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絶望高校帰宅部  作者: 南野海風
夏休みバイト編
99/202

098.夏休みバイト編 三日目  前編





 ここまで明確な世間の目というものに触れたのは、八十一町に引っ越してきて始めてではなかろうか。

 そう思ったきっかけは、店長の一言だ。


「一之瀬君は高校生だったね。どこの高校に通っているんだい?」


 昨日と同じく、包丁や鍋を振るうナイスミドル店長・遠野崇さんの隣で、ピューラー片手に野菜の皮をひたすら剥く僕。

 時刻は八時半。

 ちょうど仕事に入る時間には僕は作業を始めていて、まだ慌しさのないこの時はのんびり雑談することができた。


 「君は来るの早いね」の言葉に、僕は「時間的に、学校の登下校時間とほとんど一緒なので」と答えた。

 でも「三十分前行動が原則ですから」とは言わなかった。

 言ったら絶対呆れられるから。


 そう、よくよく考えると、僕の「7th(セブン)」入りと上がりの時間は、ほとんど学校に行っているのと変わらないのだ。むしろこっちの方が若干短い。


 そんな話の始点から、雑談は僕の学校のことへと飛んだ。


「あ、八十一やそいち高校です」


 と、僕は何気なく答え――店長が僕を見たのと同時に気付いた。


 ――あ、正直に言わない方がよかったかも。


「八十一高校と言うと、あの男子校かい?」

「僕は高校から八十一町に引っ越してきたのでよく知らないんですが、もしかしてバカで有名ですか?」


 僕は知り合いが少ない。特に、高校絡みじゃない知り合いなんて皆無だ。

 つまり、世間の目をよく知らない。

 世間があのバカとヘンタイに満ちている八十一高校をどう思っているかなんて、聞いたことがないのだ。


 でも、なぜだろう。

 なぜかそれを問うまでもなく、僕は相手の答えがすでにわかっている。

 だってそれは、僕が常々思っていることでもあるから。


「いや、その、なんだ…………ヤンチャな生徒が多いらしいね」


 さすが店長。さすが大人。この人は「バカ」という表現を回避した。それでこそ僕が憧れる中年男性である。


「いいですよ、バカで。実際ほんとにバカばっかりですから」


 入試の時に聞いた偏差値は、そう低くないとは思ったんだけど……うん、その、少子化の影響かもしれないなぁ。生徒が少ないよりは成績不十分でも取った方が、高校的には得だろうしなぁ……


「具体的にどれくらいだ?」


 と問うたのは、店長の向かいにいる瀬戸せと孝弘たかひろさん。店長と同じく厨房を務めている人で、二十四歳の社会人だ。まあ見た目は大学生くらいにしか見えないが。百八十近い長身にがっしりした肩幅は、料理人というより格闘家といった方が近いだろう。顎鬚を伸ばしたり眉にラインを入れたりと、やはり遊んでいる大学生みたいだ。

 昨日、僕が上がる頃に、更衣室で擦れ違ったのだ。その時に挨拶だけは済ませた。……見た目ごついし強面だからビビッたけどね。

 瀬戸さんは低く響く声で言う。


「俺も八十一高校はバカばかり、というのは聞いたことがある。八十一高校を出た知り合いもバカだ。それで八十一高校の話をすると誰もが必ずそう言う。実際どんなものなんだ?」


 ちなみに瀬戸さん、高校卒業して調理師学校から八十一町に引っ越してきた人らしく、こちらの中高の学生事情にはあまり詳しくないそうだ。


「語り出せばキリがないですね。……それに、率先して身内の恥を晒すのも嫌ですよ」


 察して欲しい。

 僕は決してバカ自慢などしたくないのだ、と。

 この話の流れがわかっていれば、まず素直に答えることはなかったのだ、と。

 あと自分で「身内」なんて言ってちょっと後悔もしているのだ、と。すっかりあの高校に染まっている自分を自覚して嫌気が差しているのだ、と。


 僕の口調や雰囲気から店長は察してくれたが、瀬戸さんはわかっているのかいないのか、面白話を期待して「いいからなんか話してみろ。面白かったらまかないで一品増やしてやるから」と笑いながら促す。――実は今日、店長はオフなのだ。僕と瀬戸さんが初対面だろうからってことで午前中は出てきたそうだが、朝の仕込みが終わったら店からいなくなる。


「そう言われてもなぁ……」


 僕の手元のボウルからは、野菜がほとんどなくなっている。つまり僕の厨房での手伝いはそろそろ終わりで、次は店内業務になる。

 長々話す時間はないよな……どうしよう。


「こらこら。後輩を困らせちゃいけないよ」


 さすが店長、援護射撃が入った。でも今逃れても後で捕まるのがオチである。

 大丈夫。

 手短なバカ話だって事欠かないさ。


 ただ、火力がちょっと……八十一高校の生徒バカと一般人との感覚の違いが若干よくわからないのが不安なのだが。

 まあいいさ。それを望むのなら、お望み通り話そうではないか。


「新島さーん」


 と、僕はレジ付近で料理などを載せるカウンターに布巾を掛けている小さい今時の女子高生・新島さんを呼んだ。

 彼女は「どしたー?」と顔を上げる。


「瀬戸さん」


 僕はオーバーアクション――かの嫌味ないい奴・A組の矢倉君の、嫉妬するくらいキマッている指差しでビシィィィィッ!!と新島さんを射抜いた。





「――僕が左のおっぱいを担当する! 瀬戸さんは右のおっぱいを頼む!」





 その場がシーンと静まった。

 ごーと空調の音だけが重苦しく厨房に渦巻く。

 穏やかなヒーリング系のBGMが乗り越えがたい空気に阻まれ遠く感じられる。


 みんな作業の手を止め、僕を見ていた。

 奥のお菓子用厨房で作業をしている十和田さんも、世界を憎むような殺気走った視線で僕を見ていた。……おう、今日も小動物くらい視線で殺せそうな目だ。


 この反応である。

 やっぱり一般火気と八十一高校特性火器では、威力が違うんだな、と思った。


 そして僕は最後の野菜の皮剥きを済ませると、唖然として僕を見ている瀬戸さんを見た。


「八十一高校では毎日こんな会話が飛び交ってますよ」


 そう、あの高校では、こんなもん日常会話に過ぎない。

 あそこで言ったら、唖然とするどころか「じゃあ俺は●パンのように華麗にあなたの心を奪っちゃうぜ!」とか「俺は双丘などいらん! だが双丘が作りたもうた深き風の谷を所望する!」とか「キスしてくんねーと俺イケメンに戻れねーんだけど! カエル(みたいな顔)のままなんだけど!」とか、それはもうそこに居もしない妄想の女子に我先にと駆け寄る……

 それこそ八十一クオリティである。


 ――実在さえしない女の子にさえ、悲しくなるほど必死だぜ?

 それが僕の知る彼らだ。


 ――そして、すでに彼らの中の一人が僕だという事実だぜ?

 これを絶望と呼ばず何をそう呼べというのだろう。


 悔しいが、リアルに涙が出そうになるほど口惜しいが、身を切られるほど屈辱だが、それでも、僕はもう彼らの一部である。

 嗚呼、すっかり八十一高校色に染まっている自分を嘆かずにいられない。


 だって普通の高校男子は、まだ親しくない人たちに囲まれ、まだ親しくない女の子を指差して「二つのおっぱいを二人でわけようぜ」的なことなんて言わないだろ?

 というか言えないだろ?

 それが言えるのは、まぎれもなく僕の中の「普通」という感覚が麻痺してきている、それどころかバカに侵食さえされつつあるという証で、それこそあの高校の一員であるという証拠に他ならない。


 すっかりやりきった気持ちで、だが後悔もしつつ、僕は皮剥きの後始末をする。

 実際のところはそんなに長い沈黙ではなかったが、僕にとってはまた一つ絶望を知るくらいには長く感じられる無反応の世界だった。

 最初に反応したのは――店長だった。


「……ふむ……片鱗は見えたな」


 年の功か、はたまた責任者としての立場か、あるいはそれもモテるテクニックなのか……店長はごくりと喉を鳴らした。


「発言はセクハラなのに、セクハラより先にバカな発言として気になるという絶妙なる言葉のセレクト……私はまた一つ何かの真髄に触れた気がする」


 したり顔で何言ってんだおっさん。それ錯覚ですよ。気がするだけですよ。間違いなく。


「す、すげえな……それが日常会話か? 余裕で想像以上だわ」


 ああ、初対面こそ普通にこなしたのに、今まさに瀬戸さんとの距離が広がった気がする。でもまかないは一品増やしてもらおう。絶対。じゃないと身を削った意味さえない。


「……」


 十和田さんは今にも舌打ちが聞こえそうな危険極まりない目で見ていたが、結局何事もなかったかのようにケーキ作りに戻った。……彼女の場合は、無反応が逆に怖い。怒っているかどうかだけ教えていただけませんかね?





「一之瀬」


 新島さんがさわやかな笑顔で僕を呼んだ。

 平らな……いや、つつましやかな胸を張って。

 堂々と。


「殴ってやるからこっち来いよ。な?」


 ……フッ。僕には新島さんの笑顔の奥にある等身大を越えた怒りが見えるぜ。まざまざとなっ。


「デコピンくらいで勘弁してもらえませんか? 平手でもグーでも顔だと腫れちゃうから」

「覚悟の上での発言かよ。よしわかった、頭蓋骨もシビれる一撃で勘弁してやるよ」


 それはまた刺激的なことで。


 ついでに八十一高校(イヤなこと)を思い出して欝になった心もハジいてもらうとしよう。





 天使の指と称したいほど小さくかわいらしい彼女の右手が、凶悪極まりない悪魔と化した。

 まさに雷神の鉄槌(トールハンマー)だった。

 まだ客の少ない静かな店内にびちぃぃぃっと響く音も、それが生み出した想像を超えた破壊力も、シビれるような一撃だった。


 ……いてえ。

 ぶっちゃけ「守山悠介ポロリ事件」で先輩に殴られたのと同じくらいいてえ。

 声を……いや、悲鳴を上げなかった自分を褒めてあげたいくらいいてえ。


「し、素人ができるデコピンじゃないっすよ、これ……」

「バーカ。デコピンに素人も玄人もあるか」


 一応店内のお客さんには見えないように、厨房と店内の間にあるスペースで制裁を受けたわけだが、あの音は店内にしっかり響いていると思う。


「どうしたの?」


 ほら、熊野さんが覗きに来たし。――ちなみにしーちゃんに似ている生駒さんは、今日は昼からである。


「何でもないっす。それよりキッコさん、一之瀬のこと聞いてます?」


 と、新島さんは額を押さえて悶絶している僕をよそに話を進めた。ちなみに「キッコさん」というのは熊野さんのあだ名みたいなものだ。名前が菊子だから。


「一之瀬くんの? というと、今日の午前からウェイターの研修やるって話?」


 あ、そう。そうそう。それだそれだ。

 昨日の内に店長に話してみたら、「あ、いいよ」と軽くOKが出たのだ。そして店長から、すでに熊野さんと新島さんに話が通っているようだ。僕から話す手間が省けた。

 まあ僕としては、今日の今、熊野さんの意見で左右されると思っているが。店長の意見は半分だけ聞けと、そう教えられているから。


「うーん……そうだね。一之瀬くん憶え早いし、レジとショーケースの仕事ももう心配いらないみたいだし」


 熊野さんに「やってみる?」とゆるく問われ、僕は額から手を下ろしきっと涙目になっているだろう顔で「やりたいです」と答えた。


「よしわかった。じゃあお客様の少ない今の内にやっとこうか」

「はい。お願いします」

「ちょっと待った」


 とんとん拍子で進んでいた話を、というか結論まで至った話を新島さんが止めた。偉そうに腕組をして。


「こんな奴キッコさんが出るまでもないっすよ。ここは私が! 教育しときますよ!」


 その無駄に力が入っている姿勢がすでに不安である。


「えー? 不安だなぁ」


 熊野さんが僕の心境を代弁してくれた。これ以上ないほど正確に。


「大丈夫ですって。な、一之瀬?」

「…………ええ、まあ、よろしくおねがいしまーす」

「なんか気合足りねえな? もう一発ヤッとくか?」


 おっと。不安が声に出ていたらしい。

 かわいらしい悪魔の右手がデコピンの素振りをしているのを視認すると、僕のヤル気スイッチがへこんだまま戻らないくらいの勢いで強プッシュされた。


「シクヨロ先輩! オレ今日マジでヤル気ガチ出てっから! ガチ漏れしてっから! ダダ漏らしだから!」

「お、おう。ならいいよ……」


 あっぶね! あんな雷神の怒りみたいなデコピン、短いスパンで二回食らったら脳に影響出るぞ!





 昨日の見覚えの成果もあり、小一時間ほどで新島さんから「つまんねー」というガッカリ顔の合格が貰えた。なぜそんな顔だ。

 次に、確認も兼ねて熊野さんにも教育係を務めてもらい、こちらからも合格点が出た。


「本当に憶え早いね」


 いや、普通です。昨日たくさん見ていたから、というか基本見ているしかできなかったから、そんな予習をしていたからです。


 そして熊野さんから「今は研修するには時期が悪いから、全体を見るのはまだ無理だと思う。だからこっち半分だけよろしくね」という指示が出たので、僕はテーブルが一つ少ない右半分のみ業務を許された。





 ふと時間を確認すると、十一時十五分を過ぎていた。

 これから一昨日、昨日と同じように、加速度的に忙しくなるだろう。


 でも、これで一応の体裁は整ったか。


 今日は妹が「お兄ちゃんの働きっぷりでも見に行ってあげようかな」とかなり上から目線で来ると言っていた。

 別にそれに併せてウェイター業務を追加してもらったわけではないが……まあ、新人丸出しだろうけど普通に働いているようには見えるだろう。たぶん。きっと。


 受験勉強に毎日忙しそうな妹である。

 兄として、何かおいしいものでもおごってやろうと思う。


 ……あ、今の内に、十和田さんに今日のおすすめケーキでも聞いておこっと。あいつ絶対聞くから。





 しかし静かな戦場と化す店内には、予想外の、想定外の、僕のプランにはまるでなかった意外性の塊のような人物が訪れることになる。

 僕がそれを知るのは、額の痛みが引いてくる頃である。










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