065.六月二十三日 木曜日 聖戦の朝もや編
廊下を歩いている生徒たちが、僕らのために道を空ける。
幾つもの高き足音が校舎を揺らし、僕らは全力で駆ける。
「いいかてめえら!」
まるでバッファローの群れのように廊下を爆走する我らB組に、先頭を走る竹田君から激が飛ぶ。
普段には絶対ない勇ましい竹田君の言葉一つ一つが、僕らの心にある闘争心を鼓舞する。
「怯むな、臆するな、前だけ見てろ! 倒れた奴を踏み越えろ! 誰か一人でも弥生たんに辿り付ければ俺らの勝ちだ! 犠牲も俺たちの勝利に必要なものだ! 忘れんなよ! 何があろうと足を止めるな!」
「「応!!」」
僕は足の遅さからちょうど群れの中央に埋没したものの、決して遅れてはいなかった。これもジョギングの賜物か、ある程度の距離を走る程度では全然息切れもしなかった。
ささやかながら闘争心を燃やしている僕だが、しかし、気がかりがあった。
果たして職員室でどんな戦いが待っているのか、と――
噂では色々聞いた。弥生たんが強いとか、体育教師が強いとか。だが明らかに多勢に無勢ではないのか? 僕らは三十名ほどの一団となって走っているが、職員室にはどれくらい教師がいる? その中で戦える者何人いる? 十名もいるのか?
そう考えると、この人数で成功しないわけがないと思う……と同時に、どうしても拭えない不安が残る。
もし「マジでガチ」事件を当事者として経験していれば、ある程度はわかったのかもしれない。危機感をちゃんと認識できたかもしれない。
だが前回は、誰もがあまりにも無知すぎたことを第一に挙げるべきだろう。
まず、食事中の教師たちは非常に凶暴であること。
昼休みに入って十分以内は、まず避けるべき時間帯だ。この時間に攻めたら本当に容赦なく叩き潰される――普通なら担任の弥生たんは、自分のところに来るまで自分の席で待っていたはずなのだ。しかし自らぼうりょ……治安維持に乗り出したというのだから、まずここが慣例と違う点だ。
そして今回は、本当にクラス全員が参加しているということ。そして戦う理由がはっきりしていること。
この人数と、この勢いなら成功する、成功しないはずがない――そんな慢心をしてしまったのは、やはり僕が前回を知らなかったからなのだろう。
伊達に聖戦など大層な名前は付いていないことを、心に留めておくべきだった。
先頭集団が職員室に到着し、躊躇なく開戦のドアをバンと開いた。
「聖戦だ! 我ら一年B組、担任三宅弥生に物申す!」
竹田君からそんな胆力みなぎる啖呵(これは必要な挨拶らしい。聖戦として誰が誰に用があるのか、という宣誓である)が、平和な職員室を強襲した。言っている間にも竹田君の両脇から、B組の運動できる精鋭達が雪崩れ込んでいる。
僕に後に続こうと走り――驚愕のあまり足が止まった。
「なん、だと……!?」
ほんの数秒前に先駆けし乗り込んだ精鋭たち五名が、すでに全員倒れていた。
たった一人立ちはだかる、猫背がセクシーな英語教師の前に。
――働き盛り五十代男性教諭、津山先生だ。
「おやおや。もう終わりかね?」
見た目は冴えない、いや冴えないどころか家では奥さんにはさげずまれ娘には「パパのパンツと一緒に洗わないでよ」と言われているような、できないタイプにしか見えない中年教師が、俯き加減にニヤリと笑う。
何が起こったのか、何があったのかさえわからない僕は、凍りつくしかなかった。
まさか本当にこの冴えない、自分のパンツは自分で洗ってそうな中年のおっさんが、僕らの精鋭たちを一人で仕留めたというのか……!?
「どけ!」
立ち止まっている僕を強引に押しのけ、前に出たのは……ヤンキー久慈君だ!
「おいこらてめえ!! 前の借り返してやっからよぉ!!」
「ふん。先生は君のような生徒、嫌いではないよ」
な、なんという余裕……はっきり言ってオヤジ狩りにしか見えない構図だと言うのに、津山先生はまるで「お金? 毎日娘に抜かれていて一円もないよ」などという過酷な現実をありのまま受け入れ、ある意味全てを達観し悟りを開いた、位の高い僧のようだ……! ――ちなみに妻と娘がいること以外はすべて僕の推測だ!
教師相手でも遠慮なく殴りかかった久慈君は、しかし、次の瞬間には僕の真横の壁に吹き飛ばされ激しく叩きつけられていた。
「ぐはっ!」
久慈君が沈んでいく。……マジかよ。てゆーかどんな冗談だよこれ……?
津山先生の動きは速すぎてよく見えなかったが……たぶん、体当たりだ。久慈君は体当たりを食らって吹き飛ばされたんだ。
「まさか今の……鉄山●!?」
いつのまにか僕の後ろにいたインドアゲーマー池田君が叫んだ。
「フッフッ……私の喜びはね、久慈君。君のような不良生徒に勉学の喜びを教えてあげることなのさ――その身体にねぇ!! リッスゥゥゥゥゥゥゥン!?」
な、なんという悪役っぽいセリフ……あの猫背は伊達じゃないってことかよ……!
「く、くそが……まだ終わってねえぞ!」
久慈君が立ち上がる。どう見ても平気そうじゃない顔で。
その勇姿が、その勇気が、僕の萎え切った闘争心にもう一度火をつけた。
――そうだ。立ち止まっている場合じゃない。
行くんだ。津山先生の、冴えないけれど大きな壁の、その先に。
この大騒動に対して自らの席に堂々座り、笑いながら僕らを見ている弥生たんの下へ……!
久慈君が走り出すと同時に、僕もまた走り出した。津山先生の相手は久慈君に任せ、僕はその脇をすり抜けるつもりだった。
僕とタイミングを合わせて飛び出した竹田君も、かく乱するかのように、津山先生を無視してあらぬ方向から弥生たんを目指すルートを選ぶ。
そして後続の仲間も雪崩れ込む。
体勢を低くし、横目で警戒しながら津山先生の脇を通る――先生は僕に見向きもせず、久慈君の拳と、それに合わせて動いていたボーズ頭の鳥羽君の挟撃を迎え撃ち、
「んぐえぇ!?」
突然僕の首が締まって変な声が出て――僕の目の前を、本当に前髪をかするくらいギリギリのタイミングで、横手からスリッパ付きの足が風のように突き抜けた。
蹴りだ。
不意打ち気味の蹴りが飛んできたのだ。
肝が冷えた。なんつータイミングだ。あのまま走っていたら、確実に顔面に蹴りが入っていた。横っ面にガーンと来ていた。
「いい反応してるじゃねえか」
首から下げたホイッスルが跳ねる――僕らの担当でもある体育教師、最近中年太りを気にしている三十八歳二児の父・岡谷先生が、僕の前に立ちはだかる。
「ここは任せろ」
僕の襟首を掴んで不意打ちを回避させた、今ちまたでもっとも頼れるイケメンと評判の柳君が、僕を庇うようにして前に出た。
「おう、柳か。おまえに俺の相手が務まるかぁ? あぁ?」
「……」
「俺はなぁ、おまえみたいな確実に青春を謳歌してるであろうガキに、現実の過酷さを教えてやるのが俺の使命だと信じてるぜぇ。だから今からおまえのために教育してやるよぉ――人生の師の強さって奴をなぁ!」
なんという歪んだ理想。なんという歪な教育理念。
しかし非常に手短に「リア充くたばれ」と言い直すだけで信じられないくらい共感できてしまうのは、特に今考えるべきことではない。
柳君は人生の師の威嚇にさえなんら動揺することもなく、背後の僕に言った。
「初手は必ず止める。その隙に行け」
なんという男前発言だろう。かっこいい……イケメンのくせに! なんだよイケメンのくせに! かっこよすぎて非モテの男でも惚れるわバカ野郎! イケメンで男前はずるいぞ!
柳君のことは信用できる――僕はなんの心配もせず走り出す。
もう岡谷先生は見ない。
柳君が必ず止めるから、気にする必要がない。
頭の近くに重い風が吹き、重いモノを降り抜く音がしたような気がするが、僕は気にせず走り――げっ!?
「いっ…!?」
またしても横手から飛んできた何かを脇腹に食らい、僕はその辺のデスクにガンと激突した。一瞬息が止まり、激しく咳き込む。あ、くそ、いて……!
悶絶しながら見ると――どうやら僕は、三十三歳にして二十歳前後にしか見えない魔女の異名を持つ上野先生に蹴られたらしい。
上野先生は「惜しかったわねぇ」と笑い――次の瞬間には険しい表情に変わった。
筋肉が降ってきた。
その辺のデスクを踏み台にし、上野先生に見事な飛び蹴りを放ったのは、高井君だった。上野先生は余裕でかわすも、高井君は僕への追撃を遮るように、僕らの間に着地していた。
高井君は足が速いので、てっきり先発部隊にいてすでに津山先生にすでに倒されていたと思っていたが……だってこのタイミングで割り込めるって、僕より後から職員室に入ったということだからだ。
しかしその疑問もすぐに解消した。
こいつ……脱いできやがった! 脱いでやがったな! だが今回は褒めようと思う、よくぞ脱いできた!
「あら高井君。今日もいい身体してるわね」
「そりゃどうも」
「乳首もステキよ」
「ど、どこ見てんだよ!」
おっぱい隠す仕草で隠すな! そっちの方が無駄に裸よりムカつくわ! 見られたくないなら服を着ろ!
「おい一之瀬、ここは任せてさっさと行け!」
「わかった! 気をつけて!」
確かに憶えているのはそこまでだった。
その後のことは断片的にしか覚えていない。
雪崩れ込んだ僕らB組総員は、異様に強い教師陣に迎え撃たれ、そこかしこで乱戦が始まる。
津山先生、岡谷先生、上野先生というたった三人で僕らの強行の半分以上が止められるも、それでも自らの戦地とばかりに止め役として前に立つクラスメイトを盾に、手の届かない範囲から侵入を試みる僕ら。
なかなかしぶとく前に進もうとする僕らを見て、手数が足りないと判断したのか、更に数名の教員が戦場に投入された。
そして僕の記憶は、空手部顧問であるバーコード頭が特徴的な教頭先生が、信じられない速度で僕の目の前に躍り出てきたところで、ぷっつりと途切れていた。
目が覚めたら思いっきり顔が痛かった。どうやら拳を食らって一撃でダウンしたらしい。
後に聞けば、僕らの聖戦は、全滅という形で終わったらしい。
しかし僕らは勝った。
死屍累々の惨状の中、身体の震えが止まらず涙まで流して恐怖するマコちゃんが、たった一人で歩み、弥生たんの前まで到達したからだ。
クラスメイトたちが支持し、全力を注いだ反乱。
たった一人のために身体を張った僕らと、身体を張った僕らのために、逃げずに勝ち目のない戦いに挑んだマコちゃん。
僕らとマコちゃん、双方の気持ちを、弥生たんどころか教員たち全員が酌んでくれたのだ。
僕らは勝ったのだ。
B組全員で勝利を勝ち取ったのだ。
でも顔がいてえ! 超顔がいてえ!
先生連中強すぎるだろ……もう! もう二度と聖戦なんてやらないんだからね! …………いや、まあ、たぶんやるんだろうけどね。




