41 乙女は哲学する葦である
この国の中枢に関わる陰謀の只中で緊張を味わっているのだ。恋愛だなんて、落ち着いて考えている余裕があるはずもない。気持ちにスイッチが入らない、というのが正直なところだ。
──レオナルドがこちらに視線を寄せてくるときの、真っ直ぐすぎる眼差し。
──笑って流したあれらの言葉。
──無意識なのか、それとも意図的なのか分からない距離の近さ。
どれもこれも、胸の奥をくすぐって仕方がない。
だけどそれを「恋」と断じてしまっていいのか。そう自問しては、「その前に考える事があるだろ」思考に戻るばかりだ。
「いっそ国外逃亡でもしてたらそういう雰囲気になった可能性もあったかな、と思いますけど」
「あら、そう?」
半分冗談めかして言うと、ルクレツィアはぱちりとまつげを揺らした。ルクレツィアの声音には、軽い茶化しと、本当にそうなっても不思議はないという含みが混じっていた。
「いや、仮にですけどね。なんか一緒に逃げて、旅の途中で頼り合ううちに……みたいな」
少女漫画的な展開を自分で想像して苦笑いする。
──あるいは、あの森での生活がもう幾らか続いていたら。
だが現実は、政治と陰謀と策謀の只中だ。
「それにほら、レオナルドくんって私にベッタリじゃないですか。正直、高括ってるとこはありますね」
彼は私を守ることにあまりにも真剣すぎて、時にこちらの気恥ずかしさを通り越して困惑してしまうくらいなのだ。他の女に惹かれることがあるものだろうかと、自惚れを抱いている自覚はある。
半ば冗談、半ば本音で言うと、ルクレツィアはにやりと口角を上げた。
「あらあら、まぁ。あかりったら……」
その表情は少し意地悪そうで、けれど温室の光の中で柔らかに溶ける。
「アルバレスト卿は、ご令嬢方に中々人気があるのよ」
「意地悪言いますねぇ……」
思わず口を尖らせるとルクレツィアは「うふふ」と喉を鳴らして笑い、摘んだ枝を一つ手に持ったまま、軽やかに髪を揺らした。
彼女の微笑みは、どこか姉が妹をからかうような優しさを帯びている。けれどその裏には「油断しないことね」という含みも感じ取れた。
「あんな面倒そうな立場なのに?」
確かにレオナルドは容姿も良いし、強いらしいが。
率直に首を傾げると、ルクレツィアは少し肩をすくめて微笑む。
「そうね。本人は平民上がりとはいえ騎士爵持ちで、歴史あるロウヘルト子爵の後ろ盾もある。下位貴族の婿としては上級だわ。高位貴族は事情を察している者も多いから結婚相手には考えていないけれど、血筋を知って"惜しい"と感じている令嬢も多いわね」
「なるほど……」
私は曖昧に声を漏らすしかなかった。そう考えれば、確かに引く手数多でも不思議ではない。私にはその辺りの感覚がまだ馴染まないが、合点はいった。
私は困ったように笑い、バケツの縁を指でなぞった。
「尚更、ちょっと気が引けますね……」
「……どうして?」
ルクレツィアが不思議そうに瞬き、首を傾げる。その視線を真正面から受けて、私はしばし言葉を探した。
「ほら……。この件が解決したら、レオナルドくんの立場もどうなるかわからないじゃないですか」
「……王家の籍に入るかも、と?」
そう、全てが片付いたとき、彼がどの立場に収まるかは予想もつかない。
エウジェニオがこの先王位に就くかどうか、王国の構造がどう変わるのか。王家が大きく動く中で、レオナルドが今と同じ場所に立っているとは限らない。
ただの騎士に戻るのか、それとも王族に迎えられるのか。あるいは、別の何かに……。
それとも、ただ失敗して、先の仮定のように二人でこの国を逃げ出すことになるかもしれない。
「アルバレスト卿が望むかしら。ジェノ殿下も無理強いはしないでしょうし……。それに、あかりなら貴女自身の立場もどうとでもなると思いますけれど」
その言葉は、慰めのようでもあり、試すようでもあった。
私は首を横に振り、少し目を伏せる。
「でもほら、気持ちだけではどうにもならないこともあるじゃないですか」
社会的な立場、政治的な都合、血筋や家の存続──この世界の貴族社会は、そういった重荷を軽々しく放ってはくれない。
恋愛や結婚はそれらから逃げられない。この世界に来てから、自由だけではどうにもならない現実を嫌というほど見せつけられてきた。
ただでさえ異邦人で、この世界にぽんと投げ込まれた存在。血筋も肩書きもない私と、レオナルドを巡る貴族社会の思惑。
釣り合うも何も、最初から同じ土俵に立っていないのではないか。
「それは、まぁ」
ルクレツィアは小さくため息をつき、手元の枝をバケツに差し込んだ。
彼女とエウジェニオこそ、その象徴だった。気持ちが通じ合っていても、立場が邪魔をして、どうにもならなかった二人。
ようやく通信手段を得て、ほんの少し希望が差し込んだだけなのだ。
温室の中で揺れる花々のように、私たちの気持ちも揺れている。
恋だとか未来だとか、まだ考えるには余裕がない。けれど、確かに心の奥底でざわめく何かがあることも、否定できなかった。
温室に流れる時間は、外の騒がしさから切り離されたように静かだった。硝子越しに射し込む光は柔らかく、枝葉の影を床に描いている。
そんな中摘んだ葉を軽く揺らしながら、彼女は小首を傾げた。
「でも、少し意外ね。あかりは、そういう障害にも立ち向かう人だと思っていたのだけれど」
「えぇ……? 買い被りすぎでは……?」
苦笑いしながら返すと、ルクレツィアは涼やかに目を細めた。どうやら本気でそう思っているらしい。
──まぁ、理由は分かる。
森での襲撃に無傷で脱出したこと。監禁された牢から単独で脱獄したこと。危険な屋敷に潜り込み、秘密を暴いたこと。幾度となく危機に直面しても、なぜか切り抜けてきた。
話を聞いたルクレツィアが結果だけを見れば、状況をひっくり返しながら生き延びてきた私の姿に「逆境でも必ず道を切り開く主人公」みたいなイメージを抱くのも無理はないかもしれない。
けれども、そんな立派なものじゃない。私はただ、迫る状況に反射的に応じただけだ。格好いい決断や勇敢な行動をしているわけではない。実際はいつだって偶然や運に助けられただけ。
私は腕を組み、少し考えてからぽつりと呟いた。
「『自分の人生の主人公は自分だ』って言葉、あるじゃないですか。あ、ありますか?」
言いながら、そういえば異世界だった、と頭をよぎる。
ルクレツィアは小さく首を傾げて、「聞いたことはないですけれど」と答えたあと、静かに笑った。
「理屈は理解できますわ。己の誇りを思い出させてくれる、いい言葉ね」
「そうですね。私もそう思います。でも……」
私は視線を宙に漂わせる。温室の天窓を透かして差し込む陽光は眩しく、そこに舞い上がる細かな塵がキラキラと光っていた。その一粒一粒を眺めながら、私は思考を言葉に変えていく。
「自分の人生の主人公は自分ってことは、世界中の人間が全員主人公ってことじゃないですか」
「え、まぁ、確かにそうね?」
「主人公ってことは物語ってことで。物語ってことは、つまる・つまらないとか、話が重いとか軽いとか……そういう違いがあるってことじゃないですか」
「世知辛いこと言いますわね……」
ルクレツィアが肩をすくめる。その声音には苦笑が混じっていたが、面白そうに口角を上げた。
自分の目に映らない場所で、それぞれの人生が続いている。
王宮でエウジェニオが過ごす日々も、商会の帳簿に記された数字も、名もなき農夫の畑仕事も。全部が誰かの「主人公の物語」だ。
多分、「物語」として見るなら、エウジェニオやルクレツィアが主人公の方が余程「面白い」だろう。
「主人公って、作者ではないので。設定の操作はできないんですよね。才能とか、生い立ちとか」
「私がヴァレスティ家の長女として生まれたことや、アルバレスト卿が先代陛下の御落胤であるということとか?」
「私が異世界に召喚されたこととか」
自分以外の人間にもそれぞれ人生のストーリーがあって。それぞれに違う思想や主義主張、譲れないものがあって。
そんな人との関わり合いで人生は揺れ動いている。
風が吹けば桶屋が儲かるみたいに。蝶の羽ばたきが竜巻を生むみたいに。
誰かが泣いて、誰かが笑って、誰かが戦っている。私は自分の視点からしかそれを知れない。けれど確かにそれぞれの物語は進んでいて、決して止まることはない。
「物語はいつも、主人公の知らないところで進んでるんですよね」
どこかで交わされた些細な言葉が、誰かの人生を変え、巡り巡って私に影響する。そんなことは幾らでもあり得る。
たった今、世界のどこかで誰かが交わした言葉ひとつで、明日の私の人生が決まることもある。
それが、運命というものなのだろう。
「私にできるのは、自らの手で運命を切り拓いて進むことじゃなくて、いずれ来るかもしれない"イベント"に対して、想定して準備しておくくらいのことですよ」
何が起きても動じないよう、可能性を想定して、備えておく。選択肢を前もって作っておく。それしかできない。
飾らずに言えば、流れに流されるままに生きているだけだ。
「……まぁ、確かに」
ルクレツィアは目を細めて私を見つめる。その視線は叱るでも慰めるでもなく、ただ観察するような優しさを帯びていた。
「目の前に来た好機を見逃さずに捕まえる、という方が、あかりらしい気もしますわ」
彼女の言葉に、私は少し笑った。
そんな会話をした一週間後。
私とレオナルドがヴァレスティ邸を発つ日が訪れた。




