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 魔獣の討伐を夜に控えた当日、フィレーネは朝からキッチンを慌ただしく動き回っていた。

 調理台の上には卵にバター、砂糖に牛乳と粉類が並んでいる。朝食を作った後のオーブンは熾火にしたまま、いつでも薪を焚べられるようにしておいてある。

 フィレーネは鍋と焼き型、それからめん棒と木べらを用意してから、エプロンの紐を締めて袖をきっちりと捲った。

 ヴィジランスたちが討伐に出ている間、フィレーネはフェルダイン邸で待機することになっている。身の安全のためと、もしもの場合の治療要員としてだが、だからと言って人様のお宅を訪うのに手ぶらで、という訳にはいかない。しかも夕食に招かれることになっているから、持っていくなら食後や茶の時間に摘めるような焼き菓子が無難だろう。

 メニューは既に決めてある。

 ナッツ粉を混ぜたケーキに、杏のパイだ。パイ生地は折って作るレシピもあるが、残りを昼食のキッシュに流用出来るよう練り生地にする。手早く小麦粉とバターを混ぜて、卵と牛乳とを加える。さっくり混ぜたら生地を貯蔵室で休ませて、後は型に敷いてフィリングと一緒に焼けば完成だ。

 これはフィレーネが教会にいた頃、飽きるほど作っていたものだった。と言っても、自分たちで食べるためではない。寄付金集めのバザーで売る、いわば奉仕活動の一環である。

 フィリングにするのは季節によって様々で、今の時期なら杏や出始めの林檎が主だった。

 幸いなことに庭には杏がたっぷり生っている。これを使わない手はないだろう。

 つややかな黄色が美しい杏は、既に皮と種を取って鍋で甘く煮詰めてある。それを冷ます間に、フィレーネはもうひとつのケーキに取り掛かった。

 こちらもよくバザーに出していた物で、材料を混ぜて焼くだけだから、小さな子どもでも作ることができる。ただし仕上げに蒸留酒で作ったシロップでひたひたにするので、食べられるのは大人のみだ。討伐に参加するのは男性ばかりだから、こういう大人向けのものもあった方が良いだろう。

 生地を作って型に流し、オーブンに入れてしまえば後は焼き上がるのを待つだけだ。

 次は休ませていたパイ生地を取り出して、伸ばしてふたつの型にそれぞれ敷き入れる。片方には杏のフィリングをたっぷり詰めて、もう片方には炒めた玉ねぎとベーコン、摩り下ろしたたっぷりのチーズにクリームを混ぜた卵液を注ぎ入れる。これらもオーブンに入れたところで、ヴィジランスがキッチンに顔を覗かせた。

 野良作業を終えたばかりの彼は、だが疲れた顔ひとつせずに片付けを手伝ってくれる。洗い物をしながらオーブンを気にしているのが微笑ましくて、フィレーネは目元を和ませた。

「今日のお昼はキッシュですよ。もう少ししたら焼き上がりますから、楽しみにしていてくださいね」

「――ああ、どうりで。チーズとバターの、とても良い匂いがする」

「本当は、ほうれん草も入れたかったんですけどね。食べるには、まだちょっと早かったみたいで」

「なかなか芽が出なかったからな。今回はサミュエルから助言を貰えて助かったが、やはり知識不足は否めんな……」

 ヴィジランスが洗った皿を布巾で拭いながら、ふと思いついてフィレーネは口を開いた。

「それなら一度、アルヘイナ領都の図書館に行ってみませんか? 以前、浄化の旅で訪れた時に、案内していただいたことがあるんですけれど、素晴らしい蔵書量でしたよ。保証金を支払えば、誰でも入れるそうですし」

「なるほど、図書館か。麦を蒔く前に時間を作っておきたいが……その前に、ヴォルツをどうにかしなければな」

 ままならん、と呟くヴィジランスにフィレーネもしみじみと頷いた。

 焼き上がったキッシュで簡単な昼食を済ませると、フィレーネは後片付けを手伝おうとする夫を寝室に追い立てた。彼には夜からの魔獣の討伐に備えて、少しでも身体を休めておいて貰いたい。長引けば狩りは夜通しになるのだから、仮眠を取らなければ身が持たないだろう。

 フェルダイン邸へは、夕方に向かうことになっている。それでフィレーネは家の中の用事を済ませてから、討伐に必要な物を手際よく荷車に詰め込んだ。そうしてすべての準備を終えた頃には、出立の刻限は目前に迫っていた。

 少し気の早いカラスが、傾く陽を惜しむように鳴いている。それを目覚ましにヴィジランスも仮眠から起きてきて、身支度を済ませた夫婦ふたりは、慌ただしく家を後にした。

 訪れたフェルダイン邸は、いつにも増して賑やかだった。

 厩舎にロバを預けに行ったヴィジランスを見送って、フィレーネは案内されるままフェルダイン邸の扉をくぐった。広い玄関ホールに入って、思わず足を止める。牧場で働く者たち以外に、見覚えのない顔がある。

 魔獣討伐にあたって近隣の村から募った、手伝いの者たちだろう。

 ざっと数えて六名、十代から二十代の若者ばかりだ。彼らはフィレーネを見て一瞬ざわりとしたが、既婚者の証であるバングルに気づいて、すぐに興味を失ったらしい。軽く挨拶をしただけで三々五々に散って、雑談に興じ始めてしまう。

 なんとも分かりやすい彼らの態度に、迎えに出てくれたマリアが呆れた声で言った。

「まったく、あの子らは相変わらずだねぇ。若くて可愛い娘と見るや、すぐに目の色を変えるんだから」

 思いも寄らないことを言われて、フィレーネは目を瞬かせた。

 それを見たマリアが小さく笑う。

「なんて顔をしてるんだい。あんたは十分、若くて可愛い娘さんだよ。まあ、あいつらは単純で現金な連中だから、既婚者だって判った途端にあんな態度だけどね」

「既婚者と分かっていて声をかけるより、ずっと健全だと思いますよ。……でも、不思議ですね。あんなふうに必死にならなくても、結婚相手なら村にもいらっしゃるでしょうに」

「ああ……うん。いるにはいたんだけど、あそこの村はちょっと色々あってね。男の数より女の子が少ないんだよ。それで嫁探しに必死なのさ」

 何やら事情がありそうだが、微妙に言葉を濁したマリアの様子を見るに、深くは問わない方が良さそうだ。

 フィレーネは家政婦のシーラに持参した菓子を渡し、薬草類の入った荷も預けてから、通された応接室のソファに腰を落ち着かせた。するとすぐに廊下から軽い足音がして、勢いよく扉が開く。高い位置で結った赤毛を弾ませながら、リタが明るい笑顔で言った。

「いらっしゃい、フィレーネさん。父さんから話を聞いて、来てくれるのを今か今かと待ってたんですよ。絶品のオムレツ! 父さんの説明だけじゃ、なにがなんだか全然分からなくって。それなのに美味しかった、って自慢ばかりするんだもの。本当にもう、腹が立つったらないわ」

 挨拶もそこそこにフィレーネの正面に座ったリタに、マリアがやれやれと首を振った。

「まったく騒々しいねぇ、あんたは。しかもおチビさんたちを放って来ただろ。サラだけに面倒を押しつけるのはお止め、って前にも言ったのを忘れてないだろうね」

「大丈夫よ、母さん。ノアもレオナも、サラと一緒に読書中だもの。レオナったら母さんが怪我してから真面目になって、手がかからなくなって寂しいくらいよ。……頑張り過ぎて、無理してないと良いんだけど」

「そうだねえ。でも本人がやりたい、って言ってるんだから好きにさせておあげ。加減を自分で見つけるのも大事だからね」

 どうやらレオナは以前の宣言どおり、ずいぶんと勉強を頑張っているらしい。

 切っ掛けとなった出来事は痛ましいものだったが、幼いレオナにとっては大きな転機となったのかもしれない。

 レオナの頑張りを語る母娘の会話に耳を傾けていると、家政婦のシーラがやってきて、てきぱきとお茶の用意をしてくれる。夏らしい爽やかな香りのするお茶と、ナッツの入った焼き菓子を味わっていると、リタが思い出したふうに言った。

「そう言えば、今日これから狩る魔獣。お肉が食べられるんですよね。見た目は猪に似てるって聞いたけど、どんな味がするんだろう。フィレーネさんの旦那さん、どうやって食べてたかって言ってました?」

「それが冬の保存食にしていた、とは聞いたけど料理方法はさっぱりなの。私も興味があるから気にはなってて、でもヴィジランスさんは料理だけは門外漢だから」

「へええ、意外。なんでも出来ます、って顔してるのに。ほら、前に父さんと魔獣のこと調べに行ったことがあったでしょう? あの時に父さんったら大興奮だったんですよ。ヴィジランスさんは馬の扱いが上手くて、狩りの腕も凄いって」

 その時のことを思い出しているのか、マリアが苦笑している。

「しばらくは騒がしかったからね。確かに鹿を一撃で仕留められるような弓の名手は、ここいらじゃ珍しいし、あたしも話を聞いて驚いたけど」

「あの鹿肉も美味しかったよね。ただ焼いただけだったのに、柔らかくて、全然獣臭くもなかったもの。料理して色々試してみたいなあ。でも父さんの腕じゃ難しいのよね」

「美味しかったのは確かだし、食べることは否定しないけど、鹿は狩りすぎるのも良くないんだよ。狼の食べる分が減ってしまうからね。飢えた狼がうちの牛や羊を襲っても困るから、ほどほどにしておかないと」

 諄々と諭す口調だったが、マリアの表情は穏やかだった。

 子どもの好奇心や興味を削ぐのではなく、ハイラルド(ここ)で暮らしていくための指針であることが判る話し振りだった。リタは残念そうな顔をしていたが、不満を口にすることなく、ただ肩を竦ませた。

 それから夕食の準備が整うまでの間、取り留めなく色々なことを話した。

 すっかり良くなったマリアの脚の怪我や、牧場から譲ってもらった羊たちの話、子どもたちの様子にあれやこれやだ。話しているうちに他の子どもたちも応接室にやってきて、皆で揃って食堂へ移動する。

 討伐に人手を募った分、今夜はずいぶんと大所帯だった。

 テーブルにもたくさんの料理が並んでいる。牛のカツレツに芋のフライ、野菜のソテーがいくつかと、こんがりと焼き目の付いた川魚。ボウルに山盛りにされたザリガニと、スープポットに入れられているのは蕪のポタージュだろう。

 普段は好んで給仕役に回るリタだったが、客人の多い今日は双子の弟妹の世話に専念している。レオナは選り好みせずにカトラリーを動かしているが、ノアは蕪のスープを睨みつけていた。

 それに気づいたサミュエルが、父親らしく威厳たっぷりに告げた。

「好き嫌いは駄目だぞ、ノア」

 窘めるそれに、ノアはぷくりと頬を膨らませる。

「だって、僕これ苦手なんだ。食べなきゃいけないのは分かってるけど……」

「そうだぞ、好き嫌いをしたら大きくなれないからな。ノアには、父さんの留守を任せられるようになって欲しいんだ。でもそうやって好き嫌いをしてるようじゃ、とてもじゃないが安心して出かけられないな」

「出来るよ、そのくらい。それにスープも、残さないでちゃんとぜんぶ食べる。だって僕はお兄ちゃんなんだから」

 ノアが力を込めて言う横で、リタが忍び笑いを漏らした。

「ノアったら、張り切っちゃって可笑しいの。そんなに弟分が出来たのが嬉しかったの?」

「弟分?」

 思わずフィレーネが訊ねると、リタは笑いの含んだ声音で言った。

「うちで最近繁殖を始めた山羊に、子どもが生まれたんです。ぶち模様で、すごく可愛いの。そのうちの一匹がノアのお気に入りで、最近はつきっきりで面倒を見てるんですよ。ルカ、って名前までつけて。そのルカがオスだから、ノアの弟分」

「なるほど。それなら確かにお兄ちゃんだね」

 フィレーネが言うと、ノアが自慢げに顎を反らせる。引き結んだ口元が、スープで汚れているのがたまらなく愛らしかった。

 ほのぼのとした雰囲気で食事を終えて、男性陣はぞろぞろと食堂を後にする。

 酒が飲みたい、煙草が吸いたい、という愚痴を零す彼らを横目に、フィレーネはヴィジランスにそっと近づいた。

 声をかけるより先に振り返ったヴィジランスが、フィレーネを見て仄かに微笑んでみせた。

「あなたに負担をかけないようにするつもりだが、もしもの場合はよろしく頼む。ただし、決して無理はしないように」

「それはヴィジランスさんも、ですよ。危ないと思ったら、すぐに戻ってきてくださいね」

 言いながらヴィジランスの手を取り、甘えて引き止めるふりをしながら守りの加護をかけた。

 加護の力は目に見えるものではないのだが、かけられた当人にはそれと分かったらしい。

 ヴィジランスは僅かに目を瞠り、それから空いている方の手でフィレーネの肩を抱き寄せた。そうと分からない程度の間があって、緩慢な動作でヴィジランスが身を屈ませる。彼は耳に唇が触れるか触れないかの距離で囁いた。

「黙って立っているよりも、悪目立ちせずに済むだろうかと思ったんだが……。すまない、目論見を外したかもしれない」

 いきなりなにを、と思ったが、どうやらこれは加護を与えるのにまごつくフィレーネを庇っての行動だったようだ。

 討伐に向かう夫の身を案じる妻と、それを宥めすかす夫、というふうに振る舞ってくれたらしい。

 ヴィジランスの察しの良さと立ち回りに感謝して、同時に己の至らなさが情けなくて顔が赤くなる。ヴィジランスの肩に額を寄せるようにして顔を俯かせた。

「す、すみません。さりげなくするつもりが、加護をかけるのが久々だったせいか、上手く制御が出来なくて……」

 使用する機会の多かった癒やしの術とは違って、人に加護をかけたのは数年振りのことだ。

 ただでさえフィレーネの能力は弱く乏しいというのに、力を補うための長い髪を切り落としてしまっている。そんな状態で慣らしもせず力を強引に動かしたのだから、上手くいかないのは当然だった。

 閉じた目蓋の裏がちかちかする。それでもなんとか加護をかけ終えて、フィレーネは小さく息を吐いた。

 顔を上げると、背に回されていた手の力が緩む。寄り添っていた身体から離れて、フィレーネはなんとか口を開いた。

「……あの、どうか気をつけて。無事の戻りを、お祈りしております」

「ああ、ありがとう。行ってくる」

 ヴィジランスは淡く笑んでから、フィレーネの頬に手を伸ばした。

 指の背が頬から顎へと滑りおりて、惜しむふぜいで離れていく。狩りに出る一団を追う夫の背中を見送っていると、同じく見送りに来ていたサラが夢見るような口調で言った。

「……はあ、なんて素敵なの。まるで物語を見ているみたい」

 その隣ではマリアが、物言いたげに含み笑いしている。先ほどのあれこれについて、からかおうとしているのが目に明らかだった。

 冷やかされて気恥ずかしい思いをする前に、とフィレーネはマリアに問いかけた。

「ええと、マリアさん。私はどこに待機していれば良いですか?」

「ああ、それなら今から案内するよ。あたしが療養に使っていた部屋があっただろう? あそこを臨時の治療室として使えるように整えてあるんだ。フィレーネさんの荷物も、そっちに運んであるからね」

「ありがとうございます。薬の用意をしておきたかったので助かります」

 歩き出したマリアの後をついて、玄関から入ってすぐの部屋に足を踏み入れる。魔道具式の明かりが灯された室内を見て、フィレーネは軽く目を瞠った。

 以前に訪れた時とは、まるで部屋の様子が違っている。部屋がずいぶん広々として見えるのは、調度品があらかた片付けられているからで、室内にあるのは木製のベッドが二台、それ以外は棚と机が置かれているだけだった。部屋が汚れても掃除がしやすいようにだろう、絨毯が剥がされ石床がむき出しになっている。

 病院の診察室のような様相を不思議に思って尋ねると、部屋を整えるにあたってかかりつけの医者に助言を仰いだらしい。

 臨時に使うにしては、十分すぎる設えだった。

 室内を見回すと机の上にフィレーネの鞄が置かれている。それを開けて持参した薬たちを取り出していると、マリアが興味深そうに言った。

「それって、あたしが前に飲んだやつかい?」

「ええ、同じものですよ。ただ応急処置に水薬は向かないので、持ち込んだのは少量だけです。でもこの薬は、あって困るものではないですから」

 一刻を争うような外傷を負った患者に、水薬を服薬させることは非常に難しい。だから傷に効果のある薬は塗布するものがほとんどで、フィレーネが作った薬も同様だった。

 瓶に詰めたそれらや用意した包帯を、ベッド脇の棚に置かせてもらう。予め頼んでおいたアルコールや、布類をマリアと手分けして準備していると、リタが部屋に顔を覗かせた。

「ねえ、母さん。ノアを見なかった? 寝支度をさせたいのに、部屋にいなくて」

 どこにいったんだろ、と呟くリタに、マリアが眉を顰ませた。

「さっき見送りに行った後、サラがレオナと一緒に部屋に連れて行ってただろう? サラに話を訊いてないのかい?」

「それがレオナに本を読んでってねだられて、ノアを部屋に置いて図書室に行ってたらしいの。本を取ってレオナと戻ってきたら、もういなかったみたい」

「手洗いは見たの?」

「それはもちろん。だから、もしかしたら母さんのとこに来てるんじゃないかな、って思ったんだけど……」

 心当たりを探し回ったのだろう。それでもノアを見つけられず、リタは不安そうな顔をしている。普段のノアが良い子なだけに、余計に心配なのかもしれない。

 タオルを抱えるマリアも、どこか落ち着かない様子だ。そこに動揺を見て取って、フィレーネはそっと口を挟んだ。

「マリアさん、ここは大丈夫ですから、ノアくんを探しに行ってあげてください」

「いや、でもねえ……」

「家の中で迷子にはならないでしょうけど、どこかに紛れ込んで眠ってしまう、なんてことは子どもなら珍しくないですから。今の時期でも夜は冷えますし、風邪でもひいたら大変ですよ」

 そう促すフィレーネに、マリアが頷いた時だった。玄関の方から、けたたましい物音と人の声が響いた。

誤字の連絡ありがとうございました。修正させていただきました。

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