35 資料室ダンジョン突入
私は部屋の扉にそっと近付き、片耳を当てる。
しんと静まり返った木の向こうからは、人の足音も声も聞こえてこない。しばらく息を止めて耳を澄ませ、誰もいないと確信してから呼吸を整え、ノブをゆっくりと回す。カチリと小さな音が鳴り、扉がわずかに開いた。
私は音を立てぬよう靴の先から足を滑らせ、廊下へと身を出す。
こういうときは、こそこそせず堂々としていた方がいい。俯いて歩く方が、かえって怪しまれる。私は背筋を伸ばし、ゆったりとした足取りで歩き出す。
ただし油断は禁物。角を曲がる前に必ず足を止め、耳を澄ませるのを忘れない。時折、廊下の向こうから気配が近付いてくるのがわかる。
そんなときは足を止め、柱の陰や壁際の飾り棚に身を寄せる。廊下の角に背を合わせ、気配が通り過ぎるのをじっと待つ。
衣擦れの音やヒールの硬い音が遠ざかっていくのを確認してから、再び歩を進めた。
変装しているとはいえ、やはり出来るだけ人目には触れたくない。会話を求められたら困る。咄嗟の受け答えで粗が出れば、すぐに露見しかねないのだから。
歩きながら視線だけで屋敷の様子を観察する。
壁際に据えられた陶器の花瓶は、白地に青い唐草模様が流れるように描かれていて、一目で高級品とわかる。装飾台の上には、金属細工の燭台や装飾皿。
見慣れたヴァレスティ邸の調度品よりも、全体的に煌びやかで派手な印象だ。豪奢といえば豪奢だが、どこかけばけばしい。
……まぁ、そう感じるのはヴァレスティ公爵家への贔屓目かもしれない。
私は骨董の価値を見抜けるような鑑定眼を持っているわけではないし、単に慣れない様式に違和感を覚えているだけかもしれない。ただの思い込みでしかないのだろう。
だが、それでも「成金趣味」という言葉が自然に頭をよぎってしまう。
歩を進めながらも、私はなるべく周囲の情報を覚えていく。
窓の外には整えられた庭園。石畳の小道が規則正しく走り、手入れの行き届いた低木が並んでいる。
屋敷全体の規模は相当広い。侯爵家ともなればこのくらいが普通なのだろう。
時折、メイドや執事らしき人影が遠くを横切るのが見えた。
彼らは忙しなく動きながらも、互いに小声で挨拶を交わしている。表情はどこか張りつめ、気安い世間話などは聞こえてこない。……ヴァレスティ邸の使用人たちの方が、まだ日常の温かさを持っていた気がする。
屋敷の空気は冷たく澄んでいて、微かに香の匂いが漂っていた。調度品や壁飾りに彩られたこの空間は、見た目こそ華やかだが、どこか居心地の悪さを含んでいる。
オルセン侯爵家。大物の屋敷。ここで捕らわれている意味を、否応なく突きつけられるようだった。
私は廊下の角を曲がり、次の廊下へ。視線を伏せ、あくまでも働くメイドの一人を装って歩く。
心臓の鼓動が速まっているのを必死に抑えながら、私はさらに屋敷の奥を目指した。
一本道の廊下を進んでいたときだった。
奥の扉が軋む音を立てて開き、二つの影がこちらへ歩み出てくる。
反射的に周囲を見回す。すぐに横へ隠れようとしたが、この廊下には都合のいい隠れ場所はない。壁際の花瓶も小さな飾り台も、私の体を隠せるほどの大きさではなかった。
視線を正面に戻すと、二人の青年が出てきた。年の頃は三十代前半から半ばだろうか。
背筋を伸ばし、会話を交わしながら歩く彼らは、使用人とは明らかに異なる衣服を身につけていた。深緑と濃紺の落ち着いた色調の仕立ての良い服。無駄のない線裁ちに、胸元には簡素ながら整った刺繍。
派手さはないが、使用人にしては上等。侯爵家の直系にしては格が足りない。
おそらく館に勤める文官だ。
彼らは肩を並べ、何やら書類の束を抱えていた。歩調は緩やかだが、こちらに向かってまっすぐ進んでくる。
彼らの靴音が、絨毯の上で規則正しく響く。
──正面突破。
心の中でそう決め、私は自然な仕草を心掛け、一歩後ろに下がって廊下の端に身を寄せる。姿勢を正し、両手を前で軽く揃え、恭しく腰を折った。
ヴァレスティ邸で何度も見た光景。私はその動作をなぞるように再現した。
青年たちは会話を交わしながらこちらに歩いてくる。
靴音が近付いてくる。革靴が絨毯を踏む、やわらかな音。息が詰まる。
声の調子からして、議論というより軽い相談ごとだ。財務の数値か、それとも商談の下調べか。いずれにせよ、私の存在など視界の端にすら入っていないようで、足取りはそのまま。
「資料は午後の会議までに整えておけ」
「ええ、手配は済んでいます」
事務的で冷ややかな口調。まさしく役所仕事の延長のような響きだ。
やがて彼らが目の前を通り過ぎる。淡い香水の匂いが一瞬だけ鼻腔を掠めた。私は頭を下げたまま動かず、呼吸も抑え込む。
心臓が胸の内でうるさく打ち、汗が掌に滲む。
それでも表情は動かさず、ただ当然のことをしている顔を保つ。堂々と、しかし無個性に。
会話の声が遠ざかり、足音が廊下の向こうへと消えていくのを確認して、ようやく私は息を吐いた。
私はゆっくりと顔を上げ、胸の奥に溜まっていた息を吐き出した。緊張で体が硬直していたのか、肩が少し痺れている。
──助かった。
もし立ち止まられ、顔を覗き込まれでもしたら、どんな言い訳をしただろう。名前を問われれば即座に破綻する。
だが幸いにも、彼らにとって私はただの風景に溶けた「一介のメイド」でしかなかった。
私は胸の鼓動を落ち着けようと深呼吸をする。緊張で汗ばんだ手のひらを、エプロンの端でそっと拭った。
さて、行こうか──そう思った矢先、先ほど彼らが出てきた扉が再びばたりと開いた。
反射的に体を壁際に寄せる。だが、今度はさっきの二人とは違い、明らかに慌てた様子の青年が一人、飛び出してきた。
書類の束を抱え、慌ただしくこちらへ向かって歩いてくる。
「あっ、そこの君!」
突然声をかけられ、心臓が跳ねた。
私の頭の中が一瞬空白になる。
「えっ、はい……」
自然に答えるしかなかった。
誤魔化せると信じるしかない。
青年は深刻そうな顔をしているわけではないが、ただ焦っているらしく、額にかかった髪を片手でかき上げながらこちらに駆け寄ってくる。
抱えているのは分厚い紙束、インクの匂いが強く漂っていた。
「この書類、第二資料室に置いて来てくれないか」
差し出されるまま、私は両手でそれを受け取った。思った以上に重い。腕にずしりとした負荷がかかる。
「かしこまりまし……あ、すみません私、雇われたばかりで、部屋の位置がまだ……」
言いかけたところで、誤魔化すように笑ってみせると、青年は「あぁ、そうなんだ」と拍子抜けしたように頷いた。
「第二資料室はそこの階段を上がった先の、一番奥の黒い扉だよ。重要度の低い資料が適当に積まれてるから、それもその辺に置いといてくれればいいから!」
勢いのある早口で言い切ると、青年は手をひらひら振りながら、先ほどの文官二人を追いかけるように駆けて行ってしまった。
私は呆気にとられたまま、彼の去った方向を見送る。
……残されたのは、私と分厚い紙束。腕に感じるずっしりとした重みに立ち尽くす。
困惑を押し隠しながら、仕方なく壁際に寄って紙束を抱え直した。
書類の端には「報告案・控」とか「写し・確認済」とか、走り書きされた字が見える。
手にした紙の感触から、紙自体はしっかりした上質なものであることがわかる。古い書類のように変色してもいないし、墨の香りもきれいに残っている。重要度は低いと言われたが、それでも扱いには注意が必要だ。
それでも、これは好機かもしれなかった。
資料室という場所に足を運ぶ大義名分ができたのだ。適当に置いて来れば怪しまれないし、中を覗けば何かしらの情報が得られるかもしれない。
先ほど青年が示した通り、すぐ先にあった階段から上の階へ上がり、一番奥の黒い扉へ向かう。
手に持つ書類の重さを意識しつつ、階段を一段一段ゆっくりと上る。廊下に差し込む光が柔らかく、金属の手すりを伝う光がちらちらと揺れる。
廊下を進みながら耳を澄ますと、並ぶ扉の中から、紙をめくる音や話し声がかすかに聞こえる。
慌てず、しかし慎重に歩を進める。
黒い扉が視界に入ると、少し安堵の息が漏れた。
周囲には人の気配がない。扉の前に立つと、軽く息を整え、書類を抱えたままノックし、返事がないことを確認して扉を押す。
中には、まさに青年が言っていた通り、資料が適当に積み重なっていた。
壁際の棚は資料がきちんと分類されている様子だが、部屋の中央にいくつか並んでいるテーブルには「後回しにされた資料置き場」とでも言うべき雑然とした雰囲気が漂っていた。
いくつもの書類の小山があり、重ね方もまちまちで、どれがどの資料なのか一目ではわからない。
書類束の脇には書箱が無造作に置かれ、巻かれた地図や薄い冊子が雑然と混じり合っていた。古い巻物の端はくすんだ茶色になり、紙の端は曲がり、破れた小片も混じっていた。
紙束を抱え直し、近くの机の空いたスペースにそっと置く。
スマホを取り出し、資料の全体像を撮影してノートに貼り付けた。写真越しに見ても、山積みになった書類の雑然さは一目でわかる。
壁際の棚には、色とりどりの帳簿が無造作に立てかけられている。表紙には侯爵家の紋章が入っているものもあれば、何の記載もないただの厚紙の束もある。
どれも触れると少し埃が舞い上がり、乾いた紙の匂いが広がった。
天井の高い窓から差し込む光は少なく、部屋の奥は影になっている。静まり返った室内で、紙の積まれた音や自分の呼吸音がひそやかに響く。
「……さて、どの書類から目を通すかな」
資料の山を前に、深呼吸をひとつ。
雑多に積まれた資料の中から、有用な情報を見つけ出すという新たな挑戦が始まった。




