32 納品の帰り道に待つもの
エウジェニオとの邂逅から三日が経った。
彼は視察でちょこちょこ外出しているため、あまりヴァレスティ邸にいない。
そんな彼が屋敷にいるタイミングを見計らって、私はそろそろシャンプーの納品に行きたいなー、なんて相談を切り出してみた。
前回半月分の納品をしてから、もう半月が経とうとしているのだ。つまりそろそろ市場からが在庫が切れる。売り切れの声が上がれば混乱は避けられないだろう。
「あかり殿が聖女である可能性が高いことが発覚した以上、あまり目立つのはねぇ……。"シャンプーの商人さん"は、どうしても注目されるだろう?」
まず声を上げたのは消極的反対派のエウジェニオ。彼は相変わらず落ち着いた声色だが、眉根を寄せていた。
もっともな意見だ。顔を出せば、どうしても人目につく。悪意ある者の耳目を引くことになる。
とはいえ……。
「目立たない、という意味では、納品に行った方がいいと思いますけど……」
「そうね……。シャンプーの品切れ、あかりが納品に来ない、ということになれば……下手すれば暴動ですわね」
「そこまでは言ってないです」
と賛成派私と消極的賛成派のルクレツィア。
いや、でも実際、顧客の中には「この一本のためなら財産を投げ打つわ!」みたいなご婦人もいる。あの人たちからすればシャンプーはすでに生活必需品に近い。供給が止まれば大騒ぎになるのは想像に難くない。
そして沈黙を守る反対派のレオナルド。眉間の皺は消える気配がない。
言葉は発さないが、表情で充分伝わってくる。「心配だから行かせたくない。けれど、生業を無理に止めさせるのもどうなのか」「護衛としてついていきたいが、自分の存在こそが危険を呼び込む可能性がある」そんな感じだろう。
「ヴァレスティ領の商業ギルドではダメなの?」
「う〜ん……次回からはともかく、せめて今回はグロスマールの方に顔出したくてぇ……」
エウジェニオが提案する理性的な案に、私は唸りながら答える。
ただ納品するだけならヴァレスティ領の商業ギルドを使ってもいい。
でも、セルディに何の前触れもなく突然「今日からはヴァレスティに鞍替えします!」なんてやったら……申し訳なさすぎる。
セルディは、顧客の横槍から私を守ってくれただけでなく、ギルドからの増産依頼を伴う投資話まで遮ってくれていた。いわば私のビジネスパートナーであり、防波堤でもある。
そんな彼女に不義理はしたくない。突然「納品先を変えました」と手紙一枚で済ませるなんて、したくはなかった。
事情を知れば彼女は理解してくれるだろう。けれど、せめて直接、顔を見て説明したい。
「優秀な方ですのね。是非ヴァレスティ領のギルドに……と言いたいところですけれど、ギルド職員の配属には王族でも口を出せませんものね」
「まぁ仕事ができる人ならいずれ、王都やここのような大都市に栄転するだろう」
結局、反対する理由はあっても決定的ではない、ということで、グロスマーレへと赴くことに決まった。
もちろん完全に無防備で行くわけにはいかない。諸々の条件を付けた上でルクレツィアからヴァレスティ家の騎士を護衛として二人借りることになり、馬車で向かうことになった。
ヴァレスティ邸からグロスマーレまでは半日の距離。
森で襲撃を受けてからここへ向かう時は追手や人目を避けて随分遠回りしたけれど、普通に街道を行けばそれくらいで着く。
早朝に出発し、グロスマーレに一泊。翌日に帰ってくる予定だ。
まだ薄暗い早朝、私たちはヴァレスティ邸を出発した。
紋章の入っていない質素な馬車。飾り気はなく、一見すればただの小商人の乗合馬車だ。護衛二人も目立たない簡素な装いにしてくれている。
私の服装は通販で買ったパンツスーツ。伸縮性のある生地に歩きやすい靴。スキルの存在がすでにバレてしまったので、もう遠慮なく現代品を使っている。
そうして夕方を回る頃、グロスマーレを囲う外壁が見えてきた。
大きな門をくぐれば、活気に満ちた喧騒が耳を打つ。行商人たちの声、焼き菓子の甘い匂い、鍛冶屋の金槌の響き。グロスマーレの空気だ。
「そうですか。ヴァレスティ公爵家に……」
深みのある声で繰り返すセルディの表情は、驚きと納得とを半分ずつ混ぜたようなものだった。
ここはグロスマール商業ギルドの応接室。木の香りが残る磨き込まれた机に、季節の花が活けられた小さな花瓶。壁には交易路を示す地図が飾られていて、窓から差す昼下がりの光が床を斜めに照らしている。
私にとっては、商人として初めて本格的に商談をした思い出の場所だ。
その中で私は、背筋を少し伸ばしながら向かいに座るセルディに事の次第を報告していた。
──ちょっとしたトラブルがあってヴァレスティ家に身を寄せることになったこと。次回以降の納品は、場合によっては別支部を経由する可能性があること。
セルディは一言一句逃さぬように聞き取り、やがて柔らかく微笑んだ。
「かしこまりました。あかり様の身の安全が第一ですから、ヴァレスティ家の庇護は受けるに越したことはありません。ギルド上層部にも伝えておきますので、こちらのことはお気になさらず」
セルディは静かに、けれど力強く言った。その声音に押しつけがましさは一切なく、それでいて温かみがあった。
「すみません、ありがとうございます」
胸が少し温かくなる。彼女のような人が相手だったから、ここまで安心して取引を続けてこられたのだろう。
今日は馬車で来たので、と言い訳をして、一ヶ月分の納品数を持ち込んでいる。それだけでなく、私は用意してきた手土産を机の上に滑らせた。
「こちら、良ければギルドの皆さんで召し上がってください」
縦に三段積んだ箱を前に差し出すと、セルディが小首をかしげてから一番上の箱の蓋を開ける。
次の瞬間、彼女の瞳がぱっと輝いた。
「あら……まぁ。とても可愛らしいクッキーですね」
クリーム色に染色されたの缶の中には、色とりどりのクッキーがぎゅうぎゅうに詰められている。バターの香りに、ストロベリーピンクや抹茶グリーンに彩られたクッキーが混ざり、見た目にも華やかだ。小花のように形どられたもの、星型のもの、サクサクのラングドシャ。
彼女が目を輝かせるのも無理はない。見た瞬間に心が躍るような、ときめきを詰め込んだクッキー缶である。
セルディの頬がゆるみ、指先で一枚すくい上げるようにして見つめた。普段は落ち着いた彼女が、年相応に見える瞬間だった。
「素晴らしい品ですね。ありがとうございます。ヴァレスティ領のお店でお求めになられたのですか?」
その問いかけに、私は一瞬だけ迷った。
ここで、打ち明けてしまおうか。──通販スキルのことを。
エウジェニオにもルクレツィアにも、既に知られている。あの二人の庇護がある以上、多少のことは守ってもらえるはず。
下手に隠すよりは信頼できる人に打ち明けた方が、むしろ立ち回りやすいのではないか。
セルディは信頼できる人だ。冷静で、誠実で、こちらを尊重してくれる。
彼女が事情を知っていれば、これからのやりとりはもっとスムーズになるだろう。
逡巡し、思い切って口を開いた。
「……あの、実は私の持ち込んでいる商品の出所についてなんですが――」
「あ、お待ちください」
私の言葉を遮るように、セルディが手を軽く上げた。
「え、はい」
「いいです。聞きません」
「えっ」
思考が空白になる。私はてっきり、興味津々で食いつかれると思っていた。なのに。
拍子抜けした私を前に、セルディは、静かに、けれどはっきりと言葉を紡ぐ。
「……私は"商人"ですから。知ってしまえば、どうしても売らずにはいられません。それは、あかり様の望むところではないのでしょう?」
静かな声でそう言うと、彼女の視線がちらりと横に流れた。そこにあるのは、私が持ち込んでいるキャリーカート。
アルミ製の車体に、滑らかな車輪。魔獣素材と誤魔化していたが……彼女はきっと気付いている。
異世界人のスキル、だなんて突飛な発想には思い至ってはいないだろうが……それでもただの品物ではないことを、彼女は察していたのだ。少なくとも、違和感を覚えている。
……その上で、敢えて知らないふりを選んでくれていた。
心臓が一度大きく跳ねる。けれど、その直後には不思議な安堵が胸を満たしていった。
利益を追求する商人であるはずなのに、敢えて「知らない」ことを選んでくれた。本来なら、その方が確実に稼げるはずなのに。
「……ありがとうございます」
言葉が喉から自然にこぼれる。礼を言うしかなかった。
「いえ。今後もご贔屓に、よろしくお願いいたします」
セルディはいつもの柔らかい笑顔に戻り、そっとクッキーの箱の蓋を閉じた。
応接室の窓から差し込む陽光が、二人の間に穏やかな影を作る。
心の中で「やっぱりこの人に出会えて良かった」と呟きながら、私は深く頭を下げた。
商業ギルドのロビーに戻る。
磨き込まれた床に靴音が乾いた調子で響く。夕方のロビーは思いのほか人で賑わっていて、帳簿を抱えた商人風の男や、依頼票を抱えた若い女性職員が忙しなく行き交っていた。
応接室での話を終え、気が抜けたのか、足取りが少し軽い。けれど同時に、胸の奥に温かい余韻を抱えていた。セルディの誠実な言葉がまだ耳に残っている。
今日はグロスマールで一泊だ。
いつもの旅籠アスターではなく、セキュリティのしっかりした高級宿に泊まるよう、ルクレツィアからのお達しがある。きちんとヴァレスティ家の紋章を示すようにとまで。
宿まではまた馬車で移動になる。ギルド前で待ってもらっているヴァレスティ家の騎士と合流しようと、私は扉を押し開けた。
その瞬間、肌にざわりとした違和感が走る。
街路に漂う空気が、いつもと違う。ざわざわとした人々の声。
外が、騒がしい。
門の外、いつもなら商人たちが行き交い、呼び声や車輪の軋む音で賑やかなはずの大通り。そのざわめきは、どこか緊張を孕んでいる。
扉を出てすぐ、通りに視線を走らせる。
ギルド前の石畳の道路から視線を滑らせて、少し先──ちょうど私が乗ってきた馬車が停まっている辺りに人だかりができていた。
護衛の騎士二人もそこに立ち、何やら慌ただしく周囲を制している。通りを行き交う商人や客たちのざわめきが一層強まって、何が起こったのかと視線が集中していた。
言葉が口をついて出るよりも先に、私は小走りで近寄っていく。
騎士のひとりがこちらに気づき、顔を上げる。その表情は、普段の落ち着きを欠いた焦りに満ちていた。声をかけようとした、その瞬間。
──横合いの路地から、ぐっと何かが伸びてきた。
大きな掌。
それが視界の半分を覆う。
私が最後に見たのは、指の隙間から覗く騎士の焦った顔だった。




