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異世界来たけどネットは繋がるし通販もできるから悠々自適な引きこもり生活ができるはず  作者: 星 羽芽


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28 招かれたようで招かれざる出会い



 「……おかしい」


 ぽつりと漏らした私の声は、秋の午後の静けさに吸い込まれた。

 ヴァレスティ邸の客間の大きな窓から射し込む陽は、秋特有のやわらかな黄金色をしていて、室内の落ち着いた色調の家具にしっとりと溶け込んでいた。窓辺の外には、赤みを帯びた木の葉が時折の風にさらさらと揺れ、芝生の上に舞い落ちていた。どこか物寂しい匂いのする初秋の空気が、隙間からふっと忍び込み、紅茶の香りと混じって鼻腔をくすぐる。


「何がだ。紅茶のおかわりは?」


 低く落ち着いた声がすぐ傍から返ってくる。視線を上げると、そこには当然のようにティーポットを持ったレオナルドがこちらを見下ろしていた。無駄のない動きで立っているその姿は、給仕というよりはやはり騎士であり護衛なのだが、どう見ても今は紅茶係だ。


「いる……」


 観念して短く答える。すると、レオナルドは音もなくティーポットの注ぎ口を傾け、私のカップに深い琥珀色の液体を満たしていく。その動きは妙に手慣れていて、注ぎ終えると同時に小皿へ切り分けたケーキを置いてきた。


「おかしい……」


 再び同じ言葉が口から出る。紅茶の表面からふわりと立ち上る湯気を見つめながら、私は訴えるように呟いた。


「ついこの間まで、可愛い侍女さんにお世話してもらっていたはずなのに……」


 そう、ほんの数日前まで、このヴァレスティ邸における私の生活は、優雅そのものだった。

 可憐で笑顔の素敵な侍女さんたちが紅茶を淹れ、甘いお菓子を運び、椅子を引き、時に世間話までしてくれた。それが──なぜか今では、レオナルドにその座を奪われている。


「俺は君の従者として滞在しているからな。いくつか使用人たちに振る舞いのアドバイスを貰った」

「なんなんだその執念は……」


 私は片手でフォークを持ち、ふわりとしたケーキを一口すくって口に運ぶ。甘みが舌に広がり、紅茶をひとくち流し込むと香りがふわっと鼻へ抜ける。確かに美味しいし、給仕は完璧だ。けれどやはり残念さは消えない。


 ──そんなやり取りもありつつ、私とレオナルドは、王子殿下が来訪するその日まで、どう動くべきか頭を突き合わせていた。

 王子と会うのは一度きりかもしれない。その短い時間で、こちらの意図を伝え、なおかつ協力を取り付ける必要がある。


 ルクレツィアもまた、日々の表向きの準備に追われながら、合間を縫って助言をくれた。王族に何を見せ、何を隠すか。その匙加減ひとつで、彼らの心証は天と地ほども変わる。軽率な一言が命取りになる世界だ。


 どんな言葉を選ぶべきか。どこまで事情を話すべきか。交渉材料は何か。失敗すれば、私たちの行く先はなくなる──そんな緊張感が、日ごとに濃くなっていった。


 夜は夜で、私はベッドの上であれこれ考え込み、なかなか眠れなかった。天蓋の彫刻模様を眺めながら、何度も頭の中でやり取りを再現し、相手の返答に対する自分の反応を組み立てる。まるで舞台の稽古のようだが、違うのは失敗すれば幕が閉じるどころか、命が危ういということだ。


 この邸に身を寄せてからというもの、表面的には穏やかな日々が流れているように見える。けれど、裏側では緊張感が絶えない。王家の動き、こちらの思惑、そしてルクレツィアの立場。すべてが絡み合い、慎重な一歩を踏み外せば即座に破綻しかねない綱渡りだ。


 そして、いよいよその日が来た。


 朝から屋敷は落ち着かない空気に包まれていた。廊下を行き交う侍女たちは足早で、手にした盆や布を抱え、普段以上に整然と動いている。


 私も落ち着かず、客間の窓辺でカーテンの隙間から顔を出さないように外の様子を眺めていた。

 王子がヴァレスティ邸に到着したのは、昼過ぎ。遠くの門から馬車が見えたとき、胸の奥で何かが強く跳ねた。門から中庭へ、そして屋敷の正面玄関へ。

 飾り馬車に王家の紋章。澄みきった秋空の下、舗装された石畳を車輪が一定のリズムで叩く音が庭先に響き、その後を護衛や側近たちの馬がきらりと輝く鞍飾りを揺らしながら続いていく。それだけで一種の儀式のような荘厳さを漂わせていた。


 ルクレツィアは玄関ホールで直々に出迎え、優雅に一礼する。その光景を遠目に見ながら、私は深呼吸をひとつした。今はまだ出番ではない。


 到着後、殿下は旅の疲れを癒すため、午後いっぱいを休養に充てると告げられた。荷解きや使用人たちへの指示、そして護衛や側近との打ち合わせが続く。今日のところは公務らしい公務はなく、明日から本格的な視察が始まるという。


 夕刻、館内に食器の音と香ばしい匂いが満ちた。豪奢な晩餐が用意されているようだが、そこに私とレオナルドの席はない。

 王子は一人で行動する立場ではない。護衛や側近が必ず同行する。その中で、こちらの事情やレオナルドの存在を軽々しく明かすことはできない。もし余計な詮索を招けば、交渉どころではなくなるだろう。


 明日の早朝、というより深夜。陽が昇る前の時間に、ルクレツィアが人目を避け、王子と引き合わせてくれる──その段取りまでは決まっていた。あとは、その時が訪れるのを待つだけ。


 そして深夜。

 人々が眠りに落ちたヴァレスティ邸は、昼間の華やかさを残しつつもどこか静謐で、深い水底のような落ち着きをまとっていた。


 私は部屋で一人、椅子に腰掛けたまま、心の中でいくつも台詞を反芻していた。

 王子にどう切り出すべきか。まずは感謝の言葉か、それとも現状の説明か。それとも、あえて核心から入るべきか──思考は何度も堂々巡りを繰り返した。


 ルクレツィアから「準備が整ったら迎えを寄越す」と言われていた。

 何もすることがなく、ただ待つだけ。時計の針の進みがやけに遅く感じられる。蝋燭の炎が揺れるたび、心臓の鼓動まで小さく揺れるような気がする。 


 やがて、小さく扉をノックする音が響いた。

 立ち上がり、衣服の乱れを確認する。深呼吸をひとつ、ふたつ。足元のカーペットを踏みしめて歩き、扉を開ける。

 立っていたのは侍女だった。彼女は柔らかな笑みを浮かべながら「こちらへ」と言い、私を先導して廊下を進む。


 廊下の向こう、先導する侍女に案内されるまま歩く。進む廊下は昼間と同じはずなのに、夜の静けさがそれをまるで別の場所のように感じさせた。

 壁には夜の照明に照らされた絵画や彫刻が静かに影を落としている。空気は澄んでいるのに、胸の内だけは熱を帯びていた。


 曲がり角をひとつ、またひとつと抜け、やがて一室の前で立ち止まった。扉は半ば開かれている。侍女が「こちらでお待ちくださいませ」と言って、音もなく立ち去った。


 部屋の中は薄暗い。足を踏み入れると、外の月明かりが大きな窓から差し込み、床に長い影を落としている。中央のテーブルにはランプがひとつ置かれ、その明かりが周囲をやわらかく照らしていた。


 一瞬、レオナルドが先に待っていたのかと思った。


 しかし、その背中は彼のそれよりも細く、姿勢はやや柔らかい。


 青年が振り返る。

 その動きは、まるで時間の流れが一瞬緩やかになったかのようだった。金糸のような髪が月光を受け、ゆるやかにきらめきながら揺れる。

 瞳は空のような青色。淡い光を吸い込み、奥底で反射させる湖面のように澄んでいる。その色は、窓から差し込む冷ややかな月光と、机上に置かれたランプの温かな灯り、二つの異なる光を同時に受けてなお鮮烈に冴えていた。

 整った顔立ちは貴族的な気品を湛えており、それでいて笑みは柔らかく、油断を誘うような温度を帯びていた。


 「やあ、初めまして」


 軽やかに発せられた声は、低すぎず高すぎず、耳に心地よく響く。言葉の端にはほんの僅かな笑みが含まれ、音の余韻にまでそれが滲んでいた。


 エウジェニオ・フォルイグレシア王子殿下。


 その名を心の中で確かめると同時に、背筋を伝うように粟が立った。自分が今、どういう立場にあるのかを改めて思い知らされる。

 気づけば、背後の扉が音もなく閉じられていた。室内には私と王子だけ。


 胸の奥で、小さな警戒心が芽を出す。

 ──嵌められたのかもしれない。

 この場にいるのは、もはや私の意思ではなく、相手の采配の結果なのだ。


 とにかく挨拶を──、そう思って姿勢を正した瞬間、殿下が軽く片手を上げた。その動きは制止の合図にしては柔らかく、しかし決して逆らえない圧を伴っていた。


 「ああ、いいよ。堅苦しいのは」


 その声は不思議な響きを持っていた。柔らかく、だが相手の主導権を握る響き。まるでこちらの緊張を見透かして、あえて緩ませようとしているかのようだ。


 「貴女があかり殿だね。知っているだろうが、私はエウジェニオ・フォルイグレシア」


 ランプの光が金色の髪を縁取り、額から頬へ、口元へと柔らかな影を落とす。


 「ルクレツィアから話は聞いたよ。──叔父上の命を救ってくださったこと、まずは礼を言おう」


 そこで、わずかに瞳の奥の色が変わった。

 それは礼儀から来る形式的な光ではない。ごく短い間だが、確かな感謝がそこに宿っていた。


 ただ、殿下は私の顔をじっと見つめ続け、その視線が視線としてだけではなく、感情や意志を伝える手段であることを理解させる。


 この人は信用してもいいのではないか──不思議なことに、そう思わせられる。

 もちろん、これは危険な感覚だ。意図的にそう仕向けられているのかもしれない。だが、少なくとも今の殿下は、私を敵とは見ていない。


「貴女には聞きたいことがあって」


 次の言葉が落ちる。

 ランプの火が小さく揺れ、ガラス越しに壁へと柔らかな光を投げかけた。窓の外では秋の夜風が木々をわずかに揺らし、葉と葉が擦れるかすかな音が耳の奥に届く。


 その声は柔く、しかし明瞭で、逃げ場を与えない響きを持っていた。


「ここまで叔父上を連れてきたのは、何故だい?」



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