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 よく晴れた青空の下で、ぴんと張ったロープに吊された洗濯物たちがはためいている。洗われて真っ白になったそれらを眺めて、フィレーネは満足気に息を吐いた。

 暁霧の多い今の季節だが、今朝は珍しくすっきりと晴れた良い天気だ。乾燥した夏の風が心地良い。この様子なら大量に干した洗濯物も、よく乾いてくれるだろう。

 フィレーネは満足げな息を吐いてから洗濯籠を持ち上げると、庭をぐるりと見渡した。

 ここに来た当初は荒れ果てていた庭も、片付けの甲斐あってずいぶんと見違えている。伸びすぎた枝木は落とされ、雑草は刈られ、傷んでいた柵にも補修の手が入っている。

 元からあった鳥小屋と家畜小屋も同様で、整えられたそこにはフェルダイン牧場から買った鶏と羊とがそれぞれ収まっていた。

 フィレーネは鳥小屋を開けて鶏たちを庭に出してやると、敷地の畑に目を向けた。

 見渡す限りの草原に、ヴィジランスがロバを引いている姿がある。ロバが牽いているのは鉄製のプラウで、これは農作業小屋に押し込まれていた代物だ。意外にも前の住人は農地を遊ばせていた訳ではないようで、プラウ以外にも質の良い農機具が多く残されていた。

 おかげで畑の手入れは、当初の予定よりもずいぶんと捗っている。余裕をもって麦の秋蒔きを迎えられそうで、つい先日にヴィジランスと胸を撫で下ろしたところだ。

 家の中も片付けは順調に進んでいる。物置だった一室は不用品をすべて運び出し終えて、今はヴィジランスが作ったベッドが収まっている。ただマットレスが無いので、今はその代わりに干し草を敷き詰めてある。諸々が落ち着いたらアルヘイナへ買いに行く予定なのだが、ヴィジランスの様子を見ていると、なんだか後回しにしそうな気がしてならなかった。

 共寝は深い溜め息とともに断られてしまったので、それならせめて彼が心地良く日々を過ごせるように、とフィレーネは家事に野良作業に精を出すことにしている。そうして共に過ごす時間が増え、交わす会話が増えたおかげなのか、近頃ではお互いに余計な気遣いや妙な遠慮がなくなってきた気がする。新婚生活と言うには少々甘さに欠けてはいるが、夫婦生活は概ね、上手く行っていると言って良いだろう。

 鶏小屋と家畜小屋の掃除を済ませ、細々とした家事を片付けていると、あっという間に太陽が中天に迫ってくる。

 フィレーネは一旦キッチンに引っ込むと、昼食の支度に取り掛かることにした。

 フェルダイン牧場から買った鶏たちは素晴らしく元気で、朝には新鮮な卵を産んでくれる。味も抜群に良く、自画自賛ではあるのだが、オムレツにすると絶品である。特に卵をふわふわに泡立てて、たっぷりのバターで焼くのが最近のヴィジランスのお気に入りで、これを出すと面白いくらいに皿から消えていく。少しばかり栄養過多ではあるのだが、農作業で疲れた身体には丁度いいだろう。

 付け合わせは茸のミルクポリッジだ。つい先日にサミュエルがお裾分けにと牛のリブを持ってきてくれたから、ストックにはかなりの余裕がある。旨味たっぷりのそれを使って麦をことこと煮る横で、フィレーネは卵を無心になって泡立てた。ふわふわになった卵液を、多めのバターを落とした鋳物のフライパンに流し入れる。じゅっと水分を弾く音がして、湯気と一緒に甘い香りが立ち上った。

 オムレツは焦がさないよう弱火に置いて、もうひとつのフライパンで茸を炒めていく。

 茸は近くの森で採れるもので、ハイラルド(この辺り)ではカンタレールと呼ばれている。オレンジがかった黄色が美しく、これは焼くと素晴らしく良い香りがする。カンタレールは干せば保存が利くので、近頃は暇を見つけては森に採りに行って、せっせと干しているところだ。

 麦を煮る鍋をくるくるかき混ぜていると、オムレツがじわりと膨らんでくる。フィレーネは卵の縁が色づいてきたのを確かめてから、フライパンを低温のオーブンに入れた。

 後は焦がさないように気をつけながら少し放置だ。その間に麦の煮えたポリッジを仕上げてしまう。ミルクと茸を加えてから味を調えていると、玄関から物音が聞こえてくる。その計ったようなタイミングに小さく微笑って、フィレーネはクロスを敷いたダイニングテーブルに、皿とカトラリーとを並べた。

 オーブンから取り出したオムレツをぱたんとふたつに折りたたんだところで、ヴィジランスがキッチンに顔を出した。

「フィレーネ、すまないが昼食の皿を増やせるだろうか。サミュエルが来ている」

「サミュエルさんが? お皿を増やすのは問題ないですけど、オムレツとポリッジだけだと足らないですよね。……追加でお肉でも焼きましょうか」

「ああ、そうしてくれると助かる」

 ほっとした声で言って、ヴィジランスが玄関へと引き返していく。

 マリアを助けた縁で始まったご近所付き合いだが、サミュエルが馴染むのは驚くくらいに早かった。

 まだ知り合って二週間ほどだというのに、数年来の付き合いのような気さえする。牛乳と肉の配達に訪れるサミュエルの姿は日常と化していたが、昼間のこの時間というのは初めてのことだ。なにかあったのだろうか、と思いながらフィレーネは貯蔵庫に向かった。

 フライにしようと下ごしらえをしていた豚肉をふた切れ、軽く塩を振ってから、ローズマリー漬けのオイルで焼く。付け合わせの代わりに、朝に焼いたパンの余りを添えて出来上がりだ。

 すべてをテーブルに並べ終えると、タイミング良く現れたサミュエルが気まずそうに言った。

「昼食時に邪魔して悪いな、フィレーネさん。しかも俺までご相伴に与っちまって申し訳ない限りだ。今しか時間が取れなかった、というのは言い訳だが……にしても美味そうだな」

 席に着きながらのそれに、ヴィジランスが自慢気に口の端を上げる。

「実際、素晴らしく美味いからな。分けてやるのが惜しいくらいだ」

「なんだよ、惚気か? いいか、既婚者の先達として教えといてやるが、そういうのは嫁さんにやらんと意味がないぞ。思いやりと感謝、すぐに謝るのが夫婦関係を円満にするコツだ」

 少しも悪びれずに言うのが可笑しい。

 フィレーネはくすくすと笑いながら、水を注いだグラスを手渡して問いかけた。

「マリアさんの調子はどうですか? 前に話を伺ったときには、ようやく杖を手放せそうだと言ってましたけど」

「あれから医者の許可が出たんで、歩行訓練と称してさっそくあちこち歩き回ってるよ。無茶をするなと言ってるんだが、まったく聞く耳を持っちゃいねえ。性分だから仕方がないとは言え、見てると危なっかしくてな」

「痛みがあるなら無理は禁物ですけど、そうじゃないなら見守ってあげてくださいね。動きたくても動けなかった鬱憤もあるでしょうし」

 言いながら席に着くと、ヴィジランスが手を祈りの形に組み合わせる。食前の祈りを短く捧げてから、それぞれカトラリーを手に取った。

 ヴィジランスがオムレツを早々に平らげる横で、サミュエルが軽く目を瞠って言う。

「これは……確かにめちゃくちゃ美味いな。なあ、フィレーネさん。もし良かったらなんだが、これをうちのリタに作り方を教えてやってくれないか」

「ええ、もちろん。よろこんで。今度マリアさんたちとキルト会をするので、その時に作り方を伝えておきますね」

「キルト会――ああ、うちのマリアが言ってたやつだな。確かうちでやるんだろう? フィレーネさんも忙しいだろうに、わざわざ来て貰うなんてすまねえな」

「いえいえ、作り方を教えて欲しいと頼んだのは私ですから。それに必要になる物のことを考えると、私が移動したほうが効率が良いですし」

 冬の防寒に寝具に大活躍するキルトだが、作るとなると布の種類と量とが必要になる。キルト作りを趣味としているマリアは、作業用とは別に布の収納だけにひと部屋を費やしているくらいだ。

 そもそもキルト作りは元々家政婦であるシーラの趣味で、だが彼女に教わって一緒に作っているうちに、マリアも熱を入れるようになったらしい。凝った模様でなければ、今からでも冬に十分間に合うと聞いて、それでフィレーネは俄然やる気になっている。

 慣れない土地で迎える初めての冬だから、できる限りの防寒対策はしておきたい。

 フィレーネがひとり気合いを入れていると、話の流れに乗ったサミュエルが仰々しく頷いた。

「つまりフィレーネさんが安心してうちに来られるようにするためにも、一刻も早く魔獣を片付けなきゃならんってことだ」

 黙々と食事していたヴィジランスが軽く笑う。

「……なるほど、本題はそれだったか。俺はいつでも構わないが、そちらの準備はどうなっている。以前に近隣の村からも手を借りる、と言っていたが」

 これまでに出た被害と目撃情報から鑑みて、やはり魔獣はヴォルツで間違いないらしい。かの魔獣は仕留めるだけならさほどの労はないが、動きが素早く追い詰めるまでが難しいと言う。ヴィジランスが以前に居た修道院では、討伐に半個小隊を用いていたそうだ。

 対応に慣れた彼らでさえその規模の人員が必要であるなら、たったふたりでは到底手に負えないだろう。ヴィジランスが確認を取ったのは当然のことで、サミュエルはそれを自信たっぷりに請け負って言った。

「人手なら心配いらねえ。近くの村から人員を寄越すよう話は既につけてあるから、必要なのは俺の号令だけだ。目撃情報も集めてあるから、おおよその生息場所も特定できてる。それでヴィジランス、あんたに訊きたいんだが、とっちめるのに相応しいのはいつだ? 俺は詳しくはないんだが、魔獣ってのは日によって暴れやすくなったりするんだろう?」

「並の魔獣相手ならば、その手の心配は不要だ。一般的に満月は避けるべきだとは言われているが、それで苦労したことはない。むしろ月明かりがあったおかげで、助かることの方が多かったな」

「なるほど。次の満月は……三日後か。その日は?」

「俺は問題ない」

 さらりと言って、ヴィジランスはフィレーネに視線を当てた。

「フィレーネ、あなたの都合はどうだろうか。前にも言った通り、あなたにはフェルダイン邸で待機してもらうことになる。三日後で不都合があれば、遠慮なく言ってくれ」

「大丈夫、私も問題ありません。薬の下準備は済ませてありますし、家のこともだいぶ片付きましたから。今すぐと言われても対応できますよ」

「それは頼もしいかぎりだ」

 目元を柔らかくして言ったヴィジランスは、表情を生真面目なものに改めてからサミュエルを見た。

「人の手配以外はどうなっている。槍は? 必要な分の確保はできているのか?」

「心配すんな、そっちも準備万端だ。と言っても上手く投げられるかは別の話だがな。何度か馬上から試してみたが、止まってるならともかく走りながらじゃあ、まっすぐ飛ばすのが精一杯だった」

「いや、それで構わない」

 そう淡々とした声音で言って、ヴィジランスは軽く肩をすくませた。

「足止めだからな。当てずとも威嚇になれば十分だ。そもそも槍と言っても、木を削っただけの代物だ。殺傷能力など無いに等しい」

「そりゃあ、まあ、それは作った俺らも承知してるさ。だからこそもどかしくてなあ。弓が使えれば良かったんだが、今回の獲物には向かないって言うだろ?」

「短弓では魔獣の皮に歯が立たないからな。かと言って、慣れない大弓を使うのは危険だ」

 ハイラルドで狩猟と言えば獲物は兎か狐で、小型のそれらを仕留めるのに使うのはもっぱら短弓だ。馬上でも小回りが利いて速射も可能だが、大弓に比べてしまうとどうしても貫通力に劣る。それに獲物が小型だから単独で狩りをすることが多く、大人数での行動に慣れていない。そのような状況で弓を使えば間違いなく事故を起こす、というのがヴィジランスの主張だった。

 もっともこれは彼らの間では何度も交わした話題のようで、サミュエルも弓の使用に強く拘っている訳ではないらしい。食い下がるというよりは、とりあえず訊いてみた、というふうだった。

 食事を進めながらふたりの会話に耳を傾けていたフィレーネは、ふと思い浮かんだ疑問を口にした。

「あの、罠を使わないのはどうしてですか? 大型の魔獣相手には、罠を仕掛けて対処することが多いですよね?」

 浄化の旅に出る以外は、教会に閉じ込められるように生きてきたフィレーネだから、もちろん狩猟を経験したことは一度もない。そも殺生は教義によって固く禁じられている行為だ。だが謁見を希望する貴族や、浄化の旅先で滞在した地方領主の中には、狩猟を好む者が多く存在した。

 貴族に宿を借りれば社交を熟さなければならず、そういった席では当然のように話題に上るので、知識だけは無駄に蓄えられている。罠猟は狩猟と言うより駆除のそれで、だからこそ魔獣を仕留める時に用いられるらしい。狩猟は上流階級における嗜みであって、討伐のような野蛮な振る舞いとは異なっている、というのが貴族たちの談である。

 理屈のよく分からないそれを思い出していると、ヴィジランスが苦笑含みに言った。

「今回の罠の使用を避けた理由はいくつかあるが、状況に即していない、というのがまず一点。罠猟に俺が慣れていない、というのがもう一点だ。獲物を追ううちに罠にかかる、という間抜けな事態も避けたい。なによりヴォルツ相手では、仕掛けた罠が破られる恐れがある」

「確かに厩舎の惨状を見るに、なまじっかの罠じゃ歯が立たんだろうしな。かと言って魔道具式の罠は簡単にゃ買えねえし、加護付きだって出回ってるのは偽物ばかりだ。危なっかしくて使う気にはなれねえ」

 呆れ声で言うサミュエルに、あれ、とフィレーネは内心で首を傾ける。ふと思いついたことがあったが、それは口にせずにすっかり平らげられ空になった皿たちを見て言った。

「そろそろお茶にしましょうか。まだお時間は大丈夫ですよね?」

 訊ねるとサミュエルがにこやかに頷く。

「後で村に顔を出さなきゃならんが、その前に話をきっちり詰めておきたいからな。夫婦水入らずのところすまないが、もうちょっとだけ邪魔させてくれ」

 片付けを手伝うと言ってくれたのを断って、フィレーネは席を立った。

 お湯を沸かしている間に洗い物を済ませてしまう。

 温めておいたティーポットには、発酵茶と摘んだばかりのミントを入れる。これは先日に買った苗のひとつで、今は庭のレイズベッドに根付いてすくすくと伸びている。ミントはお茶や料理に使う以外にも、喉の薬や軟膏に使える優れものだ。他と別けて植えなくてはならないくらいに繁殖力が強いので、ヴィジランスが淹れる茶の練習台にも大活躍している。爽やかな香りは暑い今の時期にも丁度良い。

 フィレーネは良く沸いたお湯をティーポットに注ぎ入れると、お茶請けに焼いておいたクッキーを皿に並べた。クッキーは小麦粉にはちみつ、ナッツだけのシンプルなレシピだ。

 教会にいたころは焼き菓子と言えばこればかりで、素朴な味のこれは、フィレーネにとって懐かしい故郷の味のようなものだった。甘さが控えめだから、砂糖をたっぷり入れるミントティーにも良く合うだろう。

 トレイにティーポットとカップふたつ、クッキーを並べた皿を載せてダイニングに戻る。テーブルには手書きの地図が広げられていて、ヴィジランスとサミュエルが、額を突き合わせるようにして話し込んでいた。

 彼らの邪魔にならないよう茶の支度を調えてから、ダイニングを後にした。

 手提げの籠と、つる手の鋏を片手に庭に出る。ミントの茂る隣には、他のハーブや薬草も植えてある。ここは土が良いのかハーブたちも良く育ち、撒いた薬草の種も順調に芽を出していた。

 薬草の種は教会を離れるときに、餞別としてゾフィから贈られたものだ。ごくありふれた種がほとんどだったが、入手が困難なものもあるので非常に助かっている。庭に放してある鶏に啄まれては困るので、毒性の含むものや扱いの難しいものに関しては、植えるかどうか今のところ検討中だ。薬草の種類を増やしておきたい気持ちはあるのだが、鶏や羊たちに影響が出ては困るし、なにより不審の目を向けられるのが面倒だった。

 不審と言えば、とフィレーネは薬草園の片隅に視線を向けた。

 ティルウーラの特徴である長く細い葉に混じって、ほうれん草に似た葉が顔を出している。赤みがかかった葉柄には、柔らかそうなトライコームがびっしり生えていて、どう考えてもティルウーラには見えない。どころか嫌になるくらい覚えのあるそれは、神の恩寵とも称される聖花の新芽だった。

「ゾフィったら、本当にどうしてこんなものを……」

 発芽してからもう何度も零したことをぼやいて、フィレーネは聖花の前にしゃがみ込んだ。

 青々とした葉を、そっと指で突いてみる。

 還俗はしても身に祝福を宿したままだから、フィレーネに突かれても聖花は枯れることなく、ただ頼りなげに揺れている。このまま順調に育てば、来年の春には美しい青の花を咲かせることになるだろう。

 この厄介極まりない代物については、もちろんヴィジランスには話してある。

 言葉を失くして唖然とする夫、という珍しい姿をひっそり眺めて堪能したフィレーネだったが、それはともかく対処はしなくてはならない。かくしてヴィジランスと長い時間をかけて話し合った結果、聖花はそのまま育てることになった。

 そもそも祝福を持たない者には、決して触れられない花だ。花の価値を知る者がいたとしても、触れれば枯れてしまうのだから、おいそれと盗む気にはなれないだろう。だが見られて良いものではないから、いずれ目隠しの護り石を配する予定だ。

 まるきり見えなくしてしまうのは、それはそれで不自然過ぎるので、さり気なく他に紛れるようにしたいと思っている。微妙な力の調整が目下の課題だ。

 護り石は畑にも設置することになっていて、こちらは動物避けだけを考えれば良いので、そう苦労することはないだろう。ただ石によって効果範囲に誤差があるので、ヴィジランスと相談しながら慎重に進めていく予定になっている。

 聖花とその他のことはひとまず脇に置いて、フィレーネは伸びたハーブたちに鋏を入れた。

 ミントは特に念入りに刈り込んで、後は料理用にセージとパセリを適当に切る。それからキッチンに戻ってハーブたちを水桶に突っ込んだ。綺麗に洗ってから、ミントを数本ごとにまとめて紐で括り、オーブンの上にある網棚に吊して乾燥させる。パセリは茎を取ってから柔らかいところをオイル漬けにして、セージは刻んでバターに混ぜ込んだ。

 出来たセージバターを蓋付きのポットに詰めていると、話し合いを終えたサミュエルがわざわざ暇を告げにキッチンに顔を覗かせた。今から村に向かって、協力者に討伐の日取りが決まったことを伝えてくるらしい。なんでも協力者は年若い者たちばかりで、早めに連絡を取っておかないと、街に遊びに出てしまって捕まらない恐れがあるのだそうだ。取りまとめ役の労はいずれねぎらうことにして、慌ただしく去っていく背中を見送った。

 ヴォルツ討伐までの三日は気忙しく過ぎた。魔獣の討伐は危険を伴うことだから、準備はしても、し足りるという気がまるでしない。フィレーネが水薬の作成や包帯の用意に追われる一方で、ヴィジランスはと言えば平生とまるで変わりがなかった。

 過去には修道騎士だったヴィジランスは、だが今はナイフ以外の武器を持つことがない。ヴォルツの討伐はどうするのかと訊くと、彼が示したのは農作業小屋にある大鎌だった。

 農作業小屋にあるのだから当然、武器ではなく立派な農具である。雑草を刈るためのそれで戦えるのだろうか、というフィレーネの疑問に、ヴィジランスは苦笑含みに応えた。

「確かに、戦闘に向いているとは言えないな」

「それなのに、剣か槍などの武器を使わないんですか?」

 アルヘイナの領都にも当然鍛冶屋はあって、その店先には剣や槍などの武器が並んでいた。

 フィレーネたちは正式な手続きを経てアルヘイナに来た移住者だから、役所に申請さえ出せば武器を購入することが出来る。修道騎士だった彼のお眼鏡に適う物があるかどうかはともかく、それでも向かないと分かっている武器を、あえて使う意味が分からなかった。

 思わず首を傾げたフィレーネに、ヴィジランスがしかつめらしく言った。

「証を返上した身だから、今になって剣を持つ気にはなれない。それに目立ち過ぎるのも良くないだろう」

「そうは言っても、既に色々と目立っていると思いますよ」

 魔獣討伐のまとめ役はサミュエルだが、実質的な指揮を執っているのはヴィジランスだ。

 魔獣がヴォルツであることを特定したのも彼で、その特性を知り適切な対策を立て、更には追い詰めた後に仕留めるのも彼の役目だ。

 ハイラルドの安全を取り戻し、それによって周囲からの信頼が得られると思えば良いことのように思えるが、一方で平穏無事な暮らしから遠ざかっている気もする。

「それを指摘されると返す言葉がないな。……しかし目立つと言うなら、あなたも相当ではないだろうか」

「いえいえ、まさか。私のしたことは元修道女でした、と言えば違和感のない程度ですよ」

「……ただの元修道女は、聖花を芽吹かせはしないと思うが」

 痛いところを突かれて、フィレーネはそっと目を逸らした。

 あれは不可抗力だ、と言っても説得力がないのは分かっている。聖花の栽培は夫婦ふたりで決めたことだが、そもそもフィレーネが気づいた時点で、こっそり抜いてしまえば問題にすらならなかったのだ。

 平穏無事に生きていくためには、危うきに近づかないのが一番である。聖花の存在はその対極に位置すると言って良いだろう。それでもフィレーネは、芽吹いた聖花を廃棄する気になれなかった。もしなにかあった時に、打てる手は多いに越したことはない。人里離れた場所で暮らす以上、命綱になる力は持っておきたかったのだ。

 それになにより、これまで人生の大半を教会に捧げてきたのだから、このくらいの恩恵は得ても許されるだろう、という開き直りに近い思いもある。

「この話の流れで言うのは心苦しいんですが、実はひとつ相談したいことがあって」

「相談?」

「ええ。ヴォルツを狩るときに、護り石を使ってみたいんです。獣避けに効果があることは分かっていますし、それなら追い込むときにも利用できると思いませんか?」

 サミュエルが狩猟罠について話しているときに、ふと思いついたのがこれだった。

 出回る加護つきの罠が偽物ばかり、ということは裏を返せば、本物の守護なら役立てるのではないだろうかと考えたのだ。

 フィレーネの力では護りを付与する対象は限られてしまうが、それでも闇雲に魔獣を追うより効率的なはずだ。そう主張したフィレーネに、ヴィジランスは考え込む顔になった。眉間に皺を寄せて、口元に手を当てる。

「悪くない手だとは思うが……」

 言いよどむ様子のヴィジランスに、フィレーネは微苦笑を浮かべた。

「お役に立てそうにないなら、遠慮せずにそう言ってください。サミュエルさんの話を聞いて、なんとなく思いついただけですから」

「いや、そういう訳ではない。確かに護り石があれば、狩りはずいぶんと楽になるだろう。だが、多人数での狩猟に慣れていない者がいる状況で、直前になって不確定要素を投入するのは危険だ。なにより護り石の存在が明らかになれば、あなたの秘密が露呈する呼び水になりかねない。それだけは避けなければならない」

 もっともである。

 碌な役にも立てず内心で気落ちしていたフィレーネだったが、ヴィジランスが身を乗り出したことに気づいて目を瞬かせた。思いの外、真剣な声でヴィジランスが言う。

「それよりも教えて欲しいんだが、護り石は設置しないと効果を発揮しないのだろうか。例えば手に持った状況では、効果が落ちるということは?」

「手に、ですか? それで効果が落ちる、ということはないと思います。ただ効力を発する時に、多少の反発は感じるかもしれませんが……」

 護り石の原理は実にシンプルだ。精霊の力が篭もった石に紋様を刻むことで、力の向かう先を操作する。今は世に増えた魔道具の礎とも言える機構で、それが原始的だから力の発露には反動が生じてしまう。石に宿る力の量にもよるが、間違いなく手に痛みは感じるだろうし、場合によっては軽い火傷を負うはめになるかもしれない。

 そうフィレーネが説明すると、ヴィジランスが考え込むような表情になった。

 なにかを迷うふうに口を開け閉めしてから、ひどく苦々しい顔で告げた。

「……ならば狩りの間、あなたには護り石を持っていてもらいたい。出来るかぎり危険を排するのが、俺の役目であることはもちろん分かっている。だがなにごとにも、もしもというものは存在する」

「それは構いませんが、代わりにひとつお願いしても良いですか?」

「……お願い」

 フィレーネのそれがよほど予想外だったのか、ヴィジランスは目を瞬かせている。

 珍しいその表情に小さく微笑って、フィレーネは後を続けた。

「ヴィジランスさんが護り石を使わない代わりに、せめて加護をかけさせてください。あなたが妻である私を案じてくださるように、私も夫であるあなたが心配なんです」

「それは……いや、確かにそのとおりだな。あなたに負担が掛からないのであれば、その気遣いは有り難く受け取ろう」

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