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美女やーめた、と老婆になったら氷の侯爵に求婚されました

作者: 藍沢 理

 帝国の北端、国境に横たわる還らずの森。

 昼なお暗いその森の奥深く、苔むした小屋の中で、ひとりの老婆がしわがれた声を上げて笑った。


「ひゃっひゃっひゃっ。なるほど、なるほど。つまりお前さんは、その美しさが邪魔だから捨てたいと、そう言うのかい?」


 大鍋をかき混ぜる魔女の視線の先には、場違いなほどに美しい少女が立っていた。


 リゼット・アシュリー。十八歳。


 アシュリー伯爵家の長女であり、帝国社交界で「月の雫」と謳われる至宝である。


 月光を織り込んだような銀色の髪に、夜明け前の空を思わせる紫紺の瞳。陶器のように白く滑らかな肌は、触れれば指が吸い付くようだと言われていた。


 しかし、その美しい瞳には悲壮な決意が宿っていた。


「はい、大婆様……皇帝陛下は、私を『人間』として求めてはいません。ただの飾り物、収集癖を満たすための人形として求めているのです」


 リゼットは握りしめた拳を震わせた。

 三日前、皇帝からの勅命が届いた。それは求婚などという生易しいものではなく、召し上げ命令だった。後宮に入れば二度と外の世界を見ることはできない。父である伯爵は歓喜し、娘をリボンのついた箱詰めのようにして差し出すつもりだ。


「私は、私のままで生きたいのです。土に触れ、花を育て、自分の足で歩きたい。そのためなら、この顔などいりません」


 魔女は鍋の手を止め、興味深そうにリゼットを見つめた。


「ふうん。顔を焼くか? それとも薬で爛れさせるか?」

「……追っ手から逃げる必要があります。ただ醜くなるだけでは、すぐに捕まってしまうでしょう。結果、逃れるために顔を焼いた、と難癖を付けられます」

「あの皇帝なら、焼いた顔を見て首ちょんぱじゃろうて。ひょっひょっひょっ。賢い娘だねぇ。気に入った」


 魔女は棚の奥をごそごそと探ると、埃っぽいズタ袋を取り出した。中から引きずり出したのは、一見すると干からびた獣の皮のような、薄汚れた物体だった。


「こいつは『(ババ)スキン』だ。太古の昔、呪いをかけられたとある姫君が残した抜け殻さ」


 魔女はその皮を、リゼットの足元に放り投げた。


「被ってみな。頭からすっぽりと、爪先までな」


 リゼットは躊躇わなかった。ドレスの裾をまくり、その生暖かいような、奇妙な手触りの皮の中に身を滑り込ませる。


 瞬間、視界が歪んだ。


 骨が軋み、筋肉が縮むような感覚。激痛ではないが、全身が泥の中に沈んでいくような重苦しさ。


「……う、うう」


 呻き声を上げて、リゼットは床に手をついた。

 視界が低い。

 目の前にある自分の手を見て、リゼットは息を呑んだ。白魚のようだった指は節くれ立ち、茶色いシミが浮き出ている。爪は分厚く濁り、肌は枯れ木のようにカサカサだ。

 小屋の隅にある水瓶を覗き込むと、そこには腰の曲がった、七十は過ぎたであろう老婆が映っていた。


「見事だねぇ。魔力遮断の効果もある。これを被っている限り、どんな魔導師もお前さんを『魔力を持たないただの老婆』としか認識できんよ」


 魔女は愉快そうに喉を鳴らした。


「ただし、忠告だ。その皮は一度被れば、お前の皮膚と同化する。湯浴み水浴びのために一時的に脱ぐことはできても、すぐに着なければ急激に魔力を吸われて死ぬことになるよ」

「……二度と戻れないのですか?」

「完全にその皮を捨て去り、人間に戻る条件は二つだけ。……一つは『死ぬ気で正体を晒す覚悟』じゃ」

「もう一つは?」


 老婆の声になった自分の喉に驚きつつ、リゼットは問い返す。


「……ま、乙女チックな話だが『真実の愛』ってやつを見つけた時だ。この皮は、中身の魂を愛してくれる相手の前では脆くなる」

「真実の愛、ですか」


 リゼットは自嘲気味に笑った。老婆の顔で笑うと、顔中の皺が深くなる。


「美貌目当ての男たちに追われてきた私に、最も縁遠い言葉ですね」

「カッカッカ! 違い、ねぇ……さあ、行きな。国境を越えるなら北だ。雪深いアイゼン侯爵領なら、煌びやかな皇帝の目も届くまいよ」


 リゼットは深く一礼した。


「ありがとうございます、大婆様」


 絶世の美女リゼット・アシュリーはこの世から消え失せた。後に残ったのは、腰の曲がった名もなき老婆ただ一人であった。



 帝国の北に隣接する王国。そのさらに北端に位置するアイゼン侯爵領は、一年の半分が雪に閉ざされる極寒の地である。

 国境の山脈を越えたリゼットは、猛吹雪の中を歩いていた。


 重い……体が、鉛のようだわ。


 婆スキンの呪いは、見た目だけでなく身体能力にも影響を及ぼしていた。

 関節が痛む。息が続かない。十八歳の気力で足を動かそうとしても、七十歳の肉体が悲鳴を上げるのだ。


 本来のリゼットは、屋敷の温室で薬草を育てるのが趣味の、いわゆる「土いじり令嬢」だった。多少の体力には自信があったが、この老体と雪道のコンボは過酷すぎた。


「はぁ、はぁ……ここで行き倒れたら、笑い話にもならないわね」


 数日かけて山を越え、ようやく街道らしき場所に出たところで、リゼットの膝が折れた。


 どさり、と雪の中に倒れ込む。


 冷たさが感覚を奪っていく。


 薄れゆく意識の中で、遠くから馬のいななきと、重厚な車輪の音が聞こえた気がした。


「――止まれ」


 凛とした、冷たい男の声が響く。


 雪を踏みしめる音が近づいてくる。


「……死体か?」

「いえ、閣下。まだ息があります。老婆のようですが……」


 誰かがリゼットの体を揺すった。

 リゼットは渾身の力を振り絞って目を開けた。視界の端に映ったのは、黒塗りの豪奢な馬車と、その傍らに立つ一人の青年だった。


 長身痩躯。北国の冬空を映したような銀青色の髪。

 そして何より目を引くのは、その瞳だ。

 感情の一切を凍結させたような、絶対零度のアイスブルー。整ってはいるが、あまりにも冷ややかな美貌だった。


 ……きれいな人。


 男に見惚れたことなどないリゼットだが、その青年の冷徹な美しさには、思わず見入ってしまった。

 だが、青年の言葉は無慈悲だった。


「身元不明の老婆か。この寒さだ、助けても長くはもつまい。……行くぞ」

「ちょっ!? か、閣下! 見捨てるのですか?」

「我々は急いでいる。それに、施しを待つだけの者を養う余裕は、我が領にはない」


 従者の声を切り捨て、青年――アイゼン侯爵アレクセイは、踵を返そうとした。


 その背中を見て、リゼットの中にある「貴族の矜持」と、生き残るための「執念」が火花を散らした。


 施し? 誰がそんなものを求めたというのか。

 リゼットは震える手で、雪の下から何かを掴み取ると、しわがれ声を張り上げた。


「……待ちなされ、若造」


 アレクセイの足が止まった。

 彼はゆっくりと振り返り、雪に埋もれた老婆を冷たく見下ろした。


「私を若造と呼ぶか。……何か言い残すことは?」

「その馬車の……車輪じゃ」


 リゼットは、馬車の後輪を指差した。


「軸が熱を持っておる。油が切れて、雪が噛んでおるのじゃろう。このまま走れば、次の峠で車輪が外れて、あんたさんらは谷底へ真っ逆さまだ」

「何?」


 アレクセイが眉をひそめ、従者に目配せをする。従者が慌てて車輪を確認し「あッ!」と声を上げた。


「か、閣下! 本当です! 軸が焼き付く寸前です!」

「……気付かなかったのか」

「も、申し訳ありません!」


 アレクセイは再び老婆に向き直った。その瞳に、わずかな興味の色が浮かぶ。


「ただの行き倒れではないようだな……なぜ分かった?」

「音じゃよ……それと、におい」


 リゼットは手に持っていた草を掲げた。


「この辺りには『竜の髭』という草が生えておる。摩擦熱に反応して独特の焦げ臭さを出すのじゃ……わしのような年寄りには、鼻と耳くらいしか残っておらんからの」


 それはハッタリ半分、知識半分だった。薬草学に精通していなければ出ない言葉だ。


 アレクセイはしばらく無言でリゼットを見つめていたが、やがてふっと口元を緩めた。ほんの数ミリ、氷が解けたような表情だった。


「有能な者は嫌いではない」


 彼は外套を脱ぐと、それを無造作にリゼットの上に放り投げた。


 温かい。上質な毛皮の匂いと、彼の体温が残っている。


「乗れ。修理の間、暖を取らせてやる。……城に着いたら、働いてもらうぞ。婆さん」


 リゼットは外套に顔を埋め、口の中で小さく呟いた。


「……望むところじゃ、若造」


 こうして「老婆マーサ」の第二の人生が幕を開けたのである。



 アイゼン侯爵家の居城は、黒い岩肌を持つ要塞のような城だった。

 使用人たちは皆、規律正しく、無駄口を叩かない。主であるアレクセイの方針が隅々まで行き届いているようだ。

 リゼットに与えられた役割は「庭師見習い兼、雑用」だった。


「ここがお前の職場だ。好きにしていいが、枯らしたら即刻追い出す」


 案内されたのは、城の裏手にある広大なガラス張りの温室だった。外は極寒の雪景色だが、温室の中は魔道ボイラーによって春の陽気が保たれている。


 ただし、温室内は酷いものだった。

 希少な薬草も観賞用の花も、雑然と植えられ、伸び放題になっている。手入れをする者がおらず、ただ「置いてある」だけの状態だ。


 ……許せない!


 リゼットの「土いじり令嬢」としての魂が燃え上がった。

 植物たちが「苦しい」「狭い」「光が足りない」と訴えている。彼女は腰の痛みを忘れ、腕まくりをした。


「やれやれ、これでは花も窒息してしまうわい。……待っておれ、今楽にしてやるからの」


 その日から、リゼットの戦いが始まった。

 朝は誰よりも早く起き、土を作り、剪定をし、水路を清掃する。

 老婆の体は思うように動かないが、リゼットには知識があった。効率的な肥料の配合、魔力を使った成長促進の歌、そして植物ごとの最適な配置。


 若い庭師たちが「そんな枯れ木みたいな婆さんに何ができる」と嘲笑っていたのは最初だけだった。

 一週間もすると、温室は見違えるように整い、死にかけていた『月光蘭』が奇跡的に花を咲かせたのだ。


「す、すげぇ……。あの婆さん、何者だ?」

「マーサ婆さん、この肥料の配合、教えてくれよ!」


 気付けば、リゼットは「物知りなマーサ婆さん」として、庭師たちの隠れたリーダーになっていた。


 そんなある日の夕暮れ時。

 一日の作業を終え、温室のベンチで腰を叩いていたリゼットの元に、不意の来客があった。


「……随分と変わったな」


 アレクセイだった。

 執務服を少し着崩し、疲労の色を滲ませた侯爵が、入り口に立っていた。


 リゼットは慌てて立ち上がろうとしたが、アレクセイは手でそれを制した。


「そのままでいい。……少し、風に当たりに来ただけだ」


 彼はリゼットの隣――使い古された木箱の上――に、躊躇なく腰を下ろした。

 最高級の生地で仕立てられたズボンが汚れるのも気にしない。彼は深く息を吸い込み、温室に満ちる緑の香りを胸いっぱいに取り込んだ。


「静かだ」


 ポツリと、独り言のように彼が言う。


「城の中は、どこもかしこもうるさい。貴族たちの腹の探り合い、縁談の押し付け、予算の奪い合い……。息が詰まる」


 横顔を見ると、彫刻のように整った顔に、深い陰が落ちていた。


 リゼットは知っていた。彼が若くしてこの広大な領地を継ぎ「氷の侯爵」と恐れられるほどの冷徹さで統治しなければならなかった苦労を。


 そして、その冷徹さの裏に、繊細な心が隠されていることも。


 ……この人は、寂しいのね。


 リゼットは立ち上がって、ポットから湯を注いだ。

 乾燥させたカモミールと、疲労回復効果のある「聖女の涙」という葉をブレンドした特製茶だ。


「飲みなされ、旦那様。眉間の皺が伸びますよ」


 無骨な土焼きのカップを差し出す。

 アレクセイは驚いてリゼットを見上げる。


「俺に……こんな安っぽいカップで茶を出すのは、城でお前くらいだ」

「器なんぞで味は変わりませんよ。冷めないうちにどうぞ」


 ぶっきらぼうな言い草にアレクセイは苦笑し、カップに口をつけた。一口飲んで、ほう、と白い息を吐く。


「……悪くない。不思議な香りだ」

「疲れが取れるまじないをかけておきましたからね」

「まじないか。……ふっ、お前は魔女か何かか?」

「ただの年寄りですよ」


 アレクセイの瞳から、険しい氷の色が消えていく。

 彼はカップを両手で包み込みながら、リゼットの方を向いた。


「なあ、マーサ……なぜ人は、外側ばかりを着飾りたがるのだろうな」

「ほっほ。それは旦那様、中身に自信がないからですよ」

「違いない」


 アレクセイが声を上げて笑った。その笑顔は、年相応の青年のもので、リゼットの心臓が不覚にも跳ねた。


 ……笑うと、こんなに可愛い顔をするんだ。


 胸の奥が温かくなる。けれど同時に、婆スキンの重さがずしりと増した気がした。彼が心を許しているのは「欲のない老婆」だからだ。中身が「着飾った令嬢」だと知れたら、この穏やかな時間は二度と訪れないだろう。


「……また来る」


 茶を飲み干したアレクセイは、立ち上がった。


「その茶、気に入った。明日も淹れてくれ」

「はいはい。気が向いたらね」

「生意気な婆さんだ」


 アレクセイは軽やかな足取りで去っていった。

 残されたリゼットは、耳で鳴る心臓の音を聞きながら、深くため息をついた。


「……困ったわ。これじゃあ、お婆ちゃん役も命がけじゃないの」

 

 温室の窓の外では、雪が静かに降り積もっていた。



 それからというもの、氷の侯爵アレクセイの「温室通い」は日課となってしまった。

 夕刻になると、彼は執務室を抜け出し、リゼットの元へとやってくる。

 それはリゼットにとって、至福であり、かつ寿命の縮む時間だった。


「マーサ。今日は土産がある」

「おやまあ。またですか、旦那様」


 アレクセイが美しい包み紙から取り出したのは、王都で流行しているという高級菓子だった。

 ただし、それはフワフワに柔らかい蒸し菓子ばかりだ。


「これなら歯が悪くても食べられるだろう? 栄養価も高いらしい」

「……お気遣い、痛み入ります」


 リゼットは引きつった笑顔で礼を言った。

 中身は十八歳なので、本当はカリカリのナッツが入ったクッキーや、歯ごたえのある肉料理にかぶりつきたい。しかし「七十過ぎの老婆」という設定を守るため、リゼットは毎日アレクセイの前で、柔らかい離乳食のような菓子をハフハフと食べざるを得ないのだ。


「美味いか?」

「ええ、ええ。ほっぺたが落ちそうですわい」

「そうか。なら、もっと取り寄せよう」


 アレクセイは満足げに目を細め、無防備にソファに実を預ける。温室に彼専用の家具が運び込まれたのだ。

 その姿は、まるで飼い主の膝でくつろぐ大型犬のようだった。


 普段、騎士団や貴族たちの前で見せる「絶対零度の威圧感」はどこへやら。彼はここで、無防備な背中をリゼットに預けきっている。


 この人、本当に警戒心がないわね……。


 リゼットは呆れつつも、甲斐甲斐しく茶を継ぎ足す。

 アレクセイがここまで心を許すのは、リゼットが「恋愛対象外の老婆」であり、かつ「利害関係のない部外者」だからだ。ゆえに、彼はリゼットに愚痴とも相談ともつかない言葉をこぼす。


「……また、夜会への招待状だ。どいつもこいつも、俺の隣に娘を立たせたがる」

「旦那様はおモテになりますからねぇ」

「顔と爵位だけだ。もし俺がただの農夫なら、誰も見向きもしないだろうさ」


 アレクセイは自嘲気味に呟き、不意にリゼットの手を取った。

 ビクッ、とリゼットの体が跳ねる。

 老婆のシワシワの手が、彼の大ぶりで男性的な掌に包み込まれる。熱いほどの体温が伝わってきた。


「だが、お前は違う。俺が侯爵だろうと何だろうと、ただの『若造』として説教をしてくる。……その手が、俺には心地いい」

「だ、旦那様……」

「お前の手は、温かいな。働き者の手だ」


 アレクセイは愛おしげに、リゼットの節くれだった指を親指で撫でた。

 リゼットの口から心臓が飛び出しそうになっていた。


 だ、駄目よ! そんな熱っぽい目で見つめないで! 中身は十八歳の乙女なのよ!!


 顔から火が出る。

 もし今の状況で婆スキンが剥がれたら「侯爵がメイドを口説いている」と見られてしまうだろう。


 しかし、彼にとっては「祖母への敬愛」に近い感情なのだ。この認識のズレが、リゼットを精神的に追い詰める。


「……手が冷えておいでです、旦那様。もっと温かい部屋へお戻りなさい」


 リゼットは理性を総動員し、彼の手をそっと押し返した。


「これ以上長居すると、執事長殿に叱られます。わしが」

「……ふっ、そうだな。マーサを困らせるわけにはいかないか」


 アレクセイは名残惜しそうに立ち上がると、リゼットの肩に自分のショールを掛けた。


「風邪を引くなよ。……おやすみ、マーサ」


 甘い声で囁いて彼は去っていく。

 扉が閉まった瞬間、リゼットはその場にへたり込んだ。


「……心臓がもたないわ」


 婆スキンの下で、リゼットは真っ赤な顔を覆った。

 安らぎを求める彼を騙している罪悪感。そして、日増しに募る彼への淡い恋心。

 その二つが、リゼットの胸を締め付けていた。



 事件が起きたのは、満月が青白く輝く夜だった。


 ……限界だわ。痒くてたまらない。


 丑三つ時。草木も眠る深夜。

 リゼットは温室の奥にある、水生植物を育てるための大きな泉の前に立っていた。


 魔女から授かった『婆スキン』は高性能だが、定期的に脱いで外気に当て、自分自身の皮膚も洗わなければ、魔力の澱が溜まって激しい痒みを引き起こすのだ。


 ここ数日、アレクセイが頻繁に来るせいで手入れをサボっていたツケが回ってきていた。


「今なら誰もいない。……少しだけ、魔法を解きましょう」


 リゼットは周囲を入念に確認すると、首の後ろにある留め具――皮膚のたるみに擬態したフック――に指をかけた。


 パチン、と小さな音がして、魔術的な拘束が解ける。

 ズルリと、重苦しい「老い」が足元へ滑り落ちた。


「ふぃぃぃっ……!」


 解放感が全身を駆け巡る。

 月明かりの下、現れたのは、本来のリゼットの姿だった。

 腰まで届く銀色の髪が、解き放たれてキラキラと舞う。夜空色のドレス――下着代わりの薄いシュミーズ――が、白い肌を包んでいる。

 リゼットは泉の水をすくい、そっと顔を洗った。

 冷たい水が心地いい。老婆の皺の中に溜まっていた鬱屈が洗い流されていく。


「ああ、生き返った心地がする……」


 リゼットは泉の縁に座り、水面に映る自分の顔を見つめた。

 そこにあるのは「月の雫」と称賛された美貌。だが今となっては、この顔こそが忌々しい。


「この顔のせいで、私は私を見てもらえなかった。……皮肉なものね、老婆の姿のほうが、ずっと愛されているなんて」


 リゼットは自嘲しながら、濡れた髪をかき上げた。


 その時だった。


 カチャリ、と静寂な温室に、ドアノブが回る音が響いた。


「ぴゃっ!」


 リゼットの全身が凍りついた。

 まさか。こんな時間に。

 入り口のほうから、足音が近づいてくる。眠れない夜に散歩をする、あの独特の、重く静かな足取り。


 アレクセイだ。


 まずい、隠れなきゃ!


 リゼットは足元の婆スキンを掴もうとした。

 だが、焦った指先が空を切る。婆スキンは泉の石段を滑り落ち、水面へとポチャンと落ちてしまった。


「うそでしょ……!」


 拾っている時間はない。足音はもう、植え込みのすぐ向こうまで来ている。

 リゼットはとっさに、泉のそばにある大きな月光蘭の茂みに身を潜めた。


 直後、アレクセイが姿を現した。

 彼は寝間着の上にガウンを羽織り、気だるげに髪をかき上げている。不眠症気味の彼は、こうして夜中に温室の空気を吸いに来ることがあるのだ。


「……マーサ? 起きているのか?」


 アレクセイが声をかける。泉の水音が聞こえたからだろう。


 リゼットは息を殺した。心臓の音がうるさすぎて、彼に聞こえてしまうのではないかと怖くなる。


 アレクセイの視線が、泉のほうへ向いた。

 そして、彼の動きが止まった。


 茂みの隙間から、月光が差し込んでいた。

 その光の中に、隠れきれていない銀色の髪と、白磁のような肩が浮かび上がっていたのだ。


 アレクセイは息を呑んだ。

 彼の位置からは、リゼットの顔は見えない。見えるのは、月光を浴びて輝く銀髪と、透き通るような華奢な背中、そして美しい横顔の輪郭だけ。

 しかし、それだけで十分だった。


「……精霊?」


 アレクセイの口から、夢遊病者のような声が漏れた。

 彼は吸い寄せられるように足を踏み出した。


「そこにいるのは……誰だ?」


 リゼットはパニックになった。

 バレる。顔を見られたら終わりだ。帝国の手配書にある「銀髪の美女」だと知れれば、即座に捕まる。


 いや、それよりも――。

 嫌だ。彼に知られたくない。私が彼を騙していたことを!


 リゼットは覚悟を決めた。

 足元の石を掴み、力いっぱい反対側の壁へと投げつける。

 ガシャーン!

 植木鉢が割れる派手な音が響いた。


「なっ!?」


 アレクセイが驚いて音のした方へ振り返る。

 その一瞬の隙だ。

 リゼットは泉に飛び込み、沈んでいた婆スキンをひっつかむと、濡れるのも構わず頭から被った。


 グチャリ、と嫌な音がして、視界が歪む。骨が縮み、皮膚がたるむ。

 美女から老婆へ早変わり。


 アレクセイが振り返った時、そこにはずぶ濡れになった老婆マーサが、腰をさすりながら立っていた。


「い、痛たた……。すべって転んでしまいましたわい」

「マーサ!?」


 アレクセイが駆け寄ってくる。


「大丈夫か! ……いや、今、ここに誰か居なかったか?」


 彼はリゼットを抱き起こしながらも、キョロキョロと周囲を見回している。


「誰かとは?」

「女性だ。信じられないほど美しい……銀色の髪をした」


 アレクセイの瞳は熱を帯び、どこか焦点が合っていなかった。


「月光を浴びて、泉のほとりに座っていたんだ。この世のものとは思えない、神々しい姿だった」


 リゼットは内心で冷や汗を滝のように流しながら、首を横に振った。


「はて? わしは水浴びをしておりましたが、他には誰も……。旦那様、夢でも見ておいでで?」

「夢……? 俺が?」


 アレクセイは呆然と、誰もいない泉を見つめている。

 そこには微かに、甘い花の香りと、リゼットの残り香が漂っていた。


「夢なものか。この香り……確かにあそこにいたんだ。私の理想を具現化したような、清らかな存在が」


 アレクセイは自分の額に手を当て、深い吐息をもらす。


「……疲れているのか。だが、あんなに鮮烈な幻覚があるだろうか」


 彼はリゼットに向き直った。その目は真剣そのものだった。


「マーサ。この温室には、昔から何か……精霊のようなものが住んでいるという伝承はないか?」

「へ?」

「俺は見たんだ。きっと、この庭の主だ。お前が丹精込めて手入れをしたから、姿を現してくれたに違いない」


 話が飛躍しすぎよ、旦那様!


 リゼットはツッコミを入れそうになって、ぐっと堪えた。

 正体がバレるよりは「精霊」と勘違いされているほうが百倍マシだ。


「さあ……この庭は古いですから、何かがいてもおかしくはありませんな」


 リゼットの答えに、アレクセイは少年のように目を輝かせた。


「やはりそうか……美しかった。まるで月の女神のようだった」


 彼はうっとりと、先ほどまでリゼットが座っていた空間を見つめている。


 その横顔を見て、リゼットの胸がチクリと痛む。


 ……結局、この人も「見た目」なのね。


 普段は「着飾った女は嫌いだ」と言っている彼が、一瞬見ただけのリゼットの美貌にこれほど心を奪われている。

 中身の「マーサ」と過ごした穏やかな時間は、あの美貌のインパクトの前では霞んでしまうのか。


「……風邪を引きますよ、旦那様。お部屋へお戻りください」


 リゼットの声は、少しだけ冷たかった。

 しかしアレクセイに気づいた様子は無かった。


「ああ。……ありがとう、マーサ。お前のおかげで、素晴らしいものが見られた」


 彼は夢見心地のまま、ふらふらと温室を出ていった。


 残されたリゼットは、濡れた婆スキンの中で、小さく鼻をすすった。


「……馬鹿な人」


 彼が恋したのは、リゼットの「外側」だ。

 けれど、彼が心を許しているのは、リゼットの「偽物」だ。

 彼の心の中に、本当の「リゼット」の居場所はどこにもない。


 その事実は、リゼットが思っていた以上に、深く心を傷つけた。



 あの一件以来、リゼットの心は曇天だった。

 原因はもちろん、アレクセイである。

 彼は相変わらず毎日のように温室に通ってくるのだが、その目的が微妙に変わっていた。


「マーサ……昨晩は、出なかったか?」

「出ませんよ。幽霊じゃあるまいし」

「精霊だと言っているだろう」


 アレクセイは残念そうに肩を落とし、持参したバスケットから何かを取り出した。

 最高級の銀皿に乗せられた、色とりどりの果物と蜂蜜漬けのナッツだ。


「これは供物だ。甘い香りに誘われて、また姿を見せてくれるかもしれない」


 彼はそれを、マーサではなく、あの夜リゼットが隠れていた泉のほとりに恭しく供えたのである。


 ……ほんとに馬鹿みたい。


 リゼットは剪定鋏をカチャカチャと鳴らしながら、沸き上がる黒い感情を噛み殺した。


 アレクセイは、目の前にいる「中身の本人」には見向きもせず、記憶の中の「美しい外見」に恋い焦がれている。

 自分が自分自身に嫉妬するなんて、これほど滑稽で惨めな話はない。


「なあ、マーサ。精霊というのは、どんな会話を好むのだろうか」


 そんな事つゆ知らず、アレクセイが真剣な顔で相談してくる。


「さあねえ。精霊なんてものは気まぐれですから、男の期待通りになんて動きませんよ」


 リゼットが棘のある言い方をしても、彼は気にする様子もない。


「あの夜……彼女の瞳は、とても悲しそうだった」


 ふと、アレクセイが独り言のように呟いた。

 リゼットの手が止まる。


「悲しそう、ですか?」

「ああ。美しかったが、それ以上に……泣き出しそうな顔をしていた。まるで、鳥籠の中に閉じ込められた小鳥のような」


 アレクセイは遠い目をして、泉の水面を見つめた。


「俺には分かるんだ。あれは、自由を渇望する者の目だ。……俺自身が、この侯爵家という檻に縛られているからな」


 リゼットは息を呑んだ。

 彼はただ顔を見ていたわけではなかったのか。

 一瞬の邂逅の中で、彼だけはリゼットが抱えていた「飾り物としての孤独」と「自由への渇望」を見抜いていた。


 皇帝でさえ、父でさえ気づかなかった、リゼットの魂の叫びを。


 ……ずるい。


 そんなことを言われたら、嫌いになれないではないか。

 リゼットの胸の奥が、ぎゅっと熱くなる。

 老婆の皮の下で、リゼットは俯いた。


「……もし、その精霊がまた現れたら、どうなさるおつもりで?」

「まずは礼を言いたい。その美しい姿を見せてくれたこと、そして……俺に『守りたい』と思わせてくれたことに」


 アレクセイの瞳は、氷のように澄んでいて、けれど炎のように熱かった。


 リゼットはもう何も言えなかった。

 彼は本気だ。本気で、あの夜の幻影に恋をしている。

 そしてその想いが強ければ強いほど、リゼットは「マーサ」という嘘の殻の中に閉じこもるしかなくなるのだ。


「……諦めが悪い男は嫌われますよ」

「構わん。俺は一度決めた獲物は逃がさない主義だ」


 アレクセイはニヤリと笑うと、ようやくマーサのほうを向いた。


「もちろん、お前への菓子も忘れていないぞ。今日はプリンだ」

「……どうも」


 リゼットは出されたプリンを口に運びながら、甘さと苦さが入り混じった味を噛み締めた。

 この奇妙な三角関係が、いつまでも続くわけがない。

 リゼットはそんなふうに感じていた。



 雪解けの季節が近づいたある日。

 アイゼン侯爵領の城下町が、にわかに騒がしくなった。

 帝国からの「使節団」と称する一団が、国境を越えてやってきたのだ。


「開門! 帝国皇帝陛下の勅使である!」


 城門の前で、高圧的な声が響き渡る。

 リゼットは温室の窓から、その光景を見て血の気が引いた。


 黒い鎧に身を包んだ騎士たち。その先頭に立つのは、見覚えのある男――皇帝直属の近衛騎士団長、ガレンだった。

 彼は鼻が利く。リゼットの逃亡を執拗に追いかけてきた「猟犬」だ。


 まさか、ここまで追ってくるなんて……。


 リゼットは震える手で、婆スキンの襟元をかき合わせた。

 魔女は言っていた。「魔力遮断の効果がある」と。だから魔法探知には引っかからないはずだ。

 けれど、彼らは物理的な捜索をしに来たのだ。


 城のエントランスホールで、アレクセイとガレンが対峙した。

 リゼットは物陰からその様子を窺う。


「アイゼン侯爵。突然の訪問、失礼する」


 ガレンは慇懃無礼に頭を下げた。その目は笑っていない。


「我が国より、国宝級の『至宝』が盗み出された。その盗っ人が、貴殿の領地へ逃げ込んだという情報がある」

「至宝だと?」


 アレクセイは玉座に座ったまま、冷ややかな視線を浴びせる。


「我が領には、盗っ人を匿うような余裕はない。帰れ」

「そう邪険になさるな……盗まれたのは『月の雫』と呼ばれる、銀髪の美しい娘だ」


 アレクセイの眉がピクリと動いた。

 銀髪の娘。

 その言葉が、彼の脳裏に焼き付いている「温室の精霊」とリンクしたのが、リゼットには分かった。

 アレクセイの中に、疑念の種が生まれた瞬間だ。


「……ほう。娘一人のために、近衛騎士団が動くのか」

「皇帝陛下のご執心ゆえな。侯爵、貴殿の城にも銀髪の女が紛れ込んでいないか?」

「知らん」


 アレクセイは即答した。


「我が城にいるのは、むさ苦しい騎士と、年老いた使用人ばかりだ」

「口では何とでも言える。……そこでだ」


 ガレンは懐から、禍々しい輝きを放つ水晶玉を取り出した。


「これは宮廷魔導師が作った『真実の鏡石』だ。いかなる変装魔法や幻影も無効化し、対象の真の姿を映し出す」


 リゼットの心臓が一瞬止まった。

 婆スキンは強力なアーティファクトだが、帝国の最新鋭の魔道具に対抗できる保証はない。

 しかも、ここはアレクセイの城だ。

 もしリゼットが見つかれば、アレクセイは「帝国からの逃亡犯を隠していた」として、国際問題に発展しかねない。


「侯爵。貴殿にやましいことがないのであれば、城内の捜索を許可願いたい。使用人全員をこの鏡石で確認させてもらえれば、すぐに帰ろう」


 ガレンの言葉は、提案ではなく脅迫だった。拒否すれば、それは「犯人を匿っている」と認めることになる。


 アレクセイは沈黙した。

 その鋭い視線が、ガレンを、そして背後の騎士たちを射抜く。やがて、彼は静かに口を開いた。


「……いいだろう」

「賢明な判断だ」

「ただし」


 アレクセイが立ち上がってガレンの前に進み出る。その身長差と威圧感に、ガレンが一歩後ずさった。


「私の大切な臣下たちを疑い、侮辱するのだ。もし何も出なかった場合は、それ相応の『落とし前』をつけてもらうぞ」

「……承知した」


 交渉は成立してしまった。

 アレクセイの命令が下る。


「総員、中庭へ集合せよ。……庭師や下働きも含めて、全員だ」


 リゼットは温室へ逃げ込み、陰でガタガタと震えていた。

 逃げ場はない。

 中庭に集められれば、一人ずつあの水晶玉の前に立たされる。

 婆スキンを見破られるか、あるいはその場で皮を剥がされるか。

 どちらにせよ、待っているのは破滅だ。


 どうしよう……どうすれば……。


 逃げるか? 今から森へ走っても、騎士たちの馬には追いつかれる。隠れるか? 欠席者がいれば、真っ先に怪しまれる。リゼットの脳裏に、アレクセイの笑顔が浮かんだ。


『お前の手は、温かいな』


 不器用で、優しい彼。

 あの人に縄をかけさせるわけにはいかない。


 リゼットは涙を拭った。

 覚悟を決めるしかなかった。

 魔女の言葉が蘇る。


『脱ぐ条件……お前さんが死ぬ気で正体を晒す覚悟を決めた時』


「……行きましょう」


 リゼットは震える足で踏み出した。

 老婆の重たい足取りで、処刑台のような中庭へと向かって。



 中庭には、百人近い使用人たちが整列させられていた。

 空気は張り詰め、誰も口を聞かない。

 ガレンが持った水晶玉が、一人ひとりの顔の前にかざされていく。


「次!」


 水晶玉は反応しない。当然だ、誰も変装などしていないのだから。


 リゼットは列の最後尾に並んでいた。

 彼女の前には、親しくしてくれた若い庭師がいる。


「大丈夫だ、マーサ婆さん。俺たちがついてる」


 彼はリゼットが怯えていると見抜き、背中をさすってくれた。その優しさが今はつらい。



 アレクセイはテラスの上から、無表情でその様子を見下ろしていた。

 だが、その心中は穏やかではなかったはずだ。

 彼の脳裏には、数日前の夜の光景――銀髪の精霊の姿――が焼き付いている。


 もし、あの精霊が実在するなら……彼女もこの列の中にいるのか?


 アレクセイの視線が、列の中を彷徨う。だが、そこに銀髪の美女はいない。いるのは見慣れた使用人たちだけだ。



 列が進む。

 あと十人。あと五人。

 リゼットの番が近づいてくる。

 心臓が破裂しそうだった。

 私がバレたら、旦那様は何と言うだろう。

 軽蔑するだろうか。騙していたのかと、怒るだろうか。

 怖い。

 皇帝に捕まることよりも、アレクセイに嫌われることのほうが、今のリゼットには何倍も怖かった。


「次! ……む、なんだこの汚い婆は」


 ガレンの顔が歪む。

 ついに、リゼットの番が来たのだ。

 ガレンは露骨に嫌悪感を露わにし、鼻をつまむ仕草をした。


「おい侯爵、こんな死に損ないまで調べる必要があるのか?」


 テラスのアレクセイが眉をひそめる。


「彼女は我が家の庭師だ。……言葉を慎んでもらおうか」

「フン、まあいい。さっさと済ませろ」


 ガレンが水晶玉をリゼットの顔の前に突き出した。

 紫色の不気味な光が、リゼットの瞳を覗き込む。


 ドクン。


 水晶玉の中の光が、激しく明滅を始めた。


「……ん?」


 ガレンの目が細められる。


「反応があるな。……微弱だが、魔力の干渉を感じる」


 周囲がざわめいた。


「おい婆、貴様、何か身につけているな?」


 ガレンの手が伸びてくる。リゼットの肩を掴み、乱暴に揺さぶる。


「魔道具か? それとも、貴様自身が……」


 もう限界だった。これ以上調べられて正体がバレてしまえば、旦那様の名誉が傷ついてしまう。

 けれど、この皮を脱いだら、リゼットは社会的に死ぬ。あるいは帝国に連行されて、処刑されるかもしれない。


 それでも構わない。旦那様の名誉を守らねば。


『死ぬ気で正体を晒す覚悟』


 無様に姿を晒す前に、せめて自分の意志で。


「……離しなされ」


 リゼットは老婆の声で毅然と言い放ち、ガレンの手をはねのけた。


「貴様っ!?」

「汚い手で触るな、息が臭い、と言っておるのじゃ」


 リゼットはテラスを見上げた。

 そこには、驚いた顔をするアレクセイがいた。

 リゼットは彼に向かって、深く、深く一礼をした。

 それは臣下の礼ではなく、淑女としてのカーテシーだった。腰の曲がった老婆の姿のままで、優雅に、完璧に。


「さようなら、優しい旦那様」


 リゼットの手が、首の後ろの留め具にかかった。

 パチン。

 小さな音が、静寂な中庭に響き渡った瞬間、世界が色を変えた。


 リゼットの体から溢れ出したのは、目も眩むような白銀の光だった。


 ガレンが驚いて飛び退く。

 光の中で、薄汚れた老婆の皮が、枯れ葉が風に舞うようにボロボロと崩れ去っていく。

 曲がっていた腰が伸び、縮こまっていた手足がしなやかに広がる。

 シミだらけの肌は弾け飛び、その下から、朝露に濡れた花弁のような白磁の肌が現れる。


 光が収束し、粒子となって霧散した時。

 そこに立っていたのは、もう老婆のマーサではなかった。


 陽光を反射して輝く銀色の髪。

 長い睫毛に縁取られた、紫紺の瞳。

 着ている服こそ土に汚れた庭師の麻服だったが、その姿は、どんな豪華なドレスを纏った貴婦人よりも圧倒的に美しくて気高かった。


 帝国の至宝「月の雫」リゼット・アシュリー。その真の姿が、衆人環視の中に晒されたのだ。


「なっ……!?」


 中庭を埋め尽くす百人の使用人たちが、一斉に息を呑んだ。


「ま、マーサ婆さん……?」


 隣にいた若い庭師が、腰を抜かしてペタリと座り込む。

 誰も言葉を発せない。あまりの美しさと、あまりの変貌ぶりに、脳の処理が追いつかないのだ。


 だが、一人だけ、歓喜の声を上げた男がいた。


「やはりこいつだったぞ!!」


 ガレンだ。彼は獰猛な笑みを浮かべ、リゼットを指差した。


「見つけたぞ『月の雫』! こんな所に隠れていたか! 確保しろ! 皇帝陛下の元へ連れ帰るのだ!」


 ガレンの号令で、呆けていた騎士たちが我に返り、一斉にリゼットへ殺到する。


 リゼットは逃げなかった。逃げ場などない。

 彼女はただ静かに目を閉じ、運命を受け入れようとした。


 ごめんなさい、アレクセイ様……貴方の庭を、これ以上綺麗にしてあげられなくて。


 騎士の手が、リゼットの細い腕に伸びたその時だった。


 空気を切り裂く鋭い音が響き、騎士たちの足元に一本の剣が突き刺さった。

 石畳だ。石畳を砕き、深々と突き立ったその剣は、冷気を纏って白く輝いている。


「ひっ!?」


 騎士たちが足を止める。


「私の庭師に、気安く触れるな」


 地獄の底から響くような、低く冷徹な声。


 テラスから飛び降りたアレクセイが、土煙を上げてリゼットの前に着地していた。

 彼はゆっくりと顔を上げた。その青い瞳は、文字通り「氷の侯爵」の名に相応しい、絶対零度の怒りに燃えていた。


 ガレンの顔が引きつる。


「アイゼン侯爵、何の真似だ! その女は帝国の所有物だぞ! 匿っていた罪は重い。今すぐ引き渡せ!」


 アレクセイはガレンを一瞥もしなかった。

 彼は背後のリゼットへ身体を向け、彼女の震える肩に手を置いた。


「……マーサ。いや、リゼットと呼ぶべきか」

「旦那様……」


 リゼットは涙目で彼を見上げた。


「申し訳ありません。私は貴方を騙して……」

「騙されたな。見事に」


 アレクセイは苦笑した。だが、その目に軽蔑の色は微塵もなかった。


「だが、謎は解けたよ。……なぜ俺が、薄汚れた老婆の淹れる茶にあれほど安らぎを感じたのか。なぜ俺が、一瞬見ただけの『精霊』にこれほど焦がれたのか」


 彼の手が、リゼットの頬を優しく撫でる。


「中身が同じだったからだ。俺が好きになった心と、俺が惹かれた魂の輝きは、最初から一つだった」

「え……?」


 リゼットの目から、ポロポロと涙がこぼれ落ちた。


「で、でも、私はお婆ちゃんで……可愛げもなくて、口うるさくて……」

「ああ、最高の茶飲み友達だったよ。……だがこれからは、妻として俺を支えてほしい」


 アレクセイは力強くリゼットを抱き寄せた。

 そして、ガレンたちに向き直る。彼の表情から甘さは消え失せ、修羅の形相へと変わった。


「聞こえたか? 彼女は私の妻になる女性だ」

「ふ、ふざけるな!」


 ガレンが唾を飛ばして叫ぶ。


「そんな理屈が通るか! 皇帝陛下がご所望なのだ! 力ずくでも奪い返すぞ!」

「やってみるがいい」


 アレクセイが指を鳴らした。


 その音に呼応して、城壁の上、窓の隙間、あらゆる場所から、アイゼン侯爵家の騎士たちがクロスボウを構えて現れた。


 さらに、中庭を取り囲むように武装した兵士たちが雪崩れ込んでくる。


 数はガレンたちの数十倍。完全に包囲されていた。


「き、貴様……帝国に弓引くつもりか!?」

「弓、だと? お前はいつまで勘違いしている。ここは帝国ではない。私の、つまり侯爵の領土だ。帝国の法は及ばない」


 アレクセイは突き刺さった剣を引き抜き、切っ先をガレンに向けた。


「皇帝に伝えろ『愛する女性一人守れぬくらいなら、侯爵は務まらぬ』とな」


 その気迫。その覚悟。

 ガレンは脂汗を流し、一歩、また一歩と後ずさってゆく。

 彼らはあくまで「使節団」であり、戦争をしに来たわけではない。ここで衝突すれば、全滅するのは彼らのほうだ。


「……くそっ! 覚えておれ、アイゼン!」


 ガレンは捨て台詞を吐き、部下たちに撤退を命じた。

 黒い騎士たちが逃げるように去っていく。


 城門が閉ざされると、中庭に割れんばかりの歓声が巻き起こった。


「やったぞー!」

「マーサ婆さ……いや、奥様万歳!」


 使用人たちが帽子を投げ上げ、抱き合って喜んでいる。

 その喧騒の中、リゼットは腰が抜けて、アレクセイの胸の中に崩れ落ちた。



 騒動から数日後。

 アイゼン侯爵家の温室には、穏やかな時間が流れていた。

 窓の外の雪は解け始め、陽光がさんさんと降り注いでいる。


「……はい、あーん」

「だ、旦那様! 自分で食べられます!」

「駄目だ。まだ病み上がりだろう」


 ソファの上で、リゼットは真っ赤になって身を縮めていた。

 アレクセイがスプーンで果物を食べさせようとしてくるのだ。

 あれからリゼットは、精神的な疲労と魔力切れで三日ほど寝込んでいた。今日ようやく起き上がれたのだが、アレクセイの過保護ぶりが以前にも増して凄まじいことになっている。


「前は堂々と俺に説教をしていただろう? 好き嫌いするなと」

「それは……お婆ちゃんという鎧があったからです!」


 リゼットが抗議すると、アレクセイは楽しそうに笑った。


「俺はあのお節介焼きのマーサも好きだったが、こうして恥じらうリゼットも捨てがたいな」

「意地悪です……」


 リゼットは拗ねてみせたが、その表情は幸せに満ちていた。もう、顔を隠す必要はない。彼が愛してくれているのは、絶世の美貌ではなく、その奥にある「リゼットという人間」なのだと知ったから。


「そういえば、あの皮はどうした?」


 アレクセイがふと尋ねた。


「ああ……庭に埋めました」


 リゼットは窓の外を指差した。

 中庭の一角、あの日リゼットが「マーサ」として土を耕した花壇。そこに婆スキンを埋め、彼女は祈りを捧げたのだ。

 驚くべきことに、そこからは既に小さな芽が出ていた。


「魔女様が言っていました。『役目を終えた皮は、新しい命の苗床になる』と」

「ほう。どんな花が咲くんだ?」

「分かりません。でもきっと……とても強くて、優しい花だと思います」


 リゼットが微笑む。

 その花が咲く頃には、二人の結婚式が挙げられるだろう。

 皇帝への言い訳や、外交的な手続きなど、問題は山積みだ。けれど「氷の侯爵」と「元最強の老婆」のタッグならば、どんな障害も乗り越えられる気がした。


「リゼット」


 アレクセイが呼ぶ。振り返ったリゼットの唇を、彼の唇が優しく塞いだ。それは甘いお菓子のようで、けれど以前の「離乳食」よりはずっと大人の味がした。





(了)

読んでいただいてありがとうございます!

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