48 不発NDK
私とレオナルドは、王都から北へ数日。森を抜け、岩肌の連なる丘を登った先に広がる古い遺跡へと足を踏み入れていた。
最初に目に飛び込んでくるのは、崩れかけた円形の石造建築。
崖に沿うように建てられたその姿は、もはや半分以上が自然に呑み込まれつつあった。
壁面を覆う蔦、崩れかけたアーチ。所々風化した石柱は、ひび割れの隙間から草花が芽吹き、過去と現在が奇妙に同居している。
石材の表面には長い年月を経て刻まれた苔が模様のように広がり、雨水が伝った跡が黒ずんで筋となって残っていた。
しかし、その荒れ果てた光景の中心──地下へ降りる階段だけは、驚くほどしっかり残っていた。
苔一つ生えていない石段を進むたび、靴裏に乾いた石の硬さが伝わる。
まるで「ここだけは朽ちてはならない」と意思を持って守られているような、不気味な清浄さだった。吹き抜けてくる風さえ冷たく、自然の中にあるはずなのに、不自然なほど澄んでいる。
階段を下りきった先。そこには広間が広がっていた。
そこは地上の建築とは異なり、ほとんど損壊の跡がなかった。
高さ十メートルほどの円天井。周囲を取り囲む白い壁には幾何学的な装飾、そして神話を象った神々の姿が刻まれ、青白く浮かんでいる。
荘厳さと異様さが入り混じったその空間は、神殿というより"祭壇"に近かった。
誰かを迎え入れ、あるいは誰かを呼び寄せるための、畏れ多いほどの舞台。
「おぉ〜、でっかい魔法陣」
思わず声が漏れる。
床いっぱいに描かれているのは、直径二十メートルを超える巨大な円環。
内側には複雑に組み合わされた六芒星と三重の円環、そこから放射状に伸びる線が、蜘蛛の巣のように絡み合っている。
線の一つ一つが、幅広く彫り込まれ、そこに青銀色の鉱石が埋め込まれており、淡く光を放っていた。
「これは……相当大掛かりな術式だな。当然ではあるが」
隣でレオナルドが低く呟く。その瞳は警戒心と畏怖が入り混じっていた。冷静な彼の声にも、わずかに緊張の色が混じっている。
私は魔法陣に近寄り、しゃがみこんで溝をなぞる。指先には冷たくざらりとした感触。そこに触れただけで、全身の毛穴が粟立つほどの力を感じた。これはただの装飾でも、儀式用の模造でもない。本物だ。
──この魔法陣は《聖女召喚の術》。
三百年前、この遺跡で最初の聖女が呼び出されたと記録にある。
さらに半年と数ヶ月前。国王がこの場所で再び聖女召喚を行った。
この遺跡は、ただの古代建築ではない。
王が己の欲望のために再び用いた、禁忌の召喚の舞台そのものだった。
──街道での襲撃事件および、アリトス商会とオルセン侯爵家の凋落から数ヶ月。
一部の界隈では大きな変化が起きたものの、世間全体は、案外と何事もなかったかのように日常を営んでいた。
人々は日々の糧を得るために働き、祭りを楽しみ、税を惜しみ、冬に備えて薪を積む。
権力者たちの暗闘など、ほんの風の噂に過ぎぬものとして通り過ぎていった。
市井で話題となった一番大きな変化といえば──やはり慶事である。
エウジェニオ・フォルイグレシア王子殿下の立太子。
同時に、ルクレツィア・ヴァレスティ公爵令嬢との婚約が正式に発表された。
それは多くの民にとって、未来への希望の証にほかならなかった。
聡明さと温和さで知られる若き王子が、堂々と次期国王の立場に据えられた。しかもその婚約者は、文武に優れ、社交界においても広く名を知られる公爵令嬢。
華やかな祝宴の話題は市中にも伝わり、町の菓子屋は祝いの菓子を焼き、酒場では酔客が「新しい時代が来るぞ」と声を張り上げた。
だが、同じ頃。
凶事として囁かれたのは──現国王陛下が体調を崩し、これまで通り政務を執ることが難しくなったという報せであった。
表向きの説明は「過労による衰えと疾病」。今後は徐々に王太子へと政務を委ね、長くとも三年以内には譲位するとの発表がなされた。
国民たちは長らく国を支えてきた賢王の衰えを悲しみ、同時に若き王子の立太子を寿いだ。これからの時代はきっと新しい風が吹き込むに違いない──そんな楽観的な声が多く聞かれる。
だが、世間の大半は知らない。
国王が異母弟の命を狙っていたことも。
王妃に毒を与えていたことも。
公表されたのは二件のみ。
一つは「王子が野盗に襲撃された」という件。
もう一つは「アリトス商会とオルセン侯爵家が禁制品を密輸入していた」という件だ。
襲撃については、同行していた第三騎士団の奮戦によって王子は無事に守り抜かれた、とされている。
禁制品に関わった二つの勢力は厳しく処断され──アリトス商会は解散、オルセン侯爵家は当主が引退させられ、爵位を伯爵へ降格。新たに縁戚筋の者が家督を継いだ。
行方不明だったレオナルドは、密かに密輸の件を調べていたとされた。任務の最中トラブルがあり、連絡できずにいた、と……。そんな中でも密輸入に関しての情報を得て、今回の摘発に至ったのだと、世間では第三騎士団副団長殿の活躍に湧いた。
要は大体オルセン侯爵が悪い、ということにされていた。
表向きには、それで全てが終わったのだ。
──国王の数々の暴挙について、正面から訴えるとなれば、全面戦争となっただろう。
証拠はある。だがこちらの旗頭はまだ十七の年若い王子。対する相手は長年権力を握り、支持基盤を固めた現国王である。
正義と理屈だけで勝てる相手ではない。あちらがどのような手段でねじ伏せてくるか。泥沼の争いに発展するのは避けられない。
ただ──全面戦争になれば、争点は"王子が手に入れた証拠は事実か否か"になる。
つまり、国王が行った暴挙について、広く世間の口の端に上ることとなる。
レオナルドやエウジェニオは国民人気が高い。
多くの城外任務を務める第三騎士団の副団長のレオナルドと、ここ数年視察と称して各地を巡っていたエウジェニオ。
民にとって二人は、玉座に鎮座する国王よりもずっと近い存在なのである。
もし彼らが国王を「黒だ」と主張すれば、もしかして本当かもしれないと疑念を抱く者は増える。
一度生じた疑念は、いくら正面衝突の末に王が潔白と証明されても、完全に払拭することはできない。"あのエウジェニオ王子殿下がいうのならば、もしかして……"と。
国王はそれを厭った。
彼は王座に執着していた。
ただ、その座から蹴り落とされないために、表向きは賢王として務めてきた。暴君や独裁者として、周囲を支配するという選択肢は取らず。むしろ"公正さ"と"知恵深さ"という仮面を被り続けることで、己の地位を揺るがぬものにしてきた。
彼にとって、"王としての評価"も大事なものだったのだろう。
だからこそ、国王は万一負けた時に王座も名誉も失うリスクと天秤にかけ、譲歩した。
これまで培ってきた名声を地に落とし悪名を歴史に残すより、ここで退いて、賢王として人々に惜しまれる立場を守ることを選択したのだ。
レオナルドへの襲撃や王妃への毒殺未遂の件を公にしない代わりに──という交渉に、国王は頷いた。
アリトス商会とオルセン侯爵の件で国王の手足を一つ捥いで、エウジェニオの手元には証拠を残す。捕らえた刺客たちは城の牢の中。
今後、国王が再び同じことをしようとすれば、その時は今度こそ世に晒すという脅しを込めて。
こうして、表面上は穏やかな妥協が成立し、国は表向きの安寧を取り戻した。
差し迫っての問題であった王妃の体調は、すでに快方に向かっている。
国王の計画では、王妃を政務から切り離し、第三子の懐妊を防ぎ、そして彼女がいない国政が当たり前になった頃に……という算段だったらしい。
すぐさま始末するという気はなく、あくまで体調不良を誘発する程度に抑えられていたこと。そして当の王妃本人が早い段階で毒に気づき、あらかじめ用意していた解毒剤を服用していたこと。
そのおかげで、さほど時間も掛からず全快するだろうとの見込みだ。
それでも完全に症状を隠してしまえば、かえって国王に不審がられる。
だからこそ、あえて吐き気や倦怠感といった軽い症状を残していたそうだが、今はルクレツィアの看病もあり、順調に回復しているとのこと。公爵令嬢らしからぬ献身ぶりに、城の侍女たちは感心しきりらしい。
私はといえば、結局最後まで国王本人と顔を合わせることなく、この一件を終えた。
正直なところ、ほんの少しばかりの未練はある。「王座の為に喚んだ聖女のせいで王座を追われることになってどんな気持ち? ねぇねぇどんな気持ち〜??」ってやろうと思ったのだが、逆恨みされても面倒臭いのでやめた。
国王本人が、私自身を選んで召喚した、というのであれば一発……十発くらい殴っても許された気がするが、実際そうではないだろう。
聖女召喚を行ったのは国王だが、誰を喚ぶかは操作できなかったそうだ。
国王にも私にも選べない、偶然か、運命か。
そんな部分で国王を責めても仕方がない。
聖女召喚を行った、という部分についての責任は、やはり「王座の為に喚んだ聖女のせいで王座を追われる」ことで禊、ということで。
レオナルドは騎士団に戻った際、国王にも会ってきたようだが……。特に何も聞いていない。話したくなった時に話すだろう。
私が想像するよりずっと、色々なことを考えているのだろうから。
話は現在に戻り、遺跡の中。
エウジェニオが国王から《聖女召喚の術》が記されたという例の書を回収し、こちらに回してくれた。その書には、いくつか紙面の端に汚れや落書きが滲んでいて──その一部は、日本語で書き付けられていた。
日本語に見覚えがあったエウジェニオがすぐ知らせてくれたのだ。エウジェニオとルクレツィアに渡していたスマホには、ひらがな表と漢字辞典をインストールしてある。
だが、流石に学園の講義だの立太子の準備だの婚約の儀だの政務の引き継ぎだので多忙を極めている彼にとって、自力で解読に取り組む余裕はなかったらしい。苦笑しながら「惜しい」と嘆いていたのが印象的だった。
落書きは文章や暗号だと気付かれない程度の字数しかなく、ゲームの日記アイテムのように謎が解けるわけではなかったが……。
それでも、当時の彼女の状況や想いについて、その断片には触れることが出来た。
「え〜と……」
「……これか」
「お、あった?」
「あぁ。こっちだ」
遺跡を見回っていたレオナルドが、低く声をかけてきた。手招きされ、私は急いでそちらに駆け寄る。
壁面に広がる神話の彫刻。その一角、神々の群像の中で一柱が掲げている石板に目を凝らす。
確かにそこだけ表面が異様に荒れていた。本来は何か文字が記されていたはずの場所が、わざと削り取られたかのようにガリガリと傷だらけになっている。文面は完全に潰され、解読は不可能だ。
レオナルドと短く頷き合い、周囲を睨むように見回す。
「じゃあ、この辺の柱の〜……」
私は試しに近くの太い柱に触れてみる。が、ただ冷たい石の感触が指に残るだけだった。
「あったぞ」
またもレオナルドが発見したらしい。床に膝をつき、手を翳していた。
彼の声と同時に、足元の床が青白い光を帯びて震え出す。床に刻まれていたかすかな線が、彼の魔力を受けて浮かび上がり、蜘蛛の巣のように光を走らせていく。
そして、ごご、と重い石が擦れる音が広間に響き渡った。
魔法陣の光に縁取られながら、何もなかったはずの床がゆっくりと割れ、中央が沈んでいく。石片が落ち、冷たい風が吹き上げてきた。
露わになったのは、さらに地下へと続く階段だった。




