『終章:堕ちた光』終曲:白夜
再び目覚めたとき、彼はすべてを悟った。
目覚めるはずのない意識が甦り、その眼前に立っていたのは――堕ちた兄。
血の繋がりゆえにこそ、そして己がもはや人ならざる『死鬼』という化外へ成り果てたゆえにこそ、否応なく伝わってくる。
兄の慟哭と、底なしの絶望。
そして、抑えがたき衝動が――。
「……何故。何故、知っていながら、私を置いて逝ったのだ、朔矢」
苦辱に塗れた表情で嘆くそれが、再会の第一声であった。
深く、鋭く、胸を穿つ恨みが、容赦なく流れ込む。
それだけ、兄は苦しみ抜いたのだと――。
「嬉しいけど……そんな兄さん、見たくはなかったな」
苦笑まじりに、朔矢は呟く。
再び巡り逢えたことは、確かに喜ばしい。
その恨みも、苦悩も、裏を返せば愛してくれた証であり愛おしい。
己が抱く愛と同じほどの情を、兄もまた抱いていたのだと思えば、胸の奥が温かくなる。
だが――。
自分のために、人を捨て、故郷を滅ぼし、人々を絶望へと沈めた兄を、彼は望んでいなかった。
もし、それを兄自身が選び取ったのならば構わない。
共に邪悪となり歩むことに、何の逡巡もなかっただろう。
けれど、兄の本質は変わっていない。
善良で、正道を尊び、無骨にして頑固。
人の道を貫く気質は、陰奇術士となってなお揺らがなかった。
変わらぬまま、ただより深い愛に苛まれたのみ。
だから――そんな悲しい兄を、朔矢は見たくなかった。
そこに、微かな悦びが混じっていたとしても。
兄は、自分のために狂った。
自分と同じ道へ堕ちた。
その事実に対しての感情は、哀しみだけではとても言い尽くせぬものであった。
死鬼を作ること自体は、さほど難事ではない。
人の屍と陰の気――それさえあれば、事は足りる。
朔矢はただ『殺されるためだけに』陰奇術士となったためこの術は扱えぬが、志紀にとっては草履の紐を結び直すより容易な業であった。
問題は、ただの死鬼ではなく、朔矢その人を蘇らせる場合にある。
記憶も意思も完全に継ぎ、人と変わらぬ振る舞いを可能とする死鬼を創るとなれば、その労力は飛躍的に増す。
殊に、朔矢のように才ある者であればなおさらであった。
ゆえに、大量の陰気が必要であった。
人々の多くの負の感情である、陰の気が。
清嶺館を標的としたのは、志紀の純然たる個人的理由に他ならない。
己が意志で人の道を外れ、邪悪へと堕すのであれば――せめて、最も死んでほしくない者たちを狙うべきだ。
誰を殺したとしても許されざるゆえに、最も心を痛める場所を、踏み荒らすべきだ。
本当に、それだけの理由であった。
幸か不幸か、ひとり異様な力を持つ者がいたおかげで、志紀は他の道場や町を襲うことなく、朔矢との再会を果たすことができたのだが。
「……にしても、随分と皮肉な話だねぇ」
朔矢がにやつきながら呟く。
「何の話だ」
問われずとも、心は読める。
死鬼とは主従の関係に近く、また傀儡の術にも似る。
ゆえに、朔矢の心は志紀にとって常に手に取るようにわかる。
反対に、志紀の心もまた朔矢に伝わる。
それは、志紀が互いに対等であることを望んでいるからだ。
互いを知り、互いを分かち合う。
ただし、志紀は安易にその力に頼る気はなかった。
――傍らで語り合うためにこそ、ここまで堕ちたのだから。
「いやさ、名前のこと。にいさんが主で、俺が死鬼。何とも皮肉じゃない?」
「つまり、《《志紀》》たる私こそが《《死鬼》》となるべきだったと?」
「いや、にいさんの死鬼になれたのは嬉しいんだよ。にいさんのものにされた感じで、すっげぇ嬉しい」
朔矢はそう言い、心からの笑みを浮かべた。
道の果てが地獄であろうとも、今この瞬間が幸福であり、二人を分かつものは死のみ。
後悔など、あるはずがない。
朔矢にとって重要なのは『受け入れられる』ことではなく、『奪われる』ことだった。
死鬼となり、傀儡となり、いざという時は意のままに操られ、志紀が死ねば自らも連鎖して死ねる――それは限りなく理想に近い形であった。
志紀の心を除けば。
「……そうか」
志紀はそれだけを答える。
朔矢はじとりと志紀を見据えた。
志紀は朔矢の心を覗かぬよう努めているが、朔矢は反対に積極的に志紀の内面を探る。
大切な人の心に、常に触れていたいからだ。
だからこそ、このときも志紀が何を考えていたのか、手に取るようにわかった。
「あいつのことを考えるなよ、にいさん」
朔矢が拗ねた顔で呟く。
「……すまない」
志紀は謝ることしかできない。
直前まで考えていたのは――『朔矢と沙夜も、名前が似ているな』という、あまりに無遠慮な感想であったからだ。
「……今思えば、おっかねぇ奴だったな、あいつ」
朔矢はぼそりと吐き出す。
あの頃は、嫉妬しかなかった。
妬み、憎しみ、殺意すら抱いた。
にいさんの妻になれるというその真実は、朔矢の心をこれ以上なく乱した。
だが事実を知った今となっては、憎悪も怒りもなく、ただただ底知れぬ恐怖だけが残った。
朔矢の言葉に、志紀も頷く。
確かに、彼女に人生を壊された。
彼女が関わらなければ、今も二人は清嶺館の剣士であっただろう。
あるいは、正玄が仲介してくれれば、恋仲として認められた可能性すらあった。
正玄は男同士の恋を理解できぬが、心を偽ることが無意味であることは知っていた。
ゆえに、彼女がいなければ皆が幸せになれた――そう考えるのも、あながち間違いではない。
しかし、それでも彼女を恨むことはできない。
恨みを抱けるほど、彼女は『まとも』ではなかったからだ。
良くも悪くも、あまりに自分たちと異なる。
陰奇術士であるだとか、魔人と呼ばれているだとか、そんなことさえも些事。
そのくらい、彼女はこの世界より外れていた。
二度と関わりたくない――それが偽らざる本音である。
もっとも、彼女の残滓とは、否応なく向き合わざるを得ないのだが。
「……本当に、化け物だな」
朔矢は右手を見やった。
薬指――そこだけが一回り細く、女のものだった。
見間違えるはずがない。それは沙夜の指であった。
莫大な陰気を費やして朔矢は死鬼となったが、そのうち半ばほどは彼女を経由したもの。
その影響か、朔矢の身体には奇妙な変化が現れた。
普段は指先だけだが、時折右手全体が女のものへと変わる――まるで汚染が広がるかのように。
理由も原理もわからぬ。
だが二人は、さほど気にしていなかった。
仮に彼女の意思がわずかでも残っていようとも、決して表に出ず、悪事を働くことはない――そう確信していた。
何故ならば、今進むこの道以上に不幸な道など存在しないからだ。
これから二人は、ただ煉獄の一本道を歩み続けるだけ。
彼女流に言うなら、今が最も『美しい』状態である。
だからもし、それを特等席で見届けたいというのなら、それも許容しよう。
なにせ彼女のおかげで朔矢は欠陥もなく、他の死鬼のように暴走や衝動に苦しむこともなかったのだから。
……もっとも、身体の中にあの女がいるという事実は、やはり不快であったが。
「あ」
朔矢がふと思いついたように顔を上げ、志紀を見やる。
「次さ、手がまるまるあの女のものになったら、この手で気持ち良くしてあげようか?」
にやにやと品のない動作を交えて見せる朔矢に、志紀は怪訝な顔を浮かべた。
「何故、そのような無意味な提案を」
「こいつへの嫌がらせ。俺は嬉しい、にいさん気持ち良い、こいつ意識あったら嫌がる――最高じゃね?」
「……お前の身体であるのは確かだが、それでも他の者の身体で触れられても、私はあまり嬉しくない。お前が望むなら、できる限り付き合ってやりたいとは思うがな」
「にいさん……」
「それと、たぶんだが、そいつは何をしても喜ぶ。嫌がらせのつもりでやればやるほど、悦ぶだろう。つまり、無意味だ」
「……最悪だな」
「ああ、最悪だ」
小さく吐息を洩らし、そしてもう一つの吐息がぴたりと重なる。
二人は顔を見合わせ、同時に苦笑した。
ある日のことあった。
二人で歩くことが当たり前となり、二人が人の敵であるということが認知されてしばらくした、そんなある日。
一人の男が、彼らのもとへと辿り着く。
その双眸には、煮えたぎる憎悪が宿っていた。
名は宗藤――匠眞宗藤()。
かつて陽気寮に籍を置いた術士である。
「かつて」というのは彼が離れたからではなく、陽気寮そのものが崩壊の瀬戸際にあったからだ。
陽気寮は《《とある事情》》により壊滅的打撃を受け、新たな国防組織の設立が急がれていた。
旧陰陽寮に権限を戻そうとする者、新組織の利権を狙う者、権力集中を図る者――。
思惑は複雑に絡み合い、互いに足を引きずり下ろしながら、組織はなおも形を成しつつあった。
その崩壊の根は、二つの存在にあった。
一つは『魔人志紀』。
一つは、『ある書物の存在』である。
魔人志紀は、陰奇術に加え、陰陽寮が扱う陰・陽双方の術を修め、さらに無双の剣技を振るう。
かつて最上位等級『禍』に認定されたのも過去の話。
今では彼のためだけに新たな等級『禍津』が設けられた。
術士に匹敵する気の操法、多才な陰奇術、優れた剣技――加えて配下の死鬼すら『禍』を凌ぐ実力を持つ。
彼一人により、陽気寮は事実上、瓦解した。
もっとも、崩壊とは言え犠牲者は未だ多くない。
精々術士二十人程度であろう。
問題は犠牲の数ではなく、陽気寮の制度そのものにあった。
陰奇術士でありながら『陰・陽両方の術をも操る者』と、『陽気のみを使う術士』。
己に枷を嵌めた側が、勝てる道理はない。
最上位術士が事実上の敗北を認めたことが、陽気寮の信頼を根底から揺るがしたのである。
もう一つの要因――書物は、故・雨隆という術士が著した陽気寮批判であった。
陰気を一切排するがゆえに、陽気術の出力すら低下していると説き、陽気中心の在り方そのものを否定した。
魔人志紀の出現と同時にこれが公表され、陽気寮の権威は失墜。
こうして再編の流れは決定的となった。
陽気寮も陰陽寮も、新設組織も、いずれも混乱の渦中にある。
宗藤はそんな権力争いに加担せず、ただ一人、魔人討伐のために来た。
彼の憎悪は、陽気寮崩壊への恨みではない。
それ以前から抱き続けていた、個人的な怨念であった。
「見つけたぞ、魔人志紀――そして邪鬼朔矢!」
宗藤の叫びに、二人はどこか面倒げな様子で振り向く。
上半身は裸、汗が滲むその姿は、何やら直前まで別の行為に耽っていたことを想わせた。
「っ! ……村で女でも攫っていたか、ケダモノめ」
吐き捨てる宗藤に、朔矢は薄く笑う。
「俺はもっとケダモノになってくれても構わないんだけどな。優しいのが嫌ってわけじゃないけど」
淫靡な笑みを片割れに向ける小柄な少年。
男でありながらも、どこかそそられるその表情を悍ましく思いながら、宗藤は己の誤解に気付いた。
近くに貪れられたであろう女の亡骸はなく、そこにいるのは二人だけ――つまり。
「……汚らわしい」
本当に穢れを見るかのような視線を投げる宗藤。
だが二人は平然としていた。
「で、術士様は何のご用件で? 正直、今は色々な意味で満ち足りてるから、相手する理由はあんまりないんだけど」
朔矢の軽口に、宗藤は怒りを露わにし、己の目的を告げる。
「我が師にして父――陰陽頭補任・宇隆様。その名を知らぬとは言わせぬ!」
その名に、志紀の表情が変わった。
「兄さん。俺が行く。あいつを殺したのは俺だ」
朔矢が一歩前に出る。
志紀の心はなお、人であった頃と変わらぬまま。
それゆえに傷付きやすく、苦しみやすい。
旧友の息子を討てというのは、あまりに酷である。
だが志紀は首を振った。
「いや、私が出る。……私が出るべきだ」
その声の奥にある痛みを知るのは、今や朔矢だけだった。
それでも、志紀がそう定めた以上、朔矢はただ見守るしかなかった。
志紀は近づくと、構えも取らずにただ佇んだ。
まるで『好きに準備せよ』とでも告げるかのように。
宗藤は即座に術を展開し、土製の人形を創出する。
それは、生前の父が得意とした術式だった。
人形を操り、不屈の前衛として立たせ、自らは後方から術士としての本領を発揮する。
陽気寮ではなく、むしろ陰陽寮が長じる系統の術であった。
その術を一瞥した魔人は、短く沈黙した後、口を開いた。
「雨隆殿は、そなたほどの齢の子を持つには、いささか若すぎたと記憶している。……お前は本当に、雨隆殿の子か」
その問いに、宗藤は激昂する。
「貴様に何が分かる! 私は宗藤、雨隆様の長子である!」
それは、宗藤にとって最も触れられたくない領域であった。
彼は『父』と呼ぶことさえ許されていない。
そもそも、その生まれからして正道のものではなかった。
陽気寮が最盛期を迎え、陰陽寮が追い詰められた末、雨隆への人質兼、術士として《《用意》》された存在――それが宗藤である。
父との対面は数えるほどしかない。
術の指導を受けたことは一度もなく、父の教え子のその又聞きによって学んだ。
そもそも父が自分を受け入れていたのかすら、宗藤は未だ知らない。
何しろ、自分を生むために、父はまだ幼き頃に無理やり薬と術を施され、母と交わらされたのだから。
憎まれても仕方のない生まれ。
それでも宗藤は、たった一度だけだが雨隆が自分の頭を撫でてくれたことを忘れていない。
いつか術士として並び立つことを願ってくれた、その温もりを。
だが、その願いが果たされる日は訪れなかった。
ゆえに――宗藤は仇討ちに来た。
父の名誉のため、そして『父の子』としての己の名誉のために。
「まあ、雨隆が若作りだったってだけじゃないの? 似てるよ、こいつと雨隆は」
木の上に横たわり、観戦するような姿勢で朔矢が欠伸まじりに言った。
敵からの言葉が、宗藤を一瞬だけ嬉しがらせた。
その事実が、彼にどうしようもない怒りと劣等感を同時に与え、木の上の男を睨む。
それを見て、男はぱっと表情を明るくし兄の胸の中に飛び降りた。
「そうだ、いいこと思いついた。兄さん、俺を使ってよ」
朔矢の言葉に、志紀は訝しげな顔を向けた。
「いや、戦うのは私――」
「うん、それでいい。でも俺を《《使って》》戦ってよ。あっちは土人形を使ってるんだし」
「お前……それは……」
「だってさ、兄さん優しいじゃん。いや、それも嫌じゃないよ? 丁寧で優しい兄さんの指使いも。だけど、道具みたいに乱暴にされたいって、俺いつも言ってない?」
「善処はしているつもりだが……」
「んで、その一歩として俺を使って戦ってよ。あっちとしても、その方が良いだろ?」
「汚らわしい死鬼風情が、何を……」
「いや、あんたの父上を殺したのは俺だぜ? だったら俺を殺したくないか?」
宗藤の眼に、濃い憎悪が宿る。
その矛先を見て、朔矢は楽しげに笑い、半裸のまま志紀にもたれかかった。
志紀は不満げな顔で、低く告げる。
「二対一だ。不満なら戻って仲間を連れてこい」
その一言で、宗藤の怒りは頂点に達した。
「なめるな、化外が! 邪悪どもめ、正しき者の前に果てよ!」
宗藤の魂から来る言葉を聞き、志紀は静かに、頷いた。
「ああ……そうだ。お前は正しい。お前は正しき者、そして私たちは――邪悪だ」
志紀の口端が歪む。
それは人のものとは思えぬほど醜悪で、まるで本物の鬼の面のような笑みであった。
死鬼である朔矢は、肉体の主導権を全て、主たる志紀に委ねることができた。
関係は比翼のごとく対等でありながら、主従であることに変わりはない。
志紀はそれを望まぬが、朔矢にとっては甘美な在り方であった。
夜の折、自らの奉仕の割合が多いのも、その感情の裏返しにほかならない。
全てを捧げたい――その想いは日を追って強まるばかりだ。
造り直され、この身のすべてが志紀に包まれて以来、その想いはなおも残り鮮烈なまま。
ゆえに、自らの身体を勝手に動かされることも不快にならない。
むしろ心地よいとさえ思う。
志紀の代わりに戦い、志紀の代わりに傷つく――それは夜の交わりにも劣らぬ幸福であった。
もっとも、今回ばかりは別の理由がある。
億に一つもあり得ぬことと分かっていても、志紀が雨隆への義理から敗北を受け入れるかもしれない――その懸念が、朔矢を動かしていた。
もしもの時は、自分がやろうと。
黒刀を握り、緩やかに歩み寄る朔矢に、宗藤は慌てて土の人形をもう一体生み出す。
旧陰陽寮の術式に連なるそれは、雨隆が得意とした技であり、宗藤がさらに改良を加えたもの。
人形はより繊細に操れ、修復も迅速。
たとえ完全に破損しても即座に再構築し、常に二体を維持できる。
父の息子たる自分だからという自負を持つ術式であった。
「数の利はこちらにある! 舐めるな、化外ども!」
宗藤の叫びに、朔矢は薄く笑みを浮かべる。だが志紀の表情は、どこか退屈げに変わっていた。
その落胆に気付いた瞬間宗藤は激昂し、二体の人形を同時に突撃させる。
剣戟が二度鳴る。
二刀を構えた朔矢は、人形の猛攻を難なく受け止めた。
拳を受けてもびくともせず、棒を持たせても状況は変わらない。
「ならば――術で!」
札を取り出した宗藤の手元で、それは発動前に燃え尽きた。
「なっ……!」
視線の先、志紀が静かに立っていた。
何をされたかは分かる。
術式を発動前に打ち消されたのだ。
だが、理解と納得は別だった。
術式の打ち消しそのものは語られているが、実現出来たものはいない。
それは、幾つもの旋律を同時に歌い、十を超える楽器を一人で奏でるような芸当――常人は到底なし得ぬ所業である。
「化物め……」
奥歯を噛み砕かんばかりに憎悪を込める。
殺してやる――この化外どもに生きる資格などない。
だが、その想いは叶わない。
一瞬にて二体の人形が壊され、それを修復するよりも早く、二人は宗藤の眼前へ。
そして、刀を抜きながら志紀は口を開いた。
「宗藤、お前は大きな勘違いをしている」
「……勘違いだと? 雨隆様を殺していないなどという戯言を抜かす気か!」
「違う。勘違いは、お前の実力と戦い方だ」
志紀の声音は冷ややかだった。
「雨隆殿は人形を五体も六体も同時に操れたが、戦う時は常に一体だけであった」
「……は?」
「人形操作と術行使は、同時には限界があると本人が言っていた。お前は雨隆殿を越える才を持っているつもりか? 雨隆殿に出来なかったことを、自分ならやり遂げられると信じているのか?」
返す言葉はない。
志紀は静かに刀を構え、淡々と告げた。
「術も、操作も、全てが中途半端だ。宗藤――あの世で父から学び直せ」
刃が軽く振るわれ、首が一つ、音もなく落ちる。
「……すまない。本来なら陰気のため、苦しませるべきであったが」
志紀の言葉に、朔矢は首を横に振る。
「いいよ。恩人の子を痛めつけるにいさんなんて、見たくなかった」
「だが……」
「大丈夫。それで足りなくなったら――また、にいさんが愛してくれればいい。もちろん、そういうことがなくても、愛してくれるなら嬉しいよ」
朔矢は微笑み、志紀の肩へと身を預ける。
まるで、その心を慰めるかのように。
魔人。
そう志紀が呼ばれているのは従来の陰奇術士とは明らかに外れているからだ。
その一つとして、志紀は陰気に依存せず生きられるというものがある。
本来、陰奇術士というのは人より多くの陰気を取り込めるのと同時に、多くの陰気を取り込まねば己を維持出来ないという特性を持つ。
己が欲望のため世界に不幸をもたらす存在だが、人々を不幸にし、多大な陰気を生み出させば生きられないなんて人に依存した存在でもあった。
だが、志紀は違う。
陰気を求めず、必要ともしない。
全てが自己完結しており、陰奇術士のように狂うことも壊れることも、堕ちることもなければ他者を苦しめる必要もない。
そう、志紀だけなら陰気のため人を害す必要も、汚す必要もない。
人の敵である必要はないのだ。
ただし、それは志紀に限った話。
朔矢は別であった。
死鬼という生ける屍である朔矢は、その身を維持するため多大な陰気を必要とする。
そうでなければ腐り落ちるか、心を失うか、もしくは本当の化物と化す。
だから、志紀は非道を行なわなければならなかった。
ほかならぬ、最愛を生かし続けるために。
誤魔化すことは叶う。
自然の中にある陰気を集めること。
主である志紀と交わることで肉体を補強すること。
だがそれは所詮時間稼ぎの誤魔化しに過ぎず、人の嘆きや苦しみ、絶望や怒りから溢れる多大な陰気に頼る以外、生きる術はなかった。
志紀はいまだ心は善性のままである。
真っ当な道徳を持ち、正義の心を持ち、正しく生きることを美しいと思う。
それでも、もう二度と、堕ちた太陽は戻らない。
自分がどれだけ生きられようとも関係ない。
朔矢のいない時間は、例え刹那たりとも耐えられないのだから。
だから……二人に道はもう苦しみ藻掻きながら歩くという道しか残っていない。
人を殺し続け、いつか人から狩られるか、もしくは人を狩りつくし滅ぶか。
どちらにせよ、終わりの瞬間まで不幸しか残っていない。
善性のまま己を邪悪とし手を汚し続ける志紀。
己のために、苦しみ続ける志紀を見続けなければならぬ朔矢。
それでも、二人は生き続ける。
どれほど過酷であろうとも、隣が空席になるよりはと――。
「ねぇにいさん。遠く異国の地には、人間の血を吸う人型の化外がいるそうだよ」
「ほう。そうか、それはまた……我々と似ているな」
「会いに行こうよ。人より多くの陰気を持ってるかもよ」
どうせ殺すなら、少ない方が良い。
どうせ殺すなら、悪人の方がマシ。
その方が、にいさんはきっと傷付かないから。
そんな朔矢の心が感じられ、志紀はぽんと朔矢の頭を撫でる。
嬉しそうに目を細める朔矢は、どこか猫のようであった。
「それとねにいさん」
「ん」
「異国の地にはね、夜にしか見えない太陽があるんだって」
「――そうか。それは……見てみたいな」
夜にだけ見える太陽。
堕ちた太陽。
それは人の住まう光の世界に嫌われた、穢れた自分達も照らしてくれるだろうか。
そんな感傷を、志紀は抱いた。
「きっと大丈夫だよ。見にいこう」
「ああ。そうだな……船旅の準備をしようか」
志紀の言葉に朔矢は微笑んだ。
例え行く先が地獄であろうとも、ふたりはもう、そうとしか生きられなかった。
いつか、死が二つをわかつ、その時までは――。
ありがとうございました。
これにて完結となります。
遅筆で申し訳ありませんでした。
最後までお付き合い頂いたこと、心より感謝を。
そしてもし、楽しんで頂けたのでしたら、高評価、ブクマ、リアクションの程をどうかよろしくお願いします。
誰かが見てくれているというのは、それだけで強いモチベに繋がりますので。




