29 急カーブ!デッドボール!
「負傷した叔父上の命を救うまでは良い。目の前で失われそうな命を放っておけないという人は珍しくないからね。だが、それ以降は?」
柔らかく抑揚をつけた声でエウジェニオは切り込んできた。質問の重さは、単なる好奇心や社交辞令ではなく、慎重な観察と判断の末に放たれたものだとすぐにわかった。言葉に責め立てる鋭さはないのに、視線に逃げ場を許されない。
「貴女は商人だ。もし公爵令嬢の不興を買えば、上客を逃すどころか、この国での商売を危うくする可能性もある。そんなリスクを負ってまで彼をここまで連れてきた。そうまでして尽くすのは、何故?」
淡いランプの光に金の髪が照らされる。その輝きは神々しいというより、むしろ人を惑わす狐火のようだ。
私の返答の一言一言を逃さず受け止めようとする姿勢に、喉がひどく乾く。
嘘は許されない。その空気を感じながら、私は口を開いた。
「え……なんか流れで……」
「流れで……」
エウジェニオは私の言葉を反復した。
軽すぎる返答に、自分でも思わず苦笑が漏れる。
正直すぎる、あまりにも正直すぎる答えだとわかるが、他に言葉が見つからなかった。
──何故かといわれれば……そういう流れだった、という他ない。
たまたまレオナルドが私の生活圏内で倒れていたから助けた。狙われているようだったから療養の間匿うことにした。そしたらなんか襲撃が来て、そうなったら今までの生活を続けることは不可能になっていて。
ヴァレスティ邸に連れてきたのは、面会の難易度が低く、庇護の可能性が高く、かつ権力がありそうだったから。
私は私の手札の中で、その時常に一番いいカードを切ってきただけに過ぎない。
思えば、レオナルドと出会ってから二か月も経っていない。その短さが信じられないほど、私の生活と心は彼によって左右されていた。
「人間って時間や労力をかけたものに執着してしまうものなんですって。そういう意味では、命を救ってせっせと看病した相手に愛着が湧くのも当然では」
自分で言っておきながら、どこか自嘲気味な響きがあった。
サンクコストだのコンコルドだの、あるいは返報性の原理だの、感情を理屈で説明するのは滑稽だと思いながらも、正直な心情だった。
事ここに至るまでにレオナルドと道を別つポイントはいくつもあったのだろうが……そうしなかったのは結局、その場の流れであり、愛着でもあるのだろう。
「ははは、なるほどね」
殿下は笑う。その笑いにはからかいの色はなく、むしろ納得のような柔らかさがあった。
「まぁここまできて王子殿下に引き継げば、私の仕事もおしまいかなって。あとはもう他人事です」
軽く肩を竦めて言い終えた瞬間、部屋の空気が少し和らぐ。エウジェニオの笑いは止まらず、肩や背筋が小刻みに揺れていた。
何がそんなに面白いのか、理解しきれないまま私はただ視線を向けるしかない。だが、その笑いには毒がないことだけは確かだった。
うん、とエウジェニオは頷く。表情そのものは大きく動かないのに、瞳の奥がわずかに色を変えたように見えた。
軽やかに笑ったようでもあり、私の心を覗き込み、何かを読み取ったようでもある。
「いや、叔父上が出会ったのが貴女でよかったよ」
「はぁ……」
間の抜けた返事しかできなかった。
エウジェニオの視線は真っすぐで、軽口の響きはない。片側だけがほんのりと上がる口元、柔らかい光を帯びた瞳。その笑みには確かに遊び心も混じっていたが、それ以上に共感と納得の色があった。
だがその言葉の裏にある意味は理解できた。私の行動の動機はどうあれ、結果としてレオナルドを救い、今ここに繋がった。彼はそれを評価したのだろう。
「僕にとって叔父上は必要な存在だ。騎士としても、身内としてもね。生憎と僕にできることは少ないが、微力ながら力を尽くそう」
静かに告げる声音は、凛として落ち着いていた。
私は彼の瞳を見つめ、自然に呼吸を整える。胸の奥で、静かな安心が広がっていくのを感じた。
彼自身はまだ若く、世継ぎとしての責務や王族としての立場に縛られている。だが、その制約の中でも自らの力を尽くそうとする意志が、はっきりと感じられた。
これまでずっと張り詰めていた緊張の糸が緩むと共に、まだ見ぬ未来の不安がひそやかに頭をもたげてくる。
「殿下は……大丈夫なんですか。その、王城で……」
言ってから、しまったと思った。商人風情が王族の内情を案じるなど僭越に過ぎる。
「あぁ、心配してくれているのか」
だが、エウジェニオは驚くことも咎めることもなく、柔らかく頷き笑みを浮かべた。その眼差しには、真剣さと穏やかさが混じっていて、複雑な王家の事情を背負った人間であることを思い出させる。
国王は王座に執着し、その近くにあるものを排そうとしている。
先代国王の血を引くレオナルド。確実に王子を王太子に引き上げる力を持つルクレツィア。
他国に輿入れした王女。表舞台に立たなくなった王太后と王妃……。
では、次代である彼は?
未だ立太子されていないとはいうが、それ以外では……。
「命の危機、という意味であれば気にしなくていい。どちらにせよ世継ぎは必要だ。僕が死んだところで、次の子を責付かれるだけだからね。母上が療養中だから側妃を迎えることになり、口を出される家を増やすことになる。それも嫌がるだろうから」
冷徹な理性が言葉の奥に覗く。
彼は自らの死後の未来すらも見据え、可能性とリスクを計算していた。その姿に、王族としての宿命を否応なく感じさせられた。
淡々と語られるその言葉は、非情というより冷静な算盤勘定であり、だからこそ逆に安心感を抱かせる。
「それに、万一僕を殺した証拠を掴まれたらおしまいだ。流石に世継ぎと目される王子を害したとなれば、国王でも罰は逃れられない。反国王派が嬉々として叔父上を担ぎ上げるだろうから、順番的にはやはり叔父上が先だね」
エウジェニオは淡々と、しかし冷静に状況を分析する。
その口調は、日常会話というよりは戦略会議の議事録を読み上げるようだ。言葉の端々に、権力や命の駆け引きを計算する非情さが混じっている。
だが、それが威圧ではなく、むしろ理性的な説得力として伝わるのが不思議だ。
「本人のやる気は別として、今の王家がいなくなったら次の王は公爵家からだって言ってましたけど……」
いつぞやの、継承権について語ったレオナルドの言葉を思い出す。
あの時はわざわざレオナルドを担ぎ出さなくとも、今まさに国政に携わっているような公爵家の人が国王という立場を継ぐのが混乱もなく済むだろうと納得したものだが。
「それは病気や事故なんかで“正当に”いなくなった場合の話だね。僕が父上に殺された、という過程を経た場合、それは“革命”だ」
「……正統性と象徴が必要とされるってことですか」
「その通り。叔父上の色はその点でも都合がいい」
確認とも同等の私の問いに、エウジェニオは短く頷いた。
レオナルドは先代国王の落胤。公表はされていないが、調べれば察せられる程度の半ば公然の秘密だ。血筋としての正統性。そして、先代国王と同じ色の銀髪と紫瞳という分かりやすい印を持つ、実力の確かな第三騎士団の副団長。
今現在国王に命を狙われている真っ最中という状況も、"革命"におけるストーリー作りに良い味付けになるだろう。担ぎ上げるにはもってこいの立場というのは、理解できる。
そこまで思考を巡らせれば、エウジェニオはその思考を肯定するように頷き、ゆっくりと口を開いた。
「……況して、その隣に“聖女”がいるともなれば、ね」
私は一瞬、言葉を失った。
含意の重さに圧倒される。思考が跳ね回る。エウジェニオの様子は一貫して穏やかなままだ。
言葉を繋げる前に、理性が小さく警鐘を鳴らす。
「あかり殿」
名を、呼ばれた。
彼の視線が、他ならぬ私にだけ向けられる。
周囲には誰もいない。夜明け前の薄暗い部屋の中、ランプの光がテーブルを淡く照らすだけ。
息を整える。心臓の鼓動が、しばしばランプの揺れる光と同期するかのように感じられる。
「貴女は──自身が聖女であるという認識はあるかい?」
「……ッス────」
私は細く細く息を吸った。
なんか……他人事で済みそうにないんですけろ……。




