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絶望高校帰宅部  作者: 南野海風
夏休みスペシャル
93/202

092.――夏休みスペシャル  一年生一学期のお兄ちゃん  ~中身がエビの餃子だけ食べ尽くして証拠隠滅した~




 一週間遅れの入学からしばしの時が流れた。

 出遅れのハンデ自体は大したことはなかったが、新しい生活環境という点も重なると、やはり慣れないことも多く忙しかった。

 いや、慣れないとか忙しいとかじゃなく、「疲れることが多かった」といった方が正確か。


 だから周囲に気を配る余裕がなかったように思う。





 気がついたら私も兄も、この八十一町での生活に慣れていた。

 無事にここを居場所にすることができた。


 忙殺される毎日の中、そんなことを思わせたのが、兄の変化だった。


「……うるさいよ」


 ある日の早朝、隣の部屋からけたたましく響く目覚まし時計に起こされた。時間を確認したら六時である。まだまだ早い。

 いつもより一時間早い起床を強いられ、私は何事かとトイレがてらベッドから抜け出す。

 玄関先に私を起こした不届き者(兄)が居たので、そう抗議した。今は起き抜けで頭が回らないので、朝食時にでもねちねちいじめてやろうと思う。逃げるように学校に行かせてやろうと思う。


 兄は中学の時のだっさいジャージを着ていた。

 どこかへ出かける直前だったようで、「どこへ行くのか」と問えば、今日からジョギングを始めるという。


 ダメだ。頭が回らない。

 寝ぼけたままリビングへ向かい、冷蔵庫を開け、高貴なる紫色が目を引くグレープジュースをコップ一杯胃に流し込む。糖分がからっぽの胃に染みる。


「……ジョギング?」


 先程の兄の言葉を反芻し、私は目を見開く。


 ――兄が、ジョギング?


 あの怠惰にして時間を無駄に食い潰していただけの、普通のことを普通にしかでしかないあの兄が、あの魅力を語らせれば原稿用紙一枚どころか一言でも生ぬるく一行で事足りる一之瀬友晴が、ジョギングだと?


 信じられない想いで玄関に戻るも、兄はすでにいなかった。


「マジか……」


 呆然と呟く。

 どうしても直せない、移ってしまった兄の口癖を口走っても気付かないくらいに茫然自失だった。

 あの兄が、ハーゲン●ッツのアイスをねだったら嫌な顔をしつつも結局買ってくれるあの兄が――しつこいようだが、本当に何度も何度も思った。それくらい私には信じがたい一事……いや、大事件だったのだ。


 反面教師にしかできなかったあの兄が、褒めてあげたくなるようなことを始めた。

 これは間違いなく、兄の評価を改めねばならない出来事である。


 まあ、私の知っている兄なら、三日坊主どころか一日で挫折するだろうけどね。


 一週間くらい続いたら何かしらご褒美をくれてやろうかな。

 そうだ、かわいい妹が作る弁当の頻度でも上げてやろうか。あと兄のにだけ失敗作を詰めるのも少しだけやめてあげよう。

 これから一時間早く起こされ続けるかもしれないが、夜の勉強時間を一時間だけ朝に回せばいい。私が兄に気を遣っているなんて思われたくないから言う気はないけど、それくらいは私が合わせようじゃないか。


 このまま評価が上がるのであれば、「兄弟? 今は離れて暮らしてるちょっと微妙な兄がいるよ」くらい言える日が来るかもしれない。

 まあ、あるとすれば、かなり遠い未来のことだろうけれど。





 この頃から兄への観察を強化した。

 そして、良くも悪くも変わらなかった兄の生活の変化が、己の新生活を改めて感じさせた。


 六永館中学に通うようになって、私に変化はあっただろうか?

 時間が惜しかったので帰宅部は通しているし、受験勉強も中学二年の頃からやっているし。うーん……友達の鶴見さんを奈緒ちゃんと呼ぶようになったことと、三人目の男子を綺麗にフッたことくらいだろうか?


 ジョギングを始めたことは除くとして、表面上、兄の生活にそんなに変化はない。小学生の頃から見てきたのだ、兄の変化を見極める目は確かなつもりだ。恋が始まって枯れる瞬間も見逃さなかった。

 察するに、高校生活で友達はできただろう。似たようなタイプのが。はしゃぐでもなく大人しすぎもしない、ふっつーの友達が。

 兄が普通に学校に通えるというのは、そういう普通の環境を普通に作り上げることに成功したからだ。


 ……と、思っていたのだが、ある日の出来事でわからなくなった。


 観察を始めて一週間後、兄はアップルパイを持って帰ってきた。当然かわいい妹に土産として持ってきたので、その貢物を貰ってあげた。

 飾り気のない、コンビニなんかでも買えるようなアップルパイだった。


 だが、その味に驚愕した。

 非常にシンプルで、どちらかと言うとアップルパイらしくないほどリンゴの味がせず、その風味は優しく癖のない代物で、軽い食感と控えめな甘み、そしてわずかに残るリンゴの酸味が絶妙なバランスで一体となっていた。

 口に広がる上品で控えめなアップルパイの味は、私が今まで食べた中でダントツの美味しさだった。特に好きというほどでもなかったそれが、一発で好物になってしまうほどに。


 兄に「どこで買った?」と聞けば、先輩の手作りだという。


「……すげえな、高校生って……中学レベルとは違うってことか……」


 思わず呟いてしまうほど、美味しくて恐ろしい一品だった。

 いや、それよりだ。

 兄の知り合いは普通じゃない。少なくともこのアップルパイを作った先輩は、間違いなく普通じゃない。


 そう、か……いや、冷静に考えればその通りで。

 兄の変化、兄がジョギングを始めた理由は、対人関係の影響にあるのかもしれない。


 普通の友人なんかじゃ兄に影響を与えられるわけがないではないか。

 だって影響を与えられるのであれば、中学時代に何かしら普通からの脱却の兆しが見えていたはずだから。





 変化と言えば、こんなことがあった。


 インターホンが鳴って、夕食作りに手が離せない母の代わりにドアホンの受話器を取ると、兄が「悪いけど迎えに来て」と弱々しく囁いた。

 なんだよ何事だよめんどくさいな、と思いながらガリ●リくん片手にドアを開けると、美人がいた。


「初めまして。八十一高校一年B組担任の三宅です」


 ダメージジーンズと白の長袖カットソーという軽いスタイルだが、必要以上にラフさを感じさせないところにセンスを感じる。

 そして私は、本気で油断しまくりの、中学一年の時から愛用している子供っぽさ丸出しクマさん柄のよれよれの家専用寝間着シャツである。ジーパンはともかく上はNG。ぶっちゃけ他人に見せられないシャツである。しかもガ●ガリくん持ってるし。どんだけ子供だ私。


 恥ずかしかった。

 人前に、それも美人の前に出られるような格好じゃなかった。

 わりと童顔な兄よりも年上に見えることもあると評判の大人っぽさが密かな自慢でもあったのに。


「実はそちらの一之瀬――」

「ちょちょ、ちょっと待ってください!」


 とにかくこのまま美人の前にはいられない。極寒の中にビキニでいるようなものだ。何か言いかけていたが、私はドアを閉めて母を呼ぶと、走って部屋に帰った。

 超速で「これが普段の私ですさっきのは手違いです」と主張せんばかりの勝負服を装備すると、いざ美人を打倒せんと玄関に立ち戻る。


 まあ、もう、帰ったあとだったけれど。


 あの美人が何をしに来たかと言えば、球技大会でデッドボールを食らって動けなくなった兄を送ってきただけらしい。「すぐ学校に戻らなければならないので。お話は後日、三者面談の時に」と母に告げると、美人先生は負傷した兄を置いて早々に帰ってしまったそうだ。


「なんでデッドボールなんか食らってるのよ!」


 体操服のまま制服と荷物ごと送られてきた、九十度ほど腰が曲がりっぱなしの兄は、私の怒りに「うるせー超いてーんだよ!」と逆ギレで返した。な、なにぃ……兄のくせに生意気な……一之瀬友晴のくせに生意気な! ……というか、怒るってことは、これは本気で痛い時の兄の反応だ。

 まあ許さないけど。そんな反応。どんな理由があろうと。


 親切を盾にして触りたくもない兄の尻を「大丈夫?」などと言いながら撫でてやった。兄は悲鳴を上げると「マコちゃんみたいなことすんなよ!」と少し泣いた。

 よし、これで美人襲来の傷は少し癒されたな。


 というかマコちゃんって誰だよ。


 いやほんと誰だ?





 まさか、兄にカノジョ的なものが?


 ――いやいやないない。絶対ない。どう考えてもない。











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