17 崖っぷちランデブー
俺は剣の柄に軽く手を添えながら、あかりの姿が木々の向こうに消えるのを見送った。手を振るでも、声をかけるでもなく。ただ、互いの選択を信じて、背を向けた。
俺は単独で森の北東へと進路を取る。地図で確認した限り、最も接触の可能性が高い部隊の進路に、わざと交差するように。
彼女には「囮になる」とは言わなかった。いや──言えなかった。
けれど、これはそういう戦術だ。敵の目を引きつけ、彼女が安全に森を抜ける時間を稼ぐ。
あかりはすでに反対側のルートを進んでいる。あの子は賢い。冷静だ。地図とドローンを駆使して、敵の配置を読み抜き、可能な限り死角を通って森を抜けていくだろう。俺は、そのための囮でいい。戦うことが俺の役割だ。
夜の森は静かだった。
だが、その静けさは、決して安らぎのものではない。獲物の息遣いを察知する獣のように、見えざる敵の気配が、じわじわとこちらを包囲していた。
(……来る)
風がざわりと木々を揺らす。深い森の中、獣の気配ではない何かが、近づいてくる音がした。
前方、三十メートル。枝の揺れ、草の擦れる音、そして……小さく立てる呼吸のリズム。
完全な隠密行動というには甘い。訓練された兵の動きではあるが、暗闇での行動に慣れている者ばかりではない。
背後に木を背負い、息を潜める。
やがて、足音。三人──いや、四人か。先行している一人と、やや距離を取った三人。広がっている。警戒している証拠だ。
気配を断ち、地を蹴った。木の根を踏み越え、茂みを裂いて一気に距離を詰める。
先頭を進んでいた兵が、こちらを見て息を呑む間もなく、斬撃を一閃。
「ッ──!?」
一人目が反応するより早く、肩口から斜めに斬り伏せる。剣は肉を断ち、骨を割った。返す刃で左後方の二人目の腰に斬撃を叩き込むと、悲鳴も上げずに崩れた。
「一人か!」
「警戒しろ、罠があるかもしれん!」
ようやく敵が声を上げた。だが、それが遅れとなる。
俺は木立を利用して回り込み、次の兵士へと接近する。
相手が身構えたのが見えた。体格は良い。訓練も積んでいるのだろう。踏み込みも速い。だが、構えが甘い。
相手が剣を振り上げる瞬間、俺は肩を落とし、間合いの内側に入り込む。地面の湿気を利用して右足を滑らせ、体を捻り、脇腹に短剣を深く突き立てた。呻きとともに兵が崩れ落ちる。
その時、視界の端で光が弾けた。
敵の後衛が魔法詠唱を開始している。風属性──いや、火属性の初級攻撃魔法。標準的な発動速度。
防御魔法を展開する暇すら惜しい。瞬時に判断し、地を蹴ると同時に足元に魔力を込める。
爆風が地面をえぐり、俺の体を吹き飛ばす。
木を蹴って軌道をずらし、火球を回避。森の木々が焼け焦げ、火の粉が舞う。
相手は完全に腰が引けている。既にこちらの位置を正確に捉えてはいない。
俺は再び動いた。今度は地形を利用し、樹木の影を縫うようにして──最後の一人の背に回った。
「ッ……!」
魔法使いが詠唱を急いでいた。雷だ。術式を読めば分かる。
だが──間に合わない。
俺は左手の短剣を逆手に持ち替え、術者の腕を目がけて投擲。術者の腕に突き刺さる。
術式が暴走し、魔力が炸裂。爆ぜた雷の火花が周囲に散る。術者が地に膝をついた。
俺は間髪入れずに踏み込み、剣を突きつけた。術者が防御魔法を展開しようと手をかざした瞬間、その手を斬り払う。
「──っ!」
魔力の奔流が霧散する。
喉元に剣を突きつけ──……終わった。
汗が頬を伝っていた。だが、体力の消耗は最小限。致命的な怪我もない。
森の匂いが戻ってくる。土と血の混じった、静かで、どこか物哀しい匂いだ。
木々の間を縫い、息を整えながら進む。途中、気配に気づいて足を止める。
──索敵に戻ってきた兵士か。単独行動のようだ。
木々の間をすり抜け、無音で接近。腕を絡めて頸動脈を圧迫。相手がもがく前に、意識を奪った。
ゆっくりと地面に倒し、物音を立てないように身を低くして周囲を確認する。
(……これで五人)
全体の布陣から見れば、まだ氷山の一角。
だが、こちらも損害ゼロ。動きを読み、各個撃破に徹すれば十分に渡り合える。
問題は、時間だ。
ならば、立ち止まっている暇はない。
息を整える。闘志を鎮める。次の部隊は、また別の布陣で来るだろう。
けれど、何度でも戦える。何度でも、時間を稼ぐ。
君を生かすために。君と、未来を迎えるために。
──二隊目、排除完了。
息が荒い。呼吸が浅い。
額に伝う汗が、目に染みる。
先の五人との交戦が終わって、まだ十分も経っていない。だが、もう次の気配が近づいていた。
予想よりも早い。部隊間の距離はもっと離れていたはずだ。だが、こちらの魔力の閃光と剣戟の音を感知したのだろう。敵の動きは明らかに加速していた。追撃の手を緩める気配はない。まるで、獲物の血を嗅ぎ取った猟犬のように。
木々の向こうに、複数の足音。風に乗って、鉄の擦れる音。
──三隊目。四人。
しかし、前の部隊とは明らかに動きが違う。森での戦闘に慣れている。隊列の取り方も、剣の軌道も、呼吸すら緻密だ。
一人の兵が距離を詰め、左肩をかすめるように斬りつけてきた。剣圧が布と皮を裂き、浅い切創を残す。だが、それ以上は許さない。即座に回避し、相手の手首を狙う。
──弾かれた。
反応速度、剣筋、間合い。すべてが前の部隊より洗練されている。
地形の把握と機動力、そして訓練された戦闘経験。それらで食い下がってはいるが──既に、二人を一度に相手するのも苦しくなってきていた。
だが、引く選択肢はない。ここで止めなければ、あかりが包囲される。
俺は歯を食いしばり、二人の同時攻撃を受け流しながら反撃の隙を探る。
「囲め! 絶対に逃がすな!」
敵の号令が飛ぶ。俺の逃走経路を断つように、二人が迂回していく。
まずい。完全に背を断たれる。
俺は地を蹴って、南へ向かって駆けた。幾度も通った獣道。地形は頭に入っている。
視界を切るために、わざと倒木の影を飛び越え、背後に落葉の粉塵を巻き上げる。
「迂回隊、そっちに回った! 崖に追い込め!」
敵の声が森を切り裂くように響いた。
こちらの思考を読んだかのような展開に歯噛みした。
彼らは既にこちらの意図を読み、包囲の輪を狭めにかかっている。完全に見切られたわけではないが、もはや猶予はない。それでも、突破しなければ。
わざと倒れたように見せかけて転がり、近くの潅木の中へ飛び込む。呼吸を殺し、身を潜め、待つ。
──一瞬の静寂。
次の瞬間、追撃の兵士が一人、警戒しながら通りすぎた。その背に向かって、俺は短剣を投げ放つ。
風を裂いた刃が喉を撃ち抜いた。
「ッぐ……」
崩れ落ちた音を皮切りに、また剣を手に立ち上がる。
木立の奥から、新たな気配が迫ってくるのを察知した。
──足音が近づく。三、四……いや、五。残りの全員が集結しつつある。
だが、既に俺の体力も限界に近い。剣を握る手がじわりと湿る。呼吸も、やや乱れ始めていた。
木の幹を背に、俺は呼吸を整える。
短剣は投擲で手放した。残るは、一本の長剣と残りわずかな魔力。
(……退路が、ない)
このままでは、全周を包囲されるだろう。
なら、いったん戦場を動かすしかない。
俺は踏み込んだ。
木々が減り、土が岩盤に変わっていく。
──地鳴りのような足音。追手がすぐ背後まで迫っている。
足を止めるわけにはいかない。残された手段は、誘導と持久。
そして、ついに視界が開けた。
荒れた岩場。足場は悪く、樹木もまばら。半ば崖のような急傾斜に、露出した岩肌が月明かりを鈍く反射している。
(……地の利を失ったな)
ここまで追い詰められるとは思わなかった。
逃げ場がない。
(まだやれる。あと、もう少し……)
剣を握り直す。血で滑りそうな柄を、力で押さえ込む。
肺が焼けるようだ。だが、足は動く。──倒れるわけにはいかない。
指揮官らしき男が叫んだ。
「全員でかかれ! ここで終わらせる!」
背後に聳える切り立った岩壁。時間さえあれば登れなくはないが、この状況では的になるだけだ。弓でも魔法でも、この距離なら確実に仕留められる。
目の前には五人の兵士。うち二人は魔法支援。残る三人がじわじわと間合いを詰めてくる。森の奥から増援の気配。
袋小路だった。冷静に見れば、打開の道は限られている。
(……いや、まだ終わっていない)
思考を止めるな。体を動かし続けろ。視線を逸らすな。
わずかに膝を緩め、次の動きに備えようとした、その時だった。
──ガシャン!
「なんだ、急に……!?」
「……突然現れて、いや、どこから……!」
乾いた金属音が、岩に反響した。刹那、俺の体が勝手に動いていた。振り返る。岩壁に──長い金属製のハシゴが立てかけられていた。
瞬間、確信した。
一切の疑念が吹き飛ぶ。身を翻し、地を蹴って、背後から怒声と足音が迫る中、俺は躊躇なくその梯子に駆け寄り、手をかけた。
視界が岩肌に覆われ、背後が見えなくなる。金属の段が靴底に噛むたび、身体が宙に持ち上がっていく。
無防備なこの瞬間。俺の背に、何の攻撃も来なければ、それは奇跡だと思った。
だが──
一瞬で、夜が明けた。
昼かと思うほどの閃光が、背後から照りつけてくる。
自分の影が、岩壁にくっきりと浮かび上がっているのが見えた。
「うわっ!? な、なんだ……!」
「目が、見え──ッ!」
背後で混乱と悲鳴、怒号が飛び交う。敵が完全に怯んでいる。この機に、俺は梯子を最後まで駆け登る。
息を荒げながら、岩の上へ這い上がると、そこで待っているのは、
「レオナルドくん!」
あかりの声。姿を確認するより早く、何かが投げられた。
反射的に手を伸ばす。丸い、光沢のある……兜だ。それを受け取った瞬間──足元で、誰かの叫びが上がった。
「う、うわあああああッ!!」
驚いて身を乗り出し、崖の下を覗き込む。数人の兵士が宙をもがきながら、地面に無様に落下していくのが見えた。
梯子が、消えている。
そうか。あかりが、アイテムボックスで収納したんだ。俺が登りきった瞬間、後を追って登りかけた敵兵たちはそのまま空中に投げ出され、落下したのだろう。
鮮やかすぎる手際に、俺は一瞬言葉を失う。
「行くぞ、レオナルドくん!」
呼びかけに振り返る。そこにいたあかりは、俺に投げ寄越したものと同じような兜を被り、何かに跨っていた。
──見覚えがない。
それは、いつぞやのマウンテンバイクではなかった。もっと無骨で、機械的なフォルム。全体的に黒鉄色で、太い車体と金属パーツがむき出しのフレーム。タイヤは小ぶりだが太く分厚い。華奢な彼女が扱うには不釣り合いにすら思える、いっそ暴力的な外観。
「乗りな……!」
にやりと口角を上げた彼女が親指で自身の背後──確かに人一人が座れそうなスペースがあった。
迷いはなかった。俺は受け取った兜を被ってそれにまたがり、あかりの肩に手を添える。
瞬間、車体が低く唸った。マウンテンバイクの電動モーターのような音ではなく、魔獣の咆哮のような重低音。
「しっかり掴まってて!」
あかりの声には、どこか楽しげな響きすらあった。
命を懸けた逃走劇の最中だというのに──何故こんなに頼もしいんだろうか。
俺は思わず、彼女の背中越しに小さく呟いた。
「……君に救われっぱなしだな」
「うんうん、ありがたく思っていいよ!」
あかりはそう言って、足元のペダルを踏み込んだ。
金属の車体が唸りをあげ、枝を弾き、石を跳ね飛ばしながら地を蹴って進む。
闇の中、金属の獣が地を駆ける。
森を抜け、岩場の上を越え、幾つもの木々の間をすり抜けるようにして。
背後を気にして何度も振り返ったが、今のところ追手の気配はない。梯子落としと照明弾の一撃で混乱してくれたのだろう。
ようやく、敵を完全に振り切った──と、そう確信できた頃だった。
「……ところで、これはどこに向かってるんだ!?」
俺はバイクの後ろから叫んだ。あかりのすぐ背後、振動を体で受けながら、声を張る。
咆哮のような駆動音が周囲をかき消していく中、あかりが焦ったように怒鳴り返してきた。
「え!? ちょっと待って今集中してるから!!」
その声には、いつもの余裕はなかった。
「バイクなんて運転するの一年以上ぶり、だし! しかもこれ舗装されてないし!! 二人乗りとかしたことないし!!!」
「おい……大丈夫なのか……」
この速度で転倒でもしてみろ。鎧と兜で耐えられるのか? しかもあかりは兜しか装備していない。
言いながら、俺は無意識にあかりの腰にしっかりと腕を回す。前方であかりが軽く息を呑んだのが分かる。
「揺れるからしっかり掴まってろって、言ったでしょ!」
「そこまで言ってない!」
「言ってたような気がする!」
この緊迫感の中で何を言っているんだ、と自分で思いつつも、少しだけ張り詰めた心がほぐれるのを感じた。
だが、気を抜いていい時間は長くない。
俺はすぐに表情を引き締め、あかりの肩越しに前方の地形を睨んだ。
「索敵は俺がしよう。あかり、ドローン出せるか?」
片手を伸ばし、受け取る体勢を取る。
だが、前方を凝視していたあかりがわめくように返す。
「え!? いまそれ渡す!? あんまむつかしいこといわないで!」
「……すまん」
「ちょっと待って、アイテムボックス……あーもうっ、あと三十秒待って! まっすぐな道に出たら止まるから! そしたら落ち着いてドローン出す!」
どうにか会話が成立し、黙って頷いた。
車体は小さく跳ねながら、藪を抜ける。視界の先に、やや平坦な道が見えてきた。空には夜の名残がうっすらと残り、周囲の木々が風に揺れていた。
二人の逃走劇は、まだ静かには終わらない。




