12 備えあれば憂いなし
グロスマールの門をくぐる。
森への侵入騒ぎがあった日から二日後の今日、私は納品に来ていた。
レオナルドは仕方がないことと理解を示しつつ、渋い顔をしていた。あんなことがあったばかりなので無理もない。
とりあえず催涙スプレー、バトン型スタンガン、防刃シャツなどの非殺傷性防犯グッズを見せると後一押し、というところだったので、電動アシスト付きマウンテンバイクといういざという時の足を紹介したらなんとかGOサインが出た。
道中はとくに問題もなく、他の旅人とすれ違うこともなかった。
街の門前ではいつも通り兵士が二人詰めている。私も今まで通り、商業ギルド発行の身分証を提示し「納品で来ました」と告げると、彼らは手慣れた様子で荷物を軽く確認し、「気をつけてな」と送り出してくれた。
グロスマールの街も、いつも通りだ。
活気ある市場、賑わう通り、行き交う荷馬車や旅人たちの姿。日常は何事もなかったかのように続いていた。
街路には人が多く、商人たちの声が高らかに響き、ギルド前の通りには荷馬車が列を成していた。収穫期が近いからかもしれない。人の気配が満ちている。
私は木箱を積んだキャリーを引いて商業ギルドの扉をくぐった。グロスマール支部の商業ギルドにはもう何度も足を運んでいるが、やっぱりこの空気は少し背筋が伸びる。
見慣れた受付嬢が私に気づいて笑みを浮かべ、奥へと案内してくれた。
「セルディさん、すぐに応接室に参りますとのことです」
「ありがとうございます」
応接室に通されると、懐かしい温かな香りが鼻をかすめた。テーブルの上には、既に人数分の茶器が用意されている。
私は慣れた手付きでキャリーから木箱を降ろし、蓋を開けて納品書と一緒に中身を確認した。初めて持ち込んだ時と同じリンスインシャンプーが30、有名なメーカーのちょっとお高めのシャンプーと、同一ラインのリンスがそれぞれ30の計90。
やがて、ノックの音とともに、セルディが入室してきた。
「いらっしゃいませ。お変わりありませんか?」
いつも通り、きちんと整えられた笑顔。しかしその瞳の奥にある観察の色に、私は少しだけ口元を引き結ぶ。
「ええ、おかげさまで。瓶の検品と契約書の確認をお願いします」
「かしこまりました」
セルディは静かに席に着き、瓶のひとつを手に取って光にかざす。瓶の気泡、栓の密閉具合、内容物の色──手際よく確認を進めていく。
私はその様子を見ながら、何か言うべきかを迷っていた。詳しく話すつもりはない。森のことは言えない。でも、先日の彼らの目的が私の方だった場合、納品にどこまで影響が出るかわからないことを思うと、伝えておくべきだ。
私は視線を落とし、テーブルに置かれた契約控えを指先でなぞりながら、ぽつりと漏らした。
「……実は、少し、移動中にトラブルがあって」
言った瞬間、セルディの手が止まった。
彼女は顔を上げ、真っ直ぐにこちらを見た。
「怪我などは?」
「いえ、大丈夫。物理的には無傷です」
「そうですか……。そのトラブルというのは?」
私は目を伏せた。
「詳細は控えます。でも、可能性として、何者かに行動を追われたか、拠点の近くに入り込まれたかもしれません」
空気が変わった。セルディは一瞬だけ黙り、それから静かに頷いた。
「……承知しました」
そう言った彼女の声音は、少しだけ低く、しかし鋭さを帯びていた。たぶん、あれは“仕事の顔”だ。
「その話……ギルドとして、調査をさせていただけますか?」
「商業ギルドが、ですか?」
「ええ。あくまで周辺の安全確認という形になりますが。過去にも、街道から外れた商人や錬金術師の研究小屋が襲われた事例がありました。もし、似たような事件が再発しているのであれば、早急に手を打つ必要があります。納品者が安全に活動できないような状況を放置するのは、ギルドとしても看過できません。直接的な干渉は難しいかもしれませんが、何かあれば、こちらからも相応の働きかけを行います」
きっぱりとした口調だった。セルディの声は淡々としているのに、芯に凛とした気配がある。その言葉の重みと責任感に、私は軽く息を吐いて微笑んだ。
「ありがとうございます。お願いします」
「もちろんです。ご不安がある場合は私どもに共有していただければ。例えば、護衛の手配や、見張りの派遣など。公的な契約にはなりませんが、民間同士の連携という体裁で動くことはできます」
「そんなことまでできるんですか?」
「商業ギルドの利益に貢献している商人が危機に瀕しているとなれば、それはギルドとしても無視できません。あなたが持ち込んだ商品は、すでにご夫人、ご令嬢方にとってなくてはならない存在なのです。あらゆる意味で、無事でいていただく必要があります」
「あぁ〜……」
静かに──だが断固として告げたセルディの切実な響きに苦笑した。初めて持ち込んだサンプルを使用した子爵令嬢や、彼女の縁で伝わった美容に目がない公爵令嬢といった熱烈なファンの存在は認知している。
既に液体系の洗髪剤が開発されて市場に出回り始めているが、私が持ち込んでいる日本製のクオリティにはまだ届いていない。供給が途切れたとなれば、彼女らは荒れることだろう。
私は思わず少しだけ、肩の力を抜いた。
「ありがとうございます。とりあえず今は様子見の予定ですが、何か変化があったら伝えます。次の納品、いつもより早めに来ようと思ってるんですが」
「えぇ、次回の納品の際にご報告ができるよう、手を尽くしましょう」
セルディは軽く頷き、検品済みの瓶を箱へ戻した。
そうして、淡々と、けれど信頼に裏打ちされた納品手続きが進んでいき、契約書を閉じて立ち上がる。
「じゃあ、今回はこのへんで。商品、よろしくお願いします」
「はい。次の納品もお待ちしております。──どうか、お気をつけて」
その言葉の奥にあるものを、私はちゃんと感じ取った。
商業ギルドを出た私は店舗が並ぶ街道をうろついていた。
森の拠点にいるあいだは食料も日用品も通販スキル頼りだったけれど、時々こうして外の“異世界ならではの品”もチェックしておかないとバランスが悪い。あと、街の物価も把握しておきたいし、情報収集も大事だ。
今日の目的は──ポーションの購入。
セルディとのやり取りのあと、やっぱり備えは必要だと改めて思った。通販で日本の薬は買えるし、実際レオナルドに対して使ったわけだけれど、応急処置用の道具も持っている。
だが、回復ポーションというのは、この世界の医療文化の中核を担うアイテムらしい。レオナルド本人に至っては軽い回復魔法なんかも使えるらしく、そっちの方が即効性があり、医術的知識や技術がなくとも明確な効果が得られるのなら使わない手はない。
グロスマールの街のポーション屋は、市場通りの中ほど、薬草の香りがふわりと漂うこぢんまりとした店舗だった。
木製の看板には《癒しの滴亭》と書かれている。店先には小さな木箱がいくつも積まれていて、色とりどりの薬草が並んでいた。中には明らかに干からびたセロリみたいなやつも混じってるけど……きっと薬草なんだろう。
店の中はほのかに薬草のような香りが満ちていた。濃すぎない香りが鼻孔をくすぐり、どこか懐かしく落ち着く。調合済みの薬液や乾燥した草束が、棚に整然と並べられている。
「いらっしゃいませ」
カウンターの前に座った、白髪まじりの老薬師が迎えた。雰囲気は薬屋のじいちゃんという感じ。清潔な白衣を着ていて、印象は悪くない。
私は入り口近くの棚に歩み寄り、ずらりと並ぶ瓶に目をやった。
棚のひとつひとつに、違う形のガラス瓶が陳列されていた。細長い試験管のようなものから、丸っこい香水瓶のようなものまで。口元にはコルク栓が丁寧に差し込まれており、時折、その周囲に布やリボンで封がしてあるものもある。
液体の色もさまざまだ。
私は青空のような色とレモン色のグラデーションが美しい液体が詰まった、いちばん小さな瓶を手に取ってみた。
冷たいガラス越しに、中の液体が静かに揺れる。濃い青色の底にはわずかに沈殿物のようなものが溜まっていた。光をかざすと、その中に細かい粒子がきらめいた。まるで粉砂糖のようにも、微細な金粉のようにも見える。
(きれい……というか、ほんとに魔法の薬って感じ)
現代日本の薬局では見ないビジュアルだ。こんなの口に入れていいものなのかと気後れする気持ちもある。効果があると知識としては分かっていても、目の当たりにするとやっぱり不思議だ。
ポーションを売っている店には、何度か来た事がある。だがその度に、購入すべきか頭を悩ませ、結局そのまま店を出ていた。
──だってポーションって、高価い上に消費期限が短いんだもん……。
それなりの効果が見込めるポーションは、大体二週間程度しか保たない。値段は銀貨数枚。
私が街まで出てくるのは月一なので、微妙に手が出しづらい。森に引きこもっている間に何事もなければ毎月銀貨数枚を無駄にしていることになる。まぁ保険と思えばいいのだろうが、それにしたって消費期限がネックだ。
軽い熱冷ましやちょっとした切り傷用の軟膏なんかはもっと安価で期限も長いが、それくらいなら通販で日本の薬を買えばいい。
しかもポーションはこの世界産の物なのでアイテムボックスに入れられない。いざという時に活用するならきちんと持ち歩く必要がある。
そんな理由で今まで手が出なかったわけだが、今は"何事か"が起きる可能性がある。
レオナルドが森で倒れていた時にポーションがあれば、もう少し傷の治りも早かっただろう。
そう思えば今回はきちんと備えておいた方がいい。レオナルドはポーションの扱いも慣れているだろうから、管理は彼に丸投げしてしまえばいいし。
というわけで私は、解毒と治癒、体力回復系のそこそこお高めのポーションを数本購入した。
店を出た時、ふと、通りの向こうで冒険者らしき若者が別の薬屋に入っていくのが見えた。剣を背負って、動きやすそうな軽装。きっと、ああいう人たちは常にポーションを数本持ち歩いてるんだろうな。
私みたいな“通販スキルの人”がこうやって生きていけるのは、静かな森とアイテムボックス、そしてちょっとした便利グッズの積み重ねのおかげ。
でも、いつ何があるかわからない世界だからこそ。
備えと勉強は、怠らないようにしておこう。




