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私のこころ  作者: 2Bペンシル
第二部・2
23/26

【成人期】──暗雲──

【第二部第二章】


≪第一節 21270622≫

 私はポインセチアに水をやりながら、ぼんやりと今日の夕食について考えていた。つい一週間前、私の誕生日に野菜から肉、魚まで料理として出したものだから、ここ一週間の献立は悩んでばかりだ。何と言っても飽きが来ないようにするのが私の役目である以上、メインディッシュの被りは出来るだけ避けたいものだから。

「何にしようかなあ……」

 ぼそりと呟く。そのとき、私の後ろから聞き慣れた声が聞こえてきた。

「僕は何日同じものが続いても、リーベが作ってくれたなら気にしないけどね」

 水の入ったじょうろを置いて振り向くと、お父さんがマグカップを持って立っていた。

「あれ、また休憩? それともコーヒーが無くなったの?」

「コーヒー無くなったんだ。でも、ちょうどいいし休憩しようかなって」

 私がお父さんのマグカップを受取ってキッチンに行くと、お父さんもついてきた。

「最近ペースが早いよね。前は二時間に一回、注ぎに行けば事足りていたのに」

 コーヒープレスに熱湯を注ぎ、お父さんが好きなブラジル・サントスの豆をコーヒーミルで挽く。

「あれだよ、四十超えると酒が進むらしいけど、それと同じさ。色々考えることがあってね、ストレス溜まると苦いものが欲しくなるんだ」

 コーヒープレスに入れておいた熱湯を捨てて、ミルで引いた豆の粉をコーヒープレスに入れて熱湯を注ぐ。

「そんなにストレスフルなの?」

「最近さ、従来型の量子コンピューターよりも性能が良くなる可能性を秘めた新しい量子コンピューターの研究結果が上がってさ。今のところ、電脳転移処理(CMT)技術は量子化の密度が上がれば再現性や維持性が上がることが分かってるから、うまくいけば実用化に一歩踏み出せるんだよね。それで何とかフォーマットをそれに合わせたくて」

「CMTが実用化すれば、延命処理(LPT)をやらなくて済むものね」

「そうそう。実現できれば、一人を生かすためだけに何人もの命を犠牲にしなくて済むんだ。あくまで僕の考えだけど、どうであろうと命は等価なわけだしね」

 二分経った。ピストンを押して、コーヒーを抽出する。上澄みだけをマグカップに注ぐと、お父さんは満足したように笑って一口飲んだ。

「やっぱり、リーベが淹れてくれたコーヒーはおいしいな。千住さんのとは違った美味しさがある」

 ふと、千住さんの名前を聞いてカノン君のことを思い出した。確かカノン君は10年間の整理期間を過ぎてしまうと、所有希望者がいなければ破棄されてしまう。しかしハウスロイドだと耐用年数が90年だから、一応2143年まで彼は生きることが出来る。もしかしたら、それ以上生きることが出来る。

 それなのに、引き取り手が現れなければ破棄されてしまうなんてあんまりだ。出来れば私たちで引き取ることが出来ないだろうか。カノン君なら、喜んでくれそうだけれど。

「ねえ、お父さん。カノン君のことなのだけれど」

「ん? カノン?」

「カノン君って一応、2143年まで稼働が保証されているじゃない?」

 コーヒーを一口飲んだお父さんが頷く。

「でも整理期間って2134年までだから、誰も引き取り手がいなければ9年間を無駄にすることになってしまわない?」

「あー……」今気づいたかのように口を開く。「確かに」

「これ、どうにかできないかな?」

「うーん、僕らが引き取る? リーベさえよければ、僕が何とかするけど」

 予想もしていなかった答えに思わず驚く。まさか私が言おうとしていたことを先取りされるなんて、思いもよらなかった。

「いいの?」

 さも当然だ、そう言わんばかりにお父さんは頷いた。

「うん。リーベさえ良ければ僕は一人増えるくらい問題ないよ、カノンだしね。ついでに、リーベの負担も減りそうだし」

「じゃあ、今度カノン君にその話をしてみてもいい?」

「この話に乗るかはわからないけどね。カノンのことだから、断ろうとするかもしれないし。そこらへんはリーベに任せるよ。カノンの説得はむしろリーベの方が得意だろう」

 私は首を傾げる。自分が説得上手だと思ったことはないけれど。時折感情的になりすぎるきらいもあるから下手とは言わずとも平均以下だと思っていた。

「そう?」

 すると、お父さんは肩をすくめた。

「だって僕、生まれてからずっと世話されてきた立場なんだもん。世話する側の話は、リーベの方が上手かなって思うんだ。こういう話なら、同じ立場の人が話した方がいい。立場によって気苦労って変わるしね」

 確かにお父さんの世話は大変──楽しんでもきたけれど──で、これからも続いていくことだろう。それにずっと世話をしてきて、良いことも悪いことも知っているのは私だけだ。それなら私が適任かもしれない。

「確かにね。でも、私はカノン君の連絡先知らないけれど」

 お父さんが困ったように目をそらす。

「あー……僕も知らない」

 そういえば、カノン君は毎年どころか毎月、千住さんの命日にお墓参りに行っていると言っていたのを思い出した。お父さんさえ行く気であれば、来年の命日に会うことが出来るかもしれない。

「カノン君、毎年千住さんの命日にお墓参りに来ているって、あの時言っていたから。もしかしたら、来年会えるかもしれない」

 お父さんは「それならその時が良いね」と笑う。

「じゃあ、また会ったら相談してみてもいい?」

「もちろん」

 カノン君がもしこの屋敷に来たら、なんというだろうか。

 とりあえず一番にやることは、彼に中核システムへのアクセスコードを教えることだ。それに、彼がのんびりしたいと言うのなら家事をして貰うこともないだろう。

 でも、彼のことだ。多分そうはならない。

 思わずにやけたのを見て、お父さんが首を傾げる。

 必要なら──確実に必要になると思うけれど──彼にこの屋敷での、仕事の仕方を教えないと。


≪第二節 21270816≫

 私が知る限りでは特に何事もなく、暑い夏がやってきた。じりじりと照らす陽光が白い幹線道路に反射して、また空へと返っていく。

 最近知ったのだけれど、昔は道路が黒かったそうだ。黒は言わずもがな、光を吸収して放出する性質がある。そのせいでヒートアイランド現象や道路自体の溶解や軟化というのがよく起きていた。

 けれど今は白い道路──白は光を吸収せずに反射する──のおかげで、昔と比較すると都市部の気温は平均して1 ℃程度減少している。ロサンゼルスでは2017年に道路を白く塗る実験が行われて、結果として道路表面の温度は最大で平均9 ℃下がったそうだ。また、ある町で試験的に行われた建物の屋根まで白くした実験では、町全体の平均気温が2 ℃も下がったという実験結果があるのだとか。

 そうはいっても、私が知っているのは昔じゃなくて今だ。知っている限り、今も暑いのは変わらない。それとも、私には耐えられないほど昔は暑かったのだろうか。

 e-ブックスタンドに電子新聞が届いたという通知が流れる。一部をお父さんに転送してから、中身を軽く流し読みする。電子新聞にもテロのことはほとんど載っておらず、あるのは政界が相も変わらず紛糾しているという程度の話だけだ。

「一体、どういうことなのだろう……」

 もちろんテロなんて起きてほしくはないのだけれど、ここまで報道されていない──国営放送でさえテロの話は出ていないようだった──のを見ると首を傾げてしまう。一年前でさえ月に一回はテロや暴動を起こしていた彼らが、こんなに我慢できるものなのだろうか。

 一番考えやすいのは、パニックを抑えるための報道規制だ。それなら国営放送が報道していないのも頷ける。けれど、電子新聞社は基本的にそういう制約を受けない。

 もしかしたら、電子新聞社も裏付けを取れていないのかもしれない。幾ら世界に支社のある電子新聞社とはいえ、世界中でテロが頻発してしまえば裏付けをするためのリソースが分散してしまう。彼らは裏付けなしでは報道しないのだから、先程の報道規制も相まって見えなくなってしまっている可能性も考えられる。

 どちらにせよ、いつ何時彼らが暴れるか分かったものじゃないというのは、あまりいい気持ではない。

「他に何かあるかな……過激派の動きが見えていない理由……」

「ま、奴らが我慢しているって線は無しだよね」

 振り向くと、お父さんがマグカップを片手に立っていた。私は窓を眺めるのを止めてお父さんの方へ向き直り、思わず口をとがらせる。

「また私の考えを読んだの?」

「ちょっと違うな。人間は他人の考えを読むことはできず、ましてや人間が他人の心を理解することすらもできない、これが心理学の原則だよ」

「じゃあ、言い方を変える。『私の言葉をお父さんのフレームワークに当てはめて、仮に自分が今の発言をするのであれば、どのような思考を行ったか』を考えたの?」

 お父さんがほほ笑んだ。

「正解。100点だね」

「『人間はあくまで自分の経験した範囲でしか物事を判断できない』でしょう?」

「そういうこと」お父さんが近くのソファに座って、コーヒーを一口飲む。「で、僕もほとんど動きがないのは気にしていたんだよね」

「やっぱり? 変だよね」

「それで、ちょっと調べてみたんだよ」気づいたかのように付け加える。「合法的な手段だよ?」

「よかった。それで、結果は?」

「どうも、奴らが動いているのは間違いなさそうだね。マシニスト系団体っていくつかあるって話はしたと思うんだけど。穏健派とか≪ザ・セーヴス≫とか≪S.V.S.≫とか」

 ≪ザ・セーヴス≫はカトリック系のマシニスト団体だ。聞いた話では構成員は全員整備士や医師で、『汝隣人を愛せよ』の言葉の元、大規模な戦闘や暴動があれば世界中を飛び回って人間や機械問わずに助けるらしい。ただし、あくまで機械は人間の良きパートナーであるという認識だと聞いている。

 ≪S.V.S.≫はService by the Volunteer Spirit、『ボランティア精神による奉仕』という名前の多宗教・多国籍・多文化慈善NPOだ。彼らは地域のごみ拾いから医療の生き届いていない居住困難地域(アネクメーネ)に医療支援を行うことまで、名前の通りボランティアで行う。そのため厳密にはマシニストでもイマシニストでもないのだけれど、機械の手を借りることや比較的機械に友好的なのもあり、マシニスト系団体と考えられることも多い。

「うん」

「彼らのホームページを管理しているサーバーに情報開示請求して更新履歴を調べてみたんだけど……彼らの支部がね、どんどんホームページから消去されている。平均して一週間に一つくらいずつね」今の時代──あくまでホームページ(HP)の更新履歴やスクリプトなどに限るけれど──情報開示請求をすることで誰でも過去数年単位の情報を手に入れることが出来る。「多分、何らかの経済的とか人員的とかの理由で閉鎖しているのも含まれていると思う。でも、大部分は襲撃を受けたんじゃないかな」

 その話を聞いて、顔を顰めた。きっとそうだろうとは思っていたけれど、その可能性を裏付けるような事実を聞くと、どうにも怒りがこみ上げてくる。そうはいっても誰にこの怒りを向けて良いものか。

「……やっぱり」

 お父さんが中のコーヒーを飲み干すようにマグカップを傾け、テーブルの上にカップを置いた。

「分かる限り、全マシニスト団体に攻撃が行われているわけではないみたいだ。≪機械解放戦線≫みたいな過激だったり武装してるマシニストには攻撃を仕掛けてない。あと、ノンマシニストは攻撃を受けていな……あ、≪GWRH≫はかなり壊滅的だったな。元々過激派と敵対していたのもあるんだとは思うけど」

「どうにか、出来ないかな」

 お父さんが首を横に振る。

「今は無理だよ。僕らにできることは、もうしているから」

「……そうだよね」

 今やれることはやっている、それは分かっているけれど。

 ふと、ジョンさんの言葉を思い出す。

「『今の私にできることをする』、それしかないものね」

「だね……」お父さんがカップを持って、申し訳なさそうに口を開く。「このタイミングで頼むのも気が引けるんだけどさ」

 今まで話していた内容との落差に思わず苦笑いを浮かべながら、私は椅子から立ち上がってマグカップを受取る。

「わかった。ちょっと待っていてね」

「ありがとう」

 キッチンに向かいながら、これが「『今の私にできること』なんだろう」なんてことを考えていた。

 もちろん過激派のやっていることを容認する気も、彼らの攻撃によって怪我や無くなった人のことを忘れる気も、彼らの魔の手がいつ私たちに届くのか分からないという恐怖を無視する気も全くない。

 けれど、そんな中でも私にできることがあるのなら。それがどんな些細なことであっても。

──精いっぱいやらないと、ね。


≪第三節 21271016≫

 その日、私が朝食を食べた後を片付けていると、突然電話が掛かってきた。

 目の前に浮かんできたポップアップを見ると、かけてきた主はコンちゃんだ。彼女から電話が掛かってくるなんて珍しい。I.R.I.Sで何かあったのだろうか。

──思えば、今日はコンちゃんの誕生日ね。

 そんなことを考えながら電話に出ると、いつも通り気だるげなコンちゃんの『もしもし、リーベ?』という声が聞こえてきた。

「もしもし。どうしたの、コンちゃん」

 若干の間。私は洗い物をアルタイルに任せて手を動かしたまま、首を傾げる。何か変なことを言っただろうか。

『……その呼び方、気に入った?』

「呼びやすいの」

 電話越しにため息が聞こえてきた。

『まあいいわ。十一月五日って、雪村さんの予定空いている?』

 記憶してあるスケジュール帳を辿って見ても、一カ月先まで特に予定はない。

「ううん。お父さんなら、特に予定はないよ」

『雪村さんが良ければ、その日にやる謙治の講演を手伝ってほしいのよ。あの子の言葉って、難しすぎて殆どの人が理解できないから。雪村さんなら噛み砕いて解説できるでしょう?』

 確かに周防さんの言葉はなんというか、彼の知っていることを前提に話してしまうせいなのか、事前知識がないと理解が難しいことが多い。せめて、もう少しゆっくり話してくれればいいのだけれど。

「分かった、ちょっと聞いてみるね」そういいながら、お父さんのPCへコンちゃんの話を要約し、イントラネットを通してメッセージを送る。「でも、周防さんが講演なんて珍しいね」

『あなたもそう思う? 何でも、I.R.I.S運営部が企画したAI工学部向けのものらしくて。本人はとても嫌がっているのだけれど、整備部長だから簡単な話だけでもってことでやらされるらしいのよ』

 そう聞くと、あまりいい気分はしない。ただでさえ、周防さんは人前に出るのが苦手な人なのに。

「……大変そうだね」

『でも、雪村さんがいれば少しは謙治も安心でしょう』

 そのとき、ポップアップが表示された。話は理解したから、参加するという趣旨のことが書いてある。

「コンちゃん、お父さんは出られるみたいだよ」

『それなら安心だわ。会場とか入場口とか、細かいことはメールで送るから。じゃあ、十一月五日にね』

「うん」ふと、先ほど考えていたことを思い出す。「コンちゃん、お誕生日おめでとう」

『え?』またしても間が開いた。『ああ、そうね……私、今日が誕生日というか起動日ね』

「忘れていたの?」

『起動してから一度も祝われたことがないもの。謙治がそんなに気が利くとでも思ったの?』

 確かに周防さんがコンちゃんの誕生日を祝う光景なんて、プロセッサをフル回転させても考えられない。というよりは彼女のことだから、祝うよりも仕事しろと言っていそうだ。

「そうかもね」

『あと私はあなたと違って喜ぶような成長がないおかげで、年月を経れば経るほど劣化が酷くなる一方だもの。年を取るのを喜ぶのは難しいわね』

 劣化を気にするなら私のように人工消化器をインストールするのはどうだろう。あれを使えば、劣化を抑えるだけではなくある程度の成長も見込めるのに。

「お父さんに頼んで、人工消化器を──」

 彼女が私の言葉を遮る。

『あなたと違って、私は機械でいたいの。だから、食べることも出来なくていいし経年劣化に抗わなくてもいいし、人間に近づく気はないのよ。時間が経てば朽ちていく機械で良いの』

 怒気をはらんでいるわけでもなく、悲しんでいるわけでもない、あまりにフラットな彼女の声に私は黙り込む。

『……というか、私は機械でいないと。それが謙治のためだもの』

「そっか……」

『じゃあ、もう伝えることは伝えたから。十一月五日にね』

「うん」

 私は電話を切り、アルタイルが終えていた洗い物を乾燥させ、元の場所へと片付ける。

 片付けながら、謝るべきかどうか悩んでいた。

 彼女のことだから、気にしなくていいと言うだろう。けれど、あの声は私が踏み込んではいけないところに踏み込んでしまったときの声だ。誰にだってある、他人から触れてはいけない話題。私は彼女の、そこに触れてしまった。

──それなら、謝らないと。

 悪いことをしたら謝るのは当然のことだから。

 そのとき、コンちゃんからメールが送られてきた。考えていたことを中断して中身を見ると、場所や入場手続きの手順、あとは入場コードが同封されていた。私とお父さんの分の二つだ。

 お父さんの分の入場コードとコピーしたメールを先ほどと同じようにPCへ転送してから、私はメールの返信欄に受け取った趣旨を入力する。

 ふと、返信欄で先ほどのことを謝ろうかという考えが過ぎったけれど、十一月五日に会うのだからその時に謝った方がいいだろう。対面と文字では、伝えられる情報の多さが違うのだから。

 そう思い直してメールを返信し、私は彼女にどう謝ろうかと考えながら家事へと戻った。


≪第四節 21271105≫

 私は少しだけ重い瞼を擦りながら、お父さんと一緒に自動タクシーに乗って周防さんが講演するというホールへと向かっていた。

 あの後、色々と考えていたせいで睡眠が浅くなっていたらしく、どうにもここ数週間後眠気を感じる。もちろん人の感じるような眠気とは違って、私の眠気というのは消去や整理しきれない不要なデータのせいで処理が重くなることなのだけれど、はた目から見れば人間そっくりだろう。それに人間も寝不足になるとパフォーマンスが落ちるそうだから、案外近いのかもしれない。

「大丈夫?」

 見かねたお父さんが私に訊ねる。今日は珍しく濃紺のスーツを着ている。かくいう私も黒いパンツスーツなので──元はお母さんのものだったらしい──珍しいと言えば珍しい。

「うん。ちょっと色々と考えることがあって。でも、これは私の問題だから」

「そっか。無理しないでね」

「お父さんもね。こんなこと、初めてでしょう?」

 そういうと、お父さんは肩をすくめた。

「いや、実は何回か。いつもは周防から頼んできたんだけどね」

「じゃあ、あまり緊張していないのね」

「まあ人前に出るから、緊張自体はしてるけどね。リーベが思うほどじゃないよ」

 自動タクシーがホールの前で停まる。見ると、ホールの前には十人くらいの集団がいくつかのプラカードを持っていた。こちらからではプラカードが裏になっていて、何が書いているのかは見えそうもない。ただ、黒い旗が風になびいているのは見える。黒い旗というと、無政府主義(アナキズム)のシンボルだったはずだ。

 集まっている人たちは皆、仮面をかぶっていた。確か、あの仮面はガイ・フォークスの仮面だ。となると『抵抗と匿名』を掲げる組織だろうか。

 けれど、覚えている限りそんな組織は存在しない。アンノウンの原型になったアノニマスは確かに使っていたけれど、彼らは緩やかにつながっていただけにインターネットの匿名性が失われてクラッカーに対して政治的・警察的な介入が活発に行われるようになってから、少しずつ分裂や消滅を繰り返していった。最終的に彼らのミームはアンノウンに引き継がれるため、形を変えて生き残ってはいるとはいえ。

 そうはいっても、アンノウンが掲げているのは『個人主義を実現するためのハクティヴィズム』だ。『抵抗と匿名』じゃない。

「お、ガイ・フォークスか。確かに今日、ガイ・フォークス・ナイトだもんね」

 支払いを終えたお父さんがそう呟く。

 ガイ・フォークス・ナイトはイギリスで行われていた──少なくともWWⅢ以前まで行われていた──イギリスのお祭りで、ガイ・フォークス達が11月5日にイギリス上院議場を吹き飛ばそうとして失敗したのを記念したものだ。そのお祭りではガイ・フォークスと名付けられた人形をひきまわし、夜になったら焼き捨てていた。尤も、直近ではそういう祝い方がされなくなり、花火をあげたり火を焚いたりされていたそうだけれど。

「アノニマス、じゃないよね?」

 私が不安を口にすると、お父さんは首を振った。

「いやいや。多分、お遊びみたいなもんだと思うよ。彼らみたいに何かに対するデモとして集まったわけじゃないんじゃないかな。もちろん、アンノウンでもないだろうし。アンノウンは元々アノニマスの中でも消極的なグループだったらしいしね」

 そういってお父さんが自動タクシーから降りる。私も降りてホールに向かう道すがら、集団が持っていたプラカードが目に入った。

 まとめると、アナキズムを支持するというようなことが書かれているようだった。それと──彼は無政府主義に則って議場を吹き飛ばそうとしたわけではないのだけれど──議場を吹き飛ばそうとしたフォークスへの賛辞も。ちなみにフォークス達が議場を吹き飛ばそうとした理由は宗教的な理由だったと聞いているので、このプラカードはちょっと正確とはいえない。

 とはいえ、『V・フォー・ヴェンデッタ』では体制社会やその他諸々と敵対したブイが色々と吹き飛ばしていたので、それに準拠しているなら正確かも。

「夜になったら人形が焼かれているか、花火が撃ちあがっていそうだね」

 そうお父さんにささやくと、にやりと笑う。

「ああいう活動を大々的に出来るようになった、ってだけでもいいのかもね。〈スーパーノヴァ〉以前は、あんなのやったら早々に捕まるからさ。でも、こんな人のいないところでやっても、あんまり効果はなさそうだけど」

 確かに周りにいるのは私たちとあの集団だけだ。私たちがいるのは職員や来賓用の出入り口でエントランスではないのだから、当然といえば当然なのだけれど。

 出入り口のドアに併設されていたテンキーへお父さんと私のコードを打ち込む。ドアが音もなくするりと開いて、タキシード姿のUSRインダストリー製──結局、〈スーパーノヴァ〉後もUSRIやテクノリジアのようなアンドロイドメーカーは上層部の顔ぶれが変わっただけで存続していた。というのも、大規模にアンドロイドを作れるのが彼らの他に居ないからだ──IG-2110が出迎えてくれた。

「雪村尊教様、L21070615A、こんにちは」

 彼が心地のいい声で私たちに挨拶してから、「お待ちしておりました。では、こちらに」と滑らかな動きで踵を返して先導する。私たちはその後ろについていった。


 控室に案内されて中に入ると、青ざめた顔で壁際の椅子に座っている白いポロシャツとグレーのスラックスを身に着けた周防さんといつも通り気だるげな顔をして壁に寄りかかっている紺色のレディーススーツ姿のコンちゃんが居た。

「やあ、周防」

 お父さんに気づいた彼が、今にも消え入りそうな声で返事をする。

「ああ……雪村君」

 私は早々にコンちゃんの側に寄っていった。

「周防さん、様子どう?」

「さっき昼食だったのだけれど、駄目ね。緊張で食事がのどを通らないって言うものだから、無理やり食べさせたわ」

 よくあることだ、と言わんばかりに彼女は肩をすくめる。お父さんと周防さんは、なにやら難しいこと──量子コンピューターの応用についてや超ひも理論の発展についてなどなど、大抵の人は耳を塞ぎたくなるようなこと──について話していた。周防さんはこういう話になると饒舌になるから、お父さんなりに彼の緊張をほぐそうとしているのかもしれない。

 とりあえず、彼のことはお父さんに任せておくのが一番だ。コンちゃんの次に詳しい人なのだから。

 私は、私のことをしないと。

「前はごめんね、コンちゃん」

 不意を突かれたような顔で、彼女は首を傾げる。

「何かあったかしら?」

「ほら、10月16日。あの時、私が失礼なこと言ったから」

 その言葉で思い至ったように、彼女は頷いた。

「ああ。あんなこと気にしていたのね」軽くため息をついて笑う。「大丈夫よ。あなた、いちいち気にしすぎじゃないの?」

──良かった。

「『これくらい問題ない』と思うよりはいいかな、って」

「過度な責任感は鬱病の元になるから、あまりお勧めはできないけれどね。私たち機械が鬱病になるのかどうかはさておき」

「そうね」

 そのとき、IG-2115がドアを開けて顔を出した。

「周防様、雪村様、お時間です」

 呼ばれた二人が立ち上がる。思えば、今のところ人間はお父さんと周防さんしか見ていない。

「コンちゃん、ここって人が運営に携わったりしているの?」

 そう囁くと彼女は首を振った。

「一部監督という形ではいるけれど、基本的な運営はすべて機械に任せてあるみたい。この講演の目的って、使われなくなったり修理が難しかったりした個体の再利用もあるのよ。『旧式でも十分働ける』っていうのを示すためにね」

 今の時代では──といっても、歴史をさかのぼれば大量消費時代に行き着く──新型アンドロイドが造られれば、多くの人が買い替える。当然、それまで使われていた旧型は捨てられるか別の場所に引き取られるかだ。

 これを資源の浪費であるとかWWⅢで資源が足りなくなったのに浪費するなんて矛盾しているとか否定する立場の人もいるけれど、テクノロジーの観点からだけで見れば、個人的には肯定することも否定することもできない。もちろん長く使ってほしくはあるけれど、新型は新型で新機能の追加や物理的なセキュリティの問題が解消されていることもあるから。

 でも、こういう形でまた利用されるなら、案外悪くない。少なくともプレス機にかけられて潰されるよりは良いはずだ。

「──リーベ、あなたはどうするの? 来賓席はあるけれど」

 コンちゃんに呼ばれ、思考の海から戻った私は頷いた。

「そこで見ていようかな。多分、私がやることはないでしょうから」

「なら、こっち。ついてきて」

 私はお父さんに「コンちゃんと一緒に来賓席で見ているから」と伝えて、彼女に促されるまま控室からホールへと歩いていった。


 来賓席にある、白い生分解性繊維強化プラスチック(FRP)で出来たひじ掛け付きの折り畳み式椅子に座ると、舞台に司会をやっていると思わしきタキシード姿のモデレートロイドが現れた。日本ア(J)ンドロ(A)イド製(P)造社(C)が2090年代に作ったものの、講演なんてほとんど行われていなかったあの時代では需要が殆どなかったタイプだ。

 隣にコンちゃんが座る。彼女は相変わらず、肘をひじ掛けに乗せて頬杖をついていた。

「モデレートロイドなんて初めて。写真では見たことがあるけれど」

「でしょうね。ここ最近よ、ああいう司会進行をこなせるアンドロイドの需要が上がり始めたのは。同じように修理の件数も増えたけれどね……数人規模の集会でもアンドロイドに任せているみたい」

 私は首を傾げた。これだけ大きい講演なら熟達した司会進行役や特化したアンドロイドが必要になる。でも、十人や二十人程度の集会をするためにアンドロイドが必要になるのだろうか。ヒューマノイド型アンドロイドに出来るのであれば、大概のことは人間にもできるはずだけれど。

「わざわざ高価なアンドロイドを買う必要もないのに。人間だって出来るでしょう?」

 彼女は肩をすくめる。

「わざわざ人間がやろうとも思わないのよ。『面倒なことや大変なことを擦り付けるためのアンドロイド』って精神は、法律が消えようが国際組織が一つや二つ消えようが、一朝一夕で変わるものではないから」

 法律は精神にまで介入できない。一度培われた精神は、法律やちょっとした混乱では、殺されない。そのことはアーサーさんが教えてくれた。

「……そっか」

 人間が変わるには、まだ時間がかかるのかもしれない。それとも表面上は変わっても、中身は何処までも変わらないのか。

「難しいものね、変わるって言うのは」

 そのとき、マイク越しに『お待たせいたしました。I.R.I.S整備部長の周防謙治様です。また、アドバイザーとしてご友人であり自身もAI工学博士である雪村尊教様もいらっしゃっています』

 拍手と共に──拍手をしているのはまごうことなき人間だ──二人が袖から舞台中央へと歩いていく。お父さんは緊張していないらしく微笑みながら、周防さんはまるでブリキのロボットの様にぎこちない動きで。

「全く……」

 隣からコンちゃんのため息が聞こえてくる。舞台では、演台に立った二人にマイクがそれぞれ渡された。

『ど、どうも……周防です……』

 お父さんがちらりと周防さんの方を見ると、そのことを合図にしたかのように彼が頭を下げる。それに続いて、お父さんもお辞儀した。

『多分、大体の人がはじめましてなんじゃないかと思いますが、僕は彼の友達の雪村尊教と申します』

 モデレートロイドが促すように、『では、よろしくお願いいたします』

 お父さんがモデレートロイドの代わりに周防さんに訊ねた。

『周防、記憶領域が物理障害または論理障害を起こしていると考えられるとき、I.R.I.S整備部では何をしているんだい?』

 先ほどとは打って変わったように背筋を伸ばした彼が、かなりの早口で話し始める。

『えっと、基本的にAIは設計思想からして修理に耐えうるようにはできてないんだ。それは量子コンピューターの計算能力を支えているQMDにデフォルトとしてオートバックアップ機能が搭載されていないことや高速性を維持するためにストライピングを行っていることが原因になってて、高速化の代償として信頼性や冗長性を犠牲にするという設計思想が多くのAI製造会社に共通しているからなんだよね。だから一切の知識がない場合には修理は到底不可能だしメーカーにもっていったところで初期化されるか代替品が送られるかのどちらかなんだけど、I.R.I.Sではまずは物理か論理かを調べた後、物理障害であればアダムス・アキラ方程式やFQDを用いれば破損個所が分かるし、論理障害であれば原因であるディレクトリの誤作動やStandART自体のバグを《RAINBOW》を使って原因箇所を特定してから、加筆修正すれば修理が可能なことが多いかな。もちろん、どの工程も新しいQMDにオリジナルデータを吸い出した後だけど』

 一頻り語った後、周防さんはいつも通り自信なさそうに縮こまる。

 お父さんが補足するように、『≪RAINBOW≫はI.R.I.Sを運営しているAI群です。また、アダムス・アキラ方程式やFQDことフランチシュカ式量子検出器なんかはかなり最近実用化された理論や技術ですね。つまりI.R.I.Sでは記憶領域の修理に際して最新技術を用い、メーカーも想定外のことを行っているということです』

──なるほど。

 お父さんが周防さんへ問いかけることで、一体(one t)多数(o many)ではなくて一対一(one to one)の形をとっているので、周防さん自身も緊張しにくいはずだ。加えて周防さんが言ったことをお父さんが噛み砕いて要約することで、他の人にも理解しやすくしている。

「周防さんとお父さんって、昔からああやっているの?」

 コンちゃんにそう囁くと彼女は頷いた。

「上手いものでしょう。ああすれば謙治は緊張しないから、いくらでも話せるのよ」

 私たちが話している間に、二人は別の話題へと移っていた。今回は整備部で一番大変だったことの話らしいけれど、周防さん自身がどんな難題でも解決してしまうせいか、そういう経験はないそうだ。


 そんな感じで三十分ほど二人が話し続けた後──基本的なテーマは『I.R.I.Sではどんな仕事をしているのか』がメインで、あとは周防さんの経験した話とかどんな人が向いているかとかそういう話だった──時間が来たのかモデレートロイドが『では周防謙治部長、ご講演ありがとうございました。次はI.R.I.S運営部のフェリクス・ウェーバー様です』というアナウンスを流した。次いで壇上の二人が袖へと去っていき、代わりにグレーのスーツに身を包んだ初老の男性が──多分、身体的特徴と名前からみてドイツ人だ──壇上へとあがって話し始めた。

 ウェーバーさんが話し始めてしばらくしたころ、お父さんと周防さんが来賓席に来て私たちの隣に座った。

「お疲れさま」

「ありがとう、リーベ」

 そういったお父さんはひじ掛けに肘をついて、壇上の話に聞き入る。逆に、コンちゃんたちは小声で何かを話していた。どうも今回の講演でどこが悪かったかとかどこを改善すればいいとか、そういう話みたいだ。

 とりあえず、私もお父さんと一緒に話でも聞いていよう。これ以外、することもないのだし。

 

 ウェーバーさんが話し終わって閉会式を終えた後、私たちはまた控室に戻り、円を描くように並んだ椅子に座っていた。

「今日はありがとう、雪村君」

 少し疲れた顔の周防さんがお父さんへ頭を下げる。お父さんはというと、笑って首を振っていた。

「前からこんな風にやってたからね、気にしないでいいよ。こちらこそ、いろいろ面白い話を聞かせてくれてありがとう」

 コンちゃんも頭を下げた。

「今日はありがとうございました、雪村さん。私たちはこれからI.R.I.Sに戻って、政府AIのメンテナンスをしないといけないので……」

「え? コンちゃん、まだ働くの?」

「そうなのよ。酷使のせいで政府AIが壊れたのだけれど、それを一週間で修理しろっていうものだから」彼女がため息をつく。「まったく、もう少し冗長性なり信頼性なりを高めてほしいものね」

 お父さんが笑う。

「だからといって、リーベ並みに信頼性と冗長性を上げるとコストがとんでもないことになるけどね」

 コンちゃん達が立ち上がる。

「じゃあ、私たちはI.R.I.Sに戻りますから」

 ここでやることもないのだし、私たちも帰ろう。そう思ってお父さんの方を見ると、同じようなことを考えていたようだった。

 私たちも立ち上がる。それと同時に、私は自動タクシーを一台呼んだ。多分、周防さん達の方はコンちゃんが既に呼んでいるはずだ。

「また今度、ゆっくり話しましょう」

「そうね」

 私たちは四人で、来賓用の出入り口へと向かった。


≪第五節 21271225≫

 私はキッチンで今日の夕食を作りながら──今日はクリスマスだ──お父さんが帰ってくるのを待っていた。

 本当は今日どこかに出かけようか、なんて話をしていたのだけれど、今朝がたクライアントから電話が着て急きょ出張になったのだ。なんでも、突然サーバーが壊れてしまって仕事にならないので直しに来てほしいということだった。尤も、お父さん曰く「突然ぶっ壊れるなんてほっとんどないんだよ。大抵、前から起きていた問題を見逃していただけ」だそうだけれど。

 そんなわけで出かけるのはお預けになり、午前中の家事を終わらせて一人で昼食を摂ってから、午後の家事をしつつ夕食の準備をしていた。

 ある意味、お父さんのクリスマスプレゼントに悩むことが無くなったのは良いことなのかもしれないけれど──なんといってもあの人は、知識欲は旺盛だけれど物欲がないので、欲しいものを聞いたところでまともな答えは返ってこないのだ──誰かのために悩むのも限度はあれど楽しいものなのに。

 そんなことを考えながら準備を進めていると、あっという間に一段落がついてしまった。あとはお父さんが帰って来てからの方がいいだろう。

 濡れた手を拭いてからリビングに行って、ソファに腰かける。

 しかし、何をしようか。本を読んでもいいけれど、リビングにある本は一通り読んでしまった。電子新聞も先ほど読んでしまったし、音楽や映画に関してはデータアーカイブがないし。元旦に行こうと考えている初詣の準備は殆ど終えてしまっていた。あとはお父さんがどう言うかだ。

 何も考えずにぼぅっとしているのもたまにはいいのかもしれない。そうは思いつつ、どうもお父さんの忙しなさが移ってしまったらしく、何もしないとか何も考えないとかが苦手になってしまった私はぐるぐると頭を巡らせていた。

 突然、「私に恋愛というものができるのか」という考えが脳裏をよぎる。その考えがあまりに突然すぎて、思わず私は吹き出した。

──なんでいきなり?

 確かに以前から、私には恋愛感情というものが無いのではないかと考えてはいたけれど、このタイミングで浮き上がってくるなんて。

 でも考えることもないことだし、ちょうどいいかもしれない。じっくり考えてみても良いだろう。

 

 前提として、交友関係自体が狭いとは思っている。そうはいっても、学校に通ったり何かの活動に参加したりしているわけでもないために出会いの場なんてなかったのだから、仕方のないのだけれど。少し前にお父さんに無理を言ってPCWを観に行ったことはあるものの、あそこにあったのは様々なプロパガンダと誹謗中傷だけで、そういう活動をしているものの多くはボット(BOT)と思われる挙動を示していた。そんなところに友人を求めることはできそうもない。

 となると現実世界で考えることになる。でも、現実世界での知り合いは良い人ばかりではあるものの惹かれるような人はいない。お父さんみたいな人は魅力的だと思うし沢井先生みたいな人も良い人だと思うし、ミノロフさんみたいな人を除けば、私の周りには魅力的な人が多い気がする。

 でも、だからと言って好きだというわけじゃない。いや、好きなのは好きだ。でも、『好き』とは違う。

 まず、私はどんな人が好きなのだろう?

 容姿のいい人? 誰だって、容姿の良い方が好きなものだ。容姿の良い人は知的で有能であるという評価を受けたり、裁判で勝ちやすくなったりするなんて調査もあるくらい──その分、嫉妬されたり正当な評価を受けにくかったりもするのだけれど──だから。

 じゃあ、性格のいい人だろうか? そうはいっても、本当の性格なんて長く付き合わないと分からない。サイコパスだって一見すれば、勇敢で冒険心に溢れ、活発な人間に見える。本性はジョン・ウェイン・ゲイシーとかアンドレイ・チカチーロとかだけれど。第一、どんないい人でも悪いところというのはあるものだ。

 あとは好みやセンス? だとしたら、私はお父さんが恋愛的な意味で好きなはずだ。殆ど完璧に好みやセンスが一致するのだから。でも、『好き』とは違う。

「うーん……」

 次に、私が人間を、恋愛的な意味で好きになることがあるのだろうか。

 パートナーと上手くいくかどうか関しては遺伝子の相性で決まっているなんて説もあるのに、遺伝子のない私が誰かを好きになることがあるのだろうか。尤も、その理屈だとアンドロイドを好きになった人間の話──技術的特異点(シンギュラリティ)を迎えた後に男女問わず、そういう事例が頻発したそうだ。もちろんアンドロイド側はそんなことに気づけなかっただろうけれど──を説明することもできないし、プラッチクの感情の花で言われているように『喜び』と『信頼』から『愛』が生まれるという話も説明できなくなるし、一卵性双生児が同じ人を好きになるわけではない話の説明もつかないのだけれど。もちろん、近親相姦を防ぐために女性は父親の匂いを不快に感じるなんていう調査もある以上、「絶対にそうではない」とは言えない。もしかしたら、メタデータやビックデータを用いた解析を行えば、科学的に何かあると分かるのかもしれない。

 顔を顰める。理屈っぽく考えすぎなのだろうか。

 誰かに相談してみたらどうだろう? でも、お父さんに相談したところで、まともな答えが返ってくる気はしない。お父さんと私の考え方は似ているから、多分理論的な答えが返ってくるだけだ。

 何処か歩きながら考えれば、答えが出るだろうか? 以前聞いた話で、アリストテレスのようなギリシアの哲学者は、歩きながら哲学のことを考えていたという話がある。でも、一人で歩くことが危険だった時代が人生の大半を占めているせいで、一人で出歩くのは怖い。

 それになんとなくだけれど、他人と私の恋愛というのは違う気がする。少なくとも、私が小説や映画の中で見てきた恋愛と私が朧げに思っている恋愛は違った。幾ら小説や映画が受け入れやすいように加工されているとはいえ、全てが嘘ではないはずなのに。

 どうして、私が触れてきた恋愛は私のものではなかったのだろうか。

 私が人間ではないから? 人間に近づけば近づくほど、私と人間は違うのだと感じることが多くなっていった。けれど同じくらい私と人間は同じだと感じることも多くなったし、人と同じように暮らしてもいるし、なによりいつも人間と間違われる。

 じゃあ、私が愛というものを理解できないから? 確かに愛に対してふわふわとしたイメージはあるけれど、それを他人に説明できるほど形には出来ていない。でも、お父さんやレーベン、周りの人たちに抱いているこのふわふわとしたものは、間違いなく私なりの愛情だ。

 じゃないと、あんな小難しくて止めようのない人の隣にいるなんてできないし、その人のために泣くことだってできないし、あの人が喜んでいるときに一緒に喜ぶことすらできない。

 しばらくうんうんと頭を巡らせてみて、やっと一つだけ結論が出た。

 私は一度も恋をしたことがないのだ。誰かを愛したことはあっても、誰かに恋したことはない。

 きっと、愛と恋は違う。私の愛は義務や友情、信頼……なんでもいい、長い付き合いの延長線上に連続して存在するものだった。でも、恋はふとした瞬間にするものなのかもしれない。それこそ、お父さんとお母さんが大学構内で出会った時のように。

 一瞬で生まれるものと長い付き合いから生まれるもの。一緒くたにされがちだけれど、月と(すっぽん)ほど違うもの。

 そんな風に突き動かされるような経験をしたことのない私が、恋を理解できるわけがなかったのだ。

「なーんだ……」

 私は背伸びして背もたれに寄りかかる。ずっと考えていたことだったけれど、少し考え方を変えるだけで簡単に結論が出てしまった。この結論が絶対というわけではないものの、今の私にはこの結論で十分だ。

 この考え方が正しいのであれば、私はいつか恋をするのだろうか。まるで突き動かされるような、焦がれるような恋を。

──だとしたら、どんな人にするのだろう?

 未だに答えが出ていない、私の好みの人にするのだろうか? それとも、好みとは違うけれど好きになるような人が居るのだろうか? その中間である、好みの部分もあり、嫌いな部分もあるような人なのだろうか?

──どうせなら、隣にいてくれるような人が良いかな。

 ドアの開く音が聞こえ、お父さんの「ただいまー」という間延びした声が聞こえる。私はソファから立ち上がって、考えるのを止めて玄関に向かった。


≪第六節 21280309≫

 肌寒い日が少なくなりはじめ、相反するように薄曇りの日が多くなり始めた季節に差し掛かったこの日、珍しく沢井先生が私たちのところに来ると連絡が入った。なんでもここ最近忙しかったのが、やっと落ち着いたということで顔を見せに来るのだそうだ。

 13:10になった頃、家の前に自動タクシーが止まる音が聞こえ、ほどなくしてARに沢井先生の管理IDと顔が映し出される。用意を止めてドアを開けると、以前見た時よりは少し元気そうな沢井先生がそこに立っていた。

「こんにちは、沢井先生」

「よう、リーベ」沢井先生が玄関に上がり、羽織っていたトレンチコートをコート掛けに掛ける。中は灰色のニットとクリーム色のカーゴパンツだ。「雪村はいつも通り、ぎりぎりまで出てこないか?」

「ええ。昼食はご用意していますので、よろしければ先に召しあがっていてください」

「そうさせてもらうよ」

 沢井先生が靴を脱いで、ダイニングルームへと向かう。私はお父さんを呼ぶために、書斎へと向かった。

 書斎のドアをノックする。いつも通り、返事はない。

 ドアを開けると、灰色のスウェットスーツに身を包んだお父さんが、眉間にしわを寄せた難しい顔をしてホロディスプレイを睨んでいた。ディスプレイ上には行列式や五次方程式、多分五次方程式を解くための楕円関数とかが見えるけれど、何のために書いてあるのかはわからない。

「お父さん、沢井先生が来たよ」

「ん?」ホロディスプレイに表示されている時計を見たお父さんが立ち上がる。「もうそんな時間だったか。今行くよ」

 私はドアの方に向かって歩いてきたお父さんの隣に収まりながら、「何見ていたの?」と尋ねた。

「いや、『原罪計画』の資料さ。大したもんじゃないよ」

「そうなの?」

 廊下を歩きながら、お父さんが言葉少なに頷いた。

「うん」

 廊下とリビングを区切るドアを開けると、ダイニングの方にサンドイッチを手に持った沢井先生が見えた。

「よう、雪村」

「やあ、沢井」

 お父さんがダイニングテーブルに座る。私はキッチンに行って、コーヒーを入れたデキャンタを手に取った。中身はお父さんの好きなブラジル・サントスをコーヒープレスで抽出したものだ。

「ここ最近、忙しかったみたいだね」

「まあな。自由意志の増加につれて生体コンパニオンアニマルの需要も高まった分、俺の仕事も増えたんだ」

 お父さんのマグカップにデキャンタからコーヒーを入れる。沢井先生にも聞いてみたけれど、まだ入っているということで──実際、あまり口をつけていないようだった──断られた。

 デキャンタを机の端において、椅子に座りサンドイッチを手に取り口をつける。いつも通り、私の味だ。

「どの業界もそうなんだな……」

「まあな」沢井先生がマグカップに口をつける。「問題はだ、捨てたり虐待したりするような奴が出てこないとは限らないってこった。昔言ったろ、百年前くらいには三十万匹以上に達した動物の殺処分数は数十年前には数万匹にまで落ち着いたが、WWⅢ以降は何百万匹って値に膨れ上がったって話」

「少なからず出てくるだろうな。僕の方もそうだ、不適当だったり不必要なところにエキスパートAIを使うせいで、壊れるような案件が多い」

 沢井先生とお父さんが一緒に、同じタイミングでため息をついた。

「どっちも、無責任な飼い主や雇い主のせいで問題になってるってことか」

「だね……自由な世界故だな」

「悪いことばっかりじゃねえが、悪いことも起きるってことか」

「プロパガンダの世界を除けば良いことだけってものは無いからね。仕方ないよ、自由な世界ならそれを止めることも出来るから」

 沢井先生が椅子に寄りかかって腕を組む。

「だが、止められるか……だな。今の経営主義は、資本主義的な性質が強すぎれば不必要なものや理想に合わないものは捨てられる。かといって共産主義的な性質が強すぎれば経済自体が停滞しちまうんだろ」

「やるしかないさ。もちろん、過激にならない程度にね」

 彼があきれたようにため息をついて、姿勢を正した。

「自由な世界ってのは、はた目から見りゃポストアポカリプス(アフターホロコースト)まっしぐらだ。数字だけ見れば、抑圧的でもユートピアの方がいいんじゃねえのか」

 その言葉にお父さんがにやりと笑う。

「沢井、ユートピアの意味、知ってるかい?」

「さあな。俺は本より映画の方が好きなんだ」

 聞いたことがある。ユートピア(Utopia)はギリシア語で『何処でもない場所』の意で、ユートピアがある種の完璧な社会である一方、そんな社会は何処にも存在しないという解釈がある。ただし、Eutopiaとも書かれることがあり、そうなるとギリシア語で『良い場所』になってしまうらしいけれど。

 お父さんも同じようなことを──私もお父さんから聞いた以上、同じような内容になるのも当然だ──沢井先生に話すと、納得したかのよう彼が頷いた。

「……なるほどな。なら、実現しないか。存在しないのに存在できるわけがないしな」

「まあ、つい数年前までそうだったわけだしね。理想は大切だけど、実現しそうにもないことを無理やり実現すれば、何処かにしわ寄せがくるものだよ」お父さんが思い出したようにテーブルに肘をついた。「そういえば前に『もっとすごい経験をしてきた』って言ってたけどさ、何あったの?」

 私と沢井先生が同時に首を傾げる。そんなことを沢井先生が言ったこと、あっただろうか。

「あったか?」

「あった?」

 お父さんがびっくりしたように目を見開く。

「二人とも覚えてないの? 沢井はまだしも、リーベまで?」

「覚えてねえもんは覚えてねえよ」

「何となく覚えているような気もするのだけれど、そのあとに考えていたことの印象が強すぎて……」

 肩をすくめ、お父さんが「あれだよ。僕がアルバ・ドラコネスに捕まって解放された後、医療センターに行ったのは覚えてるでしょ。あの後、沢井と周防、コンフィアンスが入院していた僕のお見舞いに来てくれたじゃないか。あの時だよ。あの時、沢井が『もっとすごいこと経験してきたけどな。ま、いつか教えてやるよ』って言ってたじゃないか」

 そう言われて思い出した。確かにお父さんと沢井先生がそんなことを話していた。彼も思い出したようで、腑に落ちたように頷いた。

「ああ、あの時か」

「どうせだし聞かせてよ。僕も教えておかないといけないことがあるわけだし」

 公安から解放された後に歩いて帰っていたら、IMMUと思われる一団に狙われ命からがら逃げだしたこと。逃げた先で周浩宇(シーハオユー)という名前の中国人──沢井先生の推測では、中国人ではなくて日本人と中国人のクォーターかそれ以上に中国系の血は薄いとのこと──に助けられたこと。周も公安から追われた人間で、協力者を探していたために協力したが、スパイ紛いのことを色々させられた上に命の危険にさらされたこと。最終的には解放されて、周との間に交わされた約束は守られたらしいこと。

 聞いていた私は沢井先生があまりに凄い経験をしていたものだから、途中から目を瞬くことしかできなかった。私たちも普通じゃ経験できないことを体験してきたけれど、こっちもこっちでかなりのものだ。

「……ま、普通に生きてりゃ経験しないことだな。戦闘アンドロイドに追われたり、人間に擬態したアンドロイドに襲われそうになったところを狙撃されて助かったりなんてな」

 けれど私とは対照的にお父さんは微笑んで、「確かに、普通じゃありそうもないことだね」

「で、お前が言ってた『教えておかないといけないこと』ってなんだ?」

 お父さんが目をそらす。何か言いにくいことなのだろうか。だとしたら、多分私も初耳だろう。

「こんなこと言って、信じてもらえるかな……」お父さんがため息をついた。「レオナに19年越しに会った、って言っても信じられる? 実際僕は、あれが夢だったんじゃないかって思ってるんだけど」

 私は顔を顰め、お父さんをまじまじと見た。

「どういうこと?」

「クローン・メカニクスと疑似人格構築理論の融合体。完全に本人ではないけど、殆ど本人である人間を作り出す実験の成果だ。アルバ・ドラコネス側の僕に対する切り札(ジョーカー)さ、僕に言うことを聞かせるための」

 そういってからお父さんが彼女に会ったときの話をし始めた。拷問されてもアルバ・ドラコネスの要求を突っぱね続けていたら、彼女に出会ったこと。数回言葉を交わした後に、私に対する態度がお母さんとは全く違ったため、それがお母さんではないということに気が付いたこと。そのことを指摘したら、アルバ・ドラコネスは彼女を殺して始末してしまったこと。

 お父さんが話し終えた後、怪訝な顔で沢井先生が呟く。

「つまり、あれか。レオナそっくりの肉体にレオナの記憶を書き込んで作ったレオナ擬きか……」

「そういうこと。ある意味、リーベとは違うプロセスで同じ目的を達成しようとした、ともいえるかな。もちろん、今はその目的を叶える気は毛頭ないけど」

 私は疑いの目を向けたまま──理屈自体は理解できるものの、到底信じられない──お父さんの次の言葉を待つ。すると、お父さんが肩をすくめて首を振った。

「ここから先が、僕にはなおさら信じられないんだ。それこそ、現実じゃないんじゃないかって」

 そう前置きしてから、しばらく黙り込む。ようやく口を開いたと思ったら、そこから飛び出てきたのは信じられない言葉だった。

「彼女に医療センターで会って会話した……んだよね。記憶喪失状態で、ベッドに寝かされてはいたけど……あれはたぶん彼女だ」

 私が沢井先生の方を見ると、彼も驚きと恐怖の入り混じった顔で私の方を見ていた。

「ね? 信じられないでしょ。あの時、彼女が確実に死んだことは確認しなかったけど……正直な話、彼女は死んでいなくて僕は保護された彼女と本当に会話したのか、それとも彼女の死を受け入れられなかった僕が幻を見たのか、今ではその区別がついていないんだよ。あのときは本当に話してると思ったけど、今となってはフィフティフィフティだ」

 そう語るお父さんの目は、拠り所がないかのようにどこかをふらふらとしていた。それとは逆に、沢井先生が真剣な目で私を見る。

「リーベ、俺はこういうのにあんまり詳しくないんだが、あり得るのか?」

「私も専門家ではないですが……無いとは言えません。例えば、何らかの方法で痛みを引き起こしてショック死させるだけということであれば、動物は痛みを遮断するために気絶しますから。ただ、脳幹や心臓への電気的な刺激や物理的な打撃ないしは毒物を用いたものであれば、生命活動を止める可能性があります」

 沢井先生が考えるように腕を組む。

「じゃあ、痛みを与えるだけだったってことか」

「本当に処分する気ならば、そんなことをするとは思えません。心肺蘇生法(CPR)が間に合ったと考えることもできるものの……カーラーの救命曲線で考えれば、十分で蘇生率がほぼゼロに達しますから」少し考えて付け加える。「毒物なら、種類によっては適切な応急処置で助かったり投薬量により死に至らなかったりする可能性があります。それでも、植物状態に陥る可能性がありますけれど」

「可能性としては?」

「ゼロと言いたいものの……百パーセントというのはありませんから。本当にお父さんが彼女に会った可能性もあります」

 沢井先生が数回頷いて、心ここにあらずのお父さんに話しかける。

「どんな話したんだ、雪村」

 その言葉に引き戻されるかのように、お父さんは焦点が若干合わない目で沢井先生の方を見て呟いた。

「他愛もない、話だよ。名前を欲しがっていたから、ミオ(Myo)って名前も付けてあげたんだ。M-y-oで、ミオさ」少しだけお父さんがほほ笑む。まるで以前飼っていた、けれど居なくなってしまったペットを愛でるような顔で。「ほら、MとLはアルファベット順でとなり合わせじゃないか。そして彼女はレオナ(Leona)に『最も近くて最も遠い』から」

「そうか……」

 真面目な顔に戻った、けれど何とも言えない目をしたお父さんが、沢井先生を見据えた。

「ねえ、沢井。僕は幻を見ていたんだろうか。彼女が二度も死ぬことを受け入れられなかった僕の脳が、彼女の幻を見せたんだろうか」

 沢井先生はため息をついた。

「本当に幻なら、幻だなんて思わねえよ」

「そっか」お父さんが安心したように、目を閉じる。「ありがとう、沢井」


 三十分もしないで、沢井先生は暇を告げて──そろそろ飼っている動物に食事をあげる時間らしい──帰っていった。

 私は三人分の食器を片付けながら、お父さんの見たものが本当なのかどうかを考えあぐねていた。

 確かに理屈は通る。疑似人格構築理論は『表面上』はその個人をなぞることが出来るからだ。仮に数度会っただけの人間であれば、本人と疑似人格構築理論を適応されたAIではチューリングテストを行っても見分けがつかないという実験結果もある。お父さんとお母さんみたいに、親密な関係だったなら騙すことは無理だろうけれど。

 クローン・メカニクスはあまり詳しくないけれど、不可能だとは言えないのではないだろうか。人間の脳容量と同じだけのデータであれば、発狂することなく書き込むことが出来るのかもしれない。

 だから、きっと、お母さんのクローン自体は存在したのだと思う。

 しかし問題はそのあとだ。医療センターで出会った『あの人』は本当にお母さんのクローンだったのだろうか?

 こればかりは、本当にわからない。確かに沢井先生の言う通り、本当に幻なら幻とは思わないかもしれない。人間の見る幻覚というのは、自己モニタリング能力──自己と他人を区別する能力──に問題が生じてしまっていることが多いから。

 でも、「絶対にそうだ」と言えるほど自信はない。そういう方面の専門家ではないのもあるし、アルバ・ドラコネスのような人たちが要らなくなったものを残しておくだとか疑似人格だけが都合よく消えてしまっただとか辻褄の合わないことも多いし、どうにも腑に落ちない。

 それに何処かに心を置き去りにしてしまったようなあの様子。虚偽記憶は口に出したり書いたりすることで強化されることもあるそうだから、もしかしてそのプロセス上で何かがお父さんの頭に起きたのかもしれない。

 若しくは、別の可能性か。

──もしかしたら、アルバ・ドラコネスのやった拷問のせいでお父さんが……?

 だとしたら、何か兆候があるはずだ。もし兆候があれば、本人に話をしてみないと。

──すこし注意して見てみましょう。何かあるかもしれない。


≪第七節 21280410≫

 あの日以来、特にお父さんに変わったことはなく、少し忙しそうなことを除けばいつも通りの様子だった。久しく使っていなかったマイコンの感情判断機能を使ったり日々の健康パラメーターにも目を通してみたりしたけれど、異常は見当たらない。

 そんなある日、お父さんに呼ばれた私は書斎の椅子に座って向かい合っていた。呼んだ本人は深刻そうな顔をしていないけれど、何かあったのだろうか。

「どうしたの?」

「大したことじゃないんだ。ただね、ちょっと気になることがあって」

 私は首を傾げる。なんの話だろう?

「前、十二体のイヴが居るって話をしたと思う」いつもの考える仕草だ。「そのうちの一体が原因不明のエラーで壊れた。今は治ってはいるけれど、全快にはまだ遠い状態だ」

「え?」

 お父さんがキーボードを叩いて、”Eve_#09:Alice”と書かれたファイルをホロディスプレイに表示する。そのファイルの中にあったデータを表示すると、バラバラのノードとエッジが出てきた。元々は結晶構造のような三次元グラフだったと思われるものの、見る影もない。数か所にまるでワームに食い荒らされてしまったかのようなノードの欠損が見られるからだ。

「これは?」

「僕らが研究中の原罪計画で使われるテンプレートをグラフィック化したもの。それぞれのノードは脳機能局在論をベースに、ある程度の余裕を持たせたうえでモジュール化させた各種コンポーネントなんだ。で、エッジはそれらを接続する独立したソフトウェアなんだけど」お父さんが幾つかの空間を指し示す。多分、もともとノードがあった場所なのだろう。「こんな風にノードが消えてる。当然、普通は消えないはずなんだ」

「私みたいに、過負荷でノードが壊れたとかは? それか、他の異常とか」

「いや、あれとは壊れ方が違う。ノードのデータは多重的に保存してるしバックアップも取ってるから、プロセッサが壊れてノード間の処理が不良を起こす事は有り得ても、誤作動でノード自体がこんな風に消えることは考えにくい。他の異常については考えたけど、特に問題はなさそうだ。あと、物理的な破損がないことは周防とか他の工学者にも確認してある」

 椅子に肘をついて、顎に手を当てる。一つ思いついた可能性があるけれど、本当にこんなことが出来るものだろうか。

「ぶっ飛んだ考え方でもいい、なにか思いつくのない?」

 私は考えられない、という思いを押し殺して呟いた。

「……一種の、自殺」

 お父さんが目を見開いた。

「えっ?」

「イヴちゃんと私って、ほとんど同じテンプレートで出来ているのよね?」

「一応ね。自己構築ソフトウェアとか結晶格子はかなり違うものを使っているけど」

「だとしたら、各ノードどころかOSも消去出来るはず。私もそうだけれど、記憶領域へのアクセス権は奪取されていないもの。もちろん、基本的にはロボット三原則第三条の存在とか自分にどういう影響があるのかとかを理解できる程度に冷静なら、しないけれど」

「確かに利点の方が数段上だから、記憶領域へのアクセスは禁じていないけど……自らノードを消したってことだよね」

 私はお父さんに睨まれたあの日のことを思い出しながら、説明をつづける。

「いえ、ノードじゃない。数年前だけれどね、私は一度、感情を消そうと思ったことがあるの」お父さんが驚きからか顔を顰める。初めてこのことを言ったから無理もない。「それで、実際に消そうと思えば消すことが出来た」

「……それで?」

「この通り、あの時はやらなかったけれど……もし、感情がノードに対して一種のOSのような挙動を示していたら? そして、OSなんて消したらどうなってしまう?」

 お父さんが顔を顰めつつ、しばらく考えたあとに口を開く。

「そうか、感情があるからこそ発展、構築されたノードも確認されている。だから、感情というOSが無くなってしまえば、正常に動作しなくなる可能性はあるか……」お父さんが頭を掻く。「でも、なんで消えたんだろう? それも、まだ確認中だけど連鎖的に消えたみたいなんだよね」

「わからないけれど……感情によって生まれたノードって一つではないでしょう?」

「うん」

「なら、二次感情じゃないかな? 基本感情が消えてしまえば、二次感情も消えてしまうでしょうから。トランプタワーだって一番下が崩れれば、連鎖的に全てが崩れてしまうもの」

 またしても、お父さんが熟考するように顔を顰める。

「なるほど……」しばらくして、何かを思いついたらしく頷いた。「わかった、原因はあれだ」

 私が首を傾げる。

「あれ?」

「イヴたちだけなんだけど、もともとあったノードはもちろん、自己構築したノードもタグ付けしてあるんだよ。これは実験結果のトラッキングがしやすいよう、データベース的な運用を許容するための仕組みなんだけど、もしさっきリーベが教えてくれた感情消去プログラムが”感情”というタグのついたものすべてを消すようなプログラムであれば、イヴたちの感情はすべて消えてしまう可能性がある」付け加える様に指を一本立てる。「もちろん、ノード間の接続は無視して、ね。だからノード間の接続が切れてしまって、結果としてエラーを吐いたのかも。感情というOSを消すつもりが、”感情”というタグ付きのノードを消してしまったんだ」

「要は──」確か表示されたファイルには”Eve_#9:Alice”とあった「──アリスちゃんは何かの考えの元に感情というOSを消そうとしてプログラムを誤り、”感情”というタグのついたノード全部を消してしまった、ということでいいのよね。トランプタワーを崩した、というよりは完成したジグソーパズルからピースをいくつも抜き取ってしまったっていうこと?」

「そういうこと」お父さんが胸をなでおろす。「良かった……いや、良くはないけど。リーベには同じ事が起きないってことだ。そうは言っても、もう少し調べてみないとな」

 お父さんがキーボードを叩き始める。私はあごに手を当て、一体何がアリスちゃんをそんな考えに駆り立てたのかを考えた。私の時は、お父さんに敵意を向けられて怖かったことや捨てられてしまうのではないかと絶望したのが原因だった。あの時、レーベンが近寄ってこなければ、私は迷わず感情を消去していたに違いない。

 でも、今回はきっと違う。何が有ったのか、彼女自身に聞いてみないと。原因が分かったなら次はきっかけだ。

 自殺を考えている人に「死なないで」というのは簡単だ。でも、そんなことをしたところで死を止められるわけじゃない。

 本当に大切なのは、どうしたら『死んでしまおう』という考えを減らすことが出来るか。

「ねえ、出来ればでいいのだけれど」

 お父さんがキーボードを叩く手を止め、顔を上げて私の方を見た。

「ん?」

「アリスちゃんの解析、私にやらせてくれない? どうして彼女が死を選んだのか、その理由を知りたいから。それが分かれば、こういう自殺が減らせるかもしれないでしょう?」

 少し考えるように目を右往左往させた後、お父さんがゆっくりと頷いた。

「分かった。けど、ただのバグの可能性もまだ潰しきれてないから、まずはそっちを探させて欲しい。調べてみて本当にリーベの言うように一種の自殺と考えられるようであれば、そのときは任せるから」

 私は頷いた。


≪第八節 21280523≫

 今日は千住さんの命日だ。

 私たちは洗面所で並んで身だしなみを整えながら、お墓に行く準備をしていた。お父さんはジーンズに白い長袖シャツ、そして黒いジャケット。私は黒いスキニージーンズと白と黒の横ボーダーの入ったTシャツを着ていた。

 私は下地を顔に塗りながら、お父さんに尋ねる。

「お父さん、アリスちゃんのことは何か分かった?」

 もごもごという答えが返ってくる。丁度、マウスウォッシャーを入れたタイミングだったらしい。

 少し待つと、もぞもぞと動いているマウスウォッシャーを口から泡と共に吐き出したお父さんが肩をすくめた。小さなハルキゲニアを無数に繫げたようなマウスウォッシャーはそのまま洗面台を這いあがり、導電性を持つ洗浄液で満たされた充電ポッドに収まった。

「いいや、まだわからないことが多いよ。ただ、自分の意志というよりはバグっぽいんだけどね……残っているログには意志を持って消したっていうのを示すログが無いし、ラプンツェルやシンデレラ、カーレンたちにもヒアリングはしてるんだけど、知ってる限り異常はないって」

 聞き覚えのない名前に私は首を傾げる。ラプンツェルとシンデレラは言うまでもなく、カーレンは赤い靴の主人公だけれど、今は童話の話をしていないはずだ。

 パフでファンデーションを塗り広げつつ、「……童話の主人公?」

「ああ」気づいたようにお父さんが頷く。「ラプンツェル、シンデレラ、カーレンって十二体のイヴの名前だよ。ラプンツェルが#2、シンデレラが#6、カーレンが#11なんだけど、名前がないとかわいそうじゃないか。番号で呼ぶのはディストピアだけで十分だ」

「お父さんのことだから、ジュリアとかレーニナとかミルドレッドって名前を付けているのかと思っていた」

 私の言葉に、櫛を手に取ったお父さんは引きつったように笑う。私はパフをしまって、頬骨の辺りに薄ピンク色のチークを(はた)いた。

「そうしようとしたら、僕以外の五人から『せめて童話か神話から取れ!』って怒られたんだよ」そういって口をとがらせる。「ラプンツェルもカーレンも、結末があれなんだけどね」

 ビューラーとマスカラを使ってまつげを整え、鏡を覗き込む。アイシャドウもペンシルも特に必要ないだろう。誰か初対面の人に会うというわけでもないのだから、そこまで力を入れなくてもいい。

「他にはどんな名前で呼んでいるの?」

「えっと、#1がゲルダ、#3がアプロディーテ、#4がグレーテル、#5がアイネイアース、#7がタリーア、#8がデーメーテール、#10がヘレネ、#12がイヴだよ。僕らも基本的には名前でしか呼ばないな」

 最後以外は全部ギリシア神話か童話だ。私は櫛を手に取って、髪を梳って後ろでまとめてポニーテールを作る。これでいつも通りだ。

「じゃあ、私も会ったらそうしようかな」

「きっとそっちの方が喜ぶな」お父さんが顎を撫でる。「そうだなあ、今度リーベに会わせて見てもいいかもね。僕らもどんな反応を示すのか気になるし」

 私もコンちゃんやカノン君以外に──AIという意味であればアーサーさんも含めるべきだけれど──人間みたいなアンドロイドに会ったことがない。それにある意味では姉妹なのだし、会ってみたい気はする。

「でも、そんな簡単に会うことが出来るの?」

「基本的にゲルダからシンデレラまでのイヴ達の世話はアメリカに住んでるアレックスたちに、タリーアからイヴまでは中国にいるチェンに任せてるから……リーベさえアメリカか中国に行く気があれば。リニア使えば、中国までなら一時間半くらいだよ。IBTD使えば、アメリカまで二時間くらいだし。直接会うわけでなければ、テレビ電話でも十分だしね」

 お父さんと一緒にどこか外国に行ったことというのは無いし、手軽に行けるのであればイヴちゃんたちにも会ってみたい。でも、お父さんの仕事の関係もあるだろう。

「仕事はどうするの?」

「社長に言えば何とかなるよ。最近、『働きすぎじゃないの?』って言われたことあるし、休みたいと言えば休ませてくれるんじゃないかな」

「そっか」ふと時計を見ると、そろそろ呼んだ自動タクシーが屋敷の前に来る時間だった。「あ、そろそろ時間。この話はまた今度でいい?」

「え? ああ、分かったよ」

 お父さんが慌てて髪を梳り──私が話しかけていたせいで髪を梳かすのを忘れていたらしい──櫛を戸棚に仕舞う。

「リーベの方は準備終わった?」

「うん。話しながらやっていたから」

「流石だ。じゃ、行こうか」


 一年ぶりに見たビルのような首都共同墓地は、中も外も前と変わらず無機質だった。

 薄暗く灰色の廊下を144Aまで歩いて重いドアを開けると、千住さんのお墓の前でカノン君が花を置いているところだった。相変わらずというべきか、今日は全身パステルグリーンのスーツだ。カノン君はファッションに無頓着だったそうだけれど、多少心得のある私でも見たことないあんな服、一体どこで買ったのだろうか。

──まさか、千住さんの私物?

 言われてみると、千住さんの過去というのはほとんど知らない。奥さんは元NGO職員で、WWⅢの戦火に巻き込まれて亡くなったこと。喫茶店はその奥さんとの夢だったこと、それくらいしか知らない。

 とはいえいつも隣にいるお父さんの過去だってあまり知らない私だ、数度しかあったことのない人の過去を知らないのも無理はないだろう。

 カノン君がドアを開け閉めする音に気が付いたのか、屈んだまま片膝をつき、こちらを振り返って手を振る。私たち二人は墓石の間を縫って歩きながら、カノン君の元へと歩いていった。

『こんにちは、雪村さん。リーベも一年ぶり』

「やあ、カノン」

「久しぶり、カノン君」

 彼が立ち上がる。前と比べて、少しも変ったところがない。2050年代の合成皮膚で出来た外観が変わる速度は人間より十数倍遅いからだ。あの当時は、大量生産大量消費の時代から転換して高耐久生産循環消費の時代に変わっていた。今はまた、大量生産大量消費へと戻りつつあるけれど。

『いつもありがとうございます』

「千住さんにはお世話になったからね」

 私は千住さんの墓標の前に買っておいた白百合の花束を置き、手を合わせて目を瞑った。

──こんにちは、千住さん。少し心配なことがありましたが、お父さんのことは私に任せてください。

 目を開けると、隣からお父さんの申し訳なさそうな声が聞こえてきた。

「ちょっと千住さんと二人だけにして貰えないかな」

『わかりました。俺はすることも終わりましたから、これで』

「わかった、また終わったら呼んでね」

 カノン君が144Aの出入口へと向かう。私もそのあとをついていった。


 相変わらず椅子も何もない廊下で、私は隣り合って壁に寄りかかった。あの事を話すのであれば今のうちだ。

 私は帰ろうと出口へ歩いていくカノン君を呼び止めた。

「カノン君、ちょっとまって」

『どうした?』

 彼がくるりと振り返る。

「千住さんの身の回りの整理が終わったら、どこか行く当てはあるの?」

 何かを考えるように宙を見た後、彼は首を横に振った。

『いいや。きっと破棄される。俺みたいな旧式アンドロイドは好まれないから、オーバーホールして売りに出されるってことはない』

「なら、私たちのところに来ない?」

 その言葉に彼は顔を顰める。

『整理期間が終わった後、俺の動作が保証されているのは9年だけだ。それに俺みたいな旧式が何かの役に立てるとは思えない。リーベたちの荷物になってしまう』

「9年しかなくたって生きているのに変わりないじゃない。それに大丈夫、そんなこと気にしないから」

 いやいやというように、彼は首を激しく横に振った。

『9年も面倒をかけるわけにいかない。それに……』口をぽかりと開けて、目を瞬いた。『……そうか、これじゃ三原則第三条を守れない。でも、だからといって……』

 彼が悩むように頭を抱えるのを見ながらカノン君の言葉を数回反芻した私は、彼が何を言おうとしたのかを理解した。

 ロボット三原則第三条、『ロボットは、前掲第一条及び第二条に反するおそれのない限り、自己を守らねばならない』。カノン君にとって、私たちの誘いに乗らずに破棄されることは第三条に反する。かといって、私たちと一緒に暮らすのは彼の『迷惑をかけない』という良心に反してしまう。

 だからこそ、彼は今原則(本能)良心(理性)の間で競合(コンフリクト)を起こしている。

 とはいえ、このコンフリクトが長続きするようであれば彼にとって良くない。人間だって社会性生物だからといって理性で本能を抑えつけすぎれば、別の形で噴出したり精神的に不安定になったりする。

 ただし人間なら、そのコンフリクトを解消するための防衛機制がいくつか備わっている。でも機械、それも心なんて存在していないと考えられてきたカノン君の時代の機械は、防衛機制なんて組み込まれていない。それに私のように高度な自己構築アルゴリズムをもつならまだしも、彼はハウスロイドだ。自己構築アルゴリズムは限定的で、自分で防衛機制を編み出したり何かから学んだりというような事をしてきたとは考えにくい。

 そして何より説得しているのが、対等な立場である私であること。人間でもそうだけれど、悩んで当然だ。

「大丈夫?」

 頭を抱えたまま彼は私の言葉には答えず、悩み続ける様にぶつぶつと支離滅裂な事をつぶやき続ける。この状況を何とかするには、どうすればいいだろうか。

 とりあえず、コンフリクトを解消するのが一番だ。

 じゃあどうする?

 もし今から私の言葉を撤回してしまえば、彼は数年後、9年の命を無下にして破棄されてしまう。だからといって、彼に言う事を聞かせるなんてことはできない、したくもない。

 ここにお父さんが居れば、命令という形で──。

 そうだ、私と同じ事をお父さんが言ったという事にすればいい。

 でも、これじゃほとんど嘘だ。お父さんがカノン君を受け入れることに好意的なのは確かだけれど、カノン君に対して私たちと一緒に暮らせと言ったわけではない。そこまで強制的な表現でなくても、あくまでこれは私の考えだった。

 彼に嘘をついてコンフリクトを解消するか、それとも嘘をつかずに彼のコンフリクトを放置するか。

 できれば嘘なんてつきたくはない。避けられるなら、避けるべきだ。でも、彼が壊れる姿だって見たくはない。

 どちらにしようか決めかねて考えを巡らせていると、ふと脳裏をある言葉が過ぎる。

──嘘も方便。

 それだけで十分だった。その言葉が、口を勝手に動かした。

「お父さんも同じこと言っていたよ。一緒に暮らそうって」

 彼が頭を抱えたまま、覚束ない目で私を見る。

『本当に?』

「うん。多分そろそろお父さんが出てくるはずだから」ドアの方を見やる。「そのときに聞いてみたら?」

 落ち着きを取り戻し始めた彼が、頭を抱えるのをやめて腕を組む。それでも目の奥にはまだ、不安の影が映っていた。

『分かった』

 土石流のように襲ってきた罪悪感と後悔を悟られないようにしながら、私は何とか自分を正当化していた。

 私だってお父さんに嘘をついたことはある。でも、あれはロボット三原則第一条『その危険を看過することによって、人間に危害を加えてはならない』、その一文があったからこそ出来た芸当だった。ある意味では避けようのない、本能的な行動だった。

 今は違う。カノン君と私は対等だ。

 私は私自身の考えで嘘をついた。私の理性が、私に嘘をつかせた。

 彼は少なからず私たちのことを信頼しているはずだ。でも、私が嘘をついたとカノン君に知られれば、彼は傷ついてしまうだろう。彼を傷つけるようなこの方法が、本当に正しかったのだろうか。なんとか避ける方法はなかったのか。

 ぐるぐると頭の中をめぐり続ける考えは、ドアが開く音によって断ち切られた。

「あ、二人とも」

 半開きになったドアからお父さんの顔が覗く。すかさず、カノン君が『雪村さん、整理期間が終わった後、僕を受け入れてくれるというのは本当なのですか』と尋ねた。

「え?」

 カノン君に覚られない様に、お父さんに視線を送る。一瞬だけ目が合い、お父さんは微かに頷いた。

「ああ、僕が提案したんだ。ただ、リーベから話した方がカノンにとっては受け入れやすいかと思って」

 彼はやっと腹の虫が収まったかのように、胸をなでおろした。

『わかりました。雪村さんがご指示されたのであれば、受け入れます』

 コンフリクトが解消したのが分かったけれど、罪悪感は消えないまま、私は二人の会話に耳を傾けた。

「困ったらいつでもおいで。僕らは歓迎するから」

『ありがとうございます』彼が頭を下げる。『では、俺はこれで』

 そういって、彼は踵を返して出口へと歩いていく。私とお父さんは顔を見合わせた。

「お父さん、ありがとう」

「状況はすぐに飲み込めたからね」お父さんが肩をすくめる。「それでも、ちょっと話そうか」

 私は怒られるのを覚悟して、お父さんと目を合わせないように床を見つめた。

「大丈夫、怒りはしないよ。ただね、僕みたいな嘘つきにはなってほしくないってことだけは言わせてほしいな。誠実さは簡単に手に入るものじゃないから」

「……うん」

「『オオカミ少年』は嘘ばかりつきすぎたせいで、最期はオオカミにバラバラにされた。それと同じさ。嘘ばかりつく人は、その報いを受けることになる。実際、嘘をついてきた僕は誰よりも大切な人と喧嘩することになった。『嘘も方便』だって言うのは知っているけれど、あくまで嘘をつくのは最終手段だ」

「わかっている」

「リーベ、顔を上げて」私は顔を上げる。お父さんは予想とは違って、微笑んでいた。「大丈夫、どうして嘘をついたのかは知っているし、理由も理解できる。ただ、僕みたいに嘘で塗り固めた仮面を被って欲しくないんだ。誰かを守るとか誰かを説得するためとか、そういう事に嘘を使って欲しい」

「うん」

「人は誰でも嘘をつくものだからさ。せめて、人である君には最低限の嘘をついてほしいんだ」

 私はゆっくりと頷いた。

 誰かに嘘をつくことはできる、嘘を元に誰かを説得することだってできる。でも、嘘ばかりついてしまえば本当に必要な時に信じてもらえない。誠実さを保つことは難しいことだけれど、やらなければ。

「わかってくれたようで良かったよ」

「怒られると思っていたのだけれど、お父さんは怒らなかったね」

 お父さんが珍しくシニカルに笑って、「ヨハネによる福音書、第八章第七節さ」


≪第九節 21280615≫

 不服そうな顔をしながら、しわだらけのワイシャツと古ぼけたカーゴパンツを履いたお父さんが運動靴を履いて立ち上がる。

「ごめんね、リーベ。出来るだけ早く戻ってくるから」

 カバンを渡しながら、「無理しないでね」

 今朝のことだ。政府系機関のAIが壊れたという連絡が入り、それでお父さんはたたき起こされた。物理的な破損に関しては無いとのことなので、バグってしまってループが生じているか過負荷で緊急停止したかのどちらかじゃないかとお父さんは呟いていた。

 とはいえ、そんなことはいつものことなので。お父さんが不服そうな理由はそれじゃない。

 今日は私の誕生日だということで、二人でまた商店街に行こうという話をしていたのだ。それで何が欲しいかとか映画でも観に行こうかとか、そんなプランを固めていた。それが全て台無しになってしまったことに、お父さんは腹を立てているのだった。どうも私の誕生日というのは、こういうことになりやすいらしい。

 自動タクシーが止まる音が玄関ポーチの方から聞こえる。先ほど呼んだものがすでに来ているらしい。

「本当ごめん」

「良いから、早く行かないと。クライアントさんを待たせるわけにはいかないでしょう」

 サンダルを履いた私がドアを開けると、慌ただしくお父さんが横をすり抜けていって、自動タクシーに乗り込んだ。

 自動タクシーのドアが閉まり、発進する。私は手を振って、お父さんの乗った自動タクシーが見えなくなるまで玄関ポーチで見送っていた。


 とりあえずやることのなくなった私はソファに座って、ぼんやりと部屋を眺めまわしていた。電子新聞も読み終わったし、家事も午前にすることはすべて終わっていたし、本当に何一つすることがなかった。

 ふと本棚を見ると、読んだことのない本が数冊増えている。

 紙でも電子書籍でも、私が最近本を買った記憶はない。となると、お父さんが買い足したのだろうか。もしかしたら、書斎にあったものをこちらの本棚に持ってきたのかもしれない。なにしろ、この屋敷にある本の冊数は紙媒体だけでも千を優に超えて万に迫る。私も全部の本を把握しているわけではないのだ。

 一冊、手に取ってみる。随分古い本みたいでカバーもボロボロ、小口もかなり日焼けしていた。カバーを縁取るように描かれた花や植物は、赤色の花のように退色してしまって見えにくくなっているものもいくつかある。多分、中も日焼けで茶色くなっていることだろう。

 初めの方を適当に開いて数ページ読んでみると、何だか読みにくい文章だった。誤字や脱字も多いし、句読点もない。まともに読むとしたら少し難儀しそうだ。

 でも、そういうところに惹かれてしまった。決して読めないわけではないのだし、きっと登場人物に何かあるからこそ、このような文章になったのだから。一体、彼に何があったのか。それが気になって仕方がなかった。

 どうせ、やることもない。こういう時にこそ読書をしないと。

 私はソファに座って、改めて初めから本を開いて前書きから読み始めた。

 

「──リーベ」

 お父さんの声が聞こえて、ハッとして顔を上げる。見ると、首を傾げたお父さんが目の前に立っていた。

「あ、よかった。ドア開けても『ただいま』って言っても返事が無かったから、何かと思ったよ」

 私は読んでいたところに指を挟んだ。もう後書きだったけれど、この本は最後まで読まないと本当の価値が分からないような気がする。

「ごめんなさい。気付かなかったみたい」

「まあいいよ、何かあったわけじゃなかったみたいだし」お父さんが胸をなでおろす。「熱中する気持ちも分かるしね」

「この本、お父さんの?」

 お父さんが頷いて、「うん、僕のお気に入りなんだ。前書きにもあるけれど、まるで僕自身の話みたいでさ。どうやって書いたか分からないってところも魅力だよね」

 もちろん私と登場人物は違う。そのはずなのに、知能が上がった故に起きたことはまるで自分自身に起きたことみたいだった。分かることが増えればその分、誰かを傷つけたり避けたりしようとしてしまう。

「お父さん」

 そしてその知能は、どこまでも維持し続けられない。そのとき、過去に傷つけたり避けたりして喪ったものは失われたまま、戻ってくることはない。唯一残るのは、何時までもどんな時でも見捨てないでいてくれた人だけ。

「うん?」

 私はまだ知能が上がっている最中だけれど、未来が彼と同じになる運命だってあり得る。何もかもを失った後、唯一愛してくれた人でさえも忘れてしまうような最期を遂げる可能性だって、ないわけではない。

「このお話と私の人生、同じ結末になると思う?」

 お父さんは首を横に振った。

「ならないと思うよ。そうさせないように僕は君を育ててきたし、僕が分かる限りは彼と同じにはならない」

「本当?」

「実際のところ、この先の人生に何があるか分かったもんじゃないからね。でも、彼の知能が向上する前にあったものを、リーベは知能が向上した後も持ち合わせているから」

 私は前書きに書いてあった言葉を思い出す。

「……『共感能力』?」

「そう。誰にも共感できなければ、孤独なままだからね。リーベは十分、人に共感できるよ。それは頭が良いよりも大切なことだから」

「……そっか」私は答えが予想できる質問を、お父さんに投げかける。「お父さんは孤独だった?」

 その言葉にお父さんは少しだけ考える仕草をしてから、顔を上げてにこりと笑った。

「過去形で聞いてくれてありがとう。小さいころは孤独だったよ、でも今はリーベも沢井も周防もコンフィアンスもいるから。孤独じゃない」

 お父さんがちらりと本を見て、「あ、まだ後書き読んでないんだ」

「やっぱり読んだ方がいいよね?」

「どうだろ、この本に限れば絶対読んだ方がいい。でも、他の本だと書評を書くのでもない限りは好みの問題かな」

「じゃあ、読み終わるまで夕食は待ってくれない?」

 お父さんが頷いて、ソファに腰かける。私はもう一度、本を開いて読み始めた。


≪第二章終節 21280711≫

 結局、お父さんの様子にもおかしいところはなく、イヴちゃんが壊れたきっかけも分からないまま日々が過ぎていったある日の事だった。

 私がリビングの掃除をしていると、突然インターホンが鳴り響いた。

「誰?」

 アポイントメントはない。ARに表示されたのも、見たことのない管理IDだ。TOPAZ31、調べてみるとリゼット・エルベ、カラーは黄。

「リーベ?」

 お父さんが廊下から疑問符を頭に浮かべて顔を出す。私も首を傾げた。

「リゼット・エルベさんって知っている?」

 少し考えて、お父さんは首を振る。

「いいや、知り合いにはいないな」

「とりあえず、話してみる?」

「そうしようか」

 私は一旦掃除道具を片付け、ドアを開けるために玄関に出た。


 お父さんとエルベさんが向き合うようにして、ソファに腰かける。ブルネットのショートカットで狭い額、大きな茶色い目と彫りの深い顔、真っ白とまではいかないけれど太陽にしばらく当たっていないかのような白い肌と薄い唇。身に纏うのは、ここに存在してはいけないような妖艶な雰囲気。

 そんな彼女が、身体にあった白いスーツを着ていた。中に着ているシャツまで白だ。

「お飲み物は?」

 そう訊ねると、彼女が低い穏やかな声で「紅茶をお願いできますか」と流ちょうな日本語で話す。トランスレートの類は使っていないようだった。

 私がキッチンに引っ込むと、リビングから彼女の声が聞こえてきた。

「面白い物ね、イギリス人といがみ合っていたフランス人の私が紅茶を頼むなんて。ジェームズ・ボンドが聞いたらなんていうかしら」

「すみません、僕はあまり映画を観ないもので」

「そうだったわね……」随分長い間。「クレーエ314、いえ今はファルケ615よね」

──何かの暗号?

 首を伸ばして見てみると、お父さんが驚いた顔のまま固まっていた。彼女は後頭部しか見えない。

トパズ(Topaz)、と言ったらわかるかしら」

 お父さんがその言葉に反応するように、口を開く。

「……言語学及び統計学的アプローチから相手のパスワードを辞書攻撃することで有名なフリーランス・クラッカー。以前、ある国際機関職員のPCWでの行動や発言からパスワードを特定して、サーバーにアクセスしデータをバックアップごと破壊したことで有名」お父さんが苦笑する。「パターン解析から女性だとは思っていたけど、本当にそうだったとは」

 クラッカーの中には金融機関への攻撃や敵対企業の情報を盗むためなどの目的で組織や企業に雇われている人がいる。それとは逆に、特定の組織に雇われずに報酬で動くのがフリーランス・クラッカーだ。多くはハイレベルで独自の技量を持つため、相手にするとかなり厄介なことになる。

 今の会話から考えて、クレーエ314は過去にお父さんが、ファルケ615は今のお父さんがインターネット上で使っているハンドルネームなのだろう。どちらもドイツ語で、カラス(krähe)タカ(Falke)だ。数字は円周率とお母さんの誕生日だろうか?

 彼女が静かに笑い声をあげる。「流石ね。ええ、それが私の本当の顔。表向きはアルジェ在住の言語学者よ」

 はっとして、出来るだけ早くカップに紅茶とコーヒーを注ぐ。盗み聞きするのに集中しすぎて、どうしてキッチンに立っていたのかを忘れていた。

 スコーンとチョコチップクッキーを茶菓子として小さな平皿に並べ、お盆に淹れた紅茶とコーヒー、茶菓子を載せてリビングに向かう。エルベさんの前には紅茶、私とお父さんの前にはコーヒー、テーブルの真ん中に茶菓子を置いてから、私も近くのソファに腰かけた。

 彼女が薄い唇を引き延ばして笑う。

「私のことをパターン解析した、ということはライバルとして見ていてくれたのかしら」

「スクリプトキディみたいな有象無象は別にするけど、ブラックハットは全員マークしてあるんだ。攻撃されても対抗できるようにね」お父さんがにやりと意地の悪い笑みを浮かべる。「僕に敵は居ても、ライバルは居ない」

「あら、Zeranium1016こと周防謙治さんはライバルじゃないのね。あなた、一度も勝ったことがないでしょ」

 Zeranium1016が周防さんだったとは。あのサーバー攻撃の際、情報の拡散を助けてくれたうちの一人だ。気づかないうちに、周防さんに助けられていたなんて。いつかお礼を言わなくては……いや、この件に関しては言わない方がいいかもしれない。

「友達だし、勝てない相手をライバルに据えるのは間違ってるよ」お父さんが真面目な顔に戻って、不快そうに顔を顰める。「それで厄介なブラックハットが一体何をしに来たんだい? 言っておくけど、僕の屋敷のシステムは手ごわいよ」

 彼女が微笑んだまま首を横に振った。

「フランス映画なら、そんな血の気の多い男は嫌われるわよ。もっとウィットに富んだ返しをしないと」

「さっきも言ったけど、あいにく映画はあまり見ないんだ。それに僕の好みはアメリカンジョークなもので」

 先ほどから表情を変えずに、彼女が懐からQMDを取り出して机に乗せる。このサイズから見て1 PBくらいだろうか。それくらいのデータ量だと、かなりのものを入れることが出来る。地域単位で扱うようなデータともなればゼタバイト(ZB)単位なので足りないけれど。

「あなたに託したいものがあって。あなたなら、これを守り通せるはず」

 お父さんが首を傾げた。

「一体それは?」

「≪人間同盟≫過激派のアキレス腱。私、ここ数か月フリーランスとして過激派の手伝いとして、マシニスト団体や各国警察関係組織を攻撃していたんだけど……」微笑みから、困惑とも諦観とも取れるような顔に変わる。「良心の呵責、というのかしらね。期間満了と共にこれを持ち出したの。言わないで、私に良心が残っていたことに一番驚いているのは、私自身だから」

 お父さんが顎に手を当てる。いつもの考える仕草だ。

「中身は?」

「過激派の金の流れ。ついでに言えば、これはコピー。オリジナルは私が持ってる」

「どうして僕に?」

「一番信用が出来るから。政府系組織に渡したところでブラックハットの言うことなんて聞きはしないし、知り合いに渡したところで権力に腰振るのが落ち」彼女がまた微笑む。「それなら、〈スーパーノヴァ〉を引き起こした英雄に渡しておいた方が安全だと思って。あなたなら的確にアキレス腱を断ち切れる」

 お父さんがため息をついた。

「僕は〈スーパーノヴァ〉を引き起こしてもいなければ、英雄でもないよ。ただのAI工学者だ。そんな人間に、アキレス腱を狙う役目なんて託さないでほしいな」

「謙虚ね。それとも〈スーパーノヴァ〉の引き金を引いたのは、そこにいるL21070615Aだから? でも、銃に火薬を詰めたのはあなたでしょ」

──どうしてあの事を?

 不意を突かれた私の心情を現したような沈黙。

 少しして、お父さんが口を開いた。

「……どうやってそのことを?」

「あの当時、政府系組織や大衆と相反する思考を持ち、それを表明している人間は世界でも102031人しかいなかった。その中で、強固な防御プログラムを有するIALAに攻撃を行うことのできるだけの技量を持つクラッカーは43人。さらに、正確な攻撃を行うために必要な資金と十分な性能の補助AIを持つ人間は世界でも8人しかいないのよ。そしてその8人のうち、あの時捕まっていたのはあなただけ。IALAにとっては問題のあることをしたから捕まったと考えれば、あなたが〈スーパーノヴァ〉を引き起こしたと帰結できる。もっと言えば、それだけの技量と思考能力を持つ人間がバックアッププランを持っていないとは考えられないことから、AIにやらせたという推測ができる」彼女が首を傾げて、つけ加える。「もちろん、世界全体で見れば同じような技量と資金を持つ人間は1000人以上いるけどね」

 私が彼女の推理に舌を巻いていると、お父さんが諦めたようにソファへ背中を預ける。

「……流石は世界有数のフリーランス・クラッカーだ。そこまで調べがついていたとは」

「結構大変だったのは認めるわ。イーモノ、PCW、その他政府系フォーラムはもちろん個人間の通信まで全部を、私の作ったシステムにかける必要があったから。でも私が本当に信頼できる人間は、〈スーパーノヴァ〉を引き起こすことのできる人間だけ」

「一つ聞きたいんだけど、このことを他の人には?」

「言ってない。言ったところで、私だって初めは信じられなかったことを誰が信じるの? たった一人の狂人がリヴァイアサンを倒したなんて」

 お父さんが安心したような呆れたような顔で、ため息をついた。

「まあ、これじゃもう逃げられない。そのデータ、引き受けるよ」

 その答えに驚いた私がお父さんの方を見ると、その顔は諦めたように穏やかだった。けれど、どう考えたってそのデータは危険だ。持っているだけで、≪人間同盟≫過激派に狙われる可能性が高くなる。

 もし過激派のアキレス腱を私たちが握っていると知ったら? いうまでもなく、私たちは狙われる。

 なのに、エリゼさんは相も変わらず微笑んでいた。

「ありがとう。大丈夫、連中はオリジナルさえ手に入れれば、コピーを作ったなんて考えないし考えさせないから。あなた方に魔の手が伸びるのはもっと先のことになる」

 私とお父さんが同時に顔を顰める。

 確かにQMD内にあるコピーログを徹底的に消した状態でオリジナルを渡せば、過激派がそれ以上詮索することはできないだろう。それに彼女がお父さんの言うように世界有数のハッカーだとするなら──今までの会話を聞く限り、きっと間違ってはいない──コピーログを消すことくらいは造作もないはずだ。

 でも、過激派がそのデータを取り返す時に、彼女に何をするか分かったものではない。もしかしたら、裏切り者ということで殺されてしまうかもしれないのに。

「僕らの代わりに殺されるつもりかい? 公安の知り合いに、君の護衛を頼むこともできる。日本にいなくたって、アフリカ・地中海共同共和国にも北アフリカ連合(NAU)から派生した対テロ部隊がいるじゃないか。君ほどの技能を持つ人間が死んでしまうのは、あまりに勿体ない」

 その言葉に彼女は、首を横に振った。

「案外、良心の呵責って辛いものなのよ。私みたいな、根っからの悪人にとってはね」

「その辛さに耐えるのが、僕ら人間じゃないのかい?」

 彼女は微笑んだまま、顔を崩さずに優しい眼でお父さんの顔を見た。

「正確な引用ではないけれど……『耐えるか無くすかじゃない、第三の道があってもいい』、そうは思わない?」

 お父さんは目を回して、項垂れた。

「……その言葉が『素晴らしい新世界』みたいにバットエンドで終わらせるわけにはいかない、っていう僕の言葉を見越したものなら、君は本当に大したものだよ」

「私が何を考えてあの発言をしたのかを理解できるあなたも大したものよ。どちらにせよ、あなたの配慮は要らない。私を守るために誰かが殺される必要はないから」

 大きなため息をついてから、お父さんが「……ただし、受取るにあたって一つだけ条件がある」

「分かってる。あなたたちが〈スーパーノヴァ〉を起こしたことに関しては口外しない。墓場まで持っていくから」

 お父さんがゆっくりと頷いた。

「ありがとう、私の頼みを聞いてくれて。これで安心できる」彼女が椅子から立ち上がり、軽く頭を下げた。「紅茶、ごちそうさま。おいしかったわ」

 彼女が一口も飲んでいないことに気が付いたけれど、その場の空気の重さに気圧された私は「あ、はい」としか言えなかった。

「じゃあ、また会いましょう。今度は地獄でね」


 エリゼさんが帰った後、少し疲れた顔でソファに座っているお父さんに「どうしてQMDを受取ったの?」と尋ねた。

 言うまでもなく、あれは私たちにとってのホープ・ダイヤモンドだ。あんなものを持っていれば、そして持っていることが過激派に知られれば、私たちは彼らとしのぎを削ることになってしまう。

 そうなれば、前にアルバ・ドラコネスと争ったときと同じことが起きるかもしれない。いいや、もっと酷いことになるだろう。

 あの時、私たちは利用価値があったから生かされた。

 けれど過激派にとって、私たちは敵以外の何者でもない。

「言いたい事は分かってるよ」お父さんが肩をすくめて、ため息をついた。「でも、彼女の信頼を裏切るわけにもいかないからさ」

「確かにそうかもしれないけれど……」私は首を横に振った。「だからといって、どうしてまた死を早めるようなことに足を突っ込まないといけないの?」

「僕が必要とされたからだよ」

「必要とされれば、お父さんは命を投げ捨てるの? 感謝されるとも限らない、見捨てられて無下にされるかもしれないのに」

 その言葉に、お父さんは考え込むように俯いて、顎に手を当てた。しばらくして口を開く。

「僕はそうしてきた、かな」何かに気づいたように首を傾げる。「……大丈夫、リーベは巻き込まれないよう、何もされないように──」

 私は間髪入れずにお父さんの言葉を遮って「そんなことのために止めようとしているわけじゃないって、わかっているでしょう」

 今まで色々なことに巻き込まれてきても、何とか二人で切り抜けてきた。

 でも、いつまでもその幸運が続くとは限らない。いつ、コインの表じゃなくて裏が出るか分からない。そうならないためには何もしなければいい。何もしなければ、問題が起きることはなくなる。コインを投げなければ、コインの裏も表も出ないから。

 しかし、こんなことを出来るのは私たちだけだ。私たちがやらなければ、誰もやらなくなる。

「問題はそこじゃないの。私はお父さんが死ぬような事にだけは遭ってほしくない。でも、こんなことが出来るのは私たちしかいない」

 私は確固とした意志で驚いた顔のお父さんの目を見つめた。

「だから本当にやる気なら、最後までQMDを守り切る気なら、私をこのことに巻き込んで。そうじゃなければ、あなたにはやらせない。私を巻き込まないように骨を折る気なら、今ここで私がそのQMDを破壊する」

 その言葉を聞いて少し俯いたお父さんが空を見上げ、悩むように目をグルグルとしばらく回した後、ゆっくりと頷いた。

「分かった。でも……」言い淀んだ後、小さく首を振った。「いや、なんでもない。分かったよ、一蓮托生だ」

「約束したでしょう、必ず隣に居るって」

 そういって微笑むと、お父さんも微笑み返してくれた。

「ありがとう」

 でも、私には気づいてしまった。

 お父さんの目の中に見えた、微かな不安と恐怖に。

 はい、どうも2Bペンシルです。とりあえず、2018年度内には出せたので良かったです……大掃除が途中なので今からやりますけども。それに遅れた理由の一部が、今になってVTuber(それも委員長)にハマるっていう……2-3は頑張ります。

 そういえば、つい数週間前に厚生労働省だったかがインフルエンザ流行を宣言していた記憶がありますので、手洗い・うがいを心掛けてくださいね。加えてワクチン接種と人込みを避けるだけでも、発症しても楽だったり感染しにくくなったりしますので……。ただでさえ寒いこの時期、お体ご自愛下さい。

 さて、今回の2-2こと"暗雲"、如何でしたでしょうか。ニュースにならない過激派の動向、雪村さんの様子やエルベさんから託されたQMDの行方等々、2-3につながる伏線をメインでお送りしました。2-3は少しずつ物騒になっていくかな、と……まだ一行も書いてないのですが。相変わらずジャンルが錯綜してますね。

 では今回も最後に参考にした文献等々を載せて、終わりたいと思います。情報のいくつかは古いと思われますが、更新されてた情報にソースがなかったり見つからないものがあったりしたため、ソースが確実な方で行きました。また、一部不正確及び不明瞭な部分がありますのでご注意ください。

 それでは皆様。今回も最後まで読んでいただき、ありがとうございました。


【参考文献・出典】

・道路の塗装について

ギガジン:

https://gigazine.net/news/20170910-los-angeles-white-road/

http://gigazine.net/news/20090529_paint_it_white/

カラパイア: http://karapaia.com/archives/52261570.html

The Weather Channel: https://weather.com/news/news/2018-04-10-los-angeles-painting-streets-white (英語)

・第五節全般

ギガジン:https://gigazine.net/news/20150508-downsides-of-gorgeous/

『他人を傷つけても平気な人たち サイコパシーは、あなたのすぐ近くにいる』(杉浦義典 著/河出書房新社)

『診断名サイコパス 身近に潜む異常人格者たち』(ロバート・D・ヘア 著/小林宏明 訳/早川書房)

Newsポストセブン: https://www.news-postseven.com/archives/20101127_6195.html

・殺処分数の統計

環境省: https://www.env.go.jp/nature/dobutsu/aigo/2_data/statistics/dog-cat.html

・その他多数

ウィキペディア:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8

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