40 緑の匂いと秘密回線
ヴァレスティ邸の庭に出ると、濃い緑の香りと風の匂いが鼻をくすぐった。
私は両腕を大きく上に伸ばし、体を反らすようにして深呼吸する。肺の奥まで空気が入り、思わず「ふー……」と声が漏れた。
エウジェニオが滞在していた期間は、彼に従う付き人が屋敷のあちこちに配置されていた。
その間、エウジェニオが彼らを掌握しきれていないこともあり、私とレオナルドはほとんど客間から出歩かない生活を送っていた。
元より引きこもりが苦にはならない人種とはいえ、あの閉塞感はなかなか堪えたようだ。今こうして庭を歩くことが、ただそれだけで解放感に満ちている。
私の隣を歩くルクレツィアは、今日もいつもどおり背筋を真っ直ぐに伸ばし、涼やかな笑みを浮かべていた。
石畳の小道を抜けると、陽光に照らされた花壇や刈り揃えられた芝生が広がる。手入れの行き届いた庭は、整然としているのにどこか自然の伸びやかさも残していて、見ているだけで気持ちが解けていった。
ルクレツィアに誘われて、そのまま温室へと向かう。
白く透き通るガラス張りの温室は、庭の奥にひっそりと佇んでいる。白い鉄枠と硝子で出来た大きな建物が、陽光を受けて柔らかく輝いていた。
扉を開けると、湿り気を帯びた温かい空気が肌を包み込み、鼻腔を擽るような青々しい匂いが流れ込んでくる。
中はまるで別世界だ。壁際の棚や鉢植え、天井から吊るされた鉢からは、見慣れた植物もあれば、異国のジャングルからそのまま持ち込まれたかのような奇妙な葉を持つ植物まで、所狭しと茂っている。花弁が夜空のように深い紫で、中心だけが淡く光を放つものもあれば、触れると微かに葉脈が光る草もあった。
ルクレツィアは手袋をはめ、一つの植木の前に立つと枝の角度や葉の色を見極めながら、手際よく枝を選んではぱちり、ぱちりと剪定ばさみを入れていく。その動作は迷いがなく、長年植物に触れてきた人間ならではの慣れを感じさせた。
私は彼女が差し出す枝を受け取り、用意されたバケツに沈めていく。バケツには薄く水が張られ、切り取った草木が瑞々しさを保てるようになっていた。
切られた枝葉が軽やかに落ち、すっと水面に沈む。浮かんだり沈んだりするその様子を眺めていると、日常の些事が一瞬遠ざかるようだった。
「この世界って、薬草とか魔獣素材とかあるじゃないですか。ハスリ草じゃないけど……シャンプーの品質向上に使われないんですか?」
作業の手を動かしながら、ふとそんな疑問が口をついて出た。
日本にいた頃には想像もしなかった素材が、この世界には溢れている。ハスリ草のような危ないものとは別に、日用品に応用できる安全な薬草などもあるはずだ。
ルクレツィアが枝を軽く揺らす。水滴がぱらりと弾けた。
「そうね、研究は日々されているのでしょうけど……。魔力を含む素材は、どうしても使用者本人の持つ魔力と、多かれ少なかれ反応してしまうの。だから、最上の品質を求めると、どうしてもオーダーメイドに近くなるのよね」
「ほぉ〜……」
ポーションや薬などはそういった魔力による反応も踏まえて、出来るだけ効果と汎用性が釣り合うように調合されているそうだ。その影響もあり、どうしても消費期限が短くなってしまうのだと。
ルクレツィアは棚の奥から鉢植えを持ち上げ、じっと葉の裏を観察しながら続けた。
「私も個人的に何度か研究したことがあるのだけれど……植物系の素材は、私の魔力に合わなかったの。さらに試すなら魔獣系……でも、魔獣素材は採集のコストも高くて、日用品には向かないわ。薬草なら栽培も易かったのだけど」
確かに。日常的に使うシャンプーや石鹸が冒険者の命がけの狩りに依存しているなんて、採集のたびに価格が乱高下するだろうし、何より命の値段が合わない。
ルクレツィアは少し肩をすくめ、棚に戻した鉢植えの葉を撫でた。
その横顔には、かすかな苦みと諦めが滲んでいる。おそらく彼女も好奇心に駆られ、あれこれ試行錯誤した時期があったのだろう。だが、理屈に阻まれ、費用に阻まれ、実用化までは辿り着けなかった──そんな表情だ。
ルクレツィアは切り取った枝を水に浸すと、ふとこちらを振り返った。
「だから、あかりのシャンプーはその点でも都合がいいのよ。魔力が含まれていないから、誰でも同じように使えるのだもの」
「なるほど」
私が持ち込んだ日本製のシャンプーなんて、ただの量産品に過ぎない。だけどこの世界にとっては、魔力の影響を一切受けない“普遍性”が、何よりも大きな価値になるのだろう。
日本でも髪質や肌質によってシャンプーの合う合わないはあるけれど、ここではさらに“魔力の相性”まで考慮しなくてはならない。それを一切気にせずに済む製品というだけで、この世界では汎用性が高いのだ。
ルクレツィアは鼻歌混じりに剪定ばさみを鳴らし、瑞々しい枝葉を軽やかに摘んでいく。
歌声に合わせてミルクティー色の髪がふわりと揺れるたび、硝子越しの陽光を反射してきらめく。
切り落とされた葉が水を張ったバケツに落ちて、ぱしゃりと小さな音と緑の匂いがふわりと広がった。
その様子を眺めながら、私はつい口を挟む。
「ご機嫌ですねぇ」
わざとらしく言ってみると、ルクレツィアは口元に手を当て、しかし隠しきれない笑みを浮かべた。
「まぁ、うふふ。あかりのおかげでね」
「ラブラブですか〜?」
野次を飛ばしてみたが、彼女は頬を染めるでもなく、むしろニコニコと嬉しそうに笑うだけだった。くすぐったそうに目を細め、花を抱きかかえるその姿は、まるで陽光を受けて咲き誇る花そのものだ。
──三日前。
エウジェニオがヴァレスティ領の視察の全日程を終え、王都へ帰還した。
最初から分かっていたことだ。第一王子殿下という立場にある彼が、無闇に城から離れ続けるなどあり得ない。視察は定められた期間で終わり、彼は王都に戻る。
だからこそ、私たちの頭を悩ませたのは、その後のことだった。
つまり──作戦会議の場をどうするか。
彼が滞在していたからこそ、一つの所に集まって密かに議論を進めることができた。だが今後、王都とヴァレスティ領とで離れ離れになってしまえば、それも難しくなる。
公爵令嬢であるルクレツィアですら、エウジェニオと直接コンタクトを取るのは容易ではない。手紙一つ出すにも検閲があるし、どんなに婉曲な表現を重ねても、怪しまれれば詮索され、最悪は差し止められてしまう。
従来の手段では、私たちが求める迅速かつ秘密裏な連絡など到底望めなかった。
そこで──天才レオナルドくんの、天才的発想が光ったのだ。
グロスマーレへの納品と誘拐騒ぎの間、私と彼でメモ帳の同期を利用したやり取りが行われていた。彼が日本語を学んでいたおかげで可能になった連絡手段──に、留まらせなかった。
「メッセージを書いた紙面を撮影し、貼り付ければいいのでは?」
「て、てんさいか……!?」
衝撃の一言に、私は思わず叫んでしまった。
というかなぜ私は思いつかなかったのだ……。
この世界の文字は翻訳機能のおかげで私には読める。ならば、彼らが書いた文面をそのまま写真に撮って送ってくれれば、全員読めるし、検閲も介在しない。
証拠品の書類を撮影して貼り付けていたのは自分自身だったのに、活用する発想が抜け落ちていたのが悔しい……。
何より素晴らしいのは、この方法なら文字を解さなくても最低限の操作さえ覚えれば使えるということだ。タッチパネル操作は元々感覚的に操作できるデバイスだし、撮影して送るだけなら複雑な手順はいらない。
この世界でも随一の才覚を持つ二人、エウジェニオとルクレツィアであれば、たとえ異世界のデバイスの操作でも習得は容易かった。
かくして、私たちは新しい通信手段を整備した。
エウジェニオには手帳型ケースをおまけにしたスマホと、モバイルバッテリーを持たせて帰した。
そしてルクレツィアにも専用のスマホを一台渡した。
彼女が嬉しそうにケースの色を選び、手の中で宝物のように撫でていた姿は今でも鮮明に思い出せる。
使用するノートアプリにはページごとにパスワードを設定できるシステムがあったので、エウジェニオとルクレツィアの二人専用のページを作ってあげた。そこなら作戦会議もできれば、私信を交わすことだってできる。
結果、彼らは今まで以上に密に繋がれるようになった。
もともと手紙のやり取りですらろくに出来なかった二人なのだ。そこへほぼリアルタイムでやり取りが出来るツールが加わった。ある種蜜月である。
ルクレツィアが鼻歌交じりでご機嫌なのも当然だろう。遠く離れた王都にいるエウジェニオと、常に繋がっていられるからだ。
ほんの数行の文を送ると、一日で彼の返事が返ってくる。その喜びをどうして隠せようか。
温室に満ちる緑の匂いと、葉を切るぱちりという音。ルクレツィアの鼻歌が、緑の葉擦れと溶け合って温室に漂う。
その中で、ルクレツィアは幸せそうに枝を束ね、私はただ、その横顔を眺めていた。
温室の中は、昼下がりの陽光を透かしたガラス越しの光が満ちていて、草木の緑がそれぞれの葉脈をきらきらと輝かせていた。ほんのりと湿気を帯びた空気が、鼻腔を心地よくくすぐる。
ここにいると、ほんの少しだけ現実のきな臭さを忘れてしまいそうになる。
ルクレツィアは楽しげに枝を切り取っては私の持つバケツへ放り込んでいく。その一連の所作は、庭園を歩く女主人というより、恋を知った娘のように軽やかで、弾むようだった。
そんな空気の中、不意にルクレツィアが口を開いた。
「あかりはどうなの?」
「恋バナ的な意味で?」
「恋バナ的な意味でよ」
涼やかな声と、どこか意地の悪い笑み。
──言うまでもない。彼女の言う「どうなの」は、名前が出るまでもなく、誰のことかは察しがついた。
もちろん、レオナルドだ。
私と行動を共にする時間が一番長く、ここ数ヶ月は生活を共に過ごしてきた彼。
いつも隣に立ち、私の怠惰にせっせと世話を焼き、支えてくれる存在。頼もしさと同時に、どこかで安心しきってしまっている自分がいるのも確かだった。
「愛着はありますけど……」
エウジェニオにも返した言葉を再び紡ぎ、うーん、と私は喉を唸らせ、手元のバケツの水面を覗き込む。緑の葉が浮かび、陽の光を反射してきらりと光った。
「正直それどころじゃないっすね……」
「それは確かに」
ルクレツィアは剪定ばさみを止めてすぐに頷いた。どこかしみじみとした顔で。




