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03.人情

 日が暮れてしまうと、楽座は紅を訪ねて遊郭へ行った。楽座が通うのは七日ごとと決まっているので、紅は他の客を取らない。

 部屋へ入ると、窓辺にいた紅は顔半分を隠していた扇子を外し、微笑んだ。

「いらっしゃい」

 楽座は皮肉げに口の端を上げた。

「よせよ」

「ふふふ」

 紅は悪戯に笑い、扇子をたたんで胸元の合わせにさした。楽座はそばに寄るとその扇子を取り上げ、部屋の隅へ放った。

「あん、気に入ってるのに。傷んじまうよ」

「そんなヤワにはできてねえよ」

「だろうけど」

 言いかかる紅を止めるように、楽座は背中から抱きしめた。

「おまえ、いつまでこの商売やるんだ?」

「前にも話したと思うんだけどねえ」

「金は充分に貯まっただろう?」

「あたいの夢はとっても金がかかるのさ。これくらいの稼ぎじゃ、全然追いつきゃしない」

「だったら俺も稼ぐ。真面目になるぜ」

「それは断ったろ?」

「なんでだ」

「これはあたいの夢。だから自分の力で叶えたいのさ。人のことより、あんたはどうなんだい? 建屋のところへ行ったそうじゃないか」

 楽座は苦笑いした。行動が筒抜けなのは昔からなのでどうでもいいが、自分の夢の話となると、なんともこそばゆいのだ。

「俺のガキっぽい夢なんざ、どうでもいいじゃねえか」

「立派な夢さ。ここにいる連中が誰も見なかった、いい夢だよ」

「へっ。そんなこと言ってくれるのは、おまえだけだ」

 楽座は紅をより強く抱きしめ、うなじに口づけた。

「ついでに俺だけのものになってくれるといいのによ」

「あんたからは金を取らないんだから、贅沢言うんじゃないよ」

「……ちぇっ」


***


 楽座が十六の時、十八になったばかりの紅が、急に楽座を呼び出して言った。

「あたい、遊郭で働くことにした」

 楽座は目を丸めた。紅は夕日を背にするように振り返った。花柄の白い振袖が柿色に染まるのを、楽座は眩しそうに見やった。

「なんで?」

「お金になるから。芸も習い事も、たくさん教えてもらえるしね」

「何やるか、わかってんのか?」

「わかってるさ。でも姐さんに、花魁になれるって言われたからね。ヘタな客は相手にしなくていいんだよ。金持ちの家に呼ばれてちょいと踊っていれば金になるんだ」

「金がいるのか?」

「ああ。あたい、夢を叶えたいんだ。でも半端な額じゃ足りなくってね」

「店でも持とうってのか? それなら俺が加勢する。今は半人前だけどよ、すぐに稼げるようになるぜ」

 すると紅はおかしそうに笑った。

「無心しようってんじゃないんだよ? そんなことならアンタじゃなくて、もっと金持ってそうな奴に相談するさ」

「じゃあなんで」

「ひとつだけ、頼みがあるんだよ」

「なんだよ」

「最初の客になっとくれ」

 楽座は唖然としたあと、唾を飲み込んだ。

「え? 俺が?」

「そうさ。初めての相手は好きな人と……そんなの常識だろ?」


***


 以来、ずるずると関係を続けている楽座は、ふとそんな過去を思い出して、胸がつかえた。

 紅は昔から美人だった。子供の頃から妙に色っぽく、男どもはみな一度ならず夢中になった。楽座もご多分にもれず憧れた。初恋も紅と言い切っていいだろう。それが思いがけぬ誘いで成就したようにみえたが、紅は決して夢の正体を語らず、楽座のものにもならなかった。


 翌朝、楽座は遊郭を出た。朝霧が立ち込める深閑とした時刻に、さまようふりをして町の通りを歩く。しかし勝手知ったる庭のような町の中。本気でさまよえるわけはなく、楽座の心は満たされなかった。そこで思いを馳せるのは、谷の向こうにあるという国のことである。

 だが建屋に聞けば、谷の底までは四里から五里だと言う。それほど途方もない場所へ舟を下ろし、縄梯子をこしらえてひたすら下りて行くのは困難だ。途中で強風にでも煽られれば、お陀仏である。やってのけた建屋の大叔父というのは、よほど運が良かったのだろう。

 楽座は深いため息をつき、頭髪をかき乱すと、道の真ん中であぐらをかいた。

「ちくしょう!」

 辺りはいつのまにか霧が晴れていて、空が色づき始めている。いつもと変わらぬ朝がやってくるのだ。紅の夢を叶えてやる甲斐性はない。己の夢にも手が届かない。そんな毎日が……

 楽座は苛立ちの中でなすすべもなく、朝焼けに照らされた黄土の道を見つめた。

 もし己の突き進むべき道がこれほど鮮明に映るなら、この世に迷いはないだろう。しかし何も示されないのは、道なき道を行くのが人の定めだからなのか。あるいは、もともと突き進むべき道などないからだろうか、と。


 すっかり陽がのぼってしまうと、方々の店が開き、人の気配が動き出す。楽座はその前に店の勝手口から中へ入り、二階へ駆け上がるつもりだった。が、不意に呼び止められた。

「楽さん!」

 高い声に振り向くと、織物屋のあやめが立っていた。

「なんだ?」

「この時間にはいつもいるって、扇屋の旦那が言ってたから」

「ああ……で?」

 あやめはモジモジしながら楽座をチラチラ見て答えた。

「えっと、今度、新しいお芝居が始まるって言うから、お誘いに来たの。行かない?」

 楽座は眉をしかめた。

「ほかを当たんな」

「なんで? 私は楽さんと行きたいのよ?」

「嫁入り前の箱入り娘と歩いたりすりゃ、世間になに言われるか。俺の素行は、いいとは言えねえからな」

「だったら、楽さんがもらってくれたらいいのよ」

「バカ言うな。俺はダメだ」

「どうして?」

「どうしてって……半人前だからなあ。自分が食うので精一杯だ。養いどころじゃねえよ」

「そんなことないわ! 楽さんの作る扇子は国で一番だもの」

「だからって、猫も杓子も扇子が入り用ってわけじゃねえ。それに大事にすりゃ一生使えるもん作ってるつもりだ。利益なんかあるかよ」

「そういうところがいいんじゃない。分かってないわね」

「はあ?」

「もういいわ。でもこの次は、ちゃんと誘いに乗ってね」

 それじゃあ、とあやめは軽く手を振って去った。楽座は、

「なんだありゃあ」

 と頭をかきつつ、勝手口から店へ入り、二階にある自室へと駆け上がって行った。


 いつもの起床時間より遅い九時頃。目を覚ました楽座は珍しく作業場へ下りて、扇子の中骨を作る作業に取りかかった。中骨や親骨はたいてい竹で作るが、本日は建屋からもらった端材を利用する。

 そこへ、品出ししようと通りかかった父親が見て、声をかけた。

「今日は作るのか」

「ああ。長兵衛んとこに納めるやつ」

 父親は溜め息ついた。先日の肩代わりの詫びだろうと察しがついたからだ。

「しっかりやれよ」

「おう」

 そうして作業場に腰を据え、小一時間ほど集中していると、今度は売り場を通り抜け、奥の作業場を覗いた客人が声をかけた。

「楽さん」

 若い男の声に顔を上げると、そこに蘇芳の顔があった。染料屋の跡取りで、楽座より一個上の青年である。

 楽座は誰かを確認すると、すぐに手元へ目を戻した。

「染料なら足りてるぜ?」

「違うよ。そんな話をしに来たんじゃない」

「じゃ、なんだ?」

「あやめちゃんのことなんだけど」

「ああ」

「気がないなら、キッパリ断ってくれないかな」

「なんのことだ?」

「知ってるよ。誘いに来ただろ? 彼女」

「ああ。でもちゃんと断ったぜ?」

「振られたとは思ってないみたいだ」

「別にそんなつもりで誘ったんじゃねえだろ?」

 黙々と扇子を組み立てながら答える楽座の呑気さに蘇芳は眉を吊り上げ、自分の腿をパンと叩いてしゃがみ込んだ。

「あやめちゃんは誰の目から見ても楽さんに惚れてるよ!」

 これにはさすがに楽座も手を止めた。

「そうだとしても、ハシカにかかったようなもんだろう」

「あやめちゃんは、もう大人だ」

「じゃあ、おめえがさっさと貰っちまえ」

「そんな簡単じゃないよ」

「あのなあ、てめえの意気地がねえのを俺に文句言われても困るぜ」

「そうは言うけどね、やっぱりそんな簡単じゃないよ。楽さんはモテるから分からないんだ」

 楽座はしかめ面した。

「モテた記憶はないぜ」

「気づいてないだけさ。それが証拠に、振られたことなんてないだろ?」

「アホか。振られっぱなしで参ってるぜ」

「嘘だ!」

「嘘じゃねえ」

「じゃあどんなふうに振られたんだい。頬を引っぱたかれたかい? それとも冷たくあしらわれた? 他に好きな奴がいるとか言われたのかい」

 矢継ぎ早に問われた楽座は、やや戸惑いながら腕組みして唸った。

「うーん、叩かれたことはねえな。扱いもいいほうだろう。他に好きな奴がいるとかは、聞いたことねえな。でも俺が半端者だから、所帯を持ってくれる気はなさそうだ」

 蘇芳は目をしばたたかせた。

「なんだいそれ」

「え? あ、いや、なんだと言われても、ぶっちゃけ身体だけの関係っつうか」

「はあ!?」

「俺は真剣なんだぜ? でも向こうがなあ」

「迫ってみたのかい? 楽さんが?」

「ん、まあなあ。けど、いつも袖にされちまう」

「でも、やってるんだろ?」

「そりゃあ……」

「それで、どうして振られたって思えるんだい」

「頼りにされてねえから」

 蘇芳は楽座の顔をまじまじと眺めたあと、

「呆れた!」

 と言って立ち上がった。

「そういうのは振られたって言わないんだよ」

「そ、そうか? でもほんとに頼りにしてくれねえんだぜ?」

「惚れた腫れたとそれは関係ないよ」

「だ、だけどよ」

「だけどもヘチマもあるもんか! まったく」

 蘇芳は肩を怒らせつつ、踵を返した。

「とにかく今度また何かあったら、ちゃんとケジメをつけてくれよ。それまでは、こっちがどんなに誘ったって無駄なんだからさ!」

 一方的に文句を言われ、責任を押し付けられた形で終わった問答に、楽座は唖然としたまま蘇芳の背を見送った。


***


「くそっ、なんだってんだ」

 向かいにあぐらをかいて突然吐き捨てた楽座を、長兵衛は訝しげに見やった。

「どうしたんだい」

「え? あ、いや、すまねえ」

「別にいいけどね。何かムシャクシャするようなことでもあったのかい?」

 長兵衛は言いながら、細い桐箱の蓋を開けた。中にあるのは、楽座がこしらえた扇子である。長兵衛は大事そうに取り出して、ゆっくりと広げて見た。するとその目はたちまち見開かれ、口からは溜め息がもれた。

「はあ……こりゃまた、たいしたもんだ」

 広げた扇子の中骨と親骨は透かし彫りされていて、明かりにむけると扇面に描かれた模様と重なり、ひとつの絵になるよう施されている。絵は藍色の地に白い枝が伸び、散り際の桜の花が浮かび上がっているというものだが、それだけではない。布が貼られていない部分の透かし彫りは完全に彫り貫くのではなく、鉋で削ったような薄い膜を残してある。

「よくもまあ、こんな細いことを」

「透かし彫りなんて、よくある技法じゃねえか」

「おまえさんのはひと味違うよ。それにこの要、虹色だねえ。なんだいこりゃ」

「建屋に貰った貝とかいうやつを使ってみたんだ。いいだろ」

「ああ、いいね」

 長兵衛は答えつつ、うっとりと見とれた。どうやら満足したらしい様子に楽座は胸をなで下ろした。

「いつもこんなもんばっかりで、すまねえな」

「なに言ってるんだい。上等だよ。肩代わりしてもお釣りがくる」

 長兵衛は世辞ではなく言った。光に透かして見る楽座の扇子はどれも、町で暴れて物を壊しまくっている人間が作ったとは思えないほど繊細で美しい。にもかかわらず丈夫で長持ちするのだから、ケチのつけようがないのだ。

「それじゃあこれ」

 長兵衛はおもむろに楽座の手を取り、何か握らせた。見ると三日は食いっぱぐれない程度の銭だ。

「おい、困るぜ」

「いいんだよ。小遣いと思って取っときな」

「でもこれじゃあ……」

「釣りだよ。気にしなさんな」

「あ、ああ」

 楽座は溜め息まじりにうなずいて、銭を袖に入れた。

 今更ではない。長兵衛は、顔を見せればなにかと理由をつけて小遣いをくれる。楽座にそのつもりはないが、三回に一回は断り切れずに貰ってしまうのだ。そしてそのたびに、御用聞きの林田のもとへ行く。

「これ、預かってくれ」

 楽座は袖の内にある銭をかき集めて渡した。

 御用聞きの林田は三十路男だ。楽座が暴れるたびに飛んで行って叱る、兄貴のようなお目付役である。

 林田は渋い顔をした。

「そろそろ自分で管理しちゃどうだ」

「無理だ。手元にあったら使っちまう」

「結構貯まったぜえ? 使い道はねえのかい」

「じゃあ、次の弁償金に回してくれ」

「また暴れるつもりか。そりゃ聞き捨てならねえぞ?」

「いや、しねえように努力する。けど右蔵の奴が絡んでくりゃ逃げるわけにもいかねえんだ。勘弁してくれよ」

「逃げるが勝ちって言葉ぁ知らねえのかい」

「俺が逃げちまったら、誰も右蔵と対等にやり合わねえじゃねえか」

 楽座の言い分に、林田は唸った。

「そりゃあな、奴とまともに向き合ってんのはオメエだけだ。構ってくれる相手がなくなったら、ますます暴れるかも知れねえ。でもその後は御用聞きの仕事でい」

「それでも頼む。このとおりだ」

 楽座は顔の前で手を合わせ、頭を下げた。林田は鼻頭を人差し指でかいて、眉をしかめた。右蔵があれ以上暴れて手がつけられなくなった時は、おそらく川流しにあう。楽座はそれを承知なのだと察して悩んだ。

 国に流れる川はすべて谷の底に落ちている。流されてしまえば命はない。とはいえ、右蔵の悪行ぶりは有名だ。あいだに誰か立たなければ、川流しは即日にでも施行される。

「あいだに立とうってのかい」

 林田は問うた。楽座は表情をこわばらせて、林田を見た。

「そりゃあ、あいつは今どうしようもねえ。でもよ、まだ川流しされるほどの悪さしてるわけじゃねえ」

「おめえが止めに入ってるからな」

 それがなければ、すべて未遂に終わらなかったと暗に告げる。林田の目は座っているように見えた。

「いや、分かるけどよ、でも」

「いつまでも奴を野放しにはできねえ」

「俺が綱ぁつける。ぜってえに悪ささせねえ」

 林田は溜め息ついて、肩を落とした。

 一番迷惑を被っているのは楽座のはずだが、それにもかかわらず庇おうと言うからには何か事情があるのに違いない。性格からして単純な情けだろうが——と。しかし、林田はあえて尋ねなかった。普段から正義漢で面倒見のいい楽座を信用しているからだ。

「しょうがねえなあ。もういっときだけ様子見てやらあ」

「すまねえ。恩に着る」

 喜んで踵を返し去って行く楽座の後ろ姿を見送った林田は、ふっと笑みを浮かべた。

「ほんっとにしょうがねえ」

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