21 優雅と奔放の反復横跳び
「まぁ! まぁまぁまぁ! ようこそ! お越しくださいましたわ!」
突如として現れたのは、ドレス姿の美少女だった。
その髪はミルクと砂糖をたっぷり溶かした甘いミルクティのような色合いで、柔らかな光を受けてふわふわと波打っている。細やかなカールがひと房ひと房揺れるたびに、ほのかな甘い香りが空気に混じった。
目を奪われたのは、その薔薇色の瞳だ。まるで宝石のようにキラキラと輝き、鮮やかな色彩が彼女の愛らしい顔立ちに華を添えていた。
口元にはこれ以上なく華やかな笑み。頬はほんのりと上気しており、まるで待ち焦がれていた相手をようやく見つけた子供のような喜びが溢れていた。
私は反射的に立ち上がった。
そしてすかさず、レオナルドから教わって何度も練習した、貴族に向ける礼。
「お初にお目に掛かります。灯・舘石と申し──」
胸に手を当て、片足を後ろに引き、上体を優雅に傾ける──その動きに入った、まさにその瞬間。
視界の端で高価そうなドレスの裾がふわりと広がり、靴のつま先が絨毯を蹴る音がかすかに響く。舞台の上から飛び降りてくる役者のように、彼女はためらいなく私との距離を詰めてきた。
細くしなやかな指が、私の手をしっかりと包み込む。その握力は想像以上で、まるで逃がさないとでも言うかのようだ。
「貴女様があの! シャンプーを世に送り出した商人様なのね! お会いしたかったわ!」
薔薇色の瞳が真っ直ぐこちらを射抜く。彼女の声は高く弾み、瞳が輝きを増した。期待と喜びが溢れているのが手に取るように伝わってくる。まるで、ずっと憧れていた人物にやっと会えたように。
その圧に、思わず言葉が抜け落ちた。
「あっ、ッス」
我ながら間抜けな返事だった。
心の中で、今のは無しにしてほしいと願うが、時は戻らない。
「お嬢様」
背後から執事の声が低く響く。制止の意味を込めた呼びかけに、彼女は振り返り、私から一歩離れて身を引いた。
「あら失礼」
少女は私の手をぱっと放すと、ふわりとスカートを翻し、一歩後ろに下がった。
距離が開いた瞬間、それまで甘く熱を帯びていた空気が、すっと冷える。華やかで自由奔放な熱気が引いて、緊張感と礼儀正しさがみなぎる静謐な空気が満ちていく。
先ほどまでの奔放な子供のような勢いが嘘のように、彼女は完璧な淑女の顔を取り戻していた。
そして──美しいカーテシー。
ドレスの両端をつまみ、背筋をまっすぐに保ち、流れるように腰を落とす。ほんの一瞬、視線を床に落とし、再びこちらへと上げたその顔は、社交の場における完璧な礼儀作法を体現していた。
「ヴァレスティ公爵家が長女、ルクレツィア・ヴァレスティです。お会いできて光栄ですわ」
その声は、先ほどのはしゃいだ調子とは異なり、落ち着いた響きを持っていた。だが、その奥に潜む感情──期待と興奮の火花は、完全には消えていない。
私は一拍置いてから、改めて礼を返す。
「こちらこそ……お会いできて光栄に存じます」
口調はできるだけ整えたつもりだったが、指先にまだ彼女の体温が残っているせいで、心の鼓動が早まっているのを隠しきれない。
近くで見れば、彼女の装いは細部まで隙がなかった。ドレスはアイボリーを基調に、裾や袖口に繊細な白の刺繍とレースが飾られている。腰元には同系色のリボン。ドレスと同じ図案の刺繍がネイビーであしらわれていた。髪にも同じ意匠のリボンが丁寧に編み込まれている。
そして、顔を上げたルクレツィアが──ぱっと華やかな笑みを浮かべた。
再び、張りつめていた空気がふわりとやわらぐ。
「どうぞ、お掛けになって」
その仕草ひとつにも、どこか舞台の女優のような華がある。
私は一瞬だけレオナルドと視線を交わし、礼を返してからソファに腰を下ろした。彼は私の背後に控え、従者として静かに立つ。柔らかなクッションがほどよく沈み、上質な香水と紅茶の香りが鼻をくすぐった。
ルクレツィアは私の正面に座ると、背筋をまっすぐに保ったまま膝の上に手を重ねた。その姿勢は優雅そのものだが、薔薇色の瞳には明らかに好奇と期待の色が混じっている。
執事が軽く頭を下げ、彼女の前に新しいティーセットを並べた。
「突然の訪問、失礼いたしました。お時間をいただけたこと、心より感謝申し上げます」
「まぁまぁ、構いませんわ。寧ろ私の方こそ、ずっとお会いしたかったのですもの」
あっけらかんと言い切る彼女の声は、可憐でいながらどこか熱を帯びている。
その「会いたかった」という言葉が、形式的な社交辞令ではないことは、まっすぐな眼差しが証明していた。先ほどの飛び込むような歓迎も、突発的な感情だけでなく、本当に心からの期待の表れだったのだと感じる。
「日頃より私どものシャンプーをご愛顧いただき、誠にありがとうございます」
「あれは本当に素晴らしいものですわ。香りも泡立ちも、洗い上がりの感触も、これまでにない心地よさ。あれを使った朝は、一日が少し明るく始まるような気がしますの」
穏やかに微笑むその顔を見ながら、胸の奥が少しだけ温かくなる。けれど同時に、私は視線を落とした。
「光栄です。ですが、私はまだまだ未熟者でして。商人としても、人間としても、学ぶことばかりです。……本日は、先の件でお力添えいただいたことへのお礼を申し上げたく、参りました」
ルクレツィアは小首をかしげ、瞳をわずかに細める。とぼけているようでいて、否定の言葉を口にしない。その沈黙がすべてを肯定していた。
先の件──私たちが森を追われた襲撃事件の前。冒険者のような二人組が森を探りに来た時のこと。
セルディが私の周囲を探っていたという商会に当たりをつけ、彼らに"圧"をかけてくれたという貴族令嬢たち。
その内の一人は、まず間違いなく彼女である。
「とても心強い支えでした。ありがとうございます」
ルクレツィアは、私の真剣な言葉をしばし受け止め、それからゆるやかに微笑んだ。
「……そう仰っていただけるなら、嬉しいですわ。あの商会、少々鼻持ちならない振る舞いをしていましたし……貴女に対しても、礼を失していた。黙って見過ごす理由がありません」
ルクレツィアの頬がふっと紅潮し、薔薇色の瞳が一層きらめく。
「私、あのシャンプーを初めて使った日のことは、絶対に忘れませんわ」
この世界で初めて日本製シャンプーを手にした貴族令嬢。
それは、グロスマール商業ギルド長の姪御である子爵令嬢だ。彼女は長年、肌や髪の乾燥トラブルに悩まされてきたという。そして彼女が保湿対策や製品選びの知識を求め、助言を求めた学友、それこそが──目の前に座る、ルクレツィア・ヴァレスティ公爵令嬢だ。
ルクレツィア・ヴァレスティ。
眉目秀麗、成績優秀、舞踏会では常に注目の的。学問、礼儀作法、乗馬、音楽、あらゆる分野で高水準を保つ才媛。
貴族界での評判は随一だが、同時にこう揶揄する者もいる。
──『美容狂い』、と。
幼い頃から美に関する知識を貪欲に集め、伝統的な香油や薬草だけでなく、遠方からの輸入化粧品、独自の食事法やマッサージ法まで徹底的に研究している。
その情熱は、単なる趣味を超え、生き方そのものになっているとの噂だ。
そんな彼女がある日、友人の子爵令嬢からそれはもう強く強く勧められたのが、私が卸していた日本製シャンプー、というわけだ。
「最初は正直、信じられませんでしたわ。そんなに違いが出るものなのかと」
ルクレツィアは指先で軽く自分の髪をすくう。
甘いミルクティ色の髪は、ひと房ひと房が光を含み、なめらかな波を描いている。まるで薄絹を透かして差す朝陽のように、やわらかく輝いていた。
彼女は軽く笑い、少しだけ肩を竦める。
「以来、私はあのシャンプーの虜なのです」
軽やかな口ぶりながら、薔薇色の瞳の奥には揺るぎない熱が宿っている。……どうやら思った以上に、しっかりとした“ファン”らしい。
内心でちょっと苦笑しつつ、私はそっとレオナルドへ視線を送った。彼はわずかに頷き、無駄のない動作で傍らのトランクを開ける。
「本日お礼も兼ねて、お近づきの印に、ささやかな贈り物をご用意いたしました」
中から現れたのは、両手で持てる程度の大きさの、重厚なアンティークの小物入れ。深い瑠璃色に金の縁飾りが施され、蓋には繊細な花の彫刻が浮かび上がっている。光の角度によって表面が淡く煌めき、まるで長い時を経ても褪せぬ宝石のようだった。
レオナルドはそれを両手で持ち、ルクレツィアの傍に控えていた執事へと手渡す。
執事は恭しく受け取ると、経験豊かな目で表面をじっと検分した。装飾の傷や細工の綻びを確かめるように、指先でごく軽く触れ、蓋をそっと開けて内部も確認する。
やがて彼は顔を上げ、頷いた。小物入れは丁寧にルクレツィアの前のテーブルへ置かれる。
ルクレツィアは優雅な動作でそれを手に取り、光を透かすように傾けながら眺めた。
「まぁ……まぁまぁ……」と、先ほどの登場時と同じ感嘆が、しかし今度は控えめな声音で漏れる。薔薇色の瞳が、宝石を愛でる子猫のように細められ、興味と喜びの光を湛えていた。
やがて薔薇色の瞳がこちらを見上げ、ふわりと微笑んだ。
「素敵ね。開けてもよろしくて?」
「えぇ、もちろんでございます」
私が頷くと、彼女は細い指先で蓋の留め金を軽く押し、静かに持ち上げた。
蝶番がわずかに軋み、ゆっくりと蓋が開かれる。




