034.五月三十日 月曜日
「大丈夫か?」
教室に来て早々、柳君はそんなことを言った。
「何が?」
「何が」かはわかっていて、僕はとぼけた。言っても心配させるだけだし、何より、もう解決している。
先週土曜日の僕は、壊れていた。
たぶん、積もり積もったストレスが原因で、精神的にものすごく不安定になっていた。僕自身うまく説明できないが、これが一番近いと思う。
だが、もう大丈夫だ。
何せ昨日一日、八十一駅前で女の子をたっぷり見てきたからね!
なんというか……そう、見失っていた自分を取り戻してきたのだ。いや結構本気で。
この二ヶ月、いろんなことがありすぎた。そんな事件の連続の只中にいて、自分が誰なのかを見失っていた気がする。
僕はただの一之瀬友晴であって、万能のスーパーマンではない。
柳君も高井君もすごいから、自分にもできるような気がして無理をしたこともあったが、所詮僕は僕である。無理をしたところで先週土曜日のように無理を通したツケが回るのだ。
僕は普通である。スペックは並である。今はそれでいい。
これから少しずつバージョンアップさせていけばいい。それまでは隣の友人に助けてもらおうと思う。遠慮なく。
僕の気持ちを見抜いているのかいないのかはわからないが、柳君は「ならいい」と、毎朝恒例となっている机の中のパンの排除を始める。
そんな時、高井君が登校してきた。
「おい一之瀬!」
僕の姿を見るなり、まっすぐやってくる。
「おまえやっぱステロイド注射は早いって!」
「急に何の話?」
というか、高井君はブレないなぁ。ステロイドって確か筋肉関係の注射のことだったっけ? いや、高井君が言うなら筋肉か身体関係のことしかないが。
でも、なぜいきなりステロイドのことを言い出したんだろう。
「高井、その話はもういい」
「あ? いいの? やっぱ原因はステロイドか?」
ステロイドが何なのかはわからないが、どうやら僕は、この二人に結構心配を掛けていたのかもしれない。そういえば土日にメールも来たしなぁ。
でも言わない。心の中でだけ感謝しておこう。そうしないと二人の優しさに甘えそうだし、二人が過保護になるかもしれない。そういうのは望んでいない。
「あー……なんかよくわかんねえけどまあいいや。それより一之瀬、例のブツ持って来たぞ」
「は? 例のブツ? …………え? 裏DVD?」
「ジャージだバカ野郎」
あ、ああっ! 例のアレか!
「使用済みの!」
「だから言い方っ……いや、もういい。おまえのむっつりには負けたぜ。そうだ、かつて女子高生だった女子大生の使用済みジャージだ」
おお……おお、神よ! 神よ!
「高井君、今君は最高に輝いている」
「だろ? だけどよ」
高井君はニヤリと笑い、意味深に声を潜めた。
「――俺は裸の方が輝いているんだぜ」
正直うざいと思ったが、脱がなかったので何も言わずに曖昧に頷いてあげた。
「んじゃこれな」
高井君は、ショルダーバッグとは別に下げていた紙袋を机に置いた。僕は早速中を見てみる。
「あ……」
何かしらの縁を感じた。
先々週、駅前の八十一HON-JOのスポーツショップで、柳君が僕に勧めた六千円相当のジャージにちょっと似ていた。まあ向こうとこっちではブランドが違うみたいだが。
そのジャージは少々くたびれたポリエステル製のジップアップ、色は中古感の隠せないくすんだホワイト。そしてサイドには赤いラインが走っている。かつてこれを着ていた女子高生は、かなり本気で使い倒したのだろうことを易々と想像させた。まるでその当時の持ち主の情熱がこもっているかのようだ。
ちょっとブレザーを脱いで、上を着てみる。ほうほう、ふむふむ。
「ピッタリだな」
「うん」
ジッパーを閉じて上半身を捻ってみる。伸縮性があるので問題なさそうだ。
「高井君、ありがとう」
「おう。しっかり鍛えろよ」
まあ、そのつもりだが。
……ん?
ちょっと袖の匂いを嗅いでみた。……いや決してヘンタイ的な意味ではなく! 女子高生の香りを堪能したかったわけではなく!
「いい匂いがする」
そう、動くたびに、何か甘い香りが鼻をくすぐるのだ。
「香水だ」
「香水?」
「女子高生の使用済みを期待してるって相手に伝えたら、洗って香水振って渡すからって言ってたから」
「言うなよ!」
「おまえのことどんな奴だって聞かれたら使用済み期待してるむっつりとしか言えないだろ! 使用済み使用済み言いやがってよ! 俺でも引くわ!」
えっ、高井君から見た僕ってそんな認識なんだ!? ショックだわ! 結構ショックだわ!
……いや、まあ、今日のところはいいか。
「あのさ、高居君。そのお兄さんの彼女ってどんな人?」
「口説く気か? やめとけって。あれは運動できる男じゃないと付き合いきれねえよ」
「いやそうじゃなくて」
僕は上着を脱いで、丁寧にたたんで紙袋の中に収めた。
「お礼がしたいんだ。お菓子かなんか渡してくれないかな?」
「ああ、そうか。じゃあ持って来いよ。渡すから」
「ちなみに何がいいと思う?」
「やっぱプロテインがいいな」
「君の欲しいものじゃない」
「……普通に甘いものが好きだよ。毎年兄貴が貰ったバレンタインチョコ横取りして食ってるし」
それはそれは……なんともたくましい方だ。
「じゃあチョコレートにしようかな。今度持ってくるから――」
「一緒に買いに行ってその場で渡したらどうだ?」
静かに話を聞いていた柳君がそんなことを言う。
「学校に持ってきたら、果たして放課後まで残っているかどうか」
「……あ、そうか。そうだね」
僕はそれで先週弁当を奪われたんだったね。ちょっと目を離した隙に、そして柳君もたまたま席を外した隙に食われちまったんだったね。絶対忘れないぞ畜生め。
「じゃあ高井君、今日の放課後にでも」
「ああ。HON-JOでも行くか?」
「うーん……チョコレートでいいのかな? 柳君はどう思う?」
「すぐ渡せるなら専門店のケーキなんかでもいいと思うが。そうじゃないなら日持ちするものを選ばないとな」
あ、なるほど。そりゃそうだ。
「食い物以外も喜ぶと思うぞ。Tシャツとかさ」
シャツか……まあ、あまりに奇抜なデザインでもなければ着る人を選ばないとは思うが。
「俺がやった『抜け毛の数だけ腹筋ヒャッハー!!』シャツなんて、もう三年は着てるしな」
……なんだいそのTシャツは。そんなものが実在するのもイヤだが、そんなのを三年も着続けている女性も結構イヤだし……
「あ、全身タイツなんかも喜ぶかもな。一回それ着て目出し帽かぶって暴れまわってみたいとか言ってたし」
…………どんな人だよ。おい。
こうして僕は成熟した女子大生が甘酸っぱい女子高生だった頃に愛用していた使用済みジャージを手に入れた!
……だが、その喜び、その感動は段々薄れていく。
聞けば聞くほど「親しみやすい憧れのお姉さま」から「頼れる先輩の彼女」、そして「ただの変な女子大生」になり、最終的に「あんまり関わりたくない人」にまで落ち込んだ人物像。
高井君のお兄さんの彼女――超が付くほどの体育会系の全身運動神経女・遠野洋子。
――これからなんとなーく関わるんだろうなーなんてことを、僕はこの時から予期していた。ぜひはずれてほしい予想だが、残念ながら僕のこの手の予想ははずれないのである。……はぁ。




