第十五話 涙に濡れる皇女
「ローイック!」
脇で不安な顔をしながらも、ずっとローイックを見守っていたキャスリーンが悲鳴を上げた。力なく崩れるローイックの体を抱きとめ、唇を噛んだ。
ローイックにとって、相当、衝撃的な知らせだったのだと、キャスリーンは思った。名前を呼んでもローイックは答えてくれない。恐らく精神的なショックで気を失っているのだ。
キャスリーンは、倒れない様にローイックの体を自身の体に抱き寄せ、頭をしっかりと胸に抱きしめた。彼の頭に頬を当て温もりを確認し、そっと目を瞑る。慈しむように指に髪を絡ませ「大丈夫だからね」と声をかけ、顔を上げた。
ぼやける視界で恨みがましくネイサンを睨みつける。
「なんで、今、これを言わなきゃならないのよ! もっと後でもよかったでしょ!」
キャスリーンは責める様な緋色の視線をネイサンに浴びせた。ネイサンは唇を噛み、顔を歪めている。こうなっても仕方がないと、観念した顔にもみえた。
「……後で伝えても、こう、なっていたでしょう」
「でも!」
キャスリーンの緋色の瞳から、堪えきれない涙が一粒落ちた。
今までも徹夜続きで眠そうなローイックは見てきた。どんなに辛くとも、気を失う事など無かった。腕の中にいるローイックはくったりとして、キャスリーンに身体を預けている。
ローイックが受けた衝撃と悲しみを考えると、胸は張り裂けそうな程、ギリギリと悲鳴を上げていた。抱き締めるしか出来ない自分にも、腹が立っていた。
「この席だから申し上げますが、我々は、ローイックを国へ連れて帰ります」
「えっ?」
ゆっくりと語るネイサンの言葉に驚いたキャスリーンの緋色の瞳が、ゆっくりと大きくなっていく。突然の事に、うまく言葉を発することが出来なかった。キャスリーンは、茫然とローイックを抱きしめるだけで、動けない。
「マーベリク家は、我が国にとって建国当初から続く由緒ある血筋です。残り二家となってしまった、貴重な家柄なのです。嫡男のアレックスが継ぐ筈でしたが、亡くなってしまいました。幸いな事に、次男のローイックは帝国で存命です。何としても連れて帰れと、陛下からの勅命でありますので、今回の交渉では、何としてもこの事をのんでいただきます」
ネイサンはそう言い切ると、すまなそうな顔で深々と頭を下げた。ローイックにどんな事情があろうとも、国王の命には従わなければならないのだ。
ローイックは帰国する。だからこそ、ロレッタは強硬に対処してくるのだ。自らが必ず勝てると思っての行動だった。
「そ、そんな……」
キャスリーンは、ローイックの頭を抱きしめたまま、俯いた。俯くしかなかったのだ。
二人は声を発せず、沈黙が部屋に満ちていた。空気も張りつめており、キャスリーンの肌に刺さって来る。抱きしめているローイックの身体の暖かさだけが、キャスリーンに優しかった。
「姫様、後はお願い致します」
「うん、任せておいて」
とうに夜の帳も降りている時間だが、キャスリーンとミーティアはとある部屋の前で話をしていた。薄暗い廊下は、頼りない発光石のランプの灯りしかない。人気もなく、静まり返っていた。
「何かありましたら、遠慮なく呼んでください」
「うん。その時はお願いね」
ミーティアは不安そうな顔で頭を下げると、廊下を挟んだはす向かいの部屋に入っていった。キャスリーンは未だ黒い侍女服のままだ。
ローイックが気を失った後、キャスリーンの部屋まで彼を運び、ベッドに寝かせてある。キャスリーンはローイックの目が覚めるまで、傍で看病しているつもりだ。
キャスリーンは部屋の扉を開け、寝ているローイックを眺めた。寝息は乱れること無く一定で、彼の体が休息を必要としているのがよく分かる。キャスリーンは扉の鍵をかけ、ベッドの脇の椅子に腰かけた。
「お兄さんの事、尊敬してたもんね。あれだけ嬉しそうに話をしてたしね」
キャスリーンは穏やかな顔で横になっているローイックを見て、目を細めた。
四年前、初めて宮殿裏で見掛けた時、ローイックはずっと空の一点を見つめていた。何回か見かけた後に、声をかけた。最初は警戒しているのか、ぶっきらぼうな話し方だったが、何度も話している内に、笑うようになった。
キャスリーンは、自分の身分を明かす事は無かった。だから自分が皇女であるとは、ローイックも知らないと思っていた。であるからこそ、気楽に話ができた。皇女という立場が、相手に無言の圧力をかけていたからだ。
最初は好奇心だけだったローイックとの逢瀬も、彼が笑うようになってから、目的が変わった。青い瞳が素敵だな、くらいにしか思っていなかったが、段々と、その、のんびりした笑顔に惹かれていった。いつしか、会うのが楽しみになっていた。
ローイックの話の中に、彼の兄であるアレックスの話も、よく出てきた。運動神経が良くて剣ではちっとも敵わないとか、友達が多くて人望もあるとか、でも勉強は自分の方ができるんだ、なんて事を、嬉しそうに話してくれた。自慢の兄だったのだろう。
その兄が死んだのだ。
どれくらいの激震だったのだろう。キャスリーンには想像もつかなかった。
キャスリーンは、寝ているローイックの右手を握った。冷たい手だ。無理をしてここまで来ているのは、道中ずっと傍にいて、よく分かっていた。気力もだが、体力も落ちているのかもしれない。
ローイックが気を失ってから、祖国への帰還の話がでた。彼はまだ聞いていない。だが、どう判断するのか推測するのは簡単だった。
「やっぱり、帰りたい、よね……」
四年前、祖国に帰りたくて、宮殿裏でずっと空を見ていたのだ。帰れると分かったら、喜ぶだろう。だがそれは、キャスリーンにとっては辛い事だった。別れは、いずれ来ることではあるのだが。
返したくはないけど、帰った方がローイックの為には良い、というのは頭では分かる。が、感情は別だ。
キャスリーンの目から、ポトリと涙が落ち始めた。漏れそうな嗚咽を我慢する為に、ぎゅっと口を噤む。声の代わりに涙だけが出ていった。
手に伝わる暖かさを感じ、ローイックは眠りから覚めた。瞼の向こうは煌々と明かりが灯されていて、光が透けて瞳に届いていた。
兄が、死んだ。
この一報で目の前が暗くなったことを思い出した。今、自分がどうなっているかを気づかされて、目を開けた。
「うっ」
突然の光に呻き声が漏れる。どうやらベッドに寝かされてるということは分かった。暖かさを感じる右手を見れば、誰かが両手で手を覆っている。腕を伝って視線を上げれば、そこには椅子に座ったまま、静かに寝息を立てているキャスリーンの姿が目に入った。頬には、何かの濡れた後が光っていた。
「姫、様……」
体が勝手に動き、上半身を起き上がらせていた。腕が揺れたが、キャスリーンは起きなかった。相当疲れているのだろう、とローイックは思った。それも、自分の傍にいることが原因の一つであろう事も理解した。片手を折り、不自由な自分のためにかなり苦労したはずだ。
「っと、まずいな」
キャスリーンを椅子で寝かせるわけにはいかない。ここが誰の部屋かも分からないが、少なくともローイックが使っている部屋ではない。空き部屋か、もしかしたらキャスリーンの部屋かもしれないと予測はできた。
よく見れば彼女の服はまだ侍女服だった。つまり、あの話し合いから着替えていないことになる。しかも頬には涙の痕が見えた。
泣かせたのは自分なのだと思うと、申し訳ないという思いと、情けないという思いで、自分の体を掻きむしりたくなる。
ともかくキャスリーンをベッドで寝かせるのが先だった。キャスリーンの手は、ローイックの右手を守るように包み、離れない。仕方なくそのまま腕を揺らし、キャスリーンを起こすことにした。
「姫様、寝るのならベッドで横になってください」
優しく揺らせばキャスリーンは「うーん……」と可愛い寝言を漏らしてくる。不謹慎ながら、ローイックの頬は緩んでしまった。
薄らと開く瞼の向こうに見える緋色の瞳と目が合う。キャスリーンは、パッと目を開いた。
「ローイック!」
キャスリーンはローイックの右手を開放すると、その勢いで抱き着いてきた、ローイック、本日二度目の押し倒されである。




