5
休憩を過ごして馬たちは軽快さを取り戻し、滑るように進んだ馬車は、予定よりも早くスーリエに辿り着いた。
閉門までずいぶんと余裕があるからか、スーリエの街は行き交う多くの人で賑わっている。大荷物を抱えて門の方へ行くのは、これから出立する者たちだろう。その流れに逆らいフィレーネたちが向かったのは、街の中心部にある宿だった。
街道沿いに点在する宿場町は、そのほとんどが巡礼の宿泊所を起としている。成り立ちが故に街の中心は教会で、その周囲にある宿は歴史ある建物ばかりだ。
ヴィジランスが選んだ宿も古めかしく、中庭にある井戸が、かつての宿泊所の面影を残していた。
新婚夫婦とその護衛という体だから、取った部屋はふたつきり。とは言え部屋割りは、きっちり男女で別けることになっている。フィレーネは同室でも構わないと言ったのだが、丁寧に固辞されてしまっては頷くほかない。それに部屋をひとりで使えることが、ありがたいと思ったのは事実である。
窮屈な目に遭う彼らに詫びと礼を言って、フィレーネは部屋に足を踏み入れた。
寝台がふたつにクローゼット、小さな机のある宿としては標準的な部屋だ。奥にある扉は洗面所に続いていて、共有ではないそれは嬉しいが、少し贅沢な気がする。
こういう感覚も世間知らずの一端なのだろうか。フィレーネは内心で零しながら、ベッドに上げたトランクを開いた。
中から取り出した小さな手提げには、昨夜に切り落とした髪が入れてある。まずはこれを売る場所を探さなくてはならない。ゾフィから聞いたところによると、理容室なら買い取ってくれるという。買い物に付き添ってくれる、と申し出てくれたヴィジランスにそれを伝えると、彼は困惑したふうに眉根を寄せた。
「……もしや売るために、髪を切られたのですか?」
気遣われているのがありありと分かる口調に、フィレーネは慌てて首を横に振る。
「いいえ、そういう訳ではありません。立場が変わって伸ばす必要がなくなったのと、単純に邪魔だったからです。あれだけの長さがあると、手入れに無駄な時間がかかりますから。売ろうと思ったのは、そうした方が良いと友に助言を貰ったからです。お金はあって困ることはないだろう、と」
「……それなら良かった。あの綺麗な髪を金のためだけに失うのは、あまりに勿体ないと思っていたので」
さらりと言われてフィレーネは困惑する。
今のは、もしかしたら褒められたのだろうか。内心で首を傾げていると、ヴィジランスがフィレーネに向かって手を差し出した。
「では参りましょう。人混みではぐれるといけないので、どうぞ手を」
咄嗟に断ろうとして、その寸前で口を閉じる。
買い物に出かけて手を繋ぐのは多分、新婚夫婦なら当然の振る舞いなのだろう。
夫となった相手とは言え、異性と手を繋ぐなど初めてだ。そう改めて考えてしまうと、なんだかそわそわと落ち着かない気分になる。それでもフィレーネは、高いところから飛び込むような心地で、えいやと彼の手を取った。
長い指と手のひらの固い感触に戸惑いながら、辛うじて口にする。
「なんだか物慣れなくて、申し訳有りません。それ以外のことも色々と、ご面倒とお手数をおかけします」
「それは私も……いや、俺も似たようなものなのでお気になさらず」
フィレーネの手を引いて歩きながら、ヴィジランスが苦笑含みに言う。
「俺は修道騎士でしたから。教会の中にいる者たちよりも、多くのものを目にする機会に恵まれていました。それで一端にも、世の中を知っているのだと思い込んでいたんです。だが今日ダニエルに言われて初めて、そうではなかったことに気付かされました。だから俺もあなたを見習って、これからは世間に馴染む努力をしようと思います」
そう生真面目に言う彼の横顔を、フィレーネはしみじみと見つめてしまう。
彼が優しい人なのは分かっていたが、そう思っていた以上にとてもいい人だ。命じられて娶ったフィレーネを疎んじたりせずに、どころか真っ直ぐに向き合おうとしてくれる。
フィレーネの知る聖職者の誰とも違う感じがするのは、彼が修道騎士だったからなのだろうか。そう言えば繋いだ手の固い感触も、考えてみれば初めて知ったことのひとつだった。
フィレーネは自分の手を包み込むそれに視線を落として、ぽつりと呟くように言った。
「……私から見たら、あなたは十分世慣れているように思えます。こうして手も、自然に繋いでいますし」
「ただの模倣ですよ。俺の知っている夫婦がそうしていたから、その真似をしたに過ぎません。なにが正解なのか分かっていないので、嫌だと感じたら遠慮せず言ってください」
フィレーネはこくりと頷く。
「分かりました。ですか今のところ、あなたと手を繋ぐことを嫌だとは感じません」
「それなら良かった。では、まずは理容室に行きましょう。……少し歩きますが、大丈夫ですか?」
「ええ、問題ありません。日々の奉仕で、足腰は鍛えられていますから。こう見えても身体は頑丈なんです。それに――巡礼の旅は過酷でしたから。あの頃と比べたら、ずいぶんと楽をさせていただいています」
浄化の旅、とは口に出来ず言い換えたそれに、ヴィジランスは微かに眉根を寄せた。
往来を行き交う周囲の人々を憚って、少し抑えた声で言う。
「御位に即いたばかりの頃は、かなりのご無理を強いられたとか。バーナード助祭より、少しだけ話に伺っています」
「……そう言えばアランさまとは、どういったご縁だったのですか? 宣教と説教で各地を回る彼の方と、拠点を守る修道騎士とでは、関わる機会もないと思うのですが」
「二年前の、北方の紛争の折に少し。他愛ない会話をした程度だったんですが、どうしてか俺のことを覚えていてくださったようです。今回のことが決まった後に、わざわざ挨拶に来られて、些細なことまで覚えておいでで驚かされました」
「頭の良い方ですから。……幼い頃のことを持ち出されるのは、少し困りものですけれど」
苦笑含みに言う。
教会に入る以前、辺境で暮らしていたフィレーネを迎えに来た一行の中にいたのがアランだった。当時はまだ侍祭の立場だった彼は、幼かったフィレーネをなにくれとなく気遣ってくれたのだ。その後の浄化の旅にも率先して同行し、長い辛苦を共にした彼はフィレーネにとって師であり、兄のような存在だった。
フィレーネが教会を追い出されることを嘆き、それでも先を見て奔走してくれた彼には感謝しかない。
「バーナード助祭が合流できなかった理由、なにか聞いていらっしゃいますか?」
「アルヘイナの領主に、足止めを食らっているようです。と言っても厄介事に巻き込まれた訳ではなく、頼まれごとを断りきれなかったのだとか。ご領主どのとは旧知の間柄で、それで良いように使われているそうですよ」
「……私が向かうことで、ご迷惑をおかけしてしまったのでしょうか」
思わず肩を下げたフィレーネに、ヴィジランスは取りなすように言った。
「元々抱えていた事情が原因だったそうですから、どうぞお気になさらず。ご領主とは遠縁で、そちらで色々とあったのだと伺っています。世俗から離れても、家族との縁は切れず残るものですから」
「遠縁、ですか? 初めて伺いました」
「あなたもご存知でしょうが、役付きの聖職者は大半が貴族の出です。血縁を辿ればいずこかの家に繋がるのは、そう珍しいことではありません。あまり大声では言えませんが、頼まれごともよくあることです」
ヴィジランスはそう言うが、それは決してすべてではない筈だ。教会からただ放逐するつもりだった聖王家側に、アランは逆らうかたちで住まいと生活の基盤を用意してくれている。それは決してひとりの聖職者ができることではない。彼が伝手を頼ったことは間違いなく、そのせいで負担をかけていることが心苦しかった。
フィレーネは思わず溜め息を吐いた。
「バーナード助祭には、なんと言ってお礼を申し上げれば良いのでしょうか。良くしていただくばかりで、なにもお返しできないことがもどかしいです」
「そんなふうに考える必要はない、と思いますよ」
気遣うのではなく心底そう思っている口振りに、フィレーネは隣のヴィジランスを仰ぎ見る。
彼はフィレーネをちらと見返してから、通りに視線を戻した。
「助祭も言っておられましたが、あなたは名や立場以上の素晴らしい功績を残している。家と土地を貰う程度では、とても釣り合いが取れていません。それに助祭は好きでやっているそうなので、むしろ気にする方が損でしょう。あれは趣味の領域です」
「え、あの、それはいったいどういう……?」
フィレーネが困惑して問いかけるのと同時に、ヴィジランスが足を止める。彼の視線の先には吊り下げの看板があって、飾り文字で理容室と書かれていた。
店の中に入ると、板張りの床に椅子がずらりと並んでいる。あまり繁盛していないのか客はひとりきりで、店員らしき女性が暇そうに爪を研いでいた。
扉の閉まる軋む音に気づいたのか、その女性がおやというふうに顔を上げた。いらっしゃい、と柔らかに言って近づいてくる。
連れたって来る客は珍しいのか、それともフィレーネたちに興味を引くなにかがあったのか、彼女はしげしげと眺めてから言った。
「お客さん、って感じじゃないね。なにかご用?」
面白がる口調の女性に、ヴィジランスはにこりともせずに告げる。
「髪を買い取って欲しい」
「お客さんが? ってそんなわけないか。そっちのお姉さんもその長さじゃ違うだろうし、それなら持ち込み?」
頷くヴィジランスを見て、フィレーネは髪を入れている手提げを差し出した。
「あの、これなんですが……」
「どれどれ、ちょっと拝見」
軽い調子で言った女性が、受け取った手提げから髪を取り出す。腕ほどの長さのあるそれを見て、微かに眉根を寄せる。彼女はフィレーネとヴィジランスの顔を見て、それから繋ぐ手を見てから、にこりと微笑んだ。
「丁寧に手入れされてたのが分かる、良い髪ね。ぜひ買い取らせてちょうだい、って言いたいところだけど……その前にちょっと良いかしら」
言って女性はフィレーネの手を取る。こっち、と引っ張っていこうとするのに戸惑って、隣のヴィジランスに視線を向ける。彼も困惑したふうの表情を浮かべていたが、押し負けたふぜいでフィレーネの手を放した。
そのまま引っ張られたフィレーネは、奥にある椅子に半ば無理矢理に座らされてしまう。店員の女性は身をかがめると、フィレーネの顔の近くで声を落として言った。
「間違いだったら良いんだけど、あなたのお連れさん、女衒とかその類だったりしない? そうならそう言って。今ここで髪の代金を渡して、こっそり裏から逃してあげる」
フィレーネはぎょっとして女性を見返した。
「い、いえ、あの、違います。彼はそういうのではなくて、ええと……その、夫なんです」
「はぁ? 夫!?」
わんと響くほどの大声に、フィレーネは目をちかちかさせる。他の店員や客、ヴィジランスが驚いたふうに視線を向けるのが分かった。
店員の女性はヴィジランスをちらと見てから、また小声で言った。
「ええと、冗談じゃなく?」
「はい、冗談でも嘘でもなく、本当に夫です。……実はつい先日、結婚したばかりで」
「それって騙されてない?」
なぜそうなるのだろうか。
教会育ちの自分が怪訝に思われるならともかく、ヴィジランスが不審の目で見られるのはまったくの想定外だ。身なりも振る舞いもきちんとしている彼の、いったいどこに怪しまれる要素があるのだろうか。
内心で戸惑っていると、女性は納得していないふうの口調で言った。
「私の人を見る目も錆びたのかしら。言い訳をさせてもらうけど……なんて言うのか、あなたの旦那さん、ちょっと隙がなさすぎるのよね。それなのに一見真っ当だから逆に怪しい、っていうか。――いえ、ごめんなさい。新婚さんの旦那を指して言うことじゃなかったわ」
「いいえ、気になさら――気にしないでください。私のことを心配してもらった、ということは分かっていますから」
「そう言ってくれると助かるわ。……ああ、ちょっと待ってて。今、これの買い取りの代金を持ってくるから」
灰茶の髪の束をゆらりと揺らし、女性は衝立の奥へと消えていく。すぐに戻ってきた彼女は、空になった手提げと数枚の硬貨をフィレーネの手に握らせた。
「勝手に騒いで迷惑かけちゃったから、少し色をつけさせて貰ったわ」
「いえ、迷惑だなんて、そんな」
「いいから、いいいから。気にしないで受け取って」
そう軽い調子で言ってから、店員の女性はヴィジランスを手招いた。困惑しつつも近づいて来たヴィジランスに、窘めるふうに言う。
「ねえ、あなたたち、夫婦ものなんでしょ? それならなんで、奥さんに腕輪のひとつも買ってあげてないわけ? こっちもそんなだから、妙な誤解しちゃったじゃないの」
「誤解?」
聞き返したヴィジランスに、女性はぱたぱたと手を振った。
「なんでもない、こっちの話。――とにかく、まだ婚姻の腕輪を用意してないなら、急いだ方が良いわよ。この奥さん、なんだかぽやっとしてるし。ちゃんと印をつけておかないと、変に目をつけられそうで心配だわ」
「……そうだな。忠告、感謝する」
微苦笑を浮かべて言ったヴィジランスは、フィレーネに視線を当てると手を差し出した。なにも考えずに手を取ろうとして、渡された硬貨を握りしめたままだったことを思い出した。
髪を売って手に入れたのは、金貨一枚と琥珀金貨二枚。一オルドとニフロルだ。教会育ちのフィレーネだが、食料品などの基本的な物価は把握している。一オルドは小麦半袋分、大人が慎ましく暮らせばひと月は飢えずにいられる金額だ。つまり手に握りしめて持って歩くようなものではない。さりとてポケットにしまうのも不安だ。
どうしたものかと戸惑っていると、ヴィジランスが腰に下げた物入れから小さな革袋を取り出した。中に入っていた小石を空けて、フィレーネの手から金貨を取り上げる。革袋に入れて口を縛ってから、彼は紐でフィレーネの首に下げてくれる。胸元で揺れるそれに触れて、フィレーネはヴィジランスに笑みを向けた。
「ありがとうございます。落としたらどうしようと思っていたので、貸してくださ――貸してくれて助かりました」
「いや……後で、きちんとしたものを用意しよう。琥珀金貨はそこに入れておくと良い」
ポケットを指差すヴィジランスに頷いて、言われたとおりに琥珀金貨二枚をしまう。改めて差し出された手を取って、フィレーネは立ち上がった。
店員の女性が意味ありげに見てくるのに、内心で首を傾げながら礼を言う。
「お騒がせしてすみませんでした。それと親切にしていただいて、ありがとうございます」
「礼なんて良いって。じゃあお幸せにね、新婚さん」
にこやかに言って手を振る女性にもう一度礼を言って、フィレーネたちは理容室を後にした。
流れる人波を避けて進むヴィジランスが、躊躇いの混じった声で言う。
「……あなたの買い物をする前に、別の店へ寄っても良いですか?」
「もちろん構いませんが、なにか入り用ですか?」
「あなたに婚姻の腕輪を。本当はノヴェンで買う予定だったんですが……どうも、用意は早いに越したことがなさそうだ。慌ただしくて申し訳ないが、先に装身具を扱う店に行きましょう」
向かう先に当たりはつけてあるのか、進む足取りに迷いはない。フィレーネはヴィジランスの横顔を仰ぎ見てから、ゆらりと首を横に振った。
「気にしないでください。そもそも婚姻の腕輪が必要だった、ということも思いつかなくて。既婚者は身につけていないと、不自然に思われるんですね」
「王都周辺だと、そのようですね。田舎の方へ行くと、そうでもないんですが。実際、俺の故郷では見なかった習慣です」
故郷、と口の中で呟いてからフィレーネは問いかけた。
「ヴィジランスさん、は……どちらのお生まれですか?」
「レイダシス北部、エイギルの外れです。人の数より家畜の数が多い田舎ですよ。麦の良く育つ穀倉地帯ではあるんですが、風が強くて寒くて乾いていて、外の人間にはずいぶんと住みにくいのだとか」
「……エイギルなら、何度か行ったことがあります。冬だったので風が冷たくて、でも住まう方たちには、とても良くしていただきました」
教会入りしてしばらくした後、追い立てるように出された浄化の旅は、レイダシス国内を隈なく回る過酷なものだった。
移動に竜車を使い距離を稼ぐ代わりに、眠るのは天幕か車の座席のどちらかだ。身を削るように振りまき、力を使い果たしては気絶するように眠り込む。その繰り返しで疲弊しきったフィレーネを支えたのは、訪れた先で出会う人たちの優しさだった。
エイギルの土地は良く覚えている。厳しい土地に暮らすエイギルの住人たちは、だからこそ信心深く、浄化の祝福を行使するフィレーネを優しく労ってくれたのだ。そして国内の浄化を終えて数年後、再び訪れた時のことは強く印象に残っている。
「身体を温めるから、と言われて出してもらったお酒がとても強くて。勧められるまま飲んでいたら、次の日に大変な目に遭いました」
心当たりがあったのだろう。ヴィジランスは懐かしむような表情になる。
「カイロンの火酒でしょう。良い泥炭を使うので香りが良く飲みやすいんですが、そのせいで、つい量が過ぎてしまうんです。エイギルの外から来た者の大抵が、あれで酷い目に遭う」
「周りに釣られるのもあると思いますよ。みなさんが水みたいに飲むから、それで自分も大丈夫なような気がしてしまうんです」
「土地の者は飲み慣れていますからね。それに、酒に強い北方の血が混じっているせいもある。そうだな。いつか機会があれば、あなたに飲み方をご教授しましょう」
「……お手柔らかにお願いします」
エイギルで酔い潰された時、歓待してくれた者に似たようなことを言われたのを覚えている。それで警戒しつつ返すと、ヴィジランスが柔らかな表情で微笑んだ。
「大丈夫、妻を酔い潰すよう真似はしません」
そうさらりと言われて、フィレーネは思わず目を瞠る。
妻、という耳慣れない言葉の響きに、なんだか首の後ろがそわそわと落ち着かない気分になる。婚姻を交わしているのだから、それが事実であるのは分かっている。だが夫となった相手からそれを聞かされると、否応なしに意識させられる感じがする。
そこに嫌悪の類は無いのだが、どうにも面映ゆくて照れくさい。口元が妙な感じに歪みそうになるのを堪えていると、不意にヴィジランスが足を止めた。
「――ああ、良かった。まだ潰れずにいたらしい」
苦笑する声に引かれて、ヴィジランスの視線を追う。
彼が立ち止まったのは、小洒落た印象の装身具店の前だった。
ショーウィンドウには華やかな帽子や髪留めが並び、苔色の飾りカーテンには真珠のタッセルが下げられている。日焼けして飴色になった扉に嵌め込まれた色硝子も可愛らしく、いかにもという感じがする。入るのに少し躊躇する店構えだったが、ヴィジランスはまるで気にしたふうもなく扉を開けた。
ドアベルが、からんと音を立てる。
ヴィジランスに手を引かれるまま足を踏み入れて、フィレーネは目を瞬かせた。
葡萄酒色の壁紙に毛足の長い灰色の絨毯。暗褐色の飾り棚には布小物が並び、宝石の連なるネックレスやイヤリングが、金塗りの額縁で壁に飾られている。明かり取りの窓から注ぐ陽の光が、宝石や色硝子を弾いてきらきらと輝いていた。
店の中は女性客で少し混み合っている。男女で連れ立っている客もいて、楽しげで華やいだ雰囲気で満たされていた。
混雑に構わず店内を進んだヴィジランスは、カウンター奥にいた中年の男性に声を掛けた。
「久しいな。繁盛しているようでなによりだ」
顔を上げた男性が、眼鏡の奥の目を丸くする。
「おや、イーグレットさん。あなたがうちにお出でになるなんて珍しい。しかもお連れさんまでいらっしゃるとは、いったいどういう風の吹き回しです? 少し前に、古巣を離れたとは噂に聞いていたんですが……」
「まあ、色々だ。それよりも腕輪を見せてくれないか。婚姻用に相応しいものを頼む」
「それは、また……驚きですな。ああ、いや、申し訳ない。ご用意するので、どうぞこちらに」
手を引くヴィジランスに促されて、フィレーネもカウンターの前に立った。
金のバングルがトレイの上に並べられていく。婚姻の腕輪の飾りは、彫金でするのが一般的で、宝石をつけることは滅多にない。金地だけで彩りに乏しいからか、細かな彫金が華やかだった。
「お好みのものはございますか? 昨今は色糸を飾りにすることが、若い方に増えておりましてね。それで敢えて彫金の少ないデザインを選ぶ方もいらっしゃいますよ。肌身離さず使うものですから、護りの力のある文様を刻んだ方が良いと思うのですがね。まあ、これも時代でしょう」
「……護りの文様、ですか?」
フィレーネが訊ねると、店員はにこりと笑む。
「祝福を受けているわけではありませんから、気休めのようなものですよ。例えば――ここの花模様。これは火の災い除けを意匠化しているんです」
言われてみなければ分からなかったが、確かに良く見れば火の象形を反転させたものを、守護の槍が封じている。護りの文様とするには形が歪んでいるから、教会で祝福を受けても、力が発露することはないだろう。だが婚姻の際に贈られる物に、縁起の良い文様であるのは確かだ。
興味深くてしげしげと眺めていると、隣のヴィジランスが身を屈めてバングルを覗き込んだ。
「気に入るデザインのものはありましたか?」
耳元で囁くように訊かれて、思わずびくりと肩が跳ねる。
声を潜めるためと分かっていても、距離の近さが心臓に悪い。フィレーネはちらと視線を横にやってから、囁く声で返した。
「あの、どれを選んだら不自然ではないのでしょうか。流行りに乗るのも手ではないかな、と思うのですが……」
「自分に似合うもの、気に入ったものを選ぶのが一番ですよ。それと出来れば重いものは避けた方が良い。俺が見立てても構わないのなら、これなんてどうです?」
そう言いながらフィレーネの手を持ち上げて、バングルを手首に嵌めてくれる。
サンザシの花と実に火除けの文様が、ぐるりと囲う月桂樹に病除けの文様が刻まれている。バングルが指一本分ほどの幅だから動く邪魔にならず、重さも感じない。深く掘り刻まれた花びらが、白く光を弾くのが綺麗だった。
「素敵ですね……」
溜め息を吐いて言うと、ヴィジランスが小さく微笑う。
彼は屈めていた背を起こすと、店員に向かって言った。
「これを。それと揃いの指輪で、男物はあるだろうか」
「ええ、もちろん。ございますよ」
心得たふうに指輪を用意した店員に、ヴィジランスは軽く頷いてみせる。
「では、それも貰おう」
言ってヴィジランスが物入れから革袋を取り出すと、中を改めずに差し出した。それを恭しく受け取って、店員男性は店の奥へと引っ込んで行く。ややあって戻ってきた店員の手にある革袋は、膨らんでいたのがぺしゃりと潰れていた。
ヴィジランスは革袋を受け取り、左手の薬指に指輪を嵌める。そうするのが当然のようにヴィジランスに手を取られ、フィレーネは装身具店を後にした。
表に出るとずいぶんと陽が傾いている。夏の日は長いとは言え、夕暮れの鐘が鳴れば店を閉めてしまうところも多い。それで慌てて衣類店に駆け込んで、フィレーネは本来の目的だった買い物を済ませてから安堵の息を吐いた。
宿に戻って部屋に入る前、買い物に付き合ってくれたヴィジランスに礼を告げた。
「今日はありがとうございました。腕輪も買っていただいてしまって、なんとお礼を言ったら良いのか……」
「婚姻の腕輪は元々購入を予定していたことなので、どうかお気になさらず。それよりも買い物が慌ただしくなってしまって申し訳ない。もし買い逃したものがあれば、遠慮なく言ってください。ノヴェンでの滞在は、いくらか余裕をもたせてありますから」
「……バーナード助祭との合流以外に、なにかご予定が?」
訊ねるとヴィジランスが頷く。
「土地の権利に関する手続きをノヴェンで行うことになっています。アルヘイナ領都で処理しても十分間に合うのですが、後回しにしたくなることだからこそ、事務関係はさっさと済ませておくに限る、だそうですよ」
誰がそう言ったのか、訊かずとも分かる。それで思わずくすくす微笑っていると、ヴィジランスも穏やかな表情を浮かべた。
「もうしばらくしたら下の食堂が開くので、今日はそこで夕食にしましょう。所用を済ませたら迎えに行きます。部屋で待っていてください」
フィレーネは頷いて、大人しく部屋に引っ込んだ。




