04.室通りの右蔵
「着物の裾がほころびてるよ。こっちへおいで。繕ったげる」
楽座がそんなふうに声をかけられたのは、八つの時だ。三十あちこちのその女は、母親のいない楽座を気にかけている様子だったが、少し離れたところから見ているだけで、声をかけたのは初めてだった。
「男所帯で不自由はないかい?」
着物の裾を繕いながら、女は問いかけた。楽座は首をかしげた。
「わかんねえ」
「あはは、そうだねえ……たとえばこうした繕い物とか、ご飯とか、そこいらの母親がしているようなことだよ」
「うーん、よくわかんねえ」
「そうかい。そうだろうね。だけど何かあったら言いにおいで。少しは助けになるかもしれない」
「ありがとう」
それからしばらくすると、女は寺子屋へおにぎりを持って来た。
「いつも芋ばかりじゃ飽きるだろ?」
楽座は手にあった芋と女が差し出したおりぎりを交互に見やった。
「米は食ってるぜ? でもおやじは、飯をにぎれねえんだ。どうやっても俵にも三角にもならねえって」
「あはは、しょうがないねえ。さあ、これをお食べ。おかかも入ってる」
「そんな、もらえねえよ」
「遠慮はなしだ」
「でも」
「じゃあこうしよう。その芋と交換。いいだろ?」
楽座はいっとき考え、交換してもらうことに決めた。手にしたおりぎりはまだ温かい。
楽座は遠慮なく、ほおばった。
「うめえ」
「あはは、そりゃ良かった。また作ってあげるよ」
優しく微笑む女の顔に、楽座は母親を重ねた。どんなだったか覚えてはいないが、生きていればこんなふうに笑ったに違いないと——
女は日頃、茶屋の店先に腰掛けて近所の子の世話をしている。楽座はついでだったというわけだが、理由はどうあれ有難い人だった。
繕い物に弁当に散髪、洗濯に爪切り、思いつく限りの面倒を見る。それはどの子に対しても満遍なく、具合が悪ければ看病もしてやり、躾にも余念がない。
「男の子でも身なりはきちんとしなよ。だらしないのは良くないよ。顔と手はいつも綺麗にしておきな」
そう言いながら世話焼く姿を、楽座は幼心にもよく感心して見ていた。
その日も、女は相変わらず茶屋の店先で子供をあやしていた。楽座は「見つけるのに苦労しない」と笑いながら声をかけた。
「葵さん」
女は目を丸めながら顔を上げた。
「驚いた。どこで名前を聞いたんだい?」
「親父が知ってたよ」
「あはは、そりゃそうだね。でも名前で呼ばれたのなんて久しぶりだよ」
「そう?」
「ああ。なんだか嬉しいもんだね」
「じゃあ、これからも名前で」
楽座は言い置いて、懐から扇子を取り出した。
「これ、親父が礼だって」
「まあ、いいのかい?」
「うん」
***
それから数年経ち、楽座がまともに扇子を作れるようになると、あまり世話にはならなくなった。が、まだ時折お互いを気にかけていたので、たまに家を訪ねることはあった。
ある日のこと。楽座が家を訪ねてみると、葵が風邪で寝込んでいた。
「何か欲しいものがあったら言いな」
「ああ、すまないね。でも今のところないよ」
楽座はひと通り、家の中を見回した。
「誰もいねえのか?」
「息子が一人いるんだけどねえ」
「どこにいるんだ? 呼んでくるぜ」
「いいよ」
「遠慮すんなって。たまにはそっちが世話んなれよ」
すると葵は「ふふふ」とおかしそうに笑った。
「なんだよ」
「一丁前になったねえ」
「ちぇっ」
まだ十五の自分が一丁前なわけがないと楽座は思いつつ、すねるふりをして照れを隠した。
「息子は室通りにいるよ。右蔵ってんだ。知らないかい? あんたの一個上だよ」
「知らねえなあ。室通りにゃ、めったに行かねえんだ。でも探してみるぜ」
右蔵は、室通りに行けば有名で、所在を聞けばすぐに分かった。
「あいつに会いに行くのかい? よせよせ。なんの用か知らねえが、坊主みてえなのは連中のいい憂さ晴らしだ。殺されちまうぜ?」
道で尋ねた中年男はそう言って注意した。楽座は眉をひそめた。
「そんなに悪いのか?」
「悪いなんてもんじゃねえ。ありゃ将来ろくな大人にゃならねえな」
あの人の息子が? と、楽座は驚きを隠せなかった。だが母親が病の床に臥せっていると聞けば飛んで帰るに違いないと思い、教えてもらった場所へ行った。
右蔵は人相の悪い数人の仲間らしい連中と、煙管を回しながら吸っていた。確か自分の一個上だと聞いていただけに、楽座は唖然とした。
「あんたが右蔵か」
右蔵は片眉を大げさに歪めて楽座を睨んだ。
「あん? なんだテメエは」
「扇屋楽座だ。あんたのお袋さんが風邪引いて寝込んでる。戻って看病してやれよ」
右蔵は少しだけ間を置き、急に大声で笑った。
「正気か小僧! 親の看病しろだと? 誰がそんな一銭にもならねえことするんだよ。知らせるんならなあ、くたばった時だけにしろ。葬式上げりゃ金が集まるからなあ」
楽座は目を丸め、次に険しい顔をして拳を握った。そして近くにあった小さめの木箱を蹴り上げた。
相手が気を取られた隙に飛び上がり、体重を腕にかけ、右蔵の頬を全力で殴り飛ばす。一連の動作は電光石火のごとく一瞬の出来事であった。
右蔵は大きく後方へ飛んで道端に転げた。右蔵の仲間は呆気に取られ、右蔵自身も何が起きたか分からないといった顔で呆然としつつ身を起こした。見上げると楽座が前に立ちはだかっている。
「もう一発食らいたくなかったら、とっとと戻れ!」
全身から放たれる怒気に怖気づいた右蔵は、黙って言葉に従った。
しかし、それから右蔵は事あるごとに楽座に絡むようになり、二人の喧嘩は日常茶飯事となった。
「いつかテメエに勝つ!」
「ほざけ!」
怒鳴りあってはあちらこちらで物を壊すので、周りはみな迷惑したが、右蔵の気が楽座との喧嘩に向いたおかげで、悪さはあまり目立たなくなった。
「まったく、いいんだか悪いんだか」
大人たちは言い合ったが、なんとなく良しとした。それくらい右蔵はマシになったのだ。
以前は、店に寄ってはいちゃもんをつけて銭を巻き上げ、目が合おうものなら殴りかかり、酒も煙草も道端でやりたい放題の上、窃盗も放火もやった。これまで死人が出なかったのは奇跡である。
そんな問題児に立ちはだかった壁は、異様に身軽で、見た目に反して腕っ節の強い、馬鹿がつくような正義漢だ。みな内心、期待した。これは本当の意味で奇跡が起きるのではないか、と。
以来、右蔵が悪さをすれば楽座が懲らしめる、というのは定番となり、右蔵も近頃では、楽座に喧嘩を売っていかにして勝つかということにしか興味がなくなった。それでも時にはカツアゲなどしてとっちめられるが、ひと頃に比べればカワイイものである。
ゆえに、御用聞きも目をつむった。「いつかやらかすだろう」とは思っているが、楽座がいるあいだは様子を見ようと結論をつけたのである。
いつだったか、御用聞きをも黙らせる楽座のことを不思議に思った右蔵は、伸されて仰向けになったまま、楽座に聞いた。
「テメエはなんだって、そんなに強えんだ」
すると楽座は答えた。
「毛色が違うからな。世間から妙なこと言われたり、いじめられたりしねえようにしろって、親父が言うからよ」
右蔵は口元を歪めて、「へっ」と笑った。
「……なるほどな」
それから三月たったある日、楽座は大きな銀色の張扇を肩に担いでやってきた。右蔵が目を丸めて冷や汗かいたのは言うまでもない。
「お、おい、なんだそりゃ」
「なんだってオメエ、俺は扇屋だ。指先が大事だろ? テエメを殴るのはいいが、手が使い物にならなくなったら困るからよ」
「で?」
「代わりに、こいつで殴ろうかと思って」
右蔵は真っ青になった。
「よ、よよよ、よせ! そんなので殴られたらひとたまりもねえだろうがよ!」
「んーなの、殴ってみなけりゃ分からねえだろ」
「分かる!」
「じゃあもう悪さするんじゃねえよ」
「それとこれとは話が別でい!」
「別じゃねえ!」
楽座が張扇を振りかぶると、右蔵は悲鳴を上げて逃げた。
「あ、待ちやがれ!」
「誰が待つか!」
「せっかく懲らしめに来たんだ。試しに一発殴らせろ!」
「冗談じゃねえ!」
***
あれから十年。右蔵は相変わらずだ。御用聞きもそろそろ痺れを切らせかけている。
楽座はどうしたものかと首をひねりつつ、茶屋の店先に腰掛けた。かつて、ここへ腰掛けて子供をあやしていた女はもういない。昨年、病でこの世を去ったのだ。
その日。楽座が花をたむけていると、右蔵がフラリとやってきて、墓石をじっと眺めた。
「手ぶらか」
楽座が問うと、右蔵は表情も変えずボソリと呟いた。
「俺はよ、窮屈で仕方なかった。この女がよそんちのガキを躾けるだろ? するってえと、息子の俺はそのガキよりしゃんとしてなきゃならねえか?」
楽座は右蔵から目をそらし、墓石に目をやった。
「まあ、分からねえでもねえ。けどよ、人にゃあやっていいことと悪いことがある。お前は抑圧のはけ口を間違ってんだ。それに——普通で良かったんじゃねえかな。よそのガキと張り合うことなんかねえ。お袋さんもきっと、そう思ってたはずだぜ」
「けっ、説教かよ。だがなあ、楽座。もう遅え。いまさら人生やり直せねえよ」
「そりゃあ、テメエが勝手に思い込んでるだけだ」
「いいや、もうやり直せねえよ。そもそも俺は根っからのワルだ。親のことはキッカケにすぎねえ」
「そんな奴いるのか?」
「へっ。お天道様に顔向けてまっすぐ立ってるオメエにゃ分からねえよ」
右蔵は言って、踵を返した。
「じゃあな、楽座。今度また喧嘩の相手えしろや」
楽座はため息ついて、空を見上げた。いつまでも喧嘩をしているわけにいかないことは分かっている。だが危うい道を突き進む右蔵を止めるすべは他にない、と。
葵が息を引き取る瞬間、楽座は唇が動くのを見た。それは確かに「右蔵」と呼んだ。結局、葵が最期の最期まで気にかけていたのは、どの家の子供でもなく、右蔵だったのだ。
楽座が物思いにふけっていると、ふいに後ろから声がかかった。
「あら、楽さん。いらっしゃい。ごめんなさいね、気づかなくて」
茶屋の看板娘、桜だ。今しがた店の奥から出てきたようである。
楽座は軽く返り見て、顔の前で手を振った。
「いや、いいんだ。客じゃねえから」
「なによ、つれないわねえ。お茶ぐらい飲んでいきなさいよ」
「じゃあ一杯」
「はい、毎度〜」
桜はいそいそと茶を運び、楽座の横に置くと、ついでという感じで顔をじっと見た。
「なにか考え事?」
「ああ。親子っつっても、なかなか上手くいかねえもんだなあって思ってよ」
「やだ、上手くいってないの?」
「俺じゃねえよ」
「ああそう。なあに? 相変わらず人のことで悩んでんの?」
「まあな」
「お人よしねえ。ま、そこが楽さんのいいとこなんだけど」
「ちぇっ。俺だって悩みたくて悩んでんじゃねえ」
「そうそう。性分なんでしょ? だからいいのよ」
「あ?」
「おとっつぁんがね、楽さんとなら付き合ってもいいって言うのよ。どう?」
「はあ!?」
「なに驚いてんのよ。ねえ、ダメ?」
「駄目に決まってんだろ」
「え〜、うそぉ〜、なんでぇ〜?」
「なんでもくそもねえ」
楽座は茶を一気に飲み干すと、勘定を置いて立ち上がった。
「俺みたいな半人前と一緒になったら苦労するぜ? 馬鹿なこと言ってねえで、もっとマシな相手え探しな」
背を向ける刹那、桜の頬が不満げに膨れたのを目にした楽座は、決して振り返るまいと心に誓い、全速力で歩いて立ち去った。
「ったく、いくらなんでも、これ以上の面倒はゴメンだぜ」




