086.七月十五日 金曜日 漢すぎる獣編
――いや!
確かにハメられたかもしれない。
こんな状況、お姉さまにとってはトラップにもなっていないのかもしれない。
だが、ここで、この期に及んで心が折れてどうする! こんな危険、想定内だろ! 僕はお姉さまにボコボコにされる覚悟はしてきた! それが僕の本気だ!
向かってくる獣の脅威に呑まれそうになったが、僕はなんとか両足を踏ん張り、ちゃんとそれと向き合う。
だが残念ながら、僕以外の兵隊たちは、飢えた肉食獣を思わせる美しくも凄惨な笑みを浮かべ、一歩ずつ歩み寄ってくるお姉さまにビビッている。
……まあ、彼らを責めるわけにはいかないだろう。すでにその辺のヤンキーにカツアゲ食らうより怖いのだから。この迫力、この肌に感じる緊張感、そしてこの恐怖……もはや本能が危険信号を発しているからに他ならない。
一歩距離を詰められるごとに、一歩下がる。
下がっていく味方に反し、動かない僕は、いつの間にか雑兵どもの先頭にいた。
覚悟を決めている僕の目と、未だ獲物を定めていなかった美貌の肉食獣の目が合う。
「てめえからだな?」
お姉さまは僕を最初の獲物に選んだ――今だ!
「作戦開始!」
叫ぶと同時に、僕はお姉さまに突っ込ん、
ゴッ!!
「がっ!?」
美しい顔が迫った――と思ったら、僕の頭にガツンと衝撃が走った。
頭突きだ。
それもカウンター気味に入った。
痛みを感じるより先に衝撃で目の前が真っ暗になった。
速い、と思う間もなく、上半身を泳がせた僕の顔面に、追撃の右拳がめり込んでいた。
その重さと速さで不安定に地を噛んでいた足が浮き、僕は見事に殴り飛ばされた。ほんの一秒にも満たない浮遊感をたっぷり味わいながら、強かに背中から廊下に落下した。
「うおおおおおお!!」
超いってー! 超いっっってーーーー!! マジいってーーーーー!!
頭蓋骨に頭蓋骨をぶつけた音が、耳の奥でまだガンガン鳴っている。
軋んだ頬骨が未だかつて経験したことのない強い当たりに悲鳴を上げている。――食らった威力としては聖戦の時の教頭先生の正拳の方が上なのだが、意識が飛ばなかった分こっちの方がつらかった。
とにかく顔と頭と頭と顔と……首から上を中心に全部痛かった。時間にしてみれば、ほんの二、三秒の出来事だったはずだ。
経験しただけに言える――まさに圧倒的な強さだった。
「次はどいつだ?」
美しき肉食獣は、一瞬で捻り潰した弱者など興味を失ったようで、次の獲物を物色し始める。
悲鳴を上げながら顔を押さえ床を転がる僕は、涙が滲む目で……見てしまった。
同志たちの背中を。
兵隊たちが、僕を置いて一目散に逃げていくのを。
作戦は始まっている。
視界を塞ぐという一種の壁役を失ったその時、お姉さまはこのトラップの意味を知った。
「あ? カメラ……チッ! てめえら写真部の回しもんか!?」
小兵軍団の向こうから構えられるレンズと、振り返ったそこにあるレンズと。お姉さまはようやくこの不可解な待ち伏せに気付いた。
一気に怒りの感情が膨らんだのがわかった。
――この時僕が思ったのは、「まだ早過ぎる」だった。
僕という壁は、ほんの数秒しか持たなかった。
他の兵隊がちゃんと壁役を果たせていれば、十秒は確実に稼げたはず……にも関わらず、奴らは恐怖に負けて逃げ出した。逃げ出してしまった。
つまり、まだ満足に写真を撮れていない、ということ。
そしてこのままだと、満足に写真を撮れなかったという結果だけが残り、単純に僕の殴られ損という話で終わってしまう。
もうすでに痛いのだ。すごく。
だったら、もういいだろう。
僕は考えることを放棄し、身体を動かすことだけ考えた。
反射的に上半身を起こすと――
「あっ!」
追跡しようと走り出していたお姉さまの膝が、ゴキッとモロに顔面に入った。恐らくはお姉さまさえ意識していなかった攻撃に、ぶち込んだ本人が驚いていた。
お姉さまはよろめくように動きが止まる。
痛い。当然痛い。すでに足に来ていて、顎もがくがくした。
だけど、すでに充分痛いので、あまり気にならなかった。
たぶん一撃目の頭突きで、軽く脳震盪を起こしているのだと思う。
痛覚はあるし、めちゃくちゃ痛いが、しかし――
僕の本気はこんなもんじゃない。
そんな一念が、痛みを無視して僕の身体を突き動かす。
「うわちょ、なんだてめえ!? 離せこら!」
僕はすがりついた。お姉さまに。
すがりつきながら立ち上がり、もはや抱きつくくらいのレベルでお姉さまを足止めする――ちなみにこの時の僕は正気じゃないので、エロい思考などまったくなかった。あとで振り返ってほとんど憶えていないことにガッカリしたくらいだ。
足腰が立たない。
腕だけの力でお姉さまにまとわりつく。
そんなこんなの間に、何発か殴られたような気がするが、必死すぎて何がなんだかわからない。
「いい加減にしやがれ!」
僕のしつこさにお姉さまもキレたらしく、襟首を掴んでの強烈な膝蹴りが僕の腹をえぐった。
そして僕の意識は飛んだ。
半分だけ。
ぼんやりしていた意識が糸のようにか細くなり、身体から力が抜ける。
そんな僕は、やはり何も考えず、お姉さまにすがりつくことに必死で――
「ちょ、ちょっと待て! おい! おいって!」
僕は沈んだ。
ただ。
左手に何かを握り締めていた。
布のような何かを。
「離せって! さすがにおまえこれっ…………あ、もういい。うぜえ」
ずるり
こうして僕は完全に意識を失い、地に伏せた。
握り締めていたモノごと。
後に聞いた話によると、意識を失った僕は、藁にもすがる想いでお姉さまの海パンを掴んだそうだ。
そして、お姉さまの悠介さん(先輩の名前)を白日の下に晒してしまったらしい。
その時のおねえさ、いや、守山のアニキの姿は威風堂々、カメラレンズを前にモロ出ししても、もはや腕組さえして仁王立ちしていたという。
ついているとかいないとかそういう問題を超越した雄々しき姿は、まさしく漢であった。
そしてアニキは裁いた。
「このバカの根性に免じて、今回はてめえらに勝ちを譲ってやる。写真はくれてやるよ。ただし俺が目を通して許可したやつだけだ。まさかてめえら、男の女物水着姿なんて恥どころか、(規制)まで流出なんてひでえことは男としてしねえよな? あ?」
そう言い放ったという。悠介さんモロ出しのまま。
フルボッコにされて保健室に担ぎ込まれた僕は、約束通り、今回の収穫を全て無条件で貰い受けた。ベッドの上で。
……顔と身体が痛すぎて、プリントしてもらった写真を吟味する余裕はなかったけどね。
でも、心はとてもすっきりしていた。
だって僕は自分の本気を貫き通せたのだから。
そして守山先輩の、誰よりも男らしく潔いケリの付け方は、なんの禍根も残さなかったから。
こうして僕らのMSTT作戦は幕を閉じたのだった……
後に僕の代名詞とまで言われることになる「守山悠介ポロリ事件」。
これこそ、八十一高校に長く伝わる「一之瀬レジェンド」の始まりであることなど、今は誰も知るはずがないことである。
もちろん、不名誉って意味で。




