49 爆発MHJ
現れた地下への階段を降りると、冷え切った空気が肌を刺した。
そこには先ほどとよく似た広間が待っていた。天井の高さや壁の装飾、全体の造りもほぼ同じだ。だが、目を引いたのは床に描かれた魔法陣──いや、かつて魔法陣だったもの。
直径二十メートルの円環は無残にもズタズタに削り取られ、線は途切れ、嵌め込まれた鉱石はほとんど砕け散っていた。かろうじて輪郭をなぞれる部分もあるが、もはや魔法陣としての意味をなさない。
レオナルドが片膝をつき、掌を翳して魔力を流し込む。青白い光が一瞬だけ走りかけ──すぐにかき消えた。
周囲には瓦礫の破片が転がっていた。床に散らばるそれらは、どうやら壁や柱から剥がされたもののようだ。鋭い角が残っているものもあり……それで削ったのだろうか。
「これ、素手でやったのかなぁ」
思わず口をついた私の声に、レオナルドは慎重に広間を見回しながら答えた。
「さて……協力者がいたのかもしれない」
「あぁ……そうかもね」
そうだったらいいな、と思った。
──これをやったのは、三百年前に召喚された聖女だ。
彼女は自らを囚える鎖の中で、次に続く誰かを救おうとしたのだろう。
上の階の石板に刻まれた記述を削り取り、さらにこの地下の魔法陣を破壊した。二重構造の術式のうち、一つでも欠ければ召喚は成立しない。そう信じて。
エウジェニオが調べた《聖女召喚の術》について「一冊では足りない」と言っていたのは、この二重構造のことだった。
書物だけでは不十分。石板の記述を見つけ、この階の魔法陣を同時に稼働させて、初めて真に発動する仕組みになっていたのだ。
しかし、国王は下の階の存在に気付かず、魔法陣ひとつだけを用いて召喚を試みた。
結果は──完全な召喚の失敗。あるいは、半端な形での成功。
完全に術を破棄するためには、本来なら上階の魔法陣も破壊しなければならなかったのだろう。
だが、当時の聖女が王家に囲われていた状況で、そこまで徹底した行動を取ることは難しかったに違いない。見つからずにできた抵抗は、この地下を壊すことまでだったのだ。
彼女は信じていたのだろう。「一つを潰せば、次は呼ばれない」と。未来の誰かを巻き込まずに済むと。
実際のところ、彼女の試みがどこまで有効だったのかは……今となっては誰にも分からない。
三百年前の聖女は、実際のところ、浄化の魔法が使えたらしい。知識によって衛生環境を整えたのも事実だったようだが。
私はそんな魔法は使えないし、世界も救っていない。私は"聖女"ではない、が。
だが──ここに残る瓦礫と削り跡が、確かに彼女が抗った証拠だった。
足元に散らばる石片を拾い上げ、削り取られた線を指でなぞる。冷たくざらついた感触が指先に伝わるたび、胸の奥に重たいものが沈んでいく。
「……ありがとう、って言うべきなのかな」
思わず独りごちる。
彼女が残してくれた必死の抵抗がなければ、私はもっと徹底的に、意志すら奪われるように召喚されていたのかもしれない。今こうして自由に動き、仲間と笑い合えることもなかったのかもしれない。
レオナルドがちらりとこちらを見る。何も言わないが、その瞳に宿る静かな共感を感じた。
広間に漂う沈黙は重い。だが同時に、遠い誰かの想いを確かに受け取った気がした。
私とレオナルドは、遺跡を出て地上に上がった。
土の匂いが鼻をくすぐる。地下の湿った空気を吸い込んでいた肺には、風がやけに新鮮に感じられた。
「着火お願いしまーす」
「あぁ、下がっていろ」
彼の声に従い、私は少し離れた場所で待機する。階段の段差から足元に注意しつつ、レオナルドが小さな火の魔法を階段の下に放つのを見届けた。
──轟音。
鈍く、地の底を震わせるような音が響いた。砂埃が階段の隙間から舞い上がり、光の中できらきらと漂う。
「た〜まや〜」
花火ではないが。
「足元、気をつけろ」
差し出された手を掴み、私は慎重に階段の縁へ身を寄せる。地下の暗がりを覗き込むと、確かに魔法陣は崩壊し、焼け焦げ、さらに一部が崩落して瓦礫に埋もれていた。
確認を終えると、私たちは遺跡から背を向ける。
「本当に、よかったのか」
「うん、いいよ」
その声音は、ただの確認というよりも、心の底から私の選択を案じている響きがあった。
……《聖女召喚の術》を調べれば、ひょっとしたら──元の世界に戻れる魔法陣も開発できるかもしれない。
だが──。
「それだけのために、生きていきたくないからさ」
だが、それは確実ではない。たとえ可能性があったとしても、必要な時間と労力は計り知れない。
私には魔力もなければ、魔法の知識もほとんどない。理論の基礎を勉強するだけでも、きっと膨大な年月がかかるだろう。
もちろん、エウジェニオやルクレツィアに頼めば、詳しい魔術師を紹介してもらうことはできるだろう。研究所に籠って、学者や技師を巻き込んで実験を重ねれば、帰還の術も、あるいは。
しかし、他人の力を借りれば借りるほど、焦りと罪悪感にも追われることになるだろう。
もしかしたら帰れるかも──そう思い続けながら、いつか叶うかもしれないその「いつか」ばかりを見つめて、この世界から視線を逸らして……。
それで私は幸せになれるだろうか。
「幸い、私はどこでも悠々自適に暮らせるチートがあるからね。元の世界でもこっちの世界でも、暮らしぶりは変わらないよ」
私には便利なスキルがある。少なくとも生活の不安はない。
好きなときに好きなものを入手でき、趣味に没頭できる。少なくとも一番の未練になり得るオタクコンテンツについても、このスキルで追える。漫画も、配信も、グッズも。──そう思えば、チート万々歳だ。
レオナルドは歩を緩め、横目で私を見た。
彼の表情は、まだどこか釈然としていない。
「……だが、君の帰りを待つ家族や友人もいるだろう」
「あ〜……」
私は空を見上げてから、スマホを取り出し、SNSを開いた。
あるアカウントのホーム画面を開いて、レオナルドに向ける。
「見てこれ」
「……この人たちは?」
「うちの家族」
レオナルドは画面から目を離し、私を見た。
小さな画面の向こうには、至って平凡な家族の姿が映っていた。中年の夫婦、若い女性──妹。その三人が笑顔で写る家族写真だ。
キャプションには、ボーナスで近場の温泉へのプチ旅行をプレゼントした、という日常の一コマが添えられている。
そこに──私の存在は一欠片もない。
過去の投稿も遡ってみても、妹のアカウントにあったはずの姉の記録は、文字通り消されている。誕生日の思い出も、姉妹で出掛けた時の写真も、私の存在はぽっかりと空白になっていた。家族四人で写ったはずの写真も、今や三人分しか残っていない。
「私の存在って多分、"なかったこと"にされてるんだよね」
「は、」
レオナルドの目が大きく見開かれ、愕然とした。
妹のアカウント、友人たちのアカウント。
そこにかつて載っていたはずの私に関する情報は、まるで最初からなかったかのように、文字も写真も削れている。
普通であれば、姉が行方不明になったら、妹は悲嘆の吐露や情報を求める投稿の一つでもするはずだ。
けれど、そこにあるのはただ──普段と変わらない、ささやかで平穏な日常。
新しい服を買っただの、友人とカフェに行っただの、職場で先輩に褒められただの。
「ちょうどよかったよね」
レオナルドの眉がぴくりと動く。
「あかり」
名前を呼ぶレオナルドの声は、いつになく低い。叱責というより、哀しみを含んだ響きに近い。
それでも私は、彼に微笑んでみせた。
「いくら探しても見つけられない家族のことなんて、忘れてもらった方が気が楽だよ。……私はちゃんと覚えてるし、覚えてる私は、こうして家族の情報を一端でも見られるしね」
言葉にしてしまうと、どこか淡々としているように聞こえるかもしれない。だが胸の奥には、きちんと温もりのようなものが残っている。
時々、フィクションの世界では"存在ごと失われる"ことを、"骨すら残らない、通常の死よりも恐ろしく、哀れな現象"として描くことがある。
けれど少なくとも、私に関しては──そうは思わない。
むしろ、それは救いだ。
もし家族が私を思い続けて、探し続けて、心をすり減らしていたとしたら。残された人たちの人生まで、私の失踪のせいで歪んでしまっていたとしたら。
その方が、よほどやりきれない。私はどんなにこの世界で楽しく暮らそうとも、罪悪感に苛まれただろう。
だが現実には、彼らは私を最初からいなかったように扱っている。私の存在が消えた空白の分、彼らは軽やかに笑い、日々を楽しんでいた。
妹のアカウントを開けば、今日も楽しそうな日常が綴られている。
新しくできたカフェに行っただの、推しのアイドルグループがツアーを発表しただの、友人とカラオケに行ってはしゃいだだの──小さくてもきらめく日常の断片。
そのどれもに、私の影はない。けれど、だからこそ安心できるのだ。
少なくとも、私が元の世界で生きた“記録”は、ゼロになったわけじゃない。
自分のSNSアカウントに残した言葉や写真は、きちんと存在している。旅行の写真や、作りかけで終わったイラスト、しょうもない推し語りのポスト。
もしかしたら、鍵をかけた非公開アカウントでもないのに他人からは見えない状態になっているのかもしれない。それでも、私には見られる。
そして私は覚えている。確かにあの世界に生きていた自分を。
それに。
「この世界にも、私の帰りを待ってる人たちはいるでしょ」
そう言うと、レオナルドがゆっくりと瞬きをして、やがて小さく息を吐いた。
瞳の奥で揺れる何かを隠しもせず、彼は頷いた。
「……そうだな」
短い返答。だが、その一言には彼なりの感情が込められているのを感じ取れる。
深く追及しないのは、私の気持ちを尊重してくれているからだろう。ありがたい。
夕暮れの風が頬を撫でる。瓦礫と化した遺跡を背にして、彼が私の方へ手を差し出した。
「帰るか」
差し出した手に、私はためらわず自分の手を重ねた。
大きくて、固いけれど温かい手。包み込まれる安心感に、思わず指先が少し強く握り返す。
「帰ろっか」
笑いながら答えると、彼の表情がわずかに和らいだ。
足元には、砕けた石片が転がっている。砂埃はまだ少し残っていて、夕日を受けて金色に染まっていた。
遺跡の方を振り返れば、黒く焦げた入口がぽっかりと口を開けている。もう二度と、あの術が誰かを引きずり込むことはない。
そう思うと、不思議と肩の力が抜けた。
どれほど遠くに来てしまったとしても、この手を掴んでいれば、私は迷わず歩いていける。そんな気がした。
二人並んで歩き出す。
空は茜から群青へと移ろい、鳥の群れが遠くへ帰っていく。
町まで戻る道のりは決して平坦ではないが、不思議と足取りは軽かった。




