき、ありがとうございました。読者がいるからこその小説だと、最近身にしみて感じるようになりました。

 よいお年をお迎えください。


 最後にちょっとした小ネタを。

 途中に出てきたヘキサプリズムへキセンって化学に詳しい方が聞いたら、噴飯ものの構造しています(実際に合成できたとしたらかなり面白そうではあるのですが)。キュバンもびっくりな構造なので、もし有機構造化学専攻の方がいらしたら合成法を検討してみてはいかがでしょうか。


【参考文献・出典】

≪第二節≫

・金属-有機構造体 / Metal-Organic Frameworks_Chem-station

https://www.chem-station.com/chemglossary/2009/02/_ki_metalorganic_frameworks.html

≪第六節≫

・『たったひとつの冴えたやりかた』(ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア/浅倉久志訳)

≪第七節≫

・『アトキンス物理化学』(P. W. Atkins ・J. de Paula 著/中野元裕 ・上田貴洋 ・奥村光隆 ・北河康隆 訳)

≪第九節≫

・『オズの魔法使い』(L.F.Baum作/武田正代、山形浩生訳)-プロジェクト杉田玄白

≪第十節≫

・『診断名サイコパス』(ロバート・D・ヘア/小林宏明訳)

・『カモのネギには毒がある 加茂教授の人間経済学講座』(甲斐谷忍、夏原武)

≪全体≫

・Wikipedia

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8

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