23 ルート発見、ただし難易度ハード
ルクレツィアの一言が、まるで水面に石を投げ込んだように空気を波立たせた。
その場の重心が彼女の視線の先へとゆっくり移動していく。
その熱でも冷たさでもない、しかし芯の通った眼差しを受けて、背後のレオナルドがゆっくりと動いたのが気配で分かる。
レオナルドは静かに一歩前へと進み出る。その動作には無駄がなく、軍人としての鍛えられた所作が宿っている。けれどその目元はどこか険しさを含んでいた。彼は静かに眼鏡を外し、深く一礼する。
「このような形で御前に立つことをお許しください」
低く、落ち着いた声。だが私には、その奥に張り詰めた緊張と覚悟が確かに感じ取れた。
ルクレツィアはそんな彼をしばし無言で見つめた後、わずかに頷いた。
「いいでしょう。……貴方が少し前から行方知れずであることは耳に入っておりました。事情がおありなのでしょう」
あまりにあっさりと、しかし逃げ場を与えぬ口調。
行方知れずという言葉を、彼女は何のためらいもなく使った。レオナルドが森で倒れてから一ヶ月以上経つ。既に王城の周辺に限らず、街でも噂は広まっているのかもしれない。
しかし──。
レオナルドとルクレツィアの間を視線で一巡した私は、思わず問いを口にした。
「……お二人は面識が?」
レオナルドからは何も聞いていない。遠目で見たことがある程度で、言葉を交わしたことはないと言っていた。だからこそ、この場に連れてきたのに。
ルクレツィアが国王の蛮行に対してどう判断を下すか不明な以上、彼女の前に立たせるのは賭けのようなものだった。もし彼女が国王側に立つ人物なら──この場に連れてきたこと自体が愚行になる。そんな危うさを孕んでいる。知り合いだと聞いていれば宿で留守番させるつもりだった。
ルクレツィアは私の問いを受け、柔らかな笑みを浮かべた。
「我が国の主要な人物の顔と名前くらいは把握しておりますもの。実力者揃いの第三騎士団の副団長ともなれば」
なるほど……と私は心の中で呟いて頷いた。
直接会ったことはなくとも、その存在はとうの昔に認識されていた、ということだ。むしろ、ルクレツィアの立場からすれば当然のこととも思えた。何故思い至らなかったのか……。少しばかり後悔に沈む。
レオナルドは背筋を伸ばしたまま、目を逸らすことなくルクレツィアを見返していた。
「しかし、こうして無事なお姿を拝見できて何よりですわ」
その声色はさきほどより柔らかく、わずかに女性らしい温度を帯びている。だが、それが本心からかどうかは、私にはわからなかった。
「……お言葉、痛み入ります」
レオナルドは簡潔にそう述べたが、その言葉の裏には警戒と敬意が同居しているように感じられた。
ルクレツィアは細い指を頬から離し、軽く手を振る。
私は喉が渇くのを感じながらも、口を挟むべきではないと悟った。ここは、二人の間に流れる空気を邪魔してはいけない。
ルクレツィアは椅子の背にもたれ、レオナルドを値踏みするような目で見つめ続ける。その視線は、まるで宝石の価値を見極める鑑定士のように冷静かつ精緻だった。
「二人の間で何があったのかは存じ上げませんが、あかりの背後に立つにはこれ以上ない護衛でしょう」
「過分なお言葉です」
レオナルドの返答は短く、しかし揺るぎない。無駄に飾らないところが彼らしい。
そのやり取りを見ながら、私は内心で息を吐く。この二人の間には、互いを認めつつも、どこか探り合うような独特の緊張感が漂っていた。
ルクレツィアは視線を私に戻し、意味深な笑みを浮かべた。
「さて……あかり。貴女がこの方を連れてきたのは、単なる護衛という理由だけではないのでしょう?」
その問いに、私は思わず背筋を伸ばした。やはり彼女には既に見透かされている。今回の訪問の裏にある事情を。
その時、部屋の奥で控えていた執事が静かに紅茶を注ぎ足した。
琥珀色の液面が揺れ、ふわりと立ちのぼる香りが張り詰めた空気を少しだけ和らげる。だが、その安らぎは表面だけのものだった。この場の空気は依然として張り詰めたままだ。
ルクレツィアはカップを手に取り、一口含む。紅い唇が軽くカップの縁から離れ、琥珀色の紅茶が光を受けてきらめき、その香りが部屋にやわらかく満ちる。
ルクレツィアの薔薇色の瞳が、私をまっすぐに射抜いた。その視線に促されるように、私は口を開く。
──隠すべきか、話すべきか。胸の奥で一瞬だけ迷いが揺らめく。けれど、ここで中途半端なことを言っても、彼女相手には意味がない。ここで迷えばすべてが水泡に帰す。そう悟って、私は静かに息を整えた。
「……レオナルドは行方知れずとなる一ヶ月と少し前──襲撃を受けたのです」
室内に流れる空気が、すっと引き締まる。
ルクレツィアは驚いた素振りを見せなかった。
背後に控えていたレオナルドが、黙って私の言葉を聞いていた。彼自身の口から説明することもできたが、それを任されたのは私だ。
続けざまに私は、事の経緯を包み隠さず話し始めた。
レオナルドが突如として何者かに襲われ、瀕死に近い状態でさまよっていたところを、たまたま私が隠れ住む拠点の一つで保護したこと。
そこで応急処置を施し、しばらく休ませていたが──再び襲撃者が現れ、命からがら二人で逃げ出したこと。
私の言葉は、できる限り淡々とした調子を装っていたが、指先は気づかぬうちに膝の上で強く握りしめられていた。
ルクレツィアは黙って聞いていた。時折カップを傾けるだけで、合いの手ひとつ挟まない。
紅茶の香りの中に、妙に冷ややかな緊張感が溶けていた。
「──そして、」
私は視線を正面に据え、覚悟を決めた。
「レオナルドは王子殿下と既知の間柄です。一度、お目通り願いたいと考えています」
ルクレツィアの長い睫毛が、羽のようにゆっくりと瞬く。
私は胸の奥でぐらつく迷いを押し潰すように、深く息を吸い込んだ。
「恐れながら、ルクレツィア様であれば、王城に上がることもおありでしょう。一言……殿下にお取り次ぎいただくことが許されるのであれば、と」
その願いは、私にとって賭けだった。
自分でもわかっていた。これは大きな頼みだ。彼女の立場を利用するような真似でもある。それでも、今はこの道しか見えていなかった。
与えられた紋章入りのブローチ。彼女の熱狂的な後援。今回の面会は、それらを踏まえて私からレオナルドに提案した案だった。
とはいえ、こんな直接的な頼み方をする予定ではなかった。あくまで一商人として、王子にお目通りが叶うルートはないか、アドバイスをもらう程度のつもりだったのだ。それくらいであれば、ほぼほぼ可能だろうと思って。
しかしレオナルドの存在を認知され、事情を明かした今。彼女さえ協力してくれるのであれば、最短の道が開かれる希望がある。
彼女がどう反応するか次第で、この先の行動はすべて変わる。
長くも短くもないその時間、私は息を止め、彼女の反応を待つ。レオナルドもまた、軍人らしい直立の姿勢を崩さぬまま、沈黙の中で成り行きを見守っている。
ルクレツィアの視線が私から逸れ、遠くを見た。少しの沈黙が落ちた後、彼女は低く、しかしはっきりと呟いた。
「……そう。そうですか、そういうこと……」
彼女の声は感情を抑えているようで、どこか含みがある。
そして、薄く吐息を漏らすように微笑を消した。そして、ほとんど独り言のように呟いた。
「彼の方にも困ったものね」
その台詞に、私の胸が僅かにざわめいた。襲撃の主犯が国王だということは、あえて口にしていない。けれど、この一言が出るということは──ルクレツィアは現状を正しく認識しているのだ。いや、それ以上に、彼女は既に背後の事情を把握している可能性すらあった。
ルクレツィアは指先でカップの取っ手をなぞりながら、ぽつりと呟く。
「であれば、先の商会は別件……いえ、唆された、かしら」
その言葉には、何か腑に落ちたような響きがあった。
私には具体的な意味までは読み取れなかったが、どうやら彼女の中でいくつかの点が線として繋がったらしい。
彼女は紅茶のカップを持ち上げ、琥珀色の液体をゆっくり口に含む。その動作が妙に長く感じられた。まるで、この先の言葉を私に覚悟させるための間のように。
ルクレツィアは再び、正面から私の目を見た。
「他ならぬあかりの頼みですもの」
口元に薄く笑みを浮かべながら、彼女はそう言った。その笑みには、私に向けられた柔らかさと、同時に底知れぬ距離感が同居している。
──この流れなら、もしかすれば、彼女は願いを受け入れてくれるのではないか。
私はわずかに身を乗り出す。
「叶えて差し上げたいところですが──それは難しいお願いね」
その一言は、まるで重い扉をゆっくり閉じる音のように、私の胸に落ちた。
理由はまだ語られない。だが、その声色は絶対的だった。軽い慰めや社交辞令ではなく、本当に「難しい」と判断している口ぶり。
私の胸の奥で、焦燥がざわめく。
それでも、ルクレツィアが即座に拒絶せず、こうして対話を続けている事実が、かろうじて私を支えていた。
ルクレツィアは私の表情を見つめ、ゆるやかにカップを置いた。
「理由を……お聞きしても?」
私は思わず問うていた。




