24 閉ざされた扉の横にあった勝手口
「私が王城に上がるのは、あまりいい顔をされないの」
ルクレツィアは緩やかに笑み、淡々とそう告げた。声音は柔らかい。けれど、その裏にある意味は決して軽くない。
それはまるで既視感のように私の耳に響いた。ほんの数日前、レオナルドが口にしたのと、ほとんど同じ台詞だ。
まるで響きが重なって、胸の奥がひやりとする
「しかし、ルクレツィア様は……」
思わず言葉を継ぎ足していた。
ヴァレスティ公爵家は、今この国で最も力のある公爵家だと囁かれており、その存在感は他の名家を圧している。
現当主である公爵閣下は定番の宰相……ではなく、財務大臣を務めているそうだ。それでも、その地位の高さと影響力は、財政を握るという意味では国の心臓部に近い。
ましてやその公爵家の令嬢であるルクレツィアが「いい顔をされない」とは……。
ルクレツィアは軽く頷き、紅茶のカップに指を添えたまま、視線を落として微かに笑んだ。
「えぇ。私の父は財務大臣として王都の屋敷に居を構え、城で仕事をしています。何かあれば、父から奏上すれば良いこと。……それ以外の"些細な用事"で足を踏み入れることは良しとされません」
その言葉に私は小さく眉を寄せた。"些細な用事"。その一言に、わずかな棘があった。
おそらく、彼女にとって「殿下との面会」は、私が考えていたほど簡単に正当化できるものではないのだろう。
つまり彼女は、権威も血統もありながら、王城で自由に振る舞える立場ではないということだ。
いや、正確には──王がそれを望んでいないのだ。
ルクレツィアは王都ではなくこの領都の屋敷で暮らしている。ただ王都とそう距離が離れているわけではないから、深い理由はないと思っていたのだが……。
「陛下は、殿下の後ろ盾に、ヴァレスティ公爵家では力不足とお考えなの」
ルクレツィアは、まるで他人事のように淡々と言った。だが、その瞳の奥にはわずかな影が差している。さらりと口にした言葉は、軽い調子を装っているのに、内包する意味は重い。
私は口を噤みかけ、それでも踏み込むように言った。
「……王子殿下はまだ、ご婚約者が決まっておられないそうですね」
私はあえて視線を合わせながら問うた。この件は、今の話と無関係ではない。
力不足──それは事実ではない。少なくとも、客観的な家格、財政力の面では、ヴァレスティ公爵家は十分に後ろ盾たり得る。世間で最も力のある公爵家と称される家門に向ける言葉としては、あまりに皮肉だ。
「えぇ。近隣国の情勢も踏まえ、慎重にお選びになられているわ」
その言葉に、私は心の中で小さく息をついた。
近隣国云々──それは方便だ。表向きの理由に過ぎない。既に王女が国外に輿入れしている現状を考えれば、王子は国内から妃を迎えるのが自然な流れだ。
ヴァレスティ家への訪問に際して話し合った時、レオナルドにも同じ問いを投げかけた。彼は迷いなく頷き、「その方が妥当だ」と同意していた。
十七歳になる王子に婚約者がいないというのは、決して通常のことではない。
この国の貴族社会において、王族の婚約は十代前半から進められる。時には幼少期から縁談が水面下で固まっていることさえある。
それなのに、いまだ決まっていない──それはつまり、国内の誰が選ばれるのか、全員が息を潜めて待っている状態なのだ。
ルクレツィアは現在十六歳。年齢的にも、家格的にも申し分ない。
公爵令嬢としての品位、美貌、教養、そのどれを取っても欠けるところはない。むしろ、王子妃候補としては最上位に近い位置にあるはずだ。
この国の貴族の子女は、十八歳で学園を卒業すると成人とみなされる。
それを過ぎれば、婚約の決まっていない令嬢は「選に漏れた」と見なされることが多い。
けれど、今は様相が違う。
ルクレツィアの世代のご令嬢たちは、例外的に婚約者が決まっていない家が多いらしい。理由は簡単。王子の婚約者が決まらない限り、令嬢たちは「選ばれる可能性」を保持しているからだ。
立太子こそしていないものの、実質的に王の後継であると認識されている王子の婚約者。
選ばれる可能性がある家々は、娘の縁談をあえて保留し、機会を待っている。
もちろん、すでに王子の花嫁候補から外れている家も存在する。
家格が明らかにそぐわない家門、早々に見切りをつけ別の政略を優先した家──そういったところは早々に別の縁談を進めている。
しかし、ヴァレスティ公爵家は、そのどちらにも当てはまらない。ルクレツィアは確実に、その「可能性を持つ側」の筆頭にいる。
だからこそ、彼女が王城に足を踏み入れることが「些細な用事では許されない」というのは、単なる儀礼的制限ではない。
それは、彼女自身の立場があまりにも重要で、動き一つで周囲に波紋を広げてしまうからだ。
もしも、彼女が王子と接触したというだけで、それは即座に「縁談が動き出した」との噂になる。
噂は瞬く間に広がり、他の候補者やその家門にまで影響を及ぼす。
そして、そうした影響は、誰かにとって、時に都合の悪いものである。
──つまり、ヴァレスティ公爵家の影響力が、王子を押し上げることを阻んでいる。
……彼女に贈るものを選ぶ際、レオナルドや街の人に聞き込みをした。
ルクレツィアの髪と瞳の色は勿論。彼女の好きな色。よく着るドレス、身につける宝石の色。
彼女は、黄色や青色のドレスを好んでいるそうだ。
私は彼女を見つめながら、静かに理解した。
ルクレツィアは、たとえ表に出さずとも、自らの立場と限界を正確に理解している。
この現実の中で、私の頼みを叶えることは難しいのだと、はっきりとわかってしまった。
ルクレツィアは紅茶を口にし、わずかにカップを置く音が響いた。その仕草は、まるで会話に一区切りをつけるようだった。
一度細く吐息を吐いたあと、グラスの縁にそっと指を添えた。昼下がりの柔らかな光がカーテンの隙間から差し込み、紅茶の表面を金色に照らしている。
「もうすぐ休暇が明けて学園も再開するけれど、男女で校舎は分かれているし、学園内で接触しようとすれば人目を引くわ」
「そうですか……」
彼女の声は理路整然としていて、同時に淡々と現実を突きつける冷たさも含んでいた。
学園での接触が難しいというのは、つまり日常的に王子と会話する機会がほぼない、ということだ。そう断言されてしまえば、うっすら抱いていた淡い期待は、霧のように掻き消えていった。
正攻法では到底近づけない。彼女の口からはっきりと聞かされると、胸の奥に重い石が置かれたような感覚が広がる。
私は思わず視線を落とす。思っていた以上に接触のハードルは高い。
貴族社会特有の、誰が誰とどこで話したかが即座に広まる噂網。想像しただけで、軽率な行動がどれだけ足を引っ張るかは明らかだった。彼女の事情も知らず、軽率に願ったことを申し訳なく思う。
そんな私を見て、ルクレツィアの口元にふっと笑みが浮かんだ。
「けれど──あなた方は運がいいわ」
「え?」
ぱちり、と瞬きした私の耳に、少し愉快そうな声音が落ちる。
彼女は少し身を引き、背筋をまっすぐに伸ばした。
「私が王城に上がることも、学園で接触することも難しいわ。だけど近々、殿下が我ヴァレスティ領へ視察にいらっしゃる予定なの」
「……えっ!」
声が裏返り、レオナルドもわずかに目を見開く。
あまりに予想外の朗報だった。王子自らが領地へ来る──それも、彼女の領地に。
「殿下はここ数年、精力的に国内を回っていらっしゃるの」
ルクレツィアは淡々と説明を続ける。
その言葉で、私はレオナルドから教わった王子の行動履歴を思い出す。各地を巡っている記述がいくつもあった。祭礼や祝典といった公式行事だけでなく、商業都市や農村まで。
「監査ではなく視察ですから、ある程度の時期は事前に知らされます。そしてこの学園の休暇中に我が領へお見えになる予定で……まだいらっしゃっていないわ」
ルクレツィアの声が、妙に鮮明に耳に残った。
つまり、私たちにはまだ間に合うということだ。
「恐らく、そろそろ日程について通達があるはずよ」
「で、では……」
彼女はさらりと言ったが、それがどれほどの機会であるかは、私の胸を強く打っていた。
私は言葉を繋ぎながら、手の中の指先がじんわりと温まるのを感じた。胸の奥がざわつく。この情報は、まさに渡りに船だった。もしこれが実現すれば、レオナルドを殿下に会わせるという目的に、一歩、いや数歩近づける。
「えぇ、あかり。是非我が家へ滞在していらして」
その声色は、まるで「当然でしょう?」とでも言うような穏やかさを含んでいた。
彼女はそう言って、ちらりと私の背後──無言で控えるレオナルドに視線を送った。
「従者の方と共に、ね」
レオナルドはわずかに背筋を正し、無言の礼で応じた。
彼もこの条件には異論を挟むはずがない。むしろレオナルドが最も避けたいのは、王城での監禁や不意の拘束だ。その危険を限りなく減らせるこの提案は、願ってもないものだろう。
王城という高い壁を迂回し、しかも自然な形で接触できる。王城へ乗り込むよりも遥かにローリスクだ。そう、頭の中で即座に計算が走る。
王城は閉ざされた空間。入ることも出ることも難しく、監視の目は常にある。そこではこちらの行動はほぼ制限され、自由はないだろう。
しかし、"視察先のヴァレスティ領"であれば。
「……本当に、よろしいのですか」
声を落として問うと、自分の指先がわずかに膝の上で固くなっているのに気づく。
場の空気は落ち着いているはずなのに、心臓の鼓動だけが少し速い。
「こういうことはタイミングがすべてよ。殿下が領地を訪れるなど、そう頻繁にあることじゃない」
彼女は涼しい顔で言うが、その言葉の奥に「今を逃せば二度とないかもしれない」という警告が透けて見える。
私は無意識に唇を噛み、深く頭を下げた。
「感謝いたします、ルクレツィア様」
彼女は、かすかに首を振った。動作は柔らかいのに、その仕草の中に妙な芯の強さがある。
「感謝するのは、まだ早いわ。……殿下に会えたとして、そこで何をどう話すのか。それはあなた方次第」
その声音には、甘やかすような優しさと、試すような鋭さが同居している。
私は胸の奥で固く頷き、その言葉を刻み込んだ。




