023.五月二十日 金曜日
いつか出会うことはわかっていたし、それとなく覚悟もしていた。
昔の人は言いました。
男は家を出たら七人の敵がいる、と。
たぶん奴は、僕にとってその内の一人なんだろう。
家を出て、腱を伸ばす。
最近はこの生活サイクルに慣れてきたのか、起きるのがそんなに苦にならない。それに体力も付いてきたのではなかろうか。見た目は……まあ、もやしっこのままだが。
今日も今日とて、歩くようにそろそろと走り出した。
始めてから約十日が経った。
この無理なく楽々ジョギングが意外と続いている。最初の内は続くかどうか不安だったが、ようやく続けられる自信が持てた。
たぶん、「眠い時は休めばいいや」くらい気軽なスタンスが、僕には合っていたのだろう。こういう毎日の日課として習慣づけるようなことはあまりやったことがなかったので、プレッシャーを感じて気負うほど重く捉えなくて正解だった。
そろそろジョギング用の新しいジャージとシューズを買ってもいいかもしれない。
買い揃えたところで三日坊主で宝の持ち腐れ、なんて無駄な散財はしたくなかったのだ。あと買ったらそれで満足しそうだった、というのもあるが。
いつまでも中学時代のジャージと運動靴じゃかっこわるいしね。特に靴がダサい。白一色の運動靴なんて中学生丸出しだ。いや、中学生だってもっとしゃれた靴履いてるだろう。……学校指定なだけに履き心地は悪くないけど。
今日も八十一大河を上って行く。
先週末から月曜日まで降っていた雨のせいで流れが早くなっていた大河は、いつもの穏やかな姿に戻っていた。
よく見かけるウォーキング中の老夫婦を追い越し、商店街入り口付近からこちらへやってくる体格に不似合いな小さな犬を連れている大きなおっさんを横目に、正面からオシャレな偏光サングラスが輝く長身の金髪女性が走ってくる。
「Hello」
「は、はろー」
擦れ違いに挨拶するようになったのは、ここ数日である。……外人さんだぜ? 挨拶だけだけどしゃべったの初めてだったよ。結構若いと思うけどいまいち歳はわからない。かなりの美人だ。最近はあの人と挨拶を交わすのが密かな楽しみになっている。
意識して見ると、やはり僕と同じように習慣づけて歩いていたり走っていたり犬の散歩をしていたり、常連の顔というものがある。しかもこの辺の人たちは商店街付近、あるいは長く住んでいる人ばかりのようで、ほとんど顔見知りらしい。時々あの人とこの人、この人とあっちの人と、意外な組み合わせが立ち話をしている姿をよく見る。
特に犬連れは本当に全員知り合いなんじゃないかってくらいに一箇所に集まっていることがある。あと僕を見つけると必ず狂ったように吠えたてる小型犬も現れた。あいつはどういうつもりで吠えているんだろう? そして僕をどうしたいんだろう? ……もしやメスか? 僕は女ならば犬にまで軽く見られるのか? あんな小さな小型犬にまで舐められるのか? そうなのか?
早いところ、もやしっこを脱却したいものだ。
最近は息が切れない。そろそろ多少ペースを上げてもいいかもしれない。
でも、このゆるい速度のゆるい時間が、結構好きになっている。人を見るのも面白い。時々意外な発見があったりもするし。
のんびり平和に走っていた。
その時だった。
どんっ
「いてっ」
後ろから、誰かがぶつかってきた。軽くではあるが、掠るといったニアピンではない。
明確に当たる意志があってそうした。
そうとしか思えなかった。
僕にぶつかったそいつは、謝りも振り返りもせず、すたすた走っていく。
――おまえか!
いつも家で踏みしめているフローリングの床の色を少し明るくした感じの短い髪、すらりと伸びた無駄に蹴り技が得意そうな無礼な足、着ている本人の残虐さを物語る血塗られているような赤いジャージ。
奴だ。
一週間ほど前に敗北の味を教えてやった赤ジャージだ。
このルートを走り続ける以上、いつか会うだろうとは思っていた。僕はジョギングを始めてこの方、ルートを変えることはなかった。そして赤ジャージは、少なくとも僕に勝つまではルートを変えないだろうと予想していた。だって負けず嫌いそうだったから。
これは、そう、プライドの問題だ。
負けっぱなしでは終われない。勝つまでやる。
本当に些細な、何の役にも立たない勝負にして、何の自慢にもならない勝利と敗北しかない。どこにでも転がっているような小さな小さな出来事。本当は勝負事と言うにもおこがましいかもしれない。
だが、プライドが掛かっている。人によっては何よりも重いプライドが。
だから僕は、それに答えようと思う。
もし僕が彼女の挑発に乗らなければ、未来永劫僕の勝ち越しで済ませることはできる。正直それでも僕は構わない。だって僕が勝ったから。
付き合う理由もない。前回のは彼女から売ってきたケンカだ。一度は付き合ったのだ、もういいだろうという気もする。
だが、僕は走ろうと思う。
――だってムカつくから! ぶつかりやがって!
僕は速度を上げた。彼女の挑発に乗って。
そして、今日も始まる。
二度目の全力疾走が。
僕が肩を並べると、赤ジャージもスピードを上げた。全速力で走る。地面を蹴り、足を跳ね上げ、頬で風を切る。びゅうびゅうと空気が鳴っていた。
やはり互角。どちらもリードを奪えない。
だが、僕の方には若干の変化があった。
それは、多少体力が付いているということ。
前は途中で干上がり、足腰がガクガクになっていたのを無理して走り続けたが、今回は違う。かなり余裕を持って走り――何!?
横を見ると、赤ジャージが若干リードしていた。
ゴール地点(と僕が勝手に決めている)八十一大橋までは、残り五十メートルほどである。瞬くようにゴールの距離は縮まっていく。
じわじわと距離が空いていく。僕は必死で手と足を動かす。そろそろ肺が苦しい。それでも走る。
追いつけない――絶望を思っても間に合わない。
諦めが脳裏を過ぎった頃、僕らはゴールを駆け抜けた。
負けた。
身体一つ分、彼女の方が速かった。
両手を膝について息を整える。くそー……そういえば彼女、前も僕と同じ距離を全力疾走して、平気な顔をしてそのまま行ったんだっけ。もしかしなくてもジョギングの年季が違うんだろう。
だがそんなことは言い訳だ。
僕は前の僕よりコンディションは良かった。体力的にも多少改善されていたはずだ。そして前回勝っている。
前を見る。
「……」
赤ジャージは立ち止まり、肩越しに僕を見ていた。
「ハッ!」
うわっ、あいつ笑いやがった! 勝ち誇って僕を見ながら笑いやがった! つか僕が見るまで待ってやがった!
僕に敗北と怒りをプレゼントしてくれた赤ジャージは、そのまま悠々と八十三町へ消えていった。
「ち、ちくしょう……!」
悔しさと一緒に、汗がこぼれた。
冷静に考えれば、別に負けてもいいじゃんって言えるくらい、どうでもいいバカなことである。前回の勝負の時だって、終わって筋肉痛になって「ムキになるんじゃなかった」と後悔したくらいなのに。
でも、それでも逃げる気にならないのは、八十一高校のバカさかげんが僕にも伝染してきているってことなのかもしれない。
全然嬉しくないが、しかし、やはりムカつくのでリベンジはしようと思う。
一勝一敗。
これが僕と赤ジャージの、長きに渡る因縁の始まりだった。




