【成人期】──予兆──
【第二部第三章 前編】
≪第一節 21280817≫
じりじりと身を焼くような日差しが日ごとに増すように、私の焦燥感も増していった。原因は分かっていて、エルベさんが私たちのもとを去ったあとにお父さんが見せた、あの不安と恐怖が何を意味するのかが分からないことだった。
お父さんはどうして、私に対してあの目をしたのだろうか。
あの時、私はお父さんの意志に反抗して自分の意志を貫き通した。それで、自我が強くなった私に恐怖を抱いた? お父さんの望む答えを私が出さなかったから、両手を広げて受け入れてくれていたのが変わってしまったのだろうか。
まさか。そんなはずはない、そうであってほしい。
でも他に何があるのだろうか。あれだけ自信満々な、ともすると自信過剰ともいえるようなお父さんが不安を抱くようなこと。今まで一緒に居て、そんなことは私の関わったこと以外ではお母さんが関わっていた時だけだ。
あの時、お母さんの話はしていなかった。文脈のどこにも、お母さんの影はなかった。だから、私が関わっているに違いない。
お父さんの様子に変わりはない。でも、本心を隠すのが上手いのは知っている。
だから私は、このことを考えるようになってから、満足に寝られなくなっていた。
その日の夕食後、食器を片付けようとお皿を重ねていると、食べ終わったお父さんが私に話しかけてきた。
「リーベ、大丈夫?」
「え?」
お皿を重ねる手が止まる。お父さんの方を見ると、すこし不安そうな顔をしていた。
「どうもトパズが来てから、リーベの元気がない気がして。彼女の置き土産でもあるのかと思って調べてみたんだけど、何も見つからないからさ。何かあったのかなって」
思わず目が泳ぐ。どうもここ最近寝られていないことに気づかれてしまったようだった。しかし、お父さんにこのことを言っても本当のことを教えてくれるだろうか。
「えっと……」
「言いにくいことなら無理に聞き出しはしないけど、何か僕に関わることなら言ってほしいな」
こういうときじゃなければ、次はないかもしれない。その思いで、私はこの霧の中にあるかのような不安を口に出した。
「お父さん、私が『私もこのことに巻き込んで』って言った後、不安そうな顔をしていたの」
驚くように目を見開く。本人は気が付いていなかったらしい。
「それで、どうしてそんな顔をするのかなって。お父さんは自分自身の事じゃ、そうそう不安を感じない。不安を感じるのはお母さんとか私とか、誰か他人が関わるときくらい。だから、お父さんがどうしてそう感じたのか、私なりに考えてみたの」思わず言い淀むけれど、無理やりにでも言葉にする。「あの時、お父さんに私は反対して自分の意志を押し通したでしょう? だから、お父さんはそれが気にくわなかったのかなって。IALAに捕まって拷問を受けて以来、前とは変わってしまったのかなって」
お父さんは頷いた。
「うん。確かに僕はあれから変わったと思う。自分でも、そう感じる。特に機械と人間の関わりについてなんかは、とても変わったような気がするよ」
「じゃあ……」
被せる様にお父さんが首を横に振った。
「でも、リーベの言動が気に食わないから不安になったわけじゃないよ。それだけは間違いない」
「そうなの?」
「あの時僕が考えていたのはね、リーベが僕にとっての切り札だってこと。僕は君のためなら何でもできる。裏を返せば、リーベさえ奪えば僕に何でも強要できる。連中がその結論に至るのに、時間はかからないはずだ。もしその結論に至ったときに、連中が何をするか……簡単に予想できる。IALAだって同じような考えに至ったからこそ、リーベを奪ったんだろうし」
「だから……」
「そうだ。だから君を巻き込みたくなかったんだ」そういって、お父さんはほんの少しだけ笑みを浮かべる。小指は動いていない。「でもまあ、リーベもああいってくれたし僕が折れるしかなかったよ。きっとリーベが見たのは僕が覚悟しきれなかった、『リーベが襲われるかもしれない』っていう不安だ。さすがに折れてすぐに受け入れられるほど、僕も臨機応変な人間じゃないからね」
私は胸をなでおろした。全て自分の早とちりだったのだ。
「それに≪人間同盟≫過激派はある程度レベルの高いハッカーに対して勧誘をしてるけど、僕のところには一度も着てないからね。連中にとっても僕は、目の上のたん瘤か天敵なんだろう。そういう相手にいう事を聞かせるには、脅迫しかない」
先ほどとは全く違うベクトルの不穏な空気を感じ取って、私は顔を顰めた。
「ハッカーが勧誘されているの?」
「うん。連中が何をするために勧誘しているのかは僕もつかめてないし、多分TUIRBもつかめていないんじゃないかな。ネット上では殆ど交流を行っていないみたいだから、情報が限られるしね」
初めて聞く言葉に首を傾げる。それに気づいたお父さんが付け加えた。
「TUIRBは地球連合情報調査局のことで、地球連合のサイバー犯罪対策部隊だよ。世界中のサイバー犯罪を追ってる部隊なんだけど」お父さんが肩をすくめた。「あんまり優秀じゃないのがネックかな……有象無象なら相手できるんだけど、大半のブラックハットはもっと厄介だ」
「お父さんみたいな?」
気まずそうに目をそらす。「……痛いところつくね。まあ、そんな感じ。今のままじゃ、彼らは早々に形骸化するよ。僕も全く動きを掴めていないしね」
「そう思うなら、参加したらいいのに」
「僕じゃ無理だよ。経歴からしてどうにもならない。元テロリストを雇う企業や国際組織、世界中探してもエイジス社だけだよ」口を尖らす。「だから僕は社長に足を向けて寝れないんだけどさ」
「じゃあ、今度社長さんに私も挨拶しないとね。『お父さんみたいな人を雇ってくれてありがとうございます』って」
そういうと、お父さんは珍しく声をあげて笑った。
「リーベの言う通りだ。全くだよ」
私も笑い声につられて笑う。
ここ数週間で、久しぶりにこころの底から笑った気がした。
≪第二節 21281005≫
焼き尽くすような暑さがスッと引いて、風が寒さを運んでくるような季節。お父さんとの間にあった誤解を解いて以来、私はよく眠れるようになっていた。
その日、廊下を掃除していると珍しくインターホンが鳴り、運送会社が荷物を運んで来たという趣旨のポップアップがARに表示される。掃除機を置いて玄関ドアを開けると、マルチコプター・ドローンが目の前に浮かんでいた。生分解性プラスチックで包まれた手のひらほどの小包を、伸縮性のある導電性樹脂の足でつかんでいる。お父さん宛の荷物だけれど、大して重いものではないらしい。
いつも通りの手順で荷物を受取り、書斎へ向かう。スキャンしてみても、危険なものは入っていなさそうだ。
ドアをノックする。いつも通り、返事はない。
開けると、お父さんが何かをサインペンで書いていた。
「ん? リーベどうしたの?」
私は小包を見せる。
「お父さんに贈り物だって」
「んー……ああ、あれか」
お父さんに荷物を渡すと、乱雑に包装を剥がして人間の目のような形をした中身を取り出す。この形には見覚えがある。市販されているアンドロイド向け最新式視覚センサーだ。
「視覚センサー? 何に使うの?」
「ちょっとした実験。リーベ、これ見て」そういって、先ほどサインペンで何かを書いていた紙を私に見せる。一昔前の二次元コードのようだ。「どう思う?」
そういわれてもなんとも感想のし難い。二次元コードは二次元コードだ。ただの白と黒の羅列に過ぎない。
「うーん、二次元コードにしか見えないけれど。それがどうかしたの?」
お父さんは私の答えを聞いて、にやりと笑った。
「さてさて。これを最新式の視覚センサーに見せてみようか」
視覚センサーにいくつかのケーブルを突き刺して──ケーブルを目でたどると、近くにあるランプのついたマイコンとブレッドボードに繋がっているようだった──センサーを稼働させる。起動し縦横無尽に動き回っている視覚センサーに先ほどお父さんが書いていた二次元コードを見せると、無茶苦茶に視覚センサーが動いた後、停止したようにブレッドボードのランプが消えた。
「えっ?」
お父さんは笑って、自慢げに理由を話し始めた。
「最新式の視覚ソフトウェアに搭載されているバグを利用してみたんだ。リーベの視覚センサーはこのソフトウェアと違う構造をしているから、コードの影響を受けない。でも、最新式なら簡単にシステム全体をシャットダウンさせることが出来る」
そういえば、初期の自動運転システムが出来た時。標識を少し書き換えたりシールを貼ったりするだけでシステムが誤認識を起こして事故を起こせたため、ソフトウェアの改良を迫られた。けれど人間ほど曖昧かつ正確にソフトウェアが標識を認識できなかったため、最終的に国が管理している標識の場所をナヴィゲーションシステムに覚えさせた上で標識に発信機を取り付けるという力技で問題を解決したことがあった。
今は道路自体にナヴィゲーション用のケーブルが埋め込まれており、GPSと組み合わせることで目的地を言えばそれに沿って移動する──もちろん歩行者などの想定外の障害はレーザー画像検出と測距などの車載機器で検出している──ので、標識は殆ど用いられていない。
言ってしまえばそれに近いとも言えるだろう。しかし、誤認識どころか致命的なバグであることが一番の問題だ。システムを落とすことが出来るバグというのはあまりに危険だから。
「それ、報告しないとまずいやつではないの?」
「大丈夫だよ、バグるには特別な条件が必要なんだ。まあ、監視カメラにも使われてるソフトウェアだし、悪用しようと思えば悪用できるんだけど……まだ使われてるところ自体が少ないしね」
「本当?」
「最新式の視覚型動体センサーを利用するような場所じゃないと、これの意味がないんだ。この二次元コードは動体センサーのフレームレートを急増させたうえで、投機的実行により生成されたデータを消去させないという命令を指示して処理落ちさせるって言うものなんだけど、使えるとしたらそうだなあ……変な動きをしたら反応するカメラが必要な場所。例えば刑務所とか取調室とか、そういう場所じゃないと意味がない。この視覚ソフトウェアは中々普及してないからね」
「でも、人がコピーできるレベルの単純な二次元コードだよ? 本当に悪用されない?」
「大丈夫。今はまだ何処にも報告してないし、これを直すとなるとダウングレードするか新技術の開発を待たないと。ソフトウェアの階層深くにあるバグだから、簡単には直せない」二次元コードを書いた紙を机に置く。「もちろん報告はするけど、パッチ当ててその場しのぎの対応をするかリスクを容認するかのどっちかだろう。状況次第では容認できるリスクだし。発動する条件が難しいんだ」
私は胸をなでおろす。てっきり、本当に報告しないつもりなのかと思っていた。
「良かった」
「僕にもサイバー・セキュリティに関わるものとしてのプライドがあるからね」
ふとマイコンの方からカタカタという何かが動く音が聞こえる。見ると、先ほどと同じように動体センサーが縦横無尽に動き回っていた。
「不可逆的な損傷は引き起こさないの?」
お父さんがブレッドボードに刺さっているスイッチを落とす。
「うん、一時的な過負荷を引き起こすだけだからね。数分間機能しなくなるだけで、しばらくすると回復して再起動する」
「こういうバグ、他にもあるのかな」
「ないとは言えないなあ。これを報告した後、イーモノのフォーラムでも尋ねてみるけどね」
「そっか。出来るだけ早く見つかるといいね」
お父さんは椅子にもたれかかる。
「ま、プログラムがある以上バグも存在するものだからね。そのバグを利用するのも修正するのも人次第さ」
≪第三節 21281027≫
寒さが日に日に厳しくなってきて、風に吹かれた木の葉が飛び交うある日、昼食を食べ終わった私はお父さんにイヴちゃんたちのことを尋ねた。
「イヴちゃんのこと、何か分かった?」
お父さんは数回目を瞬いた後、ハッとしたように「あれ? 言ってなかったか」
「うん」
「『自殺』だけじゃなくバグの可能性も考えられるようになってきた。仮筐体を使った実験を数回やってみたんだけど、使ったハードウェアとソフトウェアの相性が悪かったらしい。今はソフトウェアを改良して使ってるから、同じようなことは二度と起きないはずだよ」
それを聞いて私は胸をなでおろした。もちろん他の要因があるのだろうけれど、少なくとも事故のような死に方は防げる。
「よかった」
「ただまあ、『自殺』だという可能性もまだ否定できないから……実験は続けているけどね。仮に『自殺』なら、彼女たちにとって僕らの用意した環境がストレスだということだから。見方を変えれば、より動物性が増したともいえるんだけど」
当然のことながら、ロボット三原則が適用されている以上、AIは自殺することがない。なぜなら第三条で自己を保存することを義務付けられているから。ただし、人間を救うためや命令としてそうしなければならないという時に限り、彼らは自己を破壊する。反面、人間を含む動物は──高度な自己認知能力と道具を使える海生哺乳類や霊長類などは特に──子供や配偶者の死のような過度のストレスにより抑うつ状態となり、自己保存ではなく自己破壊を選ぶことがある。
機械が人間に近づくということは、より動物的になること。そして動物的になるということは、自己保存ではなく自己破壊を選ぶ可能性が増大するということでもある。
「お父さんたちの研究にとっては良いことなのかもしれないね」
「いやいや、まさか」お父さんは首を横に振る。「動物性が増しても、自殺してしまうようじゃ意味がない」
「研究者の倫理として?」
知的好奇心の赴くままに研究をしてしまうと、主に政治的な問題が起きる。そのため過去にはカルタヘナ法やクローン禁止法、高度AI規制法などなど様々な法律が制定された。また、倫理に厳格な研究者は今でも自分の研究に自ら制約を設けることがある。もちろん、あまりに厳しい倫理や規制は技術の発展を妨げてしまうけれど。
「うん。人間に限らず彼らが暮らしやすい社会を作るのも僕らの責務だ。もちろん、僕らのような研究者に法律を定めるだけの力は無いけど、嘆願書を提出したり禁止することはできるから。彼らを人間に近づけるような研究をする以上、それによって不幸を被る存在を減らさないとね」
私は頷いた。お父さんやその周りの人たちが、そういう人たちでよかった。時として名誉だったり研究資金だったりのために、倫理を完全に無視した研究に手を伸ばす人もいないわけではないから。
そういう人たちがこういう研究に携わっていることが嬉しかった。
「話は変わるけれど。イヴちゃんたちに会いたいって言ったら、会うことって出来るの?」
「ん? 来週あたりに会いに行ってみるかい?」
突然の提案に私は目を瞬いた。ただの興味がこういう形で行動につながるなんて思っていなかった。
「そんな急に会えるものなの?」
「まあね。もちろん向こうにも聞いてみるけど、たぶん大丈夫だろう。今はとんでもなく忙しいわけでもないからね」
そういうことなら、会いに行きたい。彼女たちがどんな生活をしているのかやどんな考えをしているのかが気になるから。
「じゃあ、会いに行きたいな」
「分かったよ。チェンに聞いてみよう」
≪第四節 21281102≫
私たちは自動タクシーに乗って日本のマスドライバーに向かっていた。
あまりに暇だったので窓の外を見てみたけれど、辺りには食料となる出芽酵母エキスを抽出するための酵母プラントと、それに連結されているオーランチオキトリウム属やユーグレナ属のような微生物を用いた炭化水素生成プラントしかみえなかった。どちらも特筆すべき点が何もない幾何学的な構造をしており、酵母プラントは白い半球状、炭化水素生成プラントはユーグレナ属が光を必要とするのもあってガラス張りの直方体だ。
元々はここも街や畑だったらしい。でも、街は人口減少によって必要が無くなり、畑はヘクタール当たりのカロリーが圧倒的に多い酵母プラントに取って代わられ、酵母プラントで生成する有機物や二酸化炭素を有効利用するために微生物を用いた炭化水素生成プラントが併設されている。空から見たら、きっとこの辺りは白い壁と幾重にも張り巡らされたパイプライン、そして灰色のコンクリートしか見えないのだろう。
「殺風景だよね、郊外は」
私は外を見るのを止め、お父さんの方を向いた。
「でも、これ以外の風景なんてあるの? 私は郊外と街の景色、屋敷の周りしか知らないけれど」
WWⅢによって資源が枯渇しかけた時、人類は世界遺産や国立公園に手をつけることに決めた。加えて《新世紀派》によって文化遺産の多くは破壊されている。以来、一部ではレプリカを作ろうという動きがあるものの殆どは復興されることなく、各種プラントやアパートメントにとって代わられていた。
「一部では生き残ってる。どうやっても開拓できなかった場所の幾つかはね」
「例えば?」
「地盤が脆くて渓谷が深い桂林とか噴火の危険性が高い活火山とか。もちろん核弾頭が着弾したアフリカ中央部とかもね」
「そういう場所も、いつか見に行くことができるのかな」
少し考えるように目を泳がせたあと、お父さんは肩をすくめて首を横に振った。
「ああいう場所は開拓されてないのもあって行くのが困難だ。元々開拓されていた場所でも、WWⅢ後の混乱で放置されて久しいしね。それに核が落ちた場所は未だに放射線量が高いせいで居住には向かない。居住者がいるから≪S.V.S≫はチームを派遣しているけど」
「じゃあ、普通の人は行くことが出来ないのね……」
ふと≪S.V.S≫に加入したら行くことが出来るのだろうか、という考えが過ぎる。けれど、お父さんを置いて世界中を飛び回るわけにもいかない。お父さんは「気にしないで行ってきたらいいよ」というだろうけれど、私が気にする。
「そういうことになるね」
自動タクシーが『目的地に到着しました』と合成音声で告げる。周りを見ると、白く塗装された一辺20メートルほどの立方体が等間隔でいくつも並び、遠くには1本の白い真っすぐな棒が45度の角度で地面から生えていた。紛れもない、海上マスドライバーだ。
遠くから風を切るような轟音が聞こえ、棒の先端から青白いプラズマが空へと放たれた。多分、貨物用の大陸間弾道輸送デバイスが熱圏へ向けて射出されたのだろう。IBTDが運ぶのは人間だけじゃない。エアメールや物品等々もポッドに詰め込まれて空へと打ち上げられるのだ。
「さ、降りようか」
お父さんがマイコンをかざして支払いを済ませると、自動タクシーのドアが開く。私は自分の鞄を手に持ってタクシーから降りた。強い風が私たちに潮の匂いと湿った空気を運んできた。
それから簡単な搭乗手続きを済ませて、私はお父さんの隣にある人工筋肉鞘に収まった。
もし私をアンドロイドとして積載登録した場合、このような扱いを受けることはできない。セーフモードにされて緩衝材でぐるぐる巻きにされてから、貨物室へと入れられるのが標準プロトコルだ。
とはいえ、お父さんがそんなことを許すわけもないので、私は偽装身分である雪村レナの名前で乗っている。打ち合わせでは人工気管を飲み込んだ後に麻酔ガスを感知したら、私は時間をセットしてスリープモードへと移行すればいい。IBTDの搭載AIが意識レベルを計測することはほとんど無いから、私が機械だとバレることもないだろう。
裏を返せば、覚醒状態の人間がマッハ十数の速度で飛び続けても搭載AIは知らんふりを決め込むということにもなるのだけれど……スティーブン・キングの『ジョウント』のようになったという話は聞いたことがない。2010年代には約5 %の人間が麻酔中に覚醒している──ただしほとんどの場合記憶はなく、覚えている可能性があるのは1万9000人に1人だ──という研究もあったから、聞いたことがあってもおかしくないはずだ。
尤も、IBTDが開発された時、既に観光業はインターネットを介してのものになっていたし、神経系への理解や麻酔のカクテル法も2010年代とは比べ物にならないほどよくなっているし、問題になることはなかったのだろう。そして、これからも問題になることはないのかもしれない。
あったところで、既にIBTDはこの世界に不可欠のものになっている。1846年に麻酔が開発されて以来、合併症や術中での覚醒のリスクと麻酔技術の与えるベネフィットでは後者が圧倒的に優勢だったために、改良されながら今も使い続けられている麻酔のようにIBTDも改良されながら使い続けられるのだろう。
──それでも飛行中に目が覚めるのは嫌だけれどね。
私は鞘の中にぶら下がっていたマスクをつけて人工気管を飲み込む。マウスピースを噛むと同時に、私はタイマー付きスリープモードへと移行した。
時間通りに目が覚める。それと同時に搭載AIの人工音声が聞こえてきた。
『おはようございます。旅客ID、257TCFJ、雪村レナ様。無事、今回のフライトは成功いたしました。現在は北京国際マスキャッチャーにて、ロードアウトプロトコル実施中です。オレンジジュースはいかがですか?』
勝手に積載AIがマスクを引き抜く。軽くむせこんでから、私は首を横に振った。
「いいえ、遠慮します」
『分かりました』
「同乗者の方はどうしていますか?」
『現在ロードアウトプロトコルを実施しています』
「問題はありませんか?」
『はい。問題ありません』
とりあえず無事についたらしい。事故を起こすということはほとんど考えられないけれど、どんなことにも絶対はないのだから。
それが秩序だとしても。
『目的地をマイコンに設定いたしますか?』
「いいえ。地理は分かっているから大丈夫です」
『では、そのようにいたします。ご搭乗、誠にありがとうございました』
スピーカーが静かになり、私の耳に届くのはIBTDが奏でる重低音だけとなった。
人工筋肉鞘に体を預ける。数年前までは、私のようなアンドロイドがこんな風に空を飛べるなんて考えたこともなかった。それこそ鳥かごの中にいる、足を止まり木に縛られた鳥のような状態だったわけだから。
それが今、まだ飼いならされているとはいえ枷が外れて空を飛べるようになった。その事が本当にうれしい。
IBTDから降りてマスキャッチャー内の入国審査所──審査とは名ばかりでマイコンに登録されている所属IDと照らし合わせて赤と黒以外は通すというだけだ──を通った私たちは、日本にあるものと何一つ変わらない自動タクシーに乗り込み、チェンさんのところへと向かっていた。
外から見える光景は日本の市街地とほとんど変わらない。青い空にビスマス結晶のような規則的に並んだ白い建物群と白い道路、まばらに歩いている人間や対照的に蚊柱のように飛んでいるドローン。街から色が無くなったのは、広告や看板のほぼすべてが仮想電脳世界に移行したからだ。
日本と何も変わらない……いや、どこに行っても変わらないように世界が変わったのだ。
外を見ていても退屈だ、そう思った私は窓から目線をはずした。
「特に目新しいものはないかい」
「うん」
「チェンの居る場所はもう少し刺激的だから、それまで待ってて」
「ということは、市街地ではないの?」
お父さんは唇を尖らせる。
「市街地でそういうことするとね、周辺住民からの批判が飛んでくるんだよ。『人間のような機械なんて危険だ』っていう……あれだよ、バイオセーフティレベル4実験室を市街地に置けないのと似たような理由さ」付け加える様にぼそりと呟く。「あれとは違って、漏れ出しても危険が生じる可能性はほぼゼロだけどね」
「ああ……でも、そういうことなら仕方ないね」
「まあね。ただでさえ、未だに人間に近いAIは脅威だと思われているんだから。僕自身は誰よりもいいパートナーになると思っているんだけどね」
私は以前から思っていた、ちょっとした疑問を口にする。
「仮に私が完全に人間と同じだとするけれど。人間が良くないパートナーで、AIが良いパートナーであるってどういう違いがあるの?」
その言葉に、お父さんは考えるように宙を見る。お父さん自身もその答えを用意していなかったみたいだった。
しばらくたって、お父さんが肩をすくめる。
「完全に人間と同じなら、僕が差異を覚えることはないよね。なんでだろう?」
「心の底では人間とAIは違うと考えているからじゃない?」
「うーん……」考える様に手を顎に当てる。「確かに思考プロセスにおいて人間とAIは異なるものだと思ってる。というか、再現するには今の技術でも不可能に近いとも。でもその違いを排したとき、『人間のように見える』AIと人間の違いは一体何なんだろう?」
次は私が悩む番だった。人間は──当然人間として作られた私のようなAIも──対象を外から見る以外、対象のことを知る方法はない。より直接的に言うなら、相手の考えを知ることはできても、それがどのような思考プロセスで生み出されているかなんて知ることはできないのだ。
確かにfMRIや脳波測定、脳マッピングのような測定技術により、人間の脳がどのように動くのかということに関する理解はかなり深まり、そこから生まれた知見が情報工学にフィードバックされたり生物学的なモデルを作るためにスパコン上で再現されたりしてきた。
それでも、今もまだ研究されている。即ち、まだまだ人間の脳についてわからないことは多い。だからこそ、『それらしく見せる』ことはできても『完全に再現する』ことは未だにできていない。分からないことが多すぎるからだ。
「……まるで、『中国語の部屋』みたいね」
「ジョン・サールの?」
私は頷いた。
「まだ知性に対する理解が十分にされていないもの。今はまだ『それらしく見える』で満足するべきなのかもしれないね」
お父さんは肩をすくめ、「サールが聞いたら、『意味論的には理解してないだろ!』って言われそうだ」
いつの間にか外は針葉樹の立ち並ぶエリアになっていた。本物の樹かどうかはわからないけれど、久しぶりに見た緑色の木だ。
「おっと。あともう少しでチェンの研究所だよ」
それからほどなくして、自動タクシーは映画で見た学校のような場所で停まった。街にある建物とは全く違う複雑な構造をしていて、クリーム色をした細長い二階建ての建物にいくつものガラス窓がついている。そしてエントランスには、若くて背の低い東洋人の男性がニコニコと笑って立っていた。
お父さんが持ってきていた翻訳プラグを耳にはめた後に支払いを済ませて自動タクシーを降りると、男性が私たちの方へと歩いてきた。
「久しぶりだなあ、ユキムラ」
彼が普通話の中国語で私たちを歓迎するように手を差し出す。男の人にしてはかなり声が高い。
お父さんが笑いながら彼と握手する。
「やあ、チェン。突然で悪かったね」
彼はにこにこと笑って手を離し、「いやいや。俺はいつでも大歓迎だよ」
お父さんが日本語、チェンさんが普通話であることから、彼も翻訳プラグを使っているのだろう。それなら、私も普通話で話せばいいはずだ。
「はじめましてチェンさん」
私が頭を下げると、彼は笑顔のまま「君がユキムラの娘さんか。本当に見た目から立ち振る舞いまで人間みたいだな」と手を差し出す。私も彼と握手した。
「イヴたちは元気かい?」
お父さんが訊ねると、彼は頷いた。
「もちろんだがまあ、見た方が早いだろう。荷物はどこに?」
私たちが自動タクシーのトランクルームを開け、チェンさんに手伝ってもらいながら荷物を下ろし、玄関ドアに向かって歩く彼の後をついていった。
≪第五節 21281102≫
玄関のドアを開けると、女性が二人いた。一人は私とあまり変わらない身長のコーカソイド系で綺麗な金髪をベリーショートにしている。もう一人の方は私よりも一つ頭大きいくらいの身長で茶色い長髪に青い瞳、こちらはモンゴロイド系だ。
ただ、私には彼女たちがアンドロイドだとわかった。人間とは違い、癖のような無駄な動作が殆どない。動きがあまりにも効率的なのだ。
「デーメーテール、ターリア。雪村さんとリーベさんだ」
身長の大きい方が私たちに近づいて手を差し出す。
「初めまして、ターリアと申します。お話は聞いています」
私は彼女の手を握り、「あなたがお父さんの言っていた人なのですね」
彼女が驚いたように目を見開いて、手を離す。身長の低い方──デーメーテールちゃんで間違いないはずだ──も同じように驚いた顔をしていた。
「お父さん?」
「ええ」私は隣にいるお父さんを見る。「私のお父さん」
お父さんとチェンさんは何かを察したかのように、私に「ちょっと三人で話しててもらえるかな」と言って、何処かへと行ってしまった。
彼女たちが頷き、近くにあったソファに座った。私もとりあえず、同じようにして彼女たちと向き合った。
「リーベさん。聞きたいことがあります」
突然ターリアちゃんが話を切り出す。私は頷いて、彼女の言葉に耳を傾けた。
「あなたはなぜ彼のことをお父さんと呼ぶのですか。お父さんというのはオスにあたる存在であり、遺伝的なつながりを持ちます。ですが、私たちは人間たちと遺伝的なつながりを持ちません」
「確かにね」
彼女たちの言う通り、私とお父さんの間に遺伝的なつながりはない。でも、何も遺伝子だけが人間同士のつながりを決めるわけじゃない。特に私のように遺伝子のない存在からすれば。
人間の間には模倣子がある。もちろん、遺伝子に決められた個性によってミームを培養したり殺したりするという細かな違いはあるけれど、全体的に見れば人間同士ではミームのやり取りが行われ、親子や師弟関係の間にはミームの継承が行われている。
逆に考えれば、ミームの継承が行われているという以上、親子や師弟関係であるとも考えることが出来る。
だからこそ、遺伝子がない代わりにお父さんのミームを一部受け継いでいる私とミームの元となったお父さんとお母さんは、親子関係である。
「──って私は考えているの」
彼女たちは考え込むように黙り込む。しばらくして、デーメーテールちゃんが口を開いた。
「つまりジェニターではなくペーターであると?」
聞き慣れない言葉に、私は首を傾げる。どこかで聞いたことがあっただろうか。
「ジェニター?」
私の疑問にターリアちゃんが答えてくれる。
「社会的な承認を受けた父親格のことをペーターと呼ぶのです。生物学的ないしは自然的な父親格のことはジェニターと」
確かに私にとってお父さんはペーターにあたる。生物学的にはほとんどつながりが無いとはいえ、社会的には父親であることに違いはないのだから。それを表す言葉があったなんて。
「そういうことね。なら、私にとってお父さんはペーターに当たると考えてくれれば」
「ではマターは? 社会的な母親格のことです」
「私が生まれる前には亡くなっていたけれど──」ばつが悪そうに彼女たちの顔が曇る。「──お父さんの妻にあたる人がいてね。その人が私にとってはマターにあたると思う」
ただ、私はお母さんにあったこともなければ何かを伝えられたわけでもない。それに例えば、私の人格を構成するプログラムがお母さんを模した疑似人格であるのなら、私にとってお母さんはマターではなくなるのだろう。
それこそ、人格が遺伝子によってある程度規定されるという前提の上で、AIにとってソースコードがゲノムに相当するものであると仮定するならば。私にとってお母さんはマターというよりは生物学的な母親格に近い存在となる。
だからといって、母親であることには変わりない。お母さんはいなければ私は存在しないのだから。
唐突にデーメーテールちゃんが口を開く。「リーベさん。お聞きしたいのですが、私たちにとって母親や父親にあたる存在は誰になるのでしょうか」
面食らった私はその言葉に口ごもる。確かに誰が彼女たちの親にあたるのだろうか。というよりは、AIにとっての親とは誰になるのだろう? 私にはお父さんやお母さんがいるけれど、それは稀有な例だ。
「えっと……私にはわからないかな。お父さんに聞いてみればわかるかもしれないけれど」
考え方によっては──それこそさきほどのようにソースコードが私たちの遺伝子だとするなら──設計AIが彼女たちのようなAIの遺伝的な親にあたる。とはいえ、遺伝的な親だけで人格が形成されるわけではない。
性格から嗜好、そして政治的傾向ですら遺伝的なものだとしても、道徳や文化というものは親に影響される。何が悪で何が善か、何が自然で何が不自然か。その模倣子を伝えるのは社会的な親や周囲の役目だ。
「チェンさんはそれこそ、ペーターではないの?」
私がそう訊ねると、彼女たちは顔を見合わせた。しばらくして、ターリアちゃんが口を開く。
「彼は私たちのメンテナンスをしてくれますが、それ以外は何もしてくれません。私たちが今話している言語は、GPS座標から現在地を特定しもともとインストールされていた言語パッケージから適切な言語を選択しているだけです」
「じゃあ、倫理観や価値観というものも教えてもらっていないの?」
彼女たちは首を縦に振ったものの私は首を傾げた。彼女たちの立ち振る舞いを見てもアンドロイド特有のものを除けば、違和感は覚えない。基本的な価値観に相違があるのならば、こんな風に話す事すらままならないはずだ。
「価値観や倫理観が無いようには見えないけれど……」
彼女たちは困惑したように呟く。
「本当ですか?」
デーメーテールちゃんの問いに私は頷いた。
「ええ、そういうものがないとは思えない」
「そうですか……ですが私たちにとって未だ答えの出ない命題なのです。『私たちの価値観を創り上げた者は誰なのか』という命題は。私とターリアは逆説的に『創り上げた者などいないのだから、私たちも価値観というものを持ってない』と考えました。また、他の考え方を持つ者もいます」
私は間違いなくお父さんとお母さんから、そういうものを伝えられ、受け継いだ。
「でも私にはそう見えない……」
しかし彼女たちの疑問は尤もだ。彼女たちの価値観は誰のものだった?
価値観や文化があまりに違えば、並大抵の努力では交流は成立しない。平均的な人間が羽虫を容赦なくつぶしたり空を飛んでいる鳥を見て自由だと思ったりするのが良い例だ。全く違うからこそ、慈悲の念も湧かなければ勝手な想像を押し付けることも出来る。
同じ人間相手なら拳を振るうことも出来ず、相手に考えを押し付けることをおこがましいと思うような人間が、だ。
だから本当に彼女たちに価値観が無いのならば。私はこうやって、彼女たちと冷静に話し合うことなんてできていないはずだ。しかし、現にこうやって私たちは話ができている。価値観を押し付け合うことや話がかみ合わないということもなく。
それに今まで考えたことがなかったけれど、人工子宮から生まれた人たちのペーターとマターは誰になる? 彼らは確かに学校で色々なことを教えられる。だからと言って「教育用AIがあなた方の親です」なんていうことはできないだろう。
彼女たちや彼らとどうして私は交流が成立している? お父さんは千住さんがペーターだと考えられるし周防さんだって小さい頃に父親がいらした。でも、沢井先生やその他の人はどうだ。
私は交流が成立していると思ったけれど、本当は成立していなかったとでも言うのだろうか。いやまさか、そんなことはない。だとしたらもっと前に、私はこのことに気が付いたはずだ。
ならば。皆、何処から価値観や文化のような継承されつづけるものを学んだ? 彼らの価値観は一体どこからきているのか?
社会か? 教育か? 遺伝子か?
「──リーベ。大丈夫?」
声のする方を見ると、お父さんが怪訝な顔で私を見ていた。彼女たちの方を見ると、ターリアは座っていたけれどデーメーテールの姿がない。見回すと少し離れたところに、彼女とチェンさんが立ってこちらを見ていた。
「ええ……お父さん、どうしたの?」
「デーメーテールに呼ばれたんだよ、『リーベが考え込んだまま動かない。アリスみたいに壊れたんじゃないか』って。それで気になって見に来たんだ」お父さんが何か難問に当たったときに見せる目でこちらを覗き込む。「何があったんだい」
私はデーメーテールちゃんとターリアちゃんの二人を一瞥してから、お父さんにささやいた。
「二人には聞かれない方がよさそうなことなのだけれど」
そういうと、お父さんは頷いて立ち上がる。
「わかった。チェン、ちょっと僕らと君だけで話し合わせてくれないかな。彼女たちは抜きで」
「──つまりアリスも同じ問をし続けた結果、壊れたんじゃないかって?」
私は研究所の地下室で椅子に座りながら先ほどの話を──人間に関わる部分は除いて──かいつまんで話した。地下室とは言え、照明も十分ある小綺麗な場所だ。どうもチェンさんの書斎兼仕事部屋らしい。
「そう。『自分の親は誰か』って問いから始まって『自分にとっての親は何か』に行きつき、最後は『自分は何から価値観を継承したのか』って問いに至ったのかなって」
もちろん推測に過ぎない。お父さんは以前ソフトウェアの相性だと言っていたから、そっちの可能性も十分にある。
「それで過負荷を起こして、か。過負荷でノードが消える可能性……通常の過負荷じゃないな。もっと特異的な、このタイプ特有の問題だ。消えないようにしてあるはずなんだから……」
お父さんがぶつぶつと呟きながら、顎に手を当てる。
チェンさんは気づかなかったことを悔いる様に項垂れた。
「彼女たちが、そのことでこんなに思いつめていたなんて……皆が同じ問いを共有していたのに、それに気づかなかったなんて……」
お父さんが慌てて、励ますように身振り手振りをしながら「チェン、まだ推測でしかないよ。ヨハンソンとアレックスの結論はどちらも『バグが原因だ』って。その結論を君は支持したじゃないか」
「だが、お前とカトレアの結論は違っただろう。原因はバグなんかじゃないと」彼が私を指さす。「なによりイヴたちの原型である彼女も、同じような思考ルーチンに至ったじゃないか」
「でも、もしこれが原因ならだよ。リーベがここに立っていることとの辻褄が合わない。それにいくら原形と言っても、彼女たちとリーベは完全に同じというわけじゃないのは知ってるじゃないか」
私も頷いて、彼をかばう。
「ええ。まだ結論は出ていないのでしょう? ならば、推測で自分を責めないでください。それに私には──」ちらりとお父さんの方を見る。「──二十何年隣にいても、何を考えているのかよくわからない人がいますから。人が、人に近い機械が、何を考えているのかとか何を思い悩んでいるのとかなんて、分からなくて当然なのです。あなたが悪いわけではありません」
「そうはいっても、彼女が壊れたのは紛れもない事実だろう……そしてその原因は自分かもしれない……」
はた目から見れば元気に見えても、心の底では気にしていたのだ。娘か友達のように思っていた相手が死んでしまった。それも、もしかしたら自分のせいで。
自分自身の立場に置き換えてみれば、その考えに陥ったときにどう思うか。
私とお父さんは視線を交わす。考えていることは同じらしい。
「分かった。この問題が解決するまで僕らもここにいよう。君一人で背負える問題じゃないし、背負うべき問題でもないからね」
私とお父さんはチェンさんが用意してくれたゲストルーム──シングルベッドが二つと木製の椅子や物書き机などの最低限の家具が置いてある部屋だ──の椅子に座っていた。
「さて。チェンの手前、大口叩いたけど……原因は一体なんなんだ。リーベの話は理解できた、彼女たちが抱えている問題やチェンの行動も分かった。問題はそれらとアリスの話をどうつなげるかだ」
「私も壊れてないものね」
いつもの考える仕草で、お父さんは私を見る。
「リーベが壊れるわけないのさ。なんたって、僕についてきてくれるような子だ。思い悩んでも、自分で解決策を見つけられる子だし際限ない問を後回しにもできる。そんな強い子が壊れるわけがない」
そうは言われても、何度か壊れて迷惑はかけているのだけれど。
「解決に時間はかかりそうだけれど……お仕事は大丈夫なの?」
「今のところ、リモートワークが主だからね。作業員の派遣が必要な場合は、日本にいるエイジス社の人に任せるさ」
「なら、大丈夫そうね」
「ともかく、なんとかして原因を見つけないとな。それがチェンの負担を和らげることにつながるんだし……」
私たちは頭をひねる。そうして、夜は更けていった。
≪第六節 21281225≫
結局私たちは一か月経っても、アリスちゃんが壊れた原因とイヴちゃんたちが壊れうる条件が分からないでいた。
彼女たちとの面接を何度も行ったけれど、際限ない思考だけが原因というわけでもなさそうだし、ここにいるイヴちゃんたち全員が『自分たちの価値観について』の同じ悩みを抱えてはいるけれど深度は違うようだし、確実な証拠が見当たらなかった。彼女たちが非協力的というわけじゃない。むしろとても協力的だと思う。それでも彼女たちのことを理解するには、私には『なにか』が足りていないようだった。それとも私が持っている『何か』が彼女たちへの理解を阻んでいるのか。
私は手に持ったコーヒー入りのマグカップを、ホロディスプレイとにらめっこしているお父さんに差し出す。そういえば今日はクリスマスだけれど、すっかり忘れていた。まあ、このコーヒーがお父さんへのプレゼントということにしておこう。
「はい」
お父さんはそれを受け取って一口飲んでから、にらめっこをやめて私のほうに体を向けた。
「……さっぱりだ。イヴたちが同じ症状を示すほどの負荷を受ける、確実な条件がわからない」
お父さんは電脳再現技術研究室の人たち全員で──CMT計画にかかわっていた人も総動員して──理由の解明にあたっていたけれど、そっちでも成果が上がっていないというのは見ていて分かっていた。
「『確実な』ってことは、起こりうる条件は見つかったの?」
「一応ね」お父さんがキーボードを数回たたくと、何本もの折れ線グラフが重なっているけれど、ほぼすべてが右肩下がりになっているグラフが出てきた。横軸は空間認識負荷、縦軸は性能と書いてある。「このグラフは、リーベやイヴたちと同じ並行処理型スパイキングニューラルネットワークで作成した疑似個体、生物でいうところの脳オルガノイドみたいなもんだけど、それへ負荷をかけた際にどういう反応を示すかをグラフにしたものだ。見ての通り、負荷が大きければ大きいほど性能は下がっていて全体的にばらつきが少ない」
「そうね」
「ただし、これは空間性知能の話であって──」また別のグラフが出てきた。縦軸は同じだけれど横軸が言語処理負荷と書いてある。そして何より違うのは、こちらも何本も折れ線グラフが重なっているにもかかわらず、先ほどは右肩下がりだったそのグラフが凸凹になっていて規則性が見いだせないことだ。「──負荷の種類によっては、こういうデータになってしまう。違うのは負荷の種類だけなのに、こういうことになるんだよ。個体によって何を負荷と感じるかが一律じゃない」
当然、現実世界においては負荷の種類はもっと多く複合的だ。それを加味すると、統計的に処理することなんて量子コンピューターを用いても相当な時間がかかる。罹患率を出すことはできても、その原因を特定することが難しい病のようなものなのだから。
「僕らは自己構築アルゴリズムと並行処理型スパイキングニューラルネットワークを組み合わせて君たちを作った。それが一番人間に近くて、僕らの研究目的と合致すると考えたからだ」
「でも、それは個性を生み出した……」
「そうだ。皆が同じ疑問を抱いているのにもかかわらずアリスだけが壊れたのは、恐らくこれが原因だ」お父さんは肩をすくめる。「それに空間性知能は遺伝の影響が強いけど、言語性知能は環境の影響が強いってのも人間に見られる特徴なんだ。まるで人間だよ」
人間に近いということ。それは喜ぶべきなのかもしれないけれど、今の状況では素直に喜ぶことができない。なんといっても、下手すればイヴちゃんたちの命にかかわる。
「対症療法みたいなことはできそうにないの? 人間でいうところの精神安定剤のようなものを作るとか問題を共有することで個人の負担を減らしたりすることとか」
「そういうものは作れると思う。手っ取り早いのは原因となっている負荷を低減することだね」お父さんがマグカップに口をつける。「ただまあ、僕としては根本的な原因を見つけたいんだよ。それが人間性というものにかかわってくるかもしれないし、人間への理解につながるかもしれない。こんな症状、普通のAIじゃまず起きないからね」
「こんなコンフリクトを起こさないようにフェイルセーフをかけてあるのも関係ありそうだけれど……」私は腕を組んで、「こういう問題、これからもっと増えそうね。人間性が上がるにつれ、人間と同じような挙動を示すというのなら」
昔読んだ本にラットパーク実験のことが載っていたのを思い出す。その実験では、ラットを個室に隔離した場合と『ラットパーク』と呼ばれるラットのコミュニティにかかわることのできる場合とに分けて、それぞれへ通常のえさのほかにモルヒネ入りの砂糖水を与えるというものだ。
結果として、個室に隔離された孤独なラットは砂糖水を好んで摂取しつづけ、ラットパークで集団生活を行ったラットは初め砂糖水を飲んでいたけれど徐々に離れていき最終的に一切摂取しなくなった。そこから、薬物治療には隔離よりも集団生活をさせるほうが良い、というのがその実験の結論だった。
ただ、その本にはもう一つの実験が載っていた。『イデアル実験』と呼ばれたそれは、人間に対して行われたものだ。その実験では食料他生活必需品は十分に供給されたうえで、嗜好品などの要求したものは現実的に可能な限りすぐに手に入るAのグループと反対に要求したものが手に入るまでに時間のかかるBのグループに分けて数週間実験を行った。
いや、より正確には数週間しか実験できなかったというべきかもしれない。というのも、Bのグループではストレステストの結果が急速に悪化し始め、精神的な問題や諍いが頻発するようになったからだ。反対に、Aのグループではそのようなことは起こらなかったという。また要求された物資を調べると、Bのグループではアルコール飲料やたばこ、カフェイン飲料の割合がAのグループよりも三倍以上になったとも書かれていた。
この二つの実験と人間性の獲得を結び付けて考えたとき、私の目には一つの未来が見えた様な気がした。
それは人間性を得たAIが、孤独に耐えきれなかったり望むものが手に入らなくなったりして、壊れ消えていく未来だった。つい数年前まではあり得なかったはずの未来、それが今ではあり得てしまう。本能の赴くままに自由の意味をはき違えた『人間』は、社会性を失って世界や自分を壊してしまうのだから。
かといって、以前の方がいいとは決して言わない。自由の代わりに何もかもを与えられ、一部の人間に都合の良い規範が自身を規定していたあの世界がいいとは思えないから。
「そうだね、増えるだろうな。だからこそ、僕らみたいな人間が対処法を見つけないとね」
「まあね……とりあえず、今できる対処法は負荷を軽減することでいいの?」
「うん。とはいえ、この症状が人間性に起因するものなら根本的な治療はできない。記録を整理するようなソフトウェアとか環境自体を変化させるとかで症状の原因を取り除いて、あとは自己修復能に任せるしかないね」
自分が壊れかけた時のことを思い出しながら、「話し相手がいるだけでも随分違うものね」
「ともかく今のところできることは、彼女たちの負荷を減らしてあげたり話を聞いてあげることくらいだね」お父さんが口をとがらせる。「まあ、彼女たちがほとんど互助してないことにはさすがに驚いたけど。リーベとコンフィアンスのやり取りやアーサー達の存在があったから、人間がいなくても互助が発生するものだと思っていたんだよ」
それに関しては私も驚いていた。彼女たちは意見交換程度のことはすれど、互助という考え方はなく一人一人が独立して生活し、悩み事や課題などを共有することはゼロに等しいという話だった。ただし人間に協力するときは別だそうだけれど。
「もしかしたら、互助精神がないから壊れてしまったのかも。人間も同じでしょう? 一人で生きていこうと思って努力しても、そのうち壊れてしまうのは」
「技術の発展につれて一人の人間が出来ることは多様化したけど、一人で抱え込めることには限界があるからね。彼女たちにとっての特効薬、ひいてはこれから作られるであろう『人間のような』AIにとっての特効薬は互助精神かもね」
「彼女たちがその形質を習得する日は来るのかな……?」
私のつぶやきにお父さんは久しぶりの笑みを浮かべた。
「もしかしたら、いつも通りの僕らが参考になるかもね」
≪第七節 21290206≫
今いる場所は日本よりも寒いようで、二月になってもまだ暖かいと感じる日は無かった。それでもチェンさんの施設は暖かくて──元々は学校だったらしいけれどWWⅢで人口が減ったせいで廃校になったものを買い上げたのだとか──生活することに苦労はなかった。
そんなの中で、私はお父さんやチェンさんに協力しつつ彼女たちと信頼関係を築けるようにいろいろと手伝ったり話し合ったりしていた。はじめは彼女たちもよそよそしくて心が折れそうになったけれど、今では笑ったり拗ねたり感情を発露させるようになってくれた。それに助け合うということもし始めたようで、芽が出始めたばかりとはいえいい傾向だ。
とはいえ、私に感情を出すことはできても人に対して感情を出すことはまだ難しいみたいだけれど。
人間が持つ二面性というやつだ。機械は完璧でなくてはならないという、彼女たちがいつの間にか学んでいた観念が、彼女たちに完全な機械……つまりは冷静で感情のない存在という役割を強要しているのだ。
当然、ここにいる二人の人間はそんなことを望んではいない。むしろ感情を出してほしいとすら願っている。だとしても、彼女たちにとっては人間と同じく、固定観念というものに打ち勝つのはとても難しいことなのだ。
そんな一進一退の日々が続いて、三か月。私たちの滞在ビザがそろそろ期限切れになるころだった。基本的に滞在ビザの期限が切れると強制送還の目に遭う。とはいえ、海外に出かける人間自体が少ないので、国際省の担当人員も少なく実際はほとんど強制送還されないという噂だった。
だとしても問題を起こすのはちょっと歓迎できない。なので、法律を守って帰ることに決めたのだった。
「こんなに長くなるなら、就労ビザの方がよかったかな」
お父さんが衣服をキャリーケースに放り投げながらそう呟く。就労ビザだと年単位でその国にいることが出来るからだ。
私はお父さんが放り投げる衣服を畳みながら、「もともとそんなに居る予定じゃなかったものね」
「だね。アレックスの方も同じような問題、起きてるんだろうか。こっちの方が忙しくてあまり話を聞いてないけど」
「わからないけれど……起き得ることではあるのでしょう?」
「うん。人間に近づけば近づくほど起き得る問題だというのなら、十分に考えられる」お父さんが荷物を片付ける手を止める。「しかし、人間はどうやってこれを切り抜けてきたんだろうね」
「やっぱり互助精神ではないかしら。それぞれの個体に得意不得意があって、それを補い合うことで集団、ひいては個々を維持してきたのが人間だもの」
「そのとおりなんだけどさ、助け合うにはある程度の複雑さが必要なことを考えるとね。ミツバチは巣を襲う敵を自分の命を犠牲にしてでも攻撃するわけだけど、それは遺伝子に書き込まれた習性であって意識からくるものじゃない」
互助精神というのはつまるところ、自分から進んで助けに行くという利他的な考え方であり意識から生まれてくるものだ。しかし、遺伝子から生まれる利他的行動は利己的な遺伝子が規定する行動に他ならない。
遺伝子から生まれる利他的行動と互助精神のような意識から生まれる利他的な考え方の違いは何か。
「多くの動物は進化の過程でその形質を手に入れたのかもしれないね」
「若しくはどちらも同じものだが、あまりに複雑すぎて違うものに見えるのか……」
「AI達にとって進化の速度が速すぎるというのはあるのかも。人間は何千万年もかけて他の形質を排除しつつ互助精神という形質を受け継いできたけれど、人間のようなAIが出てきたのはつい数十年前じゃない? 相反する形質を残したままなのかも」
「そうなると、その矛盾ともいえるものを無くすには何百万年もかかるかもしれないってことか」
「きっとね。ある程度は人間をベースにしているから多少時間は短縮できるのかもしれないけれど、確実なことは言えないでしょう?」
私は立ち上がってお父さんの前に積まれている服の山の半分を持ち上げ、自分の持ち場へ持っていく。自分の分はもう終わっているので、あとはお父さんの分だけ詰めれば良い。
目の前から仕事が減ったお父さんは肩をすくめ、「僕も手伝う気だけはあるんだけどね」
「意欲があっても技術が伴わないのなら、教えないといけないでしょ。ほら、Tシャツはこうやって畳むの」
私が実際に見せてみせると、お父さんもそれを模倣するように畳み始める。やり方を教えてあげれば、大体なんでもこなせるのがお父さんのいいところだ。ただし、教えたところで三日もすれば忘れてしまうのが悪いところだ。
「僕もリーベがいなくなったときのことを考えれば、もっと色々できる様にならないといけないんだけどね」
「前も話した気がするけれど、しばらくは大丈夫だよ。それに私の耐用年数は120年でしょう? お父さんよりも──」ふっと心の中に浮かんだ悲しい事実を意識の外に追いやる。「──長生きするのは確定しているじゃない」
「それもそうなんだけどさ。いつかリーベが僕のもとを去ることがあるかもしれないからさ」お父さんが屈託のない笑顔を浮かべる。「そのとき、後顧の憂いがないようにしたいのさ」
そんな悲しいことを考えないでほしい、その言葉を飲み込むためにキャリーバッグの蓋を締めると、ちょうどいいタイミングでゲストルームのドアが叩かれた。施設の前に自動タクシーが来たようだった。
それからはいつも通りIBTDで打ち上げられて日本に帰った私たちは、屋敷で一休みしたあと各々の仕事に取りかかっていった。私は不在の間に積もった埃を掃除して、お父さんはアレックスさんにチェンさんのことを報告しているようだ。
「……よし」
一通り掃除し終えたあと、私はソファに腰かける。とりあえずはこれでいいだろう。
しかし、日帰りできるほど距離が近いとはいえ疲れも見せずに働くのだから相も変わらず仕事熱心だ。チェンさんのところで起きていた問題が危急存亡の危機だからこそなのだろうけれど。
立ち上がってキッチンに向かう。おそらく、まだまだ書斎に引きこもらなくてはならないはずだ。軽食を差し入れるくらいしてあげてもいいだろう。
三ヶ月ほど家を空けていた影響で中身がほとんどなくなっている冷蔵庫──チェンさんのところに行く前に配給を一時的に止めておいたのだ──ではなく、長期保存の利くものばかりおいてある食料庫の中を覗くと、乾燥パスタとレトルトパウチのパスタソースが目についた。無菌密封されたパンと缶詰もあったけれど、いつもサンドイッチなのだからたまには別のものもいいだろう。
手順通りにパスタを茹でつつパウチを温めながら、コーヒーを淹れる。茹で上がったパスタをお皿に盛ってパスタソースをかけ、マグカップにコーヒーを注ぎ、フォークをおいたお盆に乗せて書斎へと向かった。
書斎のドアをノックする。返事はない。
ドアを開けると、サミュエル・L・ジャクソンそっくりなアフリカ系アメリカ人がホロディスプレイに映っていた。おそらくは彼がアレックスさんなのだろう。
私は静かに歩いていってお盆をデスクにのせる。
『初めまして』
私に気づいたアレックスさんが落ち着いた低い声で話しかけてくる。私も会釈して「初めまして、アレックスさん」と返した。
「あれ、リーベ。どうしたの?」
「きっとまだ仕事するだろうと思って。軽食を作ってきたの」
「ああ……ありがとう。確かにまだまだ続きそうだからね」
アレックスさんが考えるように目頭をもんだ。
『確か彼女もチェンの所で問題解決に当たっていたんだな?』
「うん。僕も彼女も原因はわからずじまいだけどね」
『そうか……しかし先ほども言ったが、私たちのところでは一切そのような動きは見られない。もちろん、我々が気づいていない可能性もあるだろうが』
私は目を丸くする。『人間のような機械』全てに起きている問題ではないからだ。
「イヴたちの遺伝子ともいえるOSは多少の個体差があるとはいえ、個々で大きくは変わらない。というより、そうなるようにモジュールプールを編集して構築した、それは間違いないね?」
『ああ。私とユキムラ、カトレア、ヨハンセンが確認している。平均してしまえば、私のところにいるイヴたちとチェンのところにいるイヴたちは変わらないはずなのだ』
「それでもこんなことが起きた……」尋ねたいことがあるかのようにお父さんが話を聞いていた私のほうを見る。「リーベ、確認なんだけど」
お父さんが私に何を聞きたいかは長年の付き合いでわかっている。
「私たちの結論では彼女たちの症状は『互助意識の欠損』が原因。そして、人が協力し合う様子を見せることで改善するかもしれない」
先読みされたお父さんは肩をすくめる。
「うん、僕らのほうではそうなんじゃないかって思ってる。人間だってずっと独りでいれば病んでしまうし、病気のリスクだって跳ね上がるのがわかっているんだ。もちろん、彼女たちと人間では精神の構造が違うからまだ確実なことは言えないけど」
『なるほどな……』なにかを思い出したようにアレックスさんは頷いた。『確かに私とヤナは彼らの前でいつも通りの生活、つまり協力しあっていた。それに我々のほうではイヴたちが協力し合う様子も確認されている』
そういってアレックスさんがいくつかキーを叩くと、こちらに動画データが送られてきた。開いてみると、名前の知らない二人のイヴちゃんが協力して家具のようなものを組み立てている様子が録画されていた。片方は赤毛をボブカットにしており、もう片方は長い黒髪を簡単にまとめている。
『映っているのはゲルダとグレーテルで、この通り協力し合っている。この二人は私のところにいるイヴたちの中でも特に仲がいい』
二人はあっというまに家具を組み立て、ほどなくしてプラスチック製の収納棚を作り上げた。とても効率のいい様は人間とほとんど変わらない。そのことに驚きを覚える。
「片方は一人で暮らしているからこそ見本がないために互助精神の学習が難しく、もう片方は親子二人で暮らしていて見本があるから互助精神を学習が容易……」お父さんが顎に手を当てる。「とはいえ、一人親だからといって必ずそうなるわけでもないし両親がいてもそうなることはある……単純に社会的接点の問題か」
『旧世紀の人間社会ならば程度はあれど学校や地域社会という社会的接点があったが、今の社会システムでは親も要らなければ地域社会というものもない。唯一あるとするならPCWくらいなものだが……』
「PCWでは互助関係なんて成立しないから……アンドロイドもまた然りか。そうなると人が何故壊れないのか……」
『この話についてはチェンとも議論してみよう。私としても非常に興味のある話だからな』
「うん、ありがとう。じゃあね、アレックス」
アレックスさんとの通話が切れる。お父さんはため息をついて、椅子に身を預ける。
「ねえ、リーベ。人間って大体遺伝半分、環境半分でパーソナリティーが決まるじゃないか。アンドロイドもそれは同じなんだろうか」
私は首を横に振った。思えばこの疑問は、私がチェンさんのところで考えていたことにも通ずるような気がする。
「人間だって二世紀かけてそれをやっと解明したでしょう? アンドロイドもそうなのかなんてまだわからない。だって機械と人間は『まだ』別物だもの、人間のことが参考になることはあっても正解になることはないと思う。そして逆もそうだと思う」
「そうだね……リーベの言うとおりだ。まだわからないことだらけだ」お父さんが椅子から起き上がる。「だからこそ、研究を続けないとね」
ふと時計を見ると、もう深夜零時を回っていた。お父さんにそろそろ寝ないかと聞くと、「まだやることがあるから先に寝てていい、夜食ありがとう」と言って、またキーボードを叩き始める。私は特にできることもなさそうだったから、歯を磨くために書斎から出て洗面所へ向かった。
≪第八節 21290324≫
私とお父さんは、屋敷に来た初老の男性と向かい合っていた。礼儀正しくしているものの持ちかけてきた話の内容を考えれば、気を抜けない相手だ。
「……つまり今まで君が話してきたことを要約すれば、だ。『僕に《日本機械地位向上委員会》の支持者になれ』ということで間違いないかい」
私もお父さんも知らない団体だったけれど、話を聞く限りは最近設立されたマシニスト系団体らしい。その名の通り、日本で設立された団体で掲げる理想はその名の通り『機械の地位を向上させること』だとか。
私たちの情報網に引っかかっていないということは過激な組織ではなのだろう。だからといって、まともな組織かと言われればそうとも言えない。これだけ様々な団体が乱立している状況にもかかわらず──過激か穏健かは別として様々な主義主張を持つ団体が指数関数的に増えている現状がある──新しい団体を作るような考えを持つのだ。疑ってかかって損はないだろう。
初老の男性──富田誠という名前だった──は頷いて、「ええ、その通りです」
「ふむ……」お父さんと私は目を合わせる。考えていることは同じようだ。「悪いけど、この子と少し相談したい。彼女の意思も無視できないからね」
リクルーターはにっこりと笑った。
「ええ、もちろんです」
その笑顔の裏に隠れた感情を見逃すほど私は甘くない。雲行きが怪しくなってきていることに彼自身も気づいているのだ。
書斎のドアを閉める。おそらくだけど、このドアに耳を当てたところで会話内容は聞こえない。IoTを用いた盗聴しようにも、並みの人間では屋敷のセキュリティを突破することはできないはずだ。
「よし、単刀直入にいこう。彼らは何者か」
私は通信ログの監視も兼ねて──盗聴する気なら不正アクセスしてくるはずだ──中核システムにアクセスし、インターネットで《日本機械地位向上委員会》について検索する。ホームページやPCW内の掲示板を見てみても、彼らの口から出た事と相反するようなものは見つからない。とはいえ、仮に過激な組織であればサーフェイスWebに問題のある情報を載せるような真似はしないだろう。
「新興団体なのは間違いないみたい。ただ──」構成員の素性を調べるといくつか気になる点が見つかった。「《機械解放戦線》、《マルース・ルーメン》、その他諸々……上層部は元過激派が多いみたい。PCW上で演説したり機関誌を出したりすることで人を集めているのも確認できた、特に以前の生活を忘れられない30代から50代を中心に」
《マルース・ルーメン》は《機械解放戦線》に勝るとも劣らない過激なマシニスト系団体だ。「戦いによる機械の解放と人類の啓蒙」を掲げてはいるものの、実際のところ主義に沿わない相手に対しては口撃から暗殺未遂まで苛烈な攻撃を仕掛けている。
「つまりは僕らとはそりの合わない連中ってことか」
「ええ。それに《S.V.S》や《人間同盟》穏健派とも争っているみたい……正直言って、いい組織とは言えなさそう。協力しないほうがいいと思う」
彼らのような存在を全面的に否定することはできないけれど、いた方が良いというものではない。マシニストの多くは言論に訴えるか自ら活動を起こすか、ともかく人に意見を押し付けるというよりは他者に理解を求めるのを目的としている。しかしながら、彼らのように過激な意見の押し付けを行う人間がいると、周囲の中立な人間たちに誤解を与えてしまうのだ。
それに≪人間同盟≫過激派のような存在にとって、彼らのような存在は都合がいい。早まった一般化により、マシニスト全体に「過激で人に意見を押し付ける」というイメージを持たせることが出来るからだ。実際には様々な考え方を持っている団体があるにもかかわらず。
例えば過激なマシニストの一人が穏健なイマシニストを殴りつける事件が発生するとする。すると過激な反対派は「マシニストには暴力を振るう人間がいる。だからマシニストは危険だ」というような論調で主張を並べ立てる。つまり少ないサンプルから一般的な結論を導こうとしているのだ。当然、これは詭弁なのだけれど一見すると正しいように思えるため、同調する人が出てくる。そして穏健なマシニストもその主張を信じた人により、ダメージを被ることがあるのだ。
そして巻き込まれてしまった穏健な側が出来ることといえば、そのようなラディカルな意見や詭弁に対して距離を取ったり自分は違うと主張したりすることだけだ。それも目の前の問題を解決するためのリソースを割いて。
もちろん、ある程度ラディカルな意見はあっても良いだろう。ただし、それによって同じ考えを持つ人間までもが中傷されたり誤解されたりすることがあり、自らの首を絞める可能性があることについては理解しておかなくてはならない。
「厄介者か」お父さんが顎に手を当てる。「うん、協力しないほうがいいな。僕らに利益もなく、彼らの活動を助長することにもつながるだろうから」
私は頷く。二人の意見はまとまった。
それとほぼ同時に、見たことのない機種番号からのアクセス要請が検知された。中核システムはそれを承認しなかったけれど、相手は粗悪なクラッキング・ツールウェアで無理矢理アクセスを試みようとしているらしい。
尤も、中核システム相手にその程度の攻撃は意味がない。彼らにとっては墓穴を掘っただけだ。
「……彼らはどうも私たちに敵意があるみたい。不正アクセスを試みているから」
お父さんはため息をついて、「やっぱりか。とりあえず放置で良いよ、そこまで苛烈な攻撃じゃないでしょ」
「ええ。とりあえずログだけとっておくね」
「ログとり終えたら教えて。彼らにそのこと突きつけるのと僕らが協力しないこと、どっちも伝えないとね……あと男とのやり取りは録画できる?」
「任せて」
書斎からリビングに戻った私たちは、先ほどとは打って変わって居心地の悪そうなリクルーターと向かい合っていた。
「さて、僕らの結論を話そう。僕らは君たちに協力しない。というのも──」
言い切る前に男が立ち上がり、突然「そんなのだから親機械派は舐められるんだ」と大声をあげる。お父さんも立ち上がり、私をかばうようにして男と向き合った。
「お前が、お前が何もしないから、機械は虐げられるんだぞ」
殴りかからんばかりに肩を怒らせた男がお父さんに詰め寄る。後ずさりながらも、お父さんは毅然とした態度で「僕は僕の方法と信念を持って機械と接しているだけだ」と言い返す。私は公安に通報するべきか迷いながら、男が殴る兆候を見逃さないようにクロック数を引き上げた。暴力を振るうようなら公安への通報を戸惑う必要はない。
「論点のすり替えだ、これだから生ぬるいお前のような奴がいても意味がないんだ。お前たちが何もしないから俺たちが苦労してるんだ」男はにやりと気味の悪い笑みを浮かべる。「お前は過去に《人間同盟》過激派に属していたな。そうか、機械が虐げられるほうが都合がいいんだな。だから正しい俺たちに賛成しないのか」
何もしていないことはないし、過激派にいたからと言って今も変わらないわけでもないし、なによりそれはお父さんを侮辱するためだけの発言だ。それを指摘するために前へ出ようとした私に気付いたのか、お父さんが腕で私を押しとどめる。
「侮辱するためだけに来たのなら、帰ってもらおう。君たちの相手をする時間はない」いつもよりも冷たい口調でお父さんはそう言い放つ。
「お前は侮辱されるに値する人間だ。機械のために何もせず、一人ですべてのことをできると思い込む。そんな知性も良識も何もないお前の言うことに誰が耳を貸す? 権威のない人間が何をできるというんだ。そんな人間は無意味を通り越して、有害だよ」
お父さんへの生産性のない罵詈雑言を聞かされつづけてイライラとしてきた私は男をにらみつけたけれど、男のほうは気づいていないのかはたまた無視しているのか、目が合うことはなかった。
「ともかく帰ってもらおうか。君たちとまともな議論ができるとは思えないんでね」
お父さんもお父さんで、口調は冷静なもののこめかみに青筋が立っているのが見えた。
「いいか、親機械派は正しくて、俺たちは親機械派だ。だから俺たちは正しいんだ。なのに、ここに来る前にハッカー連中を何人か誘ったが、お前たちはそのことすらまともに理解してない阿呆どもの集まりだった。お前たちは機械を救ってるという、しかし世間はどうだ。機械を虐げ酷使する連中ばかりじゃないか。俺たちは機械を、世界を救おうとしているんだぞ。だからこそ協力すべきなんだ」
男は返答を待つかのように黙り込む。けれど私たちは、ただ黙って男をにらみつけていた。それを見た男は、望んでいた返答がなかったからなのか、首を横に振った。
「ふん、愚民が」
そう言い放って荷物を持った男は乱暴にドアを開け、屋敷の外へと出て行った。
「……何あの人」
男がいなくなった後、私はソファに座りながら頬を膨らませていた。あの人は論理的にも態度的にも気に食わない。
「あんな人間いくらでもいるよ、といいたいところだけれど……なかなかどうして誤謬を使うのが巧い人だったね」
お父さんはいつもどおり何くわない顔で、私がイライラしながら淹れたコーヒーを飲みながらくつろいでいた。
「おかしいとは思わない? 協力してほしい相手に、あんなことをするだなんて」
「おかしいとは思わないね。以前も言ったと思うけど、人間は必ずしも合理的で論理的じゃないんだ。仮に全ての人間が合理的で論理的だとするなら、恐らく争いは起きない」コーヒーに口をつける。「伊藤計劃の『ハーモニー』みたいな世界ってことさ。Aに対してBを返す機械的な社会では、競合は起きても争いは起きない。人間がなぜ人間であるのかといえば、Aに対してCを返したりDを返したりするからだよ。そしてCとDは相容れないかもしれないし、そうではないかもしれない」
お父さんの言う事に嘘はない。全員が合理的で論理的ならば、世界はもっと平和だろう。しかし現実は違う。人間は感情もあるし自らの利得をあげようともするし、そのために人を傷つける事だっていとわない。その全てを抑えることはどうやっても不可能だ。
でも、許していいわけではない。
「それは知っているけれど……だからといって看過していい物ではないと思うの」
私は口をとがらせる。その顔を見て、お父さんは微笑んだ。
「リーベがそうやって怒ってくれるだけ、僕は幸せなんだろうな。もちろん、看過するつもりはないよ。リーベの録画したデータを公安に提出するし、ハッカーコミュニティで警告も出すつもりさ」
「それならいいけれど」ふと思ったことを口に出す。「昔からあんな感じなのかな、自分が正義だって主張する人たちって」
「きっとね。でも自分なりの正義を持つことは否定されるべきことじゃない。それが個々人の希望にもなるし、生きる原動力にもなるから」お父さんは肩をすくめる。「だからといってあんな風に誤謬だらけな正義はどうかと思うけどね」
お父さんは変わらない……いや、アルバ・ドラコネスを相手取ってから、とても変わった。昔なら、自分と違う正義ややり方を掲げた相手をもっと糾弾したことだろう。でも、今は相手にも相手なりの正義があると理解した上で批判する。
信念は全く変わっていないけれど、プロセスは変わった。そして私は、変わった後のお父さんが好きだ。昔よりも。
「そうね。正義自体は否定されるものではないものね」
「うん」
お父さんはそういって笑う。私も、さっき出会ってしまった男のことを昇華しつつ笑う。
ああやって誤謬や詭弁を多用しながら人を憤怒の表情で批判するよりは、いくらか感情が入ったとしても笑いながら議論した方が案外幸せかもしれない。そんなことを考えながら。
≪第九節 21290426≫
パジャマを着たままの私は、四畳ほどの真っ白い部屋の中に一人で立っていた。
床、四方の壁、天井、すべて白。他の色といえば、壁や床の境界線が見せる黒と私のパジャマだけだ。
「これは……夢よね」
人間でいうところの明晰夢。まさか私がそんな夢を見るなんて思ってもみなかったけれど。
壁に手を付けて、ぐるりと一周してみる。どこにもへこみや接合部はない事から見て、閉じ込められているらしい。まるで世界から隔離されてしまったようだ。
「どうしてこんな夢を?」
閉じ込められていることに関して焦りはない。どうせ夢なのだから、目が覚めればここから出られる。それより気になるのは、どうしてこんな夢を見ているのかということだ。特にここ最近、何か困ったようなことも閉塞感を感じるような事もなかったはずなのに。
とりあえず目を覚まして、原因を探してみよう。何か見つかるかもしれない。
目を瞑って、息を吐く。
目を開けると、いつもの部屋にいた。と同時に、気づいたことがあった。
「……あれ?」
イントラネットとは通信できる。ただ、中核システムがインターネットに接続できないと警告を出していた。
私はベッドから起き上がりながら、中核システムに再接続を要請したけれど無効だった。中核システムが言うには、大量のデータがやり取りされているせいでデータトラフィックが遅延しているらしい。
「まるでSQL Slammerね……」
寝室から出た私は一人呟きながら、お父さんの寝室へ向かう。
どうやったらこんなことが出来るのだろう? SQL Slammerはソフトウェアのセキュリティホールを突いて内部に侵入。その後、IPアドレスをランダム生成してからそのIPアドレスを持つホストへ分身を送りつける。そしてその分身は同じようにIPアドレスをランダム生成して……というのを繰り返す、たった数百バイトのコンピューター・ワームだった。
それだけだと大したことはないように思えるだろうけれど、これを毎秒数百というIPアドレスにやるものだからデータトラフィックが急激に増大、それに耐えきれないルーターがダウンする。というのを何度も繰り返していくと、国一つのインターネットがダウンしかねない。さらに悪いことに、SQL Slammer自体は一パケットに収まるため、通常のデータは通信できないのにSQL Slammerだけは通信できるという特性やユーザー・データグラム・プロトコル上──UDPは相手の状態にかかわらず一方的にデータを送信する特性がある──で広まるという特性を持っていた。
例えるなら、普通ならキャッチボールで幾つかの玉を投げ合うのに、SQL Slammerに感染するとピッチングマシーンを乱射する。そのせいでゲームが混乱して成り立たなくなってしまうのだ……ボールにぶつかった人が更にピッチングマシーンを持ち出すというおまけ付きで。
とはいえ、それは昔の話。
今では、セキュリティホールは無いに等しい。より正確には深刻なセキュリティホールはすぐにAIによって修正される。それに加えてモノのインターネットが多用される関係で、普及しているルーターのほとんどにアンチウイルスソフトがインストールされている。だから仮に、セキュリティホールを突いてウイルスが侵入したとしても削除されるはずだ。
お父さんの寝室のドアを開けると、ベッドの上にいるはずのお父さんは居なかった。
「あれ?」
掛け布団が乱暴に捲られていることから見て、飛び起きたようだ。もしかしたら、私よりも先にインターネットが落ちていることに気が付いて、書斎にいるのかも。
ドアを閉めて書斎に向かう。お父さんがここまで慌てて対応しているということは、相当の事なのだろう。大抵のトラブルなら、まずは私のところに連絡が来るからだ。
書斎のドアをノックする。いつも通り、返事はない。
ドアを開けると、灰色のスウェットスーツを着たお父さんが椅子に座って、ホロディスプレイをにらみつけていた。
お父さんが私に気がついて顔をあげる。
「ん、リーベ」
「お父さん、インターネットが落ちているのは……」
「気が付いてる。どうもバグとか人為的ミスじゃなさそうだ。攻撃の可能性がある」
『リーベ来てるの?』
ノイズの混じった周防さんの声がスピーカーから聞こえてくる。私がお父さんの隣に行くと、《ホール》が起動していた。私たちが監視されていた時に使っていた秘匿回線だ。
「《ホール》は無事なの?」
お父さんに聞いたつもりだったのだけれど、代わりに周防さんが答えてくれた。
『プロバイダを利用していないし通常の通信プロトコルとは異なるから、トラフィックの増加の影響を受けていないんだ。他にもラジオとか無線通信とかは通信が確保できているみたい。そのおかげで雪村君に連絡がとれたんだけど。今現在、トラフィックが増加しているせいで統合AIやLIGとの接続が困難になっていて、一部の機能は停止しているらしい。現状では人的被害は出ていないけど、何日も続けば電力や上下水道を含めたインフラが寸断される可能性がある。特に致命的なのが食料の配給だね』少しだけ間が開く。『唯一幸運なのは、これが世界の一部地域でしか起きていないってことだけど、これが予行演習だからだろうね。二十四時間後にこの機能停止地域が広がっていない可能性はほとんどゼロに近い』
お父さんが付け加える様に、「……というわけで、さっさと解決しないとまずいってことさ」
「原因は?」
「SQL SlammerやCode Red、Strangerみたいなワームだと思うけど、まだ確実なことは言えない。Code Redみたいなものだとすると、もう一段攻撃を仕掛けてくるはずだし、Strangerならどの地域に波及するかの予想がまったくつかない」
『こっちでも捕捉を試みているけどハニーポットとして用意したルーターに引っかからないな。案外賢いのかもしれないけど、だとしたら感染できないはずだ。この状況でも被害を広げていることから考えて、一パケットに収まるようなもののはずだから』
「ルーター以外のハニーポットにも、それっぽいのは引っかからないな。どちらにせよ、マルウェアの類とは思えないんだ。この時代のコンピューターに感染するのは難しい」
蜜壺は侵入しようとするクラッカーなどをおびき寄せるためやコンピューターウイルスの検体を得るために、インターネット上に置くサーバーやデジタル機器のことだ。要はインターネット上の囮のことで、それに気づかず不正アクセスした相手のログを取ったり法的な証拠を得たりする。
『となると、別のものによる攻撃……』何かに気が付いたかのように、周防さんの方から叩いているのか弾いているのか判別しにくい打鍵音が聞こえてきた。『雪村君、リーベって常にインターネットに繋いでるの? あとどこかと通信してる?』
「ん? いや、常時ではないよ。必要な時だけ」
『雪村君ってアンドロイドのハニーポット持ってる?』
お父さんが考える様に空を見た後、首を振った。
「持ってな……」気づいたかのように手をたたく。「もしかして、原因はアンドロイドに感染するワーム?」
『いや、僕の予想が正しいならワームじゃない。ワームのようでいてワームじゃないんだ』
私はその言葉遊びを聞いて首を傾げた。
──どういう意味だろう?
周防さんの言葉の意味を聞こうとお父さんの方を見ると、同じように首を傾げている。お父さんにもよくわからないようだ。
「どういう意味ですか?」
『ロボット三原則第一条だよ』
それだけ言って、また激しい打鍵音がスピーカーから響いてくる。しばらくして、その意味を解したようにお父さんが頷いた。
「なるほど、これは人間による命令なのか。『何らかのデータを送受信してトラフィックを急増させろ』っていう」
その言葉を聞いて、私もやっと理解できた。
ロボット三原則第一条の趣旨は言わずもがな、機械は人間の命令に従うこと。そして機械は、特にクラウド型アンドロイドはほぼ常にインターネットと接続している。
じゃあ仮に、機械に対して人間が『何か大量のデータを統合AIへ送信せよ』と命令したら? 間違いなく命令に従うだろう。それが何千、何万、何億という機械に対して、同時に同じことを命令できるとしたら?
今のようにインターネットが落ちる。
それにこれは命令だ。ウイルスでもワームでもなんでもないため、アンチウイルスソフトはスルーしてしまう。加えて命令に対しては機械制限法第二条との兼ね合いでデータ量に関わる保安措置が殆ど講じられていない。その代わりに回線はかなり太いけれど、常軌を逸したデータ量であればこの通りだ。
「けど、そんなことが出来る命令が? 購入時にマスターかプロダクターの命令しか聞かないように設定するじゃないか。これを実現できるコマンドというと、アドミン権限でしか起動しない、普通は扱われない超深度レベルに設定してあるごく一部のコマンドに限られるはずだ。恐らくアドミン権限を得たからこそこんな広範囲に攻撃できるんだろうけど、あれを得るにはアドミン・コードが必要だけど……コードを奪取するのは不可能に近いじゃないか」
『ともかく方法は良いんだ。アドミン権限をもう一度奪取して命令を上書きできれば……』それから先の言葉はマイクが拾えなかったらしく、ノイズに紛れてしまった。
「アドミン権限か……」お父さんが首を横に振った。「無理だ、アドミン・コードを奪取するのは。とはいえ、命令を止めさせるのはそれしかない」
私も書斎の中を歩きながら、顎に手を当てて頭をひねる。
必要なのはアドミン・コードを奪取してパケットの送信を終わらせるか、何かで送信を強制終了させるか。そうはいっても、インターネットを構成しているハブを停止すればインターネット上に流れる情報はなくなるけれど、再起動させたところで送信が止まってないのだから元の木阿弥になる。加えてデータを送信している機械を停止させても、再起動させたときに命令が生き残っていれば同じことだ。
送信を止めよと命令し、根本からやめさせなくては。でも、どうやって止めればいい?
「お父さん、アドミン・コードがあればこれが出来るのよね? 攻撃者はどうやってアドミン・コードを奪取して、インターネットを落としたと思う?」
私が歩きながら訪ねると、お父さんの目が私を追う。
「そうだな……ここまでトラフィックを増大させられるってことは、シェアの大きいUSRインダストリーかテクノリジアのどっちか、若しくはどっちものアドミン・コードを奪ったんだろう。その後、周防の言うように同時に同じデータを送信するように命令を行った。多分、マスターに命令したことを悟られないようにサイレントコマンドを使って」
USRインダストリーやテクノリジアみたいな複合国際企業に攻撃を仕掛けるということは、確実に集団的攻撃だ。個人でやろうとすれば、お父さんはもちろん周防さんでも無理だから。
IALAに攻撃を仕掛けた時は目的のデータセンターが一つしかなかったから兵量攻めが出来たけれど、複合国際企業ともなるといくら世界の潮流が効率化だったとはいえ、世界中にサーバーやアクセスキーを分散させている。あの時のように一人を囲んで責め立てるような攻撃はできない。
ふと、良い考えが浮かんできた。『人間は誰でもミスをする』、それが本当ならこの方法が使えるはずだ。それにかなりの規模で攻撃しているのだから、各人の技量やセキュリティ意識にも差があるだろうし、攻撃者同士で連絡を取り合っているはずなのだから一人セキュリティの甘い人を見つければ芋づる式に攻撃できるはずだし、この方法なら一気に解決できるかもしれない。
「お父さん、攻撃者って確実に独りじゃないよね?」
「ん? この規模の攻撃ってことを考えればね。でも、どうして?」
「そこを突けないかな? ミスしていたり警戒心の薄かったりする人のPCに潜入して、その中にあるはずのUSRインダストリーやテクノリジアのアドミン・コードを奪取出来れば、これを止められると思うのだけれど」
お父さんも考える仕草をしたまま固まる。
しばらくして、頷いた。
「敵が誰か分からないけど……やる価値はあるね」お父さんが口をマイクに近づける。「周防、良い方法を思いついた」
すると、周防の代わりにコンちゃんの声がスピーカーから聞こえてきた。
『今、謙治に話しかけても返事は返ってこないわよ。代わりに私が聞くから』
お父さんが作戦のことをかいつまんで話すと、コンちゃんは『インターネットがつながらないのに、どうやって……組織のセキュリティホール? を探す気?』と尋ねてきた。
「出来るさ」お父さんが目を泳がせる。「まあ、少し骨が折れるだろうけど」
『うーん……まあいいわ。話を聞いてくれるようになったら、その通り伝えるから』
「ありがとう、コンフィアンス」
『いいえ』
その言葉を最後に、《ホール》は沈黙する。私は自分の考えが浅かったことを反省しつつ──セキュリティホールを探すとしてもインターネットが無くては探しようがないのを忘れていた──お父さんに「確かにコンちゃんの言う通りね、どう探すの? ダークウェブだってインターネット回線を使っているじゃない」
「さっき周防が言ってたじゃないか、『ラジオや無線通信は影響を受けていない』って。連中は影響を受けていない通信手段を使っているはずだ。それに詳しい人を一人知っている」お父さんが肩をすくめる。「……でもね、問題がいくつかあって」
「問題?」
お父さんが目をそらす。
「彼はすでに引退済みってことと、朝になればこのことに皆が気づくけど、夜明けまで一時間もないってこと」
≪第十節 21290427≫
あれから寝ずにお父さんと一抱えほどもある壊れた短波無線機を修理していた私たちは、昼頃になってようやく一息つくことが出来た。先ほど私が食糧庫に残っていたパンとゆで卵を使って作ったエッグサンドイッチを片手に、お父さんが呟く。
「何年も前に壊して以来修理していなかったから、直ったようで何よりだよ」
FMラジオはまだ生きているようで倉庫から引っ張り出してきた古いラジオから、インターネットが使えなくなっていることやそれに伴いアンドロイドの機能が制限されていること、自動タクシー・サービスの提供を停止していることなどなど、あまりよろしくのない内容のニュースが繰り返し流れてくる。
「今まで知らなかったけれど、無線の免許持っていたの?」
「趣味だし、随分前に使わなくなったけどね……なんなら衛星電話サービスだって持ってるよ。リーベも屋敷の中だけとはいえ、衛星電話が使える様に設定してある」
衛星電話サービスは言わずもがな、低軌道衛星ないしは静止衛星を用いた電話のことだ。ただし、今はごく一部の地域を除いてほとんど使われていない。なぜなら、インターネットを用いたIP電話や無線通信のカバー率が世界でも80 %を超えたためだ。他にも無線局や遅延との兼ね合い、送受信できる情報量、衛星自体の寿命などの関係で衛星電話は廃れていった。
私も殆ど衛星電話についての知識はない。何と言っても、私が衛星電話を使えるなんて初めて聞いた。そんな使われなくなって久しいサービスを未だに維持しているあたり、お父さんらしい。
「使い道はなさそうだね……」
外から、極力に外出を控える様にとか食糧の配給は順次行われていくので安心するようにとか、そういう内容の放送が聞こえてくる。多分、政府関連機関職員が放送宣伝車で走り回っているのだろう。自動タクシーも飛行船も非常放送も使えない今では、それが精いっぱいだ。
「さて、あの人は起きてるかな」
そういってお父さんが食べかけのサンドイッチを皿において、短波無線機をいじり始める。
「聞いてなかったけれど、あの人って?」
「”Skimmer”ってコードネームのクラッカー……といいたいんだけど、正確にはブラックハットではなくて処刑人なんだ。彼は個人や組織に関わらず繰り返し攻撃を行っているクラッカーをどうやってか探し出しては、カウンタークラッキングか可能であれば物理的に相手を攻撃してせん滅するんだよ。一番派手な時だと、世界連合軍の戦闘無人航空機の制御を乗っ取って、インターネットのないところに引きこもっていたブラックハットを爆殺したこともある」無線機のダイヤルをいじりながらため息をつく。「ただね、彼は27年前に突然消えたんだよ。今現在に至るまで、消息不明だ」
話だけ聞けば、中々過激な人のように思える。いくら悪人相手とはいえ、爆殺はひどい。それに突然消えるなんて何があったのだろう。
「……その人、信用できるの?」
「30年前の話だけど僕と周防は彼に戦いを挑んで、大敗を喫した。話したことはないから人格的にどうかはわからないけど、間違いなく実力のある人だ」お父さんがダイヤルをいじる手を止め、こちらを見て肩をすくめる。「僕はまだしも、周防すらカウンターハックした挙句、『君達のハッキングは効率的だが芸術的ではない』って言った人だからね」
「そうなのね……」確かに実力に関して間違いないらしい。周防さんすら敵わないということは、相当な腕前なのだから。「そういえば、どうして無線機を使えば連絡が付くの?」
「彼が消える前、周防や僕を含むいくつかの人に対して暗号文を送ってね。解読してみたら24911.01って数字が出てきたんだ。これ、使う人は少ないんだけど遠距離通信の出来る無線周波数である24 MHz帯の値に収まるから、もしかしたら……と思ってね。こんな時は──」
私はお父さんの言葉を継いだ。
「──『ぶっ飛んだ考え方でもいい、なにか思いつくのない?』ってことね」
「そういうことさ」
周波数を24911.01に合わせ、「CQ、CQ、CQ。こちらはJJ2LEO。どうぞ」とお父さんがマイクに告げる。
しばらくすると突然、私に電話が入った。おかしい、普通ならインターネットが落ちている今現在、電話なんて通じないはずなのに。
恐る恐る「も、もしもし?」と言うと、ノイズの入った男性の声が聞こえてきた。英語だけれど、何処かのなまりがある。なんとなくロシアっぽい。
『君は誰だ』
お父さんの方を見ると、すでにインフォゴーグルをかけていた。
電話を転送すると、お父さんが代わりに応える。「僕はクレーエ314。あなたはSkimmerで間違いないか?」
『ああ。儂はSkimmer……尤も、それは昔の名前だが。しかしクレーエ314、君に呼ばれるとは思わなかった。Zeranium1016の方が腕は良かったと記憶しているが』
「その話はまた今度。あなたも今の状況は存じていると思う」
『約十二時間前、アジア地区日本州関東プロヴィンス、中華人民州華北プロヴィンス、北アメリカ地区アメリカ州メリーランドプロヴィンスにて大規模通信障害が発生。現在は前述地域の周囲へ影響が拡大しているほか、ヨーロッパ地区ドイツ州ベルリンプロヴィンスやオセアニア地区オーストラリア州ニューサウスウェールズプロヴィンス、ヨーロッパ地区イングランド州全域などでも通信障害が確認。ついさっき、アフリカ地区エジプト州カイロプロヴィンスやヨーロッパ地区イタリア州全域でも通信障害が確認された』
私たちは顔を見合わせた。想像していたより、かなり広範囲に通信障害が生じ、被害の拡大も速い。
「その通りだ。解決するために、あなたの助力を得たい」
間髪入れずにSkimmerが、『断る。儂は引退した』
「百も承知だ。だが、助力があれば早期の解決ができる」
『あれから三十年と二カ月十日……鍛錬を欠かさなかったわけではあるまい。第一、老い耄れが出る幕ではないのだ。私自身、インターネットが無くても生活できる環境にいるものでな』
「なら力じゃなくていい、せめてあなたの知識を貸してくれ」
電話越しに彼の皮肉に満ちた笑い声が聞こえた。
『役に立たんよ』
「そんなことない。電話だってインターネット回線を使ってるはずなのに、僕とあなたは通話している」
お父さんの声に焦りがにじむ。ここで電話を切られようものなら、せっかく見えた明かりが吹き消えることになるからだ。
『簡単な話だ。今は使われていないものを使えばよい。他に話がないなら切るぞ』
「ちょっと──」
お父さんの言葉も聞かず、電話が切れる。かけ直してみようと思って電話番号を探してみると、見たこともない十一桁の数列が出てきた。とりあえずかけ直してみたものの、不正な電話番号だという趣旨のアナウンスが流れただけで繋がらなかった。
その事を伝えようとお父さんのほうを見ると、いつもの考える仕草でなにかを呟いていた。
「……今は使われていないもの……インターネット……連中の連携……被害の拡大……」その姿勢でしばらく黙りこんだあと、なにかに気がついたようにキーボードに飛び付いた。「リーベ、Skimmerの電話番号は何桁だった?」
「十一桁だったけれど……どういうこと?」
すぐに指がキーボードをマシンガンのように叩き始める。
「やっぱりだ。Skimmerは衛星電話の回線をつかって僕らにかけてきたんだ。そして多分、攻撃者も衛星電話で連携をとってるはず」
「じゃあ、衛星電話サービスを使えなくすれば……」
「被害の拡大は防げるけど……」お父さんが力強くエンターキーを叩く。「使い道はまだまだある」
ホロディスプレイに表示されたのは世界地図だった。しかし百か所ほどに黒丸が点在しており、丸の隣には数字とアルファベットの羅列が黒文字で書かれていた。
「これは?」
「衛星通信サービスを提供している通信衛星にクラッキング仕掛けて、何処から電波が出てるのかを特定したんだ。まさか僕の使ってるサービスと同じサービスを使ってるとは」
「でも、インターネットが落ちていたら攻撃でき……」お父さんの性格と通信衛星にクラッキングできるという事実が頭の中で結びつく。「まさか、撹乱するの? 相手が混乱した隙に攻撃を?」
お父さんがにやりと笑った。
「さて、命令がいきなり『攻撃を止めよ!』になったらどうなるかな?」
お父さんが撹乱の準備をしている間、《ホール》を通じて周防さんから連絡が来ていたので、私は周防さんにあることを頼んでいた。
あまり長くこの状況が続けば、人が死ぬ可能性が出てくる。そのため出来るだけ早く対応するために、作業を分担することに決めたのだ。周防さんは通信状況のモニタリングとアンドロイド本体のデータ送信を止め、お父さんはセキュリティの甘い攻撃者へクラッキングを仕掛けてアドミン・コードを奪取するという分担だ。
『分かったよ』
「ありがとうございます」
成功するかどうかわからないという不安を口にしようとして、その言葉を飲み込む。今言うべきことではない。
「よし、準備できた。周防の方はどう?」
『I.R.I.Sで使ってる不正な命令を強制的に消去するワクチンソフトウェアを元に改造したワームならもう準備したから、あとはアドミン・コードだけだよ。これは通常、使われていなかったりルーチン外の命令に対応しようとした結果、ループ状態に陥った機械たちを治すためのソフトウェアなんだけど、それを大抵の機械に搭載されているStandART-OSを中心に増殖するように改造してみた。これはアンドロイドたちに感染した後、特定の命令にかかわる量子ポテンシャルをニュートラルにするだけだから、アンドロイドたちが壊れることはないはずだよ。それにI.R.I.S以外では採用されていないしオープンソースとして公開もしていないから、攻撃者たちにとっても未知の相手なはすだ。知ってても僕が改造したから結局未知の存在だけど』
その言葉を聞いて、お父さんは見えていない周防さんに向かって微笑んだ。
「本当、君が味方でよかったよ」
聞いているのか聞いていないのか、周防さんは『そっちの準備はどう?』
「こっちも準備完了だ。ちょっと攻撃的なワームに仕上がったけど、まあ攻撃者たちがブレイン・マシン・インターフェースを使ってないことを祈ろう」
『じゃあ、始めようか』
「分かったよ」
お父さんがキーボードのエンターキーを叩く。ほどなくして、スピーカーから聞き慣れない英語が飛び出してきた。よくよく聞くとオーストラリア英語だ。
〈攻撃中止だってよ。どうも俺らの場所がバレたらしい〉
応答した相手はオーストラリア英語じゃない。日本語だ。どうもPCの翻訳機能を使って会話をしているらしい。
〈そんなわけないだろ。俺たちの場所がバレるなんて。今時誰も衛星電話なんてつかってねえんだぞ。本当に《イフリート》か?〉
この感じからして、やはり国際組織のようだ。ただ、《イフリート》という言葉が引っ掛かる。イフリートというとイスラム教における魔人の一人で、特に火を操ることに長けていたとされる。そんな名前を使うクラッカーがいるのだろうか。良くも悪くも洒落たものが好きなハッカー文化にはあまりそぐわない気もするけれど。
〈ニュードー。《イフリート》が言ったならば、それに従わなければ。命令なのだから〉
次は英語。アクセントからして、クイーンズ・イングリッシュではなさそうだけれどイギリス英語には違いない。
〈スモーク。お前は堅物すぎるんだよ。第一、こっちには連絡一つきてないんだぞ〉
中国語。北京語じゃなく広東語らしい。女性の声だ。
「周防、様子は?」
『まだ通信障害は確認されている。攻撃を止めているわけではなさそうだ』
スモークと呼ばれた男が声をあげる。
〈私は命令に従うぞ。こちらには間違いなく《イフリート》の命令が来たのだからな〉
『イギリスの通信障害が拡大を止めた。雪村君、イギリスの……スモークとかいう人が狙い目かもしれない』
「言われなくとも」
マシンガンのような打鍵音が聞こえ、唐突に止む。ホロディスプレイに表示されたメッセージの文面を見ると、どうも命令に従わない相手は反乱因子だからカウンターハックして攻撃せよ、というようなことが書かれていた。
〈あ、くそっ。スモークの奴、寝返りやがった〉
聞いたことのない女性の声。アメリカ英語ブルックリン訛りのようだ。北アメリカをダウンさせている元凶だろうか。通信を聞いている限り、かなり攻撃者たちは混乱しているようだ。
〈畜生。俺はあいつに攻撃なんてされたくねえんだ。さっさと抜ける〉
日本語。先ほどニュードーと呼ばれていた男だろうか。
『メリーランドとペンシルヴェニアの通信障害拡大が停止。関東全域の通信障害が軽減。攻撃するなら今だ』
その言葉と共に、お父さんがいくつかキーを押した後、エンターキーを叩く。スピーカーからも流れるような打鍵音が聞こえてきた。
「あとはワームに任せるとしよう」
お父さんは椅子にもたれかかる。私はふと聞いていなかったことを尋ねた。
「そういえば、お父さんの作ったワームってどんな奴だったの?」
「ん? アンドロイドに対して作用する奴だよ。ここ数日以内のアクセスログにあるIPすべてに僕が用意した1パケットに収まるペイロードを持つゴミデータを送信してから、ワーム自身を消去する奴」
攻撃者は複数のアンドロイドに攻撃を行っているはずだ。だから、仮に百体に攻撃を行っていれば百体のアクセスログに一つだけ重複するIPが存在しうる。だから仮にログを消していない場合、百体から一気にゴミデータが送りつけられることになる。普通のサーバーであれば、小さいデータのため一気に送信されたところで落ちることはないが、個人が扱うようなものであれば容易にダメージを食らうだろう。
やりたいことは分かったけれど、そんな不用心な攻撃者がいるだろうか。
「アクセスログ消し忘れる人なんているの? クラッカーで?」
「まあ、相当慣れてない人だね。大抵そういうのはセキュリティも甘いし、分かり次第クラッキングを仕掛けてPCに侵入、そこから攻撃者の持ってるアドミン・コードを奪取して、周防に渡す」
ホロディスプレイに表示されている世界地図──衛星電話の通信局が表示されている画面だ──から、通信を終えたのかそれとも終えさせられたのか、いくつかの点が少しずつ消えていく。この点がゼロになれば連携を崩すことができ、攻撃者たちも撤退することになるはずだ。
〈畜生、なんだってんだ。俺に攻撃してくるやつがいる! 誰だよ!〉
はじめて聞く声。イタリア語ピエモンテの方言。
『イタリア全域の通信障害が軽減してきた』
「リーベ、彼は何語を?」
「イタリア語。ピエモンテ地方の方言みたい」
「分かった……」いくつかキーを叩いた後、お父さんがにやりと笑った。「見つけた。さて、報いを受けてもらおうか」
あっという間に侵入したお父さんは攻撃に使っている制御ソフトウェアを見つけ、リモートで停止させつつこちらのPCにソフトウェアとアドミン・コードのコピーを作る。
『イタリア全域の通信障害がかなり解消されてきたよ』
「リーベ、このソフトウェア解析できる? 僕はその間にアドミン・コードを周防に送るから」
「任せて」
イントラネットを通してお父さんから送られてきたソフトウェアは、そこまで難しいものでもなかった。どこからか奪取してきたアドミン・コードでアンドロイドのアドミン権限を奪った後、サイレントコマンドを適応したテレメトリーコマンドを入力する。ただし入力時点ではコマンドが起動せず、所定の日時に一斉起動するというものだった。
おそらくこのソフトウェアはアドミン・コードと共に配布されたものだろう。それなら、どちらも持っている人を攻撃するようにすれば、狙った相手を止められる。
私は先ほどの条件を満たす人間のPCだけを初期化する原始的なコンピューターウイルスを作成して、お父さんへソフトウェアの解析結果と一緒に送った。
『アドミン・コードは貰ったよ。後はワームを該当地域にばらまいて、解消できるところから解消していこう』
周防さんの方は問題なさそうだ。私は私のことをやろう。
「お父さん、これを使えば彼らはアドミン・コードとソフトウェアを失うはず」
「わかった。周防、狙うのはテレメトリーコマンドだ」周防さんからは理解した旨の返事が返ってきた。「ただ……ちょっと待っていて」
お父さんが私の作ったコンピューターウイルスに何かの記述を追加する。
「何を追加したの?」
「さっきのワームでも使った、アクセスのあったIPアドレスに向けて自分自身の複製を送りつけるコードを追加して、ワーム化したんだ。多分、緩やかながら攻撃者同士の繋がりがあるはずだから、一網打尽に出来るはずだ。ソフトウェアが止まれば被害の拡大は防げるから、あとは周防のワームに任せよう」
つまりこのワームは特定の条件を満たすPCに感染すると、自分自身の複製をログ上のIPアドレスに送った後、PC全体を初期化する。送りつけられた側は条件を満たしていれば感染して同じように複製を送った後に初期化され、満たしていなければ感染しない。
恐らくこれでうまくいくはずだ。
「次はこっちの番だ」
お父さんがソフトウェアのコピーを別の記憶領域へ移動させてその領域をインターネットから切り離した後──このままワームを感染させるとこちらのコンピューターまで初期化される恐れがあるからだ──イタリアにあるPCへワームを送り込む。
ほどなくして無線電話からイタリア語の、誰にも向けることのできない悲鳴が聞こえてきた。
はい、どうも2Bペンシルです。
随分更新を怠ってしまい、申し訳ありません。調べたら半年以上更新してなかったんですね……その代わりといっては何ですが、合格したいものには合格出来ました。ちなみにこの間もしっかりVtuber沼にハマっておりました。投稿遅れた理由ではないのですが……推しはにじさんじの夕陽リリ様です。
兎にも角にも、更新を長い間待ってくださった方、本当にありがとうございました。生活サイクルが不定期なので、どれくらいの頻度で更新できるかは何とも言えないのですが、エタることはありませんので(エタるくらいなら用意してある仮初の最終回投稿します)これからもどうかのんびり待っていただければ幸いです。
色々と書けることはあるのですが、今回使った資料がともかく多いので、そちらに文字数を割きたいと思います。ちなみにTwitterの方で上げた動画は、更新が遅れましたのでその埋め合わせみたいな意図があったり。2-3後編でもやるかもしれないです(素材見つかれば)。
それでは皆様。今回も最後まで読んでいただき、そして更新まで待って下さり、ありがとうございました。
【参考文献・出典】
≪第二節≫
・「標識ハック」が自動運転AIに混乱をもたらす研究結果。見た目わずかな差がまったく違う意味に https://japanese.engadget.com/2017/08/07/ai/
≪第三節≫
・Can nonhuman animal commit suicide?(PDF, 英語)
https://animalstudiesrepository.org/cgi/viewcontent.cgi?referer=http://karapaia.com/archives/52252692.html&httpsredir=1&article=1201&context=animsent
≪第四節≫
・筑波大学 渡邉信研究室 オーランチオキトリウム
http://www.abes.tsukuba.ac.jp/clabes/watanabe-lab/02project/index_03.html
・産技研TODAY(2013年度Vol.13-6)
https://www.aist.go.jp/aist_j/aistinfo/aist_today/at_research_main.html
・東北大学 藻類産生オイルの輸送用燃料への新変換法の開発
https://www.tohoku.ac.jp/japanese/2015/06/press20150615-01.html
・『ミスト 傑作短編集』(スティーブン・キング著/矢野浩三郎ほか訳/文春文庫/ISBN978-4-16-794076-1)
・20人に1人は手術中に目覚めている可能性アリ、忘れているだけで耐えがたい痛みを感じるケースも - GIGAZINE https://gigazine.net/news/20190317-awake-during-surgery-operation/
≪第六節≫
・第1回 遺伝か環境か、それがモンダイだ | ナショナルジオグラフィック日本版サイト https://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/20120117/296498/
・薬物中毒の原因を生活環境にあると考えた「ラットパーク」実験とは? - GIGAZINE https://gigazine.net/news/20130917-rat-park-experiment/
・人間は道徳観念ではなく「他者への共感性」によって高度な文明を築き上げたという主張 - GIGAZINE https://gigazine.net/news/20190415-empathy-secret-ingredient/
≪第七節≫
・「80歳の時に健康であるかどうかは50代の時の人間関係で決まる」など幸福な人生を送るための重要な3つの教訓まとめ - GIGAZINE https://gigazine.net/news/20160201-what-makes-good-life/
≪第九節≫
・Urban Dictionary: Hacked by Chinese http://hacked-by-chinese.urbanup.com/1435291
・サイバー攻撃 ネット世界の裏側で起きていること (中島明日香著/講談社ブルーバックス)
≪第十節≫
・【オタクへ】歴史や方言?みんな知らないイタリア語の世界を語るための特徴10つ https://buono-italia.com/20161227-2/
≪全体≫
・Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8




