第三十話 二人の誓い
世はホワイトデーらしいですなあ。
だからというわけではありませんが、甘めです。
ローイックが退室した後、ヴァルデマルとレギュラスは部屋に残り、誰かを待っていた。レギュラスはソファーに深く腰かけ、足を組み、静かに目を閉じている。
「いらっしゃいました」
奥の扉の前に控えていた老紳士がキャスリーンを案内してきた。白い騎士服姿のキャスリーンがツカツカと部屋に入って来る。
「お呼びでしょうか」
キャスリーンはレギュラスの前に立った。その顔は、ローイックが見たら嘆くであろう疲れが見えるような陰のあるものだった。ホークのしつこさに参っているのと、ローイックに会えない寂しさが原因だった。
キャスリーンの気配を感じたのか、レギュラスはゆっくりと目を開け、視線を上げた。
「ローイック君に、彼を暴行した者を捕らえるよう命じた」
予想だにしない言葉にキャスリーンの目が開かれた。
「そ、そんな! 無茶です! ローイックは左腕に怪我をしているんです! そんな荒っぽい事なんて、出来るはずがありません!」
「話は最後まで聞けと、常々言っているだろう」
ローイックにまた困難が降りかかったと嘆くキャスリーンに、レギュラスの小言が飛ぶ。キャスリーンは小さい声で「すみません」と謝った。
「そこでだ。お前達第三騎士団に彼の護衛を命じる。期間は彼がやるべきことを終えるまでだ。お前達が護衛なら、彼も気兼ねなく行動できるだろう。彼が嗅ぎまわれば、あの男は手を出してくる。分かりやすいほど馬鹿だからな。それに宮殿内を探し回るにしても、お前が一緒にいた方が色々とやりやすいだろう。帝都の外に出ること以外の外出は許可する」
レギュラスの説明に、キャスリーンの表情が不安から安堵に変わっていく。ローイックの傍にいられることが嬉しいのだ。だが、ローイックがやらなければならない事が、極めて難しいということには気が付いていない。
「以上だ。直ぐに任務に付け」
レギュラスはそれだけ言うと、また目を閉じた。キャスリーンはきゅっと口を結ぶ。
「はっ! ただ今からローイック・マーベリクの護衛を開始いたします!」
「うむ」
キャスリーンは深々と頭を下げ、入ってきた扉から出て行った。勢いよく歩いているのか、ブーツで床を鳴らす音が良く聞こえる。にこやかな顔の老紳士がゆっくりと扉を閉め、部屋は静寂に包まれた。
「……これでアーガスとの約束も果たせ、増長してきた貴族どもの頭をひっぱたけるな」
レギュラスは大きく息を吐き、ソファーの背もたれに後頭部を乗せた。治世も長く続けば力を蓄えてくる貴族も出てくる。皇族には及ばないまでも、勢力を拡大し続ける貴族を放って置くことはできないのだ。特に今回の犯人であるアレイバーク公爵家は、きな臭いうわさが絶えない貴族でもあった。地位も高いアレイバーク公爵家を叩くことができれば、勢いづく貴族に釘をさすことにもなる。帝国としても丁度良かったのだ。
「まったく、素直じゃないのは変わりませんなぁ。若い時からずぅぅっと同じだ」
「私は十分素直だ」
ヴァルデマルの茶化しに、レギュラスは間髪入れず言い返す。ふー、とヴァルデマルは長いため息をついた。二人の話を聞いている老紳士はにこやかな笑みを浮かべたままだ。
「素直だったら皇女殿下との縁談を直ぐに認めてあげればよいものを……」
「ふん。あれくらいのことを為せない様では、娘はやれん」
ヴァルデマルのジト目の視線に気が付いたレギュラスはそっぽを向いた。どこかの皇女とよく似ている。流石親子だ。
「あれくらいとは……これから罪を作り出すのは容易ではありませんぞ? しかも彼は帝国の人間ではない……」
ヴァルデマルは呆れ顔だ。
「彼は優秀だと聞いた。それくらいはできるだろう。そもそもホークを叩けば、出てくるのは埃どころの話ではないぞ? デカいネズミもおまけでついてくるかもしれん」
レギュラスはニヤリとし、片手を上げながら淡々と話した。
「陛下は悪人ですなぁ」
「良い人では皇帝など務まらん」
「御尤もで」
「くくく」
「はははっ」
悪人二人の笑い声が、部屋に木霊した。
「はぁ? お前が犯人捜し?」
ハーヴィーは呆れたのか、ソファーに深く腰掛けたまま口を大きく開けている。部屋に戻ったローイックは、待っていたハーヴィーに今の顛末を簡単に説明したのだ。当然の反応だった。
「あぁ、それしかないんだよ」
ローイックも肩を竦める。仕草はふざけているが、その目には精気を宿していた。
「皇帝陛下も無茶いうなぁ……」
「だが、これを解決すれば――」
ローイックの力強い言葉の途中で扉がノックされた。二人の視線が一つしかない扉に注がれる。
「あたしだけど、いる?」
聞き覚えのある声にローイックの動きが一瞬止まった。だがすぐにそれも解除される。
「い、いま開けます」
ローイックが扉に歩こうとした瞬間、扉が開いた。白い騎士服に身を包んだキャスリーンが、はにかみがちの笑みを浮かべて立っていた。後ろには黒いお仕着せの侍女服のミーティアが控えている。
ローイックは数日会っていないだけなのに長い間離れ離れだったような感覚の襲われ、久しぶりに思える邂逅に緊張してしまった。
「お、お久しぶり、です……」
口から出た言葉は、それを如実に表していた。キャスリーンは目を瞬かせたが口元に弧を描いた。
「なによ、離れて清々してたの?」
キャスリーンの声と表情は、言葉とは裏腹に嬉しそうだ。その様子にローイックは安堵の息を漏らす。
「さて、お邪魔虫は出かけてくるかね」
何時の間にソファーから立ち上がったのか、ハーヴィーが横を通って扉に向かっていた。
「キャスリーン殿下、失礼いたします」
「ちょ、どこに行くんだ?」
ローイックの声が届く前にハーヴィーはキャスリーンに礼をして、部屋を出て行ってしまった。ミーティアも消えてしまっていて、部屋にはローイックとキャスリーンのみになってしまった。
望んでいた二人の時間だが、突然もたらされても慌てるしかない。ローイックはキャスリーンの顔を見れず、ちょっとだけ視線をずらしていた。
気まずい沈黙の中、先に口を開いたのはキャスリーンだった。
「あのね、あたし達第三騎士団が、ローイックを護衛することになったの。ローイックが動くと危険だからって」
ローイックは「誰が」と問おうとしたが、彼女に命ずることができる人物は限られていることに思い当たる。ヴァルデマル宰相か、まさかのレギュラス皇帝か。ローイックの思考はそこに辿り着く。
と同時に、ローイックの目的について聞かされているのかも気になった。単に自分の護衛だけを命じられたのか。それとも聞かされた上で命じられ、ここに来たのか。キャスリーンの言葉だけでは測りかねていた。
だがキャスリーンは柔らかな微笑みを浮かべている。
「あたしがローイックを守るって、言ったじゃない」
その顔は、ローイックが求めてやまないあの無邪気な笑顔だった。ホークに頬を触られた時に見せた悲しそうな表情は微塵もない。思い出すだけで腹が立ち、胸が痛くなる。あんな顔は、もうさせてはいけないのだ。
ローイックはキャスリーンの前に立ち、右手を伸ばした。ゆっくりと彼女の頬に手を当てる。指を弾くような張りと瑞々しい感触が指を伝う。一瞬キャスリーンは肩をびくつかせたが、ローイックのされるがままにおとなしくしている。
ローイックが指で頬の感触を確かめていると、その手にキャスリーンの手が重ねられた。
「ローイックの手は、暖かいね」
キャスリーンの少し潤み始めた切れ長の目がローイックを揺さぶる。レギュラスの恐ろしい緋色ではない、暖かな緋色の瞳だ。ぼやけた緋色の瞳に突き動かされるように、ローイックの体は無意識に動く。頬に当てていた手を、そっと外した。
「もう、悪い虫は近寄らせません」
彼女の背中に右手をまわし抱き寄せた。キャスリーンの手は、ローイックの胸のに当てられている。拒絶するならばいつでもできる体勢だ。だが彼女の頭はローイックの肩に乗せられた。僅かな重みが、ローイックには心地良かった。
「ちゃんと、追っ払ってね」
「もちろんです」
ローイックは、短いが力強く答えた。彼女を抱き締める腕にも力がこもる。腕の中のキャスリーンがもぞもぞと動き、ローイックの首に腕を回してきた。キャスリーンの暖かさが全身から伝わってくるのが感じられる。
「あたしを抱きしめてる悪い虫さんは、どんな虫さんなの?」
顔の横からキャスリーンの声が降りかかる。ローイックは目を閉じた。
「私は、一番悪い虫ですよ。貴方を独占したくてたまらない、一番性質が悪くて、一番貴女を愛しく想っている虫です」
ローイックは思いの丈を言葉に詰め込んだ
「……ふふっ、悪い虫さんだ」
キャスリーンの声は、弾んでいた。
「えぇ、悪い虫さんです。残念な事に、貴女はその一番悪い虫さんに捕まってしまいました」
「……逃げちゃおうかな?」
「離しません。もう逃がしません」
「絶対? 約束よ?」
震えはじめたキャスリーンの声が、より一層彼女を強く抱き締めさせる。
「約束します」
伝え聞こえるのはお互いの鼓動だけで、二人はしばしの間、静かに抱き合っていた。
その日の夕方、キャスリーンととある外国の貴族との縁談が決まりそうだとの情報が、宮殿を駆け抜けた。
「やれやれ、やっと落ち着いたか」
ハーヴィーは壁にぴったりとつけている耳を離した。ハーヴィーの前には同じく壁に耳を付けているミーティアの後姿がある。二人は隣のハーヴィーの部屋で、こっそりと盗み聞ぎをしているのだ。
「ま、安心するには程遠いが、進むべき道は見えてきたな」
腕を組むハーヴィーは独り言のように呟く。二人の気持ちは通じたのだろうが、問題が片付いたわけではない。むしろこれからが問題だった。
「……ひっく」
前にいるミーティアの肩が僅かに震えている。小さい嗚咽も漏れ始めていた。ハーヴィーはミーティアの前に立ち、彼女の肩に手を乗せた。
「やっと、やっと……」
ハーヴィーを見上げ、そう呟くミーティアの目からは、ほろほろと涙が零れていた。涙はポタンと床に落ち始めた。
「喜ぶのは、まだ早いですよ」
ハーヴィーは流れる涙を指で掬う。だが掬っても掬っても次から次から溢れだしてくる。とても指では拭き取れそうにない。
ミーティアはぎゅっと口を結ぶが、頬は正直で、すっかり綻んでいた。二人が想い合うことは、彼女の願いでもあったのだ。堪え切れないのだろう。
ハーヴィーはそっとミーティアの背中に腕をまわし、抱き寄せた。小さいミーティアはすっぽりとハーヴィーの体に収まっている。
「でも、でも……」
ミーティアはハーヴィーの胸を濡らしながら、呟いていた。ハーヴィーはそんな彼女の頭を優しく、壊れ物を扱うがごとく撫でている。
「ま、アイツには頑張ってもらわないと」
俺の為にも、な。
腕の中にいるミーティアを見つめ、ハーヴィーはそんな事を思った。




