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「おおい、怪我人が出た! 誰か手を貸してくれて!」

 聞こえたそれに、はっとする。真っ先に駆け出したマリアが、戸惑って立ち尽くしているリタに向かって言う。

「リタ、あんたはノアを探しておくれ。あたしも手が空いたら行くから」

「う、うん」

 頷いたリタが踵を返すのを見送って、フィレーネはマリアの後を追った。

 玄関の扉は大きく開け放たれていて、男性ふたりが怪我人を両脇から支えている。男性は片足を引きずっていて、良く見ずとも脚が歪んでいるのが分かった。

 駆け寄ったマリアが問いかける。

「意識はあるね。怪我をしたのは脚だけかい? 他には?」

 怪我をした男性は、思いの外はっきりとした口調で言った。

「背中を打ったが、そっちは大したことじゃない。突っ込んできた魔獣に驚いた馬が棹立ちになって、それで鞍から落ちたんだ。落ち方をしくじって、それでこのざまだ」

「ああ、そんだけ喋れるなら大丈夫そうだね」

 嘆息混じりに言って、マリアはフィレーネを振り返った。それにこくりを頷いてみせる。

「まずは脚の整復をしましょう。その後で、他に怪我がないか確認します。まずは診療用の部屋に運んでください」

 最後を怪我人を抱えているふたりに言って、フィレーネは踵を返した。

 足を折った青年をベッドに寝かせてもらう。靴を脱がせてから、ズボンを鋏でひと息に切り裂いた。どうやら不幸中の幸いにも綺麗に折れたらしく、骨が皮膚を突き破ってもいないし、出血もしていない。ほっとしながら小瓶を取って、中の薬液をハンカチに染み込ませた。

 痛みに顔を歪めている青年に言う。

「これを大きく吸い込んでください。今から骨を整復するので、鎮静剤が必要なんです。少し嫌な匂いがしますけど、我慢してくださいね」

 ハンカチを口元に充てがうと、青年は戸惑いながらも大きく息を吸った。

 呼吸に胸が大きく上下している。やがて青年の目がとろりとして、フィレーネは充てがっていたハンカチを外した。怪我人を運んできた男性たちに言う。

「すみません、手を貸して貰えますか? 彼の踵を抱えるように持って、私が合図したら思い切り引っ張ってください。あなたはベッドに上がって、背中から動かないように抑えて」

 頼んだとおりに拘束されたのを確認してから、フィレーネは脛に手を当てた。合図して引っ張られた脚の、折れた箇所を思い切り圧迫する。骨を押し込み正しい位置に戻してしまえば、後は動かないようにするだけだ。

 石膏で固めるのは後日医者にやって貰うとして、ひとまずは副木を当てておく。そして人手がある内に背中の打ち身に軟膏を塗り、他に怪我がないことを確認してからフィレーネは小さく息を吐いた。

 心配そうに様子を窺っていた男性ふたりに声をかけた。

「手伝ってくださって、ありがとうございました。しばらく安静が必要ですけれど、でも、もう大丈夫ですよ」

 良かった、とつぶやいて男性のひとりがその場にしゃがみ込む。

 安心しきった様子の彼を軽く小突いたもうひとりが、フィレーネに向かって軽く頭を下げた。

「礼を言うなら俺らの方だよ。ここらじゃ医者を呼ぶのも一苦労だから、あんたが居てくれて助かった。あんたは良い腕をしてる。それに……あんたの旦那さんも、あの見かけによらず大したもんだ」

 噛みしめるように言われて、フィレーネは目を瞬かせた。

「私の夫が、なにか?」

「見てくれだけの優男かと思ったら、なかなかどうして腕も立つし度胸もある」

 しゃがみ込んでいた男性が、こくこくと頷いて言う。

「馬から落ちたあいつにヴォルツが突っ込んだんだけど、それをあんたの旦那が仕留めたんだ。あれは本当に凄かった。狩りに慣れてる、って言うより板についてるんだろうな。馬を手足みたいに使って、槍の扱いもたまげるくらいに上手い。なんだか吟遊詩人が歌う英雄を見てるみたいだったよ」

 ベッド脇で着替えの用意をしていたマリアが、驚いたふうの声を上げた。

「――ヴィジランスさんが仕留めた? それなら、なんで家の人や他の連中が戻ってないのさ。獲物を狩ったらそれで終いだろう?」

「ああ、いや、一匹だけならそうなんだが、もう一匹デカいのが出たんだよ。たぶん番で、それで暴れちまって手がつけられない。他の連中はそっちにかかりきりになってるから、俺らも戻ってやらないと」

 どうやらヴィジランスが懸念した事態になっているらしい。

 狩りへと戻るふたりを見送って、フィレーネはマリアを振り返った。

「マリアさん、もう大丈夫ですよ。怪我人の彼は私が見ていますから、リタさんと合流してください」

 リタがノアを探しに出てかなり経つが、彼女が戻ってくる様子がない。まだノアが見つかっていないからだろう。

 ずっと落ち着かない様子だったマリアが、ほっと安堵したふうの表情を浮かべた。

 地面を揺るがすほどの物音がしたのは、その時のことだった。

 木枠の窓ガラスがびりびりと震えている。次の瞬間、獣の咆哮が響いた。重いものがぶつかるような衝撃の後、地響きに足元が揺れる。大きななにかが崩れる音に混じって、絹を裂くような悲鳴がする。子供の声だった。マリアが弾かれたように面を上げた。

「まさか……ノア!?」

 叫ぶように言って駆け出そうとしたマリアを、フィレーネは寸前で引き止めた。

「待って。私が行きますから、マリアさんは彼をお願いします」

 悲鳴がノアだとして、もし怪我を負っているなら、その対処は身内が行わない方が良い。状況によっては混乱して、治療の妨げになりかねないからだ。

 フィレーネはマリアの返事を待たずに薬と包帯とを掴み、声のした方へと駆け出して行った。玄関から表に出ると、土埃の匂いが鼻についた。

 獣の咆哮と、動物たちの悲鳴、木の裂ける音が響く。フィレーネは竦みそうになる足を叱咤して、土煙の舞う中心へと向かった。灯りを持ってくるべきだったと気づいたが、取りに戻る暇が惜しい。それで邸から漏れる明かりを頼りに進み、厩舎の入り口からそっと中を覗き込んだ。

 厩舎の中は真っ暗でまるでなにも見えなかったが、乾いた土煙に混じって濃く血の匂いを感じる。嫌な予感に鳩尾のあたりがぎゅっと引き絞られるような思いがする。だが、すぐにすすり泣く声に気づいて、フィレーネは細く安堵の息を漏らした。

 泣き声のする方へと近づくうちに、暗闇に馴れた目が隅にある小さな塊を捉えた。

 背後からそれに忍び寄って、そっと手を伸ばす。口元に当たりをつけて手のひらを押しつけると、小さな身体がびくりと跳ねた。

「……っ!」

「――静かに。ノアくん、怪我は? どこか痛いところはない?」

 潜めた声で訊ねると、ノアの肩からふっと力が抜けるのが分かった。

 押し当てた手のひらの下で口がもごもごと動いて、それからノアが小さく首を横に振る。フィレーネはそれに小さく安堵の息を吐いてから、抑えた声のまま言った。

「すぐにここから出ないと。立てる?」

 ノアがこくんと頷く。フィレーネはノアの口元から手を離してから、音を立てないように立ち上がった。

 怯えて震えるノアの手を引いて、足音を殺して来た道を戻る。覚束ない足取りのノアが、ルカが、と泣き濡れた声で呟いた。

「厩舎のどこにもいないんだ。僕はルカのお兄ちゃんなのに。僕が守ってあげなきゃいけなかったのに……」

 普段は聞き分けの良いノアの、らしくない無茶の理由を悟って、フィレーネは思わず苦い顔になった。

 厩舎の中はそれとは思えないほど静まり返っていて、生き物の気配も、鳴き声ひとつも聞こえない。あるのは血の匂いと、薄闇にぼんやり見える物言わぬ大きな塊ばかりだ。

 ノアの弟分である仔山羊はどうなったのだろう。どうか無事であって欲しいが、それよりも今は一刻も早くこの場から離れなければならない。

 フィレーネは慎重に出口へ向かい、だがのっそりと動く小山のような塊が、厩舎の入り口を塞ぐのに気づいて足を止めた。

 猪に良く似た姿かたちが、邸から漏れる明かりに照らされている。見えるのは影だけだと言うのに、その巨躯のほどが良く分かった。

 ――あれがヴォルツ。

 恐怖を前にして、どこか冷静になった頭の中で思う。もしあれに襲われてしまえば、とうてい無事では済まされないだろう。

 足音を忍ばせていたおかげか、まだヴォルツに気づかれてはいない。だが入り口を塞がれている以上、厩舎から出ることは不可能だった。引き返して房のひとつに身を隠すか、それとも無理をしてでも高窓から逃げるべきだろうか。

 迷ったのは一瞬で、フィレーネはノアの手を掴んだまま、じりじりと後退った。だがノアは地面に縫い留められたように動こうとしない。歯の根が合わないほどに震えているのに気づいて、フィレーネは考えるより先に手でノアの口を塞いだ。

「っ――!!」

 途端にノアが引き攣るような悲鳴を上げる。声が響くことは防げたものの、漏れたそれはヴォルツの注意を引くには十分過ぎるほどだった。

 蹄で地面を掻くようにして、ヴォルツがゆっくりと厩舎へと向き直る。フィレーネは咄嗟にノアを抱え上げると、転がる勢いで房のひとつに身を躍らせた。

 ノアを敷き藁に押し付けて、その小さな身体を庇って抱き締める。身を固くしたフィレーネの背に、獣の咆哮が響いた。

 間髪を容れずに黒い塊が疾風のように飛び込んでくる。長い牙が木壁に突き刺さり、ヴォルツがしゃくり上げると木は容易く裂けて、破片となってフィレーネの肩に降り注いだ。

 ノアを抱え込んだまま、フィレーネは首だけで背後を振り返った。

 暗闇にふたつの目が爛々と輝いている。空気を震わすような荒い鼻息、藁屑を擦る蹄の音に、全身がぞわりと粟立った。

 来る、と頭の中で呟くと同時に、フィレーネはポケットに潜ませていたものを取り出した。手のひらに収まる丸いそれをヴォルツ目掛けて投げつける。

 ぱん、と小さな炸裂音がして、ヴォルツが悲鳴じみた声を上げた。

 灰色の煙が立ち上り、むせるほどの刺激臭が辺りに広がった。

 ヴォルツに投げたのは、卵の殻に胡椒を詰めた、ごく簡易的な催涙剤だ。殺傷能力は欠片もないが、それでも怯ませることは出来たらしい。

 フィレーネはごほごほと咳き込みながら、ノアを再び抱え上げた。

 悶絶しているヴォルツの横を通り過ぎ、厩舎の出口に向かって全力で走り抜ける。近づく明かりにほっとして、その気の緩みに踏みしめた足裏が藁屑を滑った。

 あ、と思うと同時に身体が傾ぐ。ノアを抱き込んだまま背中をしたたかに打ち付けて、フィレーネはくぐもった声で呻いた。

 痛みに息が詰まる。

 それでもなんとか面を上げようとして、だが視線の先にあるものに身体を強張らせた。

 こわい毛に覆われた脚に、人の手のひらよりも大きな蹄。あれに蹴られれば、フィレーネなどひとたまりもないだろう。逃げなければ、と思うのに身体が竦んで起き上がることもできない。かろうじて動く手で、ポケットの中に潜ませていた護り石を握りしめた。

 フィレーネが石に力を込めるのと、ヴォルツが前脚を振り上げるのは、ほとんど同時だった。

 わん、と空気の撓むような音がして、ヴォルツが驚いた様子で足踏みするのが間近に見えた。

 護り石が首尾よく発動したことにほっとして、フィレーネはのろのろと身を起こす。

 とりあえずの安全は確保したが、護り石は発動した場所を起点に、その効力を生じさせる。つまりヴォルツに害されることはなくなったが、代わりにこの場から動くことが出来なくなった、ということだ。加えて言えば、見られれば無用な不審を呼ぶ状況でもある。だが攻撃手段を持たないフィレーネに、出来ることはほとんどない。誰かの助けよりも先に、ヴィジランスが来てくれることをただ祈るのみだ。

 腕の中で震えるノアを、ぎゅっと抱きしめる。フィレーネたちに手を出しあぐねているヴォルツを睨めつけていると、不意に冷え冷えとした声が響いた。

「伏せろ、フィレーネ」

 はっとして、声が命じるままに身を伏せる。

 次の瞬間、凄まじい轟音を立てて厩舎の壁が崩れ落ちた。もうもうと舞い上がる土煙の合間、地面に突き刺さる木槍が見える。

「……ヴィジランスさん!」

 声を上げて夫の名を呼ぶと、木槍が立て続けに降り注いだ。

 ぎゃん、と悲鳴を上げたヴォルツが弾かれたように後退る。そうして開いた距離の合間に、黒い影が飛び込んでくる。

 手に携えた大鎌の刃が、外に焚かれた明かりを弾いてきらと輝いた。

 真っ直ぐに立つ、上背のある後ろ姿がひどく頼もしい。

 ヴィジランスは視線をヴォルツに向けたまま、静かな声で言った。

「フィレーネ、無事だな?」

 はい、と返すとヴィジランスが小さく頷くのが分かった。その途端に、ふ、と彼の気配が変わる。

 ヴィジランスが半歩足を踏み出すのを見て、フィレーネはノアの頭を自分の肩に押しつけた。

「……ノア、良い子だから目を閉じていてね」

 そう囁いてから両手でノアの耳を塞ぐ。フィレーネの視線の先で、ヴィジランスが構えたふうもなく大鎌を振り上げた。

 それ(、、)は瞬きするほどの暇すらなかった。

 空を切る音がして、フィレーネの髪がふわりと揺れる。どうと重いものが倒れたのが、その音で分かった。濃い血の臭いと、水気が勢いよく噴き出す音に胸が悪くなる。ぐ、とこみ上げてくる酸っぱいものを飲み込んで、フィレーネは浅い呼吸を繰り返した。

 そうして吐き気を宥めてから、護り石の効力を解除する。ヴィジランスが目の前で膝を突いたのに気づいて、フィレーネは小さく安堵の息を吐いた。

「……来てくださって、助かりました。これを訊くのは失礼かもしれませんけれど、怪我はありませんか?」

「ああ、俺は問題ない。馬から落ちたひとりを除けば、他の連中もかすり傷ひとつ負わなかった。……むしろ興奮して、無駄に元気で騒々しい」

 興奮? と思ったがそれには触れず、フィレーネはノアの耳を塞いでいた手を下ろした。

 もう大丈夫、と囁いて怯えたままの背中を撫でてやる。それでもノアはフィレーネに抱きついたまま、少しも離れようとしなかった。仕方なく抱き上げようとすると、それを制してヴィジランスがノアの脇に手をやった。

 そのまま軽々と持ち上げてしまう。ノアは驚いたふうに小さくしゃくり上げたが、歩き出すヴィジランスに慌ててしがみついた。

 厩舎を出ると、不安そうに佇むサミュエルとマリアの姿が見えた。マリアはヴィジランスに抱えられたノアに気づくと、叫ぶように名を呼んだ。

「ノア!」

 転びそうな勢いで駆けてくる。

 ヴィジランスがノアを地面に下ろすと、彼は倒けつ転びつしながら走って、マリアのスカートにひしと抱きついた。

 わんわんと泣いている姿にほっとしていると、ノアを撫でていたサミュエルがやってくる。彼は感極まった顔でヴィジランスにハグをして、それからフィレーネの手を固く握りしめた。

「本当に、本当にふたりには感謝してもし足りねえ。あんたらはマリアだけでなく、ノアまで助けてくれた、フェルダイン家にとっての大恩人だ。なにかあったら――いや、なにもなくてもなんでも言ってくれ。どんな頼みだって、命を掛けてでも応じてみせる」

 感謝というより崇拝する勢いで言われて、フィレーネは戸惑いつつ首を横に振った。

「そんな、私は大したことはしていませんから。むしろ考えなしに飛び込んで、ひとつ間違えれば足を引っ張っていたかもしれません。ノアくんを助けたのはヴィジランスさんですし、どうかお礼なら私ではなくヴィジランスさんに言ってください」

 ヴォルツ二頭を仕留め、ノアの危機に駆けつけてくれたヴィジランスは、正に今回の狩りの立て役者である。厩舎に飛び込んできて、ヴォルツと対峙していたあの後ろ姿は、惚れ惚れするくらいに頼もしかった。

 夫の活躍を内心で誇りつつ視線をやると、ヴィジランスが困ったふうの表情で言った。

「いや、あれは……たまたまヴォルツの対処に慣れていた、というだけのことだ。それに俺だって大したことはしていない」

「あれだけ派手に暴れておいて、そりゃあ謙遜が過ぎるってもんだろう。村の若い連中なんざ、英雄扱いして若い娘みたいにはしゃいでたからな。弟子入りしたい、なんて言ってた奴もいるし、しばらくは騒がしくなるんじゃないか?」

 そう言えば怪我人を運んできたふたりも、ずいぶんとヴィジランスのことを手放しに褒めていた。

 フィレーネの夫が頼もしいのは事実だが、自分たちはいくつもの秘密を抱えている。平穏無事に暮らしていくために、出来ることなら弟子入りは遠慮したいところだ。ヴィジランスも同じことを考えていたのか、彼は渋い顔で溜め息を吐いた。

「……新婚家庭に、弟子など迷惑でしかない。すまないが、そう伝えておいて貰えないだろうか」

「ああ、確かに。そいつはもっともだな。よし、任せておけ。あいつらには、俺がきっちり言い聞かせておいてやる」

 実に頼もしい限りである。

 力強く請け負ってくれるサミュエルに、フィレーネとヴィジランスは揃って安堵の息を吐いた。

次で完結です。

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