05.紅
数日前、
「この次は、ちゃんと誘いに乗ってね」
とは言ったものの、あやめは今度もダメだろうという気持ちで、扇屋へ向かっていた。その道すがら、フラフラと茶屋へ寄った。
「桜ちゃん、お茶とお団子」
「はーい。毎度〜」
あやめは、たまに楽座を見かける緋毛氈を敷いた椅子に腰掛けた。
そこへ、通りの右側から楚々と歩いて来る女がいた。派手な着物姿で妖艶な笑みをたたえる、紅である。
「おや、お茶の時間には早いんじゃないのかい?」
楽座の扇子を広げて軽く口元に当て、小首をかしげる様子は、同性から見ても艶かしい。
あやめは蘇芳の言葉を思い出し、嫌な気分になってそっぽを向いた。
「私の勝手よ。それより姉さんこそ珍しいじゃない。朝から出歩いてるなんて」
「ああ、まあね。忘れ物を届けに行く途中なんだよ」
「誰に?」
「楽座」
あやめはピクリと肩を揺らした。
「なんで姉さんが?」
「あたいの部屋に置き忘れたからだよ。ほかにあるのかい?」
あやめは心持ち青ざめた。
「……楽さんが? なんで?」
「聞きたいのかい?」
身体をしならせながら言う紅は、やや挑発的だった。人の心を見透かすような眼差しに、あやめはカッとなった。
「楽さん、姉さんを買えるようなお金、持ってないと思うけど」
すると紅はおかしそうに「ふふふ」と笑った。
「楽座からは取らないんだよ。おあいにく様」
あやめは身を震わせ、目をそらした。
狭い世間だ。あやめが楽座を好いていることは、ほとんどの者が知っている。紅の耳にも当然届いていることだろう。それを承知でわざわざ声をかけて来たのだと思うと、怒りがこみ上げてきた。
「楽さんのこと、そんなに自慢したい?」
「ああ、したいね」
紅は答えると、パチンと扇子を閉じて、その先であやめの顎をすくい上げた。
「楽座はあたいのものだよ。よく覚えておいで」
二人の会話をこっそり聞いていた茶屋の桜は、午後から店を抜けて扇屋へ行った。
「紅の姉さんとデキてるって噂、本当だったのね」
楽座は驚いて目を丸めた。
「そんな噂立ってたのか」
「立ってるわよ! 本気なの!?」
楽座は困ったように頭をかいた。
「そりゃあ、所帯持ちたいとは思ってるぜ?」
「わあ意外! その話、どこまで進んでるの?」
「一歩も進んじゃいねえよ。俺の独りよがりだ」
「嘘でしょ?」
「なんで」
「紅の姉さん、ずいぶんご執心みたいよ?」
「……へえ、そうか?」
「そうよ。あやめちゃんを威圧してたもの」
「紅が? まさか」
「なんでよ。あーあ、あやめちゃん、可哀想だったなあ。あんなに嫌味ったらしく自分のものだなんて、正面切って言わなくたっていいじゃない? 自信ないのかしら」
楽座は作業中の手を止め、バンと台を叩いた。
「紅を悪く言わねえでくれ」
「かばっちゃうんだ」
「わりぃか」
「べーつーにぃー。いいんじゃない?」
「ちぇっ。つまらねえこと言いに来てる暇があったら、店番してろ」
「つまらないことなの?」
楽座は一瞬、固まった。確かに、まんざらでもない話だ。なにしろあの紅が、自分に他の女が付くことを嫌ったのである。
楽座は、また頭をクシャクシャとかいた。
「すまねえ。俺が間違ってた」
「やーね、嬉しそうな顔! 嫌になっちゃう」
「なんでオメエが?」
「あんもう! このあいだお付き合い申し込んだこと忘れちゃったの!?」
「わっ、すまねえ、忘れてた」
「あーあ、いいわよもう。お店に戻るわ」
「おう」
「あ、私が告げ口したなんて言わないでね」
「お、おう」
「じゃあね」
***
その頃、紅はイチョウ屋の長兵衛の屋敷にいた。紅はまとまった金を長兵衛の前へ差し出した。
「今月分」
長兵衛は会釈して受け取った。
「確かに。それにしてもおまえさん、よくやるね」
紅は口元をゆがめた。
「そりゃあこっちの台詞さ。まったく、ふっかけてんじゃないだろうね?」
「そんなことはしないよ。おまえさんが本気だっていうのは分かってるしね」
「そういうアンタはどうなのさ。このあいだも立て替えたっていうじゃないか」
「まあ、そうだけどね。でもこうして銭を納めりゃ、結局おまえさんが楽座に貢いでるようなもんじゃないか」
「冗談じゃないよ。その金はあたいの夢のために使っておくれ。楽座はあんたが甘やかせとけば充分さ」
「はいはい」
軽くあしらおうとする長兵衛を眺めて、紅は不敵な笑みを浮かべた。
「本当はね、あんたの弱みにつけこんだっていいんだよ?」
長兵衛はチラリと紅を見た。
「なんのことだい?」
「ふん。とぼけるんじゃないよ。知ってるんだよ? あんたが裏の商いやりだしたのは、お静さんが逝ってからだ。惚れてたんだろ」
「だったらどうだって言うんだい」
「その形見をあんたが持ってるなんて、おかしいじゃないか」
長兵衛は膝の上で拳を握り、ぐっと押し黙った。
紅は笑みを消した。
「安心しなよ。あたいは言わない。何があっても言わないよ。このことは墓場まで持ってくって決めたんだ」
長兵衛は紅を見つめた。そして今の言葉に偽りがないことを探った。
「そうしておくれ」
返事はため息とともにもれ、紅は目を伏せた。
庭に出ると、青いイチョウの葉が舞っている。秋には黄色く色づき、あたりを華やかに彩るだろう。その一枚を指でつまんで、クルクルと回す。
扇を広げたような形のイチョウの葉。紅は楽座を想って深い息を吐いた。
「なんの因果かねえ」
国の端に佇んでいた小さな背中。それはいつのまにか大きくなった。
小さな背中を見つめていた少女の瞳。それはいつのまにか女になった。
楽座が室通りの右蔵を一発で伸したと聞いた時、紅は国の端に立つ背中を思い出した。この身を捧げられる男は他にいないと確信した。
「あたいの最初の客になっとくれ」
夕日を受ける楽座の顔が男の顔になった時、紅は死んでもいいと思った。
楽座はあたいに惚れてる。
それが分かっただけで、幸せだったのだ。
でも今は足りない。楽座の心だけでなく、その身も魂も欲しかった。
紅はイチョウの葉をつまんだまま、長兵衛の屋敷を出た。
「待っておいで、楽座。あたいはあんたの全てになるよ」
次の週の夜。
楽座はいつものように現れた。そして紅を抱くと、夜明けと共に去っていった。
紅は、口づけの痕が残る首筋を着物の襟で覆い隠し、窓に寄って、朝霧の中に消えていく楽座の背を見送った。
「国の端へ行くんだろ?」
別れ際に問うと、楽座ははにかみながら答えた。
「ああ」
「あの谷、いつか越えられるといいねえ」
「言うなよ。そろそろ無理だってこたあ、分かってきたんだからよ」
「ふふふ。それでも諦め切れないんだろ?」
楽座は少しうつむき、小さくうなずく。こんな時、紅はたまらなく愛おしい気持ちに襲われる。
楽座をさらって誰も知らない場所へ行きたいと、真剣に思うのだ。だがそれは夢物語。現実には不可能な話である。
「谷の向こうへ行ったら、あたいのことなんか忘れちまうんだろうけどねえ?」
紅は、朝霧の中に消えてしまった楽座へ問いかけ、いつまでも名残惜しそうに見つめた。




