032.五月二十八日 土曜日 前半
それは本当に唐突だった。
その瞬間、本当にプツンと、僕の中の何かが切れた。
八十一高校での生活は、そろそろ二ヶ月が過ぎようとしている。今では一週間の出遅れなどなかったかのように、何の支障もなく日々を過ごせている。
問題があるとすれば。
そう、問題があるとすれば。
八十一高校で過ごすには、僕のスペックが足りなかったということだ。
あるいは、燃料が切れたというべきか。
ある人にとってはただの日常だろう。そう、スペックが高ければ、簡単に超えられるハードルが並んでいただけ。
でも僕にとっては、本当に毎日が綱渡りに等しかった。無理をして我慢をして下を見ないようにして必死こいて渡っていた。
神経をすり減らして日々を過ごしていた――結構その自覚はある。
思えば、たった二ヶ月のことなのに、本当に色々なことがあった。
生命の危機も何度か経験したし、貞操の危機も何度か経験した。恐怖体験なんて日常茶飯事である。クラスメイトは僕に恨みでもあるのかと問いたいくらい色々やらかしてくれる。
もう限界だった。
僕の無意識が、僕の意識に教えてくれた。
もう限界だ、と。
「……一之瀬くん?」
最後の一線を越えさせたのは、朝イチの、覚醒したマコちゃんの背後からの抱擁である。今の彼女……いや、彼にとって、この行為には大した意味はないのだろう。それこそただの挨拶程度なのだろう。
そして僕の反応は、僕自身さえ驚かせた。
抱擁された瞬間、僕の動きが全て止まった。
プツンと。何かが切れたのだ。前触れもなく。
唐突に「ダメだ」と思った。このままじゃダメだ、と。
「ご、ごめん。何か気に障った?」
無反応の僕に、マコちゃんは正面に回って頭を下げた。マコちゃんは基本的に真面目である。あるいは、人の感情の機微に敏感なのかもしれない。
「なんでもないよ」
何かが切れたまま、僕はそう笑った。
もう限界だった。
周囲に振り回されてばかりで、我慢の限界だった。
だから僕は決めた。
――そうだ、女の子を見に行こう。
元々僕が八十一高校を選んだ理由は、隣町の八十三町にある小中高大の一貫教育のお嬢様校・九ヶ姫女学園が近くにあったからだ。
毎日毎日忙しいのと疲れるのとでそこまで行く気力がなかった。
でも、今日は違う。
もう我慢しない。
今は、何より優先してでも心に栄養を与えておかないと。
そうでもしないと、ストレスで焼き切れてしまう。そう思った。
「帰らねえの?」
「うん。ちょっと寄りたいところがあるから」
放課後、いつものように柳君と高井君が帰ろうと誘ってきたが、僕はそれを断った。
今日はもう決めたんだ。
誰がなんと言おうと、僕は九ヶ姫のお嬢様たちを見に行くと! 絶対に見に行くと! 美人と美少女を見に行くと! 決めたんだ!
「なんか顔こええけど……ステロイドでも打ったの?」
どうやら僕の中の猛々しい獣を、高井君は感じ取ったらしい。
「さようなら高井君。また月曜日」
「お、おう。……注射はまだいいと思うぜ?」
僕は二人を置いて、さっさと教室を出た。
帰宅ラッシュに紛れて学校を出てもよかったが、今は一人で行動したい。特に厄介事に巻き込むクラスメイトとは絶対に一緒にいたくない。今日は土曜日なので、クラブがある生徒が教室に残って昼食を取ろうとしているのだ。
どこかで時間を潰して、ラッシュを避けた方が無難だろう。
食堂……は、クラブのある生徒のために解放されている。パン争奪戦もやっている。今はバカ騒ぎを見るのも勘弁してもらいたい。
できれば静かなところへ行きたい。
条件を満たす場所は図書館くらいしか思いつかなかったので、そっちへ行ってみることにした。
八十一高校の図書館は、領地に相応しいくらいには大きい。
ただ利用者は少ないようだが。
ラッシュの喧騒から逃れ、静謐な空気に包まれる。いくらバカが多い八十一高校でも、ここだけは図書館らしく静かな空間として存在していた。並べられた長机に座る生徒は三名で、バラバラに座って何かしら調べ物をしている。
僕は足音にさえ気を遣いつつ、その辺の本棚を眺める。本はあまり読まない。……高校に入ってからは読書なんてものを考える余裕さえなかった。毎日が飛ぶように過ぎていったから。
時間がゆったりと感じられる。
時代を感じさせる本たちを見ていると、変にやる気を出して焦っていた自分が洗われるようだった。でも女の子は見に行くが。
見るでもなく本棚を流し見していると、誰かに肩を叩かれた。僕は驚いて飛び上がった。声を出さなかったことは自分で自分を評価したい。
まさかこんなところでクラスメイトと――?
今の僕にはクラスメイトはモンスターである。絶対に会いたくない連中である。もはや恐怖さえ感じるほどだ。
だが、このままではどうしようもない。
僕は意を決し、ゆっくりと振り返り……ほっとした。
「何か探し物?」
人を安心させる優しい笑顔。そして男を魅了する魔性の笑顔。
そこにいたのは、C組のアイドルしーちゃんだった。
「いや、ちょっと時間を潰してて」
「そうなんだ。よかったら一緒に帰らない?」
「……え?」
「しばらくかかるの? それとも結構早い? 合わせるよ」
合わせるよ。
そんな些細な一言に、振り回され続けてきた僕は感動さえ覚える。
おぉ……プツンと切れて空洞になっていたそこに、じんわりと広がる暖かな何か。僕は今、確かにしーちゃんに癒されている。たぶん魅了されているわけでは違うと思う。だって心臓は痛くないから。
「しーちゃんっ」
「は、はい?」
「僕の話を聞いてくれ! あと女の子見に行こう!」
「……え?」




