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異世界来たけどネットは繋がるし通販もできるから悠々自適な引きこもり生活ができるはず  作者: 星 羽芽


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26/50

26 引きこ森ガールと貴族邸の日々



 朝、目覚めたのはいつもより少し早い時刻だった。カーテンの隙間から射し込む光は柔らかく、夜明けからさほど経っていないことを示している。

 ヴァレスティ邸の客間は、王都の騎士団宿舎よりもはるかに静かで、遠くから小鳥の声や、屋敷の奥で行き交う使用人たちの足音が時折響く程度だ。


 ヴァレスティ邸での生活にも、いつの間にか慣れが生まれ始めていた。

 あかりと共に屋敷へ招かれてから、もう数日が経つ。最初のうちは警戒心が抜けなかったが、この家の規律と空気は思いのほか居心地がいい。

 広い廊下、常に掃き清められた床、控えめな足音と共に行き交う使用人たち。そのすべてが、王都の喧噪とも、俺たちが拠点としていた森の簡素な生活とも違っている。


 着替えを終え、髪を整えて廊下に出る。重厚な造りの扉を閉めるとすぐ、隣の客間から出てきたあかりと鉢合わせた。


「あ、おはよ」


 軽く片手を上げて笑う。眠気の残らない、はっきりとした声だった。


「……あぁ、おはよう」


 俺は返事をしながら、つい視線を彼女の全身に滑らせてしまった。

 あかりはルクレツィアから借り受けたというワンピースドレスを着ていた。深い葡萄色の生地に、控えめなレースの襟。袖口やウエストに施された細かな刺繍が光を受けてほのかに浮かぶ。飾り気は控えめだが、縫製の丁寧さと布の質感で、間違いなく高価な品だとわかる。

 服に合わせてか、髪も丁寧にまとめられていた。耳の上辺りから編み込まれ後ろでゆるく結われた黒髪は、普段よりも艶やかに見える。結び目のあたりに小さな飾り紐が添えられていて、それだけで華やかさが増していた。


 普段の彼女は、簡素な部屋着や旅装姿がほとんどだ。王都に来る前、森での生活では実用一辺倒のシンプルな部屋着しか見たことがない。唯一、ここへ訪問する時に着ていたワンピースくらいが、少し華やかな部類だった。それだけにこういった服装は新鮮だった。


「何? なんか変?」


 少し首を傾げ、裾を指先で摘まんでみせる。


「いや、よく似合っている」


 正直に答えると、彼女は「そっか」と短く返した。


 宿から荷物を回収したとき、あまりにも持ち物が少なくて、この家の者たちに同情された。

 鞄の中は最低限の着替え、それからいくつかの紙束と小物だけ。あまりの質素さに、ルクレツィアも使用人たちも一様に目を瞬かせ、そして憐れみを浮かべた。

 旅支度にしても、予備の衣服がほとんどなく、しかも季節に合わせた厚手の服も見当たらない。襲撃を受け、取るものも取り敢えず逃げ出したのだろう──と。


 ……実際には、生活に必要なほとんどの物は、あかりのアイテムボックスの中に入っている。服から寝具、家屋に至るまで……。

 外から見える荷は、それに入れられなかった僅かなものだけ。それを説明するわけにもいかず、黙って着替えや日用品を用立ててもらったのは、少しばかり申し訳なかった。


「行こっか」

「ああ」


 二人で廊下を並んで歩く。客間から食堂までは階段を一つ降りるだけだが、その道程も長く、絨毯は厚く、靴音すら吸い込む。廊下の両脇には絵画や花瓶が規則正しく配置されていた。淡い花の香りが漂い、城館にありがちな冷ややかさよりも、どこか温かみを感じる。


 この家では朝食は決まった時間に食堂で用意される。部屋に運ばせることもできるが、俺もあかりも、ここに来てからは食堂で朝を迎えるのが常になっていた。

 大体の場合、食堂にはルクレツィアがいる。彼女は早起きで、すでに領内や城下からの報告書に目を通しながらパンやスープを口にしていることが多い。逆に、エドワルドはほとんど姿を見せない。執務室か、領地巡りか、それとも別の予定があるのだろう。数回、偶然廊下ですれ違ったが、常に足早に移動していた。


 食堂に向かう途中、あかりがぽつりと呟いた。


「ここ、やっぱり広いね……毎回ちょっと迷いそうになる」

「そうか。俺はまだ敷地の半分しか把握していない」


 素直に答えると、あかりは「いや十分早いよ」と肩を揺らして笑った。

 廊下を進みながら、ふと思いついたように口を開く。


「最近は早起きだな」


 歩きながら俺がそう言うと、あかりは一瞬だけこちらを見上げ、口元を歪めた。


「え? 喧嘩する?」

「しない」

「ひとさまのお宅にお世話になってるんだから、昼までぐーすか寝てるわけないでしょ……」


 確かに。

 森での生活を思い返すと、あかりは昼過ぎまで寝ていることも珍しくなかった。俺が鍛錬や見回りを終えて戻っても、まだ毛布に包まっている姿を何度も見てきた。なのに今は、邸の生活リズムに合わせ、きちんと朝に起きている。あの気ままさに慣れていたせいで、この早起きぶりには素直に感心する。


 食堂に着くと、既にルクレツィアが席についていた。窓から差し込む朝の光がテーブルクロスを柔らかく照らし、銀食器が控えめに輝いている。


「おはようございます、お二人とも」

「おはようございます」


 あかりが先に声を掛ける。俺も軽く会釈し、空いている席に腰を下ろした。

 俺たちがそれぞれ席に着いてすぐ、給仕のメイドたちが朝食を運んでくる。焼きたてのパン、温かいスープ、そしてハーブを効かせた卵料理。量は控えめだが、見た目も香りも上品だ。


 食事は穏やかに進み、他愛のない会話が交わされる。ルクレツィアは領内の行事や、殿下の視察に関する噂話などを控えめに話してくれる。あかりは相槌を打ちながらも、料理の味を楽しんでいるようだった。

 ルクレツィアは相変わらず情報の引き出し方が上手く、必要以上に踏み込まず、それでいてこちらの状況をさりげなく把握していく。あかりも抵抗感なく受け答えしており、以前のようなよそよそしさはほとんどなくなっていた。

 俺はそれを横目に、ゆったりとした時間を味わった。




 昼過ぎ、客間から廊下を抜けた先の小広間で、あかりと共にお茶の席についた。


 大きな窓から柔らかな日差しが差し込み、白いレースのカーテン越しに庭園の緑が淡く揺れている。足元には、カーテンの模様が光の影絵となって床に映り込み、まるで静かな水面のように揺らめいていた。


 椅子と丸テーブルが置かれ、すでに銀のティーセットと小さな皿に乗ったケーキが用意されていた。ほのかに香る焼き菓子の甘い匂いが、部屋の温度まで柔らかくしているように感じる。

 細く立ち上る湯気の向こうで、深い琥珀色の液面が揺れる。皿には焼きたてのケーキ──淡いクリームと季節の果実があしらわれた、小さくも手の込んだ一切れ──が並べられていく。


 侍女が静かに皿を置き、ケーキを取り分けてくれた。あかりはきちんと目を見て「ありがとうございます」と礼を告げる。声は柔らかく、しかしはっきりしていて、聞いているこちらまで感心する。


「いただきます」


 短くそう告げて、彼女はまず紅茶に口をつけた。背筋はまっすぐ、両肘は自然に引き、視線はカップの中に静かに落ちている。わずかに首を傾けて香りを楽しむ仕草さえも、ぎこちなさはあるが決して無作法ではない。

 ほんの数日前まで、ソファの背にもたれかかって足を投げ出しながらお茶を飲んでいた人間とは思えない。


 ルクレツィアや侍女たちに礼を欠かさず、背筋を伸ばして椅子に座り、ぎこちないながらも充分に品良く振る舞っている。

 主だったマナーはいくらか事前に教えておいたが、ここまで形になるとは思わなかった。

 その様をじっと見ていると、彼女はフォークを手にケーキを切り分けながら、こちらに視線を寄越した。


「私ちゃんと知ってるんですよ」

「何を?」

「侍女さんたちは、貴族の娘さんだってことを。そんな人たちにお世話させといて、自分はソファで寝転がっていられるかって」

「そうか」


 そういう理屈か、と内心で頷く。貴族の屋敷では、領内の有力な家の娘たちが侍女として奉公することが多い。実家との繋がりを保ちつつ、礼儀作法や宮廷での所作を学ぶ機会として重宝されている。


 俺たちが滞在している間、行動範囲内にはルクレツィアが信を置いている者を配置してくれるという。

 身分は関係ないようだが、身の回りの世話をするのはやはり、メイドではなく貴族家出身の侍女が主だ。


 あかりは無頓着なようでいて、人の立場や関係をきちんと見ている。貴族の娘が、こうして奉仕の役割を担うのは珍しくないが、彼女にとってはそれが「人を使う」ことの重みとして響いているのだろう。


「ちなみに俺は騎士爵を持ってる」

「よそはよそ。うちはうち」


 わざと何気ない口調で告げると、彼女はケーキを口に運びながら、じとりとこちらを見た。


「レオナルドくんは別でしょ」


 何が"別"なのか、説明はなかったが、その断言に妙な満足感が胸を満たす。


 紅茶を一口含み、ふと窓の外に視線を移した。庭では若い庭師が花壇の手入れをしている。整然と並ぶ低木の間に、淡い色の花々が小さな群れを作って咲き誇っていた。

 この秩序立った美しさは、森の気ままな自然とは正反対だ。だが不思議なことに、この屋敷の庭にはそれを息苦しく感じさせない空気がある。花も人も、互いに干渉しすぎず、決められた場所で静かに息づいている。


 視線を戻すと、あかりはもう俺を見ていなかった。カップを持ったまま、庭を横切る庭師の姿を目で追っている。その表情には、見慣れぬものを観察する時特有の、わずかな好奇心の色が浮かんでいた。


 フォークですくったケーキを口に運ぶ。スポンジは柔らかく、果実の甘酸っぱさが舌の上に広がった。だが、その味よりも強く記憶に残りそうなのは、今こうして背筋を伸ばし、堂々と紅茶を飲むあかりの姿だった。



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