12
ぜひ一緒にどうぞ、と昼食を誘ってくれたリタは、キッチンに残って料理を手伝うらしい。サラが言うには姉のリタは料理が得意で、将来は料理人を目指しているのだそうだ。
フィレーネの相手を任されたサラが、淹れ直してもらったお茶を飲みながら一生懸命に話してくれる。
「――それで、私の叔父さんがアルヘイナ領都で料理店を開いてるの。叔父さんも料理がすごく上手で、だから姉さんは叔父さんに似たんだろうって。だから姉さんは料理の勉強をしに街に出たくて、でも父さんは大反対してて、最近は喧嘩ばっかりなんです」
拗ねたような口調にフィレーネは苦笑する。
「サミュエルさんはリタさんのことが心配なのね。……アルヘイナ領都みたいに大きな街には、いろんなひとが集まるから。危ない目に遭ってほしくないのよ」
「でもアルヘイナは他と違って安全なんでしょう? ご領主さまが危なくないように、ちゃんとしてくれてるんだ、って叔母さんが言ってたもの。ご領主さまは仕事ができる良い男なんだって。フィレーネさんは、ご領主さまに会ったことありますか?」
大人から聞いたとおりを口にする素直さが可愛らしい。
フィレーネはくすくすと微笑ってから、首を横に振った。
「一度もお会いしたことはないし、会う機会もないんじゃないかな。ご領主さまは貴族だから、街に下りてくることもないだろうし」
「そうなんだ、残念。格好良いって聞いたから、一度でいいから見てみたかったんです。物語に出てくる騎士さまみたいに素敵だと良いのになぁ」
「……サラさんは物語が好きなの?」
問うと、サラはこっくりと頷く。
サラによるとフェルダイン邸には広い図書室があって、そこにはたくさんの本が納められているのだそうだ。もっとも本は資料や取り引きの記録を綴ったものが大半で、サラが読めるようなものはごく一部らしい。その少ない内の一冊が、彼女のお気に入りなのだという。
彼女が挙げた本のタイトルは、フィレーネも知っている有名なものばかりだった。
お姫様を助ける黒髪の涼やかな顔立ちの騎士が素敵なのだ、と熱っぽく語る彼女の目がきらきらと輝いている。元はつくが修道騎士で黒髪のヴィジランスを見たら、サラは喜ぶだろうか。そう思いながら話を聞いているうちに、昼食の支度が調ったとシーラに声を掛けられた。
案内された食堂は広々としていて、曇りひとつない掃き出し窓からは、牧草地が遠くまで広がっているのがよく見える。人を招くことを考えた部屋の作りだが、テーブルに並べられた料理は暖かさを感じさせる家庭料理だった。
四角く平たいパンにはチーズとハムが挟んであって、それが皿に山と積まれている。メインは大皿に盛られた牛のステーキで、付け合わせにマッシュした芋と、茹でられて艶々とした豆が並んでいる。陶製のスープポットで湯気を立てているのは、牛テールのスープだ。赤カブの色が目に鮮やかで、大きく切られた根菜によく染みているのが分かった。
リタは料理を作るだけでなく給仕も好んでいるようで、楽しそうに椅子の合間を動き回っている。しばらくするとレオナとノアを連れてきたサミュエルが席に着いて、食前の祈りを捧げることなく食事が始まった。
子どもの多い食事の席は非常に賑やかだ。リタは自分が作った料理を得意そうに語り、それを聞いてサミュエルが相好を崩している。レオナは勉強をするのだと宣言して、サラに文字を教えて欲しいと熱心に頼み込んでいた。その隣ではノアが、我関せずという様子でフォークを動かしている。テーブルを挟んで正面に座るノアに、フィレーネは話しかけた。
「レオナちゃんがああ言ってるけれど、ノアくんはサラさんに教わらなくても良いの?」
フィレーネの問いかけが意外だったのか、ノアはステーキを頬張りながら目を丸くしている。
ごくんと口の中のものを飲み込んでから、ノアは首を横に振った。
「僕はべんきょう、きらいじゃないから大丈夫。難しくないなら本も読めるし。でもレオナは教会学校の先生が来ると、いつも逃げ出してばかりなんだよ」
「教会学校の先生が来るの? 教会に通うんじゃなくて?」
「うん。前までは街に行ってたけど、ちょっと前に学校が閉じちゃったんだ。えらい人が変わったから、先生は出ていかなかきゃいけなくなったんだって」
フィレーネは思わず眉根を寄せた。
権力の勢力図が変わることによって、他に影響が及ぶことは多々あることだ。特に弱者に対する施しや慈善、奉仕の手が減らされることは珍しくはない。だが布教の側面を持つ教会学校を閉ざすのは、足元を自ら切り崩すに等しい行為と言える。
加療院の対応の酷さもそうだが、あえて求心力を低下させているように思えてならない。教区長がなにを考えているのか分からず、いっそ不気味ですらある。
フィレーネにとって教会は、もうひとつの故郷だ。望んでいた訳ではないし、良い思い出のあまりない場所ではあったが、なにかあればどうしたって気になってしまう。なにより大事な友のいる場所でもあるのだ。
だが教会を離れてしまったフィレーネに、もはや出来ることはなにひとつない。だからこそフィレーネたちが心穏やか暮らしていくためにも、そして修道女や騎士として残る友のためにも、アルヘイナ教区の混迷が他に波及しないことを願うばかりだ。
「教会学校を出されたというのに、教育を続けてくださるなんて、熱心で素晴らしい先生ね」
「うん。でも怒ると恐いんだよ。それなのにレオナは先生を怒らせることばかりするんだ。おべんきょうなんてきらい、文字ばかりの本なんてつまんない、って言ってる」
わざわざ勉強すると宣言する時点で予想出来たことだが、レオナの勉強嫌いはかなりのものらしい。どうやら昨日の出来事は、それを覆してしまうほどの衝撃だったのだろう。
レオナはスープを飲む手を止めると、つんと顎を上げて言った。
「これからは違うわ。先生の言うことも聞くし、ちゃんとおべんきょうだってするんだから」
「……それが本当ならいいけど」
本気にしていないのが分かる口調に、レオナが目に見えてむっとする。ノアを叩こうと振り上げたレオナの手を、横からサラが素早く押さえつけた。
「駄目よ、レオナ。お客さまがいるのに喧嘩しないの。ミリセント先生が礼儀作法にも厳しいのは、レオナも知っているでしょう?」
フィレーネは思わず目を瞬かせた。
「教会学校の先生は女性の方なの? 街からここまで来るのは危なくないかしら」
そうフィレーネが問うと、サラが困ったふうに眉を下げた。
「そうなんです。だから私たちもそれを心配してて……。街道を行くと言ってもまったく安全とは言えないですから。実際、配達に出た母さんは魔獣に襲われた訳ですし」
暗く沈んだ場を取りなすように、リタが朗らかに言った。
「サラったら心配し過ぎ。先生なら大丈夫よ。修道院特製の、魔獣除けのお守りがあるって言ってたもの。それに乗馬の腕は父さんより上なんだから」
どうやら教育熱心なだけではなく、なかなかの女傑であるらしい。
リタが語るミリセント女史の武勇伝を聴きながらお茶と焼き菓子を頂いて、しばらくすると家政婦のシーラが食堂に顔を出した。
「フィレーネさん、ご主人がお迎えにいらっしゃいましたよ。旦那さま、そういう訳なんですけれど、お客さまを応接室にお通ししてもよろしいですか?」
「ずいぶんと来るのが早いな。……まあ、いいか。構わないから部屋に通して、茶を出してやってくれ。フィレーネさん、お茶の途中に申し訳ないが、あんたも一緒に来てもらえるかい?」
「ええ、もちろん。リタさん、素敵な昼食をありがとう。スープが素晴らしく美味しかったから、もし良ければ今度レシピを教えてね」
お世辞抜きに本心からそう言うと、リタが嬉しそうな笑みを浮かべた。それに小さく手を振ってから、フィレーネは食堂を後にするサミュエルを追いかけた。
ヴィジランスが通されていたのは、さきほどフィレーネも滞在していた応接室だった。
彼はサミュエルに続いて応接室に現れたフィレーネを見て、微かに眉を顰ませた。
「今朝に出掛ける時から気になっていたんだが、早く来て正解だったようだな。ずいぶんと疲れた顔をしている。……昨日も、あまり眠れていないだろう?」
そう気遣わしげに言われて、フィレーネは思わず頬に手を当てた。
「確かに少し寝不足ではありますけれど、そこまで疲れていないから大丈夫ですよ。……そんなに分かりやすく顔に出ていましたか?」
聖女なんてものを長年やってきたおかげで、感情や体調を見せずに取り繕うことには慣れている。だから多少の寝不足くらいなら余裕で隠せると思っていたのに、それをこうも容易く気取られてしまうなんて驚きである。
そんな内心の動揺すら察しているのか、ヴィジランスが唇を苦笑の形に歪ませた。
彼はサミュエルに目配せしてから、席を立ってフィレーネの手を取った。そのまま手を引かれ強引に座らされて、戸惑うフィレーネに夫が言う。
「どれだけ上手に取り繕っていても、顔色だけは誤魔化しようがないからな。なにより昨日の今日だ。あなたが無理をしていることは、見なくても分かる」
「……確かに、ずっと一緒にいるのだから、誤魔化しは通じないですね。でもそれを言うなら、ヴィジランスさんも一緒ですよ。頑張りすぎるのは良くないです」
「この程度なら、頑張る内にも入らないから問題ない。それよりも、あなたはここで休ませてもらうと良い。俺は魔獣の件で少し、サミュエルと話しておきたいことがある」
ヴィジランスは言って、サミュエルに視線を向ける。その眼差しだけでなにを言われるか察したのか、サミュエルが気合いたっぷりに頷いてみせた。
「おう、任せとけ。話どころかあのクソ野郎を狩りに行くって言うなら、今からだってまったく問題ないくらいだぜ」
「その意気込みは買うが、まずは下調べをさせてくれ。魔獣の襲撃があった場所が見たい。痕跡から分かることは少なくないからな」
「そりゃ構わないが、痕跡と言ってもな。壊された柵は片付けちまったし、殺された牛もとっくにバラして肉にした後だ。残ってるのは急拵えで穴を塞いだ厩舎の壁くらいだが、そんなんがなにかの役に立つのか?」
「ああ、それで十分だ」
言ってヴィジランスが立ち上がる。彼は歩き出す前にふと振り返ると、フィレーネの肩に優しく手を置いた。
「襲撃の跡を見て話をするだけだから、あまり長くはかからないだろう。休むというには短い時間だろうが、それでもその顔色のまま移動はさせかねる。少しでも良いから、身体を休めていてほしい。――サミュエル、構わないだろう?」
「もちろんだとも。人払いするよう使用人には言っとくから、フィレーネさんは気兼ねせずに休んでてくれ」
そうは言われても、怪我人の付き添いで来た先で、のんびり休むことなど出来るはずがない。だがヴィジランスの気遣いを無下にするのは気が進まず、それでフィレーネは曖昧に頷いておいた。
ほっとした表情を浮かべる夫を見送ってから、フィレーネは小さく息を吐く。本音を言えばマリアの様子が気になるのだが、ヴィジランスとサミュエルにああ言われた以上、応接室を勝手に出る訳にもいかない。
さてどうしたものかと思っていると、シーラがお茶の載ったワゴンを押して現れた。てきぱきとお茶の支度を調えてくれる。フィレーネはこれ幸い、と茶を頂きながらシーラに話しかけた。
マリアの様子を尋ね、それから魔獣に襲われた時の状況を聴いていると、早々にヴィジランスたちが戻ってくる。サミュエルは難しい顔をして腕を組み、考え込むふうに床を睨みつけている。
なにかあったのだろうか。剣呑な様子が気になったが、それを問う間もなくヴィジランスがフィレーネの顔を覗き込んだ。
すっかり見慣れてしまった端正な相貌の、その眉間に深い皺が刻まれている。初めて見る表情だが、明らかに不機嫌のそれである。
思わずソファの背もたれに身体を引くと、ヴィジランスが深く溜め息を吐いた。
「……休んでいてくれと言ったはずだが、あなたは話を聞いていなかったのか?」
「いえ、そんなことは。ちゃんと休んでいましたよ。お茶とお菓子をいただいて、申し訳ないくらい寛がせてもらいました」
「それでは休んだうちには入らないのだが……まあ、いい。こちらの用事は済ませたから、遅くならないうちに出よう。日が落ちる前には家に戻っておきたい」
警戒をしていることがはっきり分かる口振りに、フィレーネは身体を僅かに緊張させる。じっと見つめてくるヴィジランスに視線を返し、こくりと頷いてみせた。
「分かりました。でもその前にマリアさんの様子を見させてください。そのために来たのに、このまま帰るわけにはいきません」
そうきっぱり言うと、ヴィジランスが溜め息を吐いた。
事情が事情だけに反対はできないが、賛成はしかねる、と顔に書いてある。少し後ろめたくなって思わず視線を泳がせると、部屋の隅で控えていたシーラが控えめに口を開いた。
「ご迷惑は承知しておりますが、そうしていただけると助かります。お医者さまがいらっしゃるまで、まだしばらくかかるでしょうし……」
シーラがあまりに申し訳無さそうに言うので、ヴィジランスも反対するのを諦めたらしい。それでも立ち会うことは譲らず、フィレーネは夫を伴ってマリアを訪った。
薬を飲んで眠ったのが良かったのか、マリアはずいぶんと調子が良さそうだった。傷口を見たが血が滲んだりする様子も、膿んでいる様子もない。昼食もきっちり平らげたらしく、血を失って蒼白だった顔色も赤みを取り戻していた。
フィレーネが医者を待たずに帰ることを謝ると、マリアは呆れたような、気遣うような表情を浮かべてみせた。
「なに言ってるんだよ、謝るのも礼を言うのもあたしらの方じゃないか。危ないところを助けてくれただけでもありがたいのに、家までの帰り道まで面倒を見てもらったんだ。フィレーネさんたちには足を向けて眠れないくらいだよ。いいかい。あたしの脚が治ったら、必ず礼をするからね。覚悟しておくんだよ」
子どもに言い聞かせるような口振りが可笑しくて、フィレーネはくすくすと微笑った。
「ええ、楽しみにしていますね。それまでマリアさんも無理はなさらないでください」
マリアに挨拶を済ませ、サミュエルと子どもたちにも暇を告げてから、フィレーネとヴィジランスはフェルダイン邸を後にした。
外に出ると夏の陽射しが眩しくて、目に染みて痛いくらいだった。
思わず目を細めると、半歩先を行くヴィジランスが足を止める。それを不思議に思うより前に、ふっと目の前が陰った。
「……ストール?」
見慣れた織り模様に呟くと、ヴィジランスが苦笑の混じった声音で言った。
「必要になりそうな気がしたからな。あなたのものを、勝手に持ち出すのはどうかとも思ったんだが……」
「それは気にしないでください。日除けになるものがあれば、と思っていたので助かりました」
体力には自信があるフィレーネだが、それでも寝不足ぎみであることは事実だ。これから長い時間を歩くことを思えば、強い日差しを避けられるのはありがたい。
馴染んだ毛織りの手触りに指を滑らせていると、反対側の手を当然のように繋がれた。
のんびりとした足取りで歩きながら、フィレーネは傍らの夫に問いかけた。
「ずいぶんと警戒しているようですけれど、魔獣についてなにか分かったんですか?」
「姿を見て確かめたわけではないが、魔獣についておおよその予想がついた。フェルダイン夫人の襲われた状況と、厩舎の壁に残った痕跡から鑑みるに、おそらく魔獣はヴォルツだろう。見た目は猪に似ているが、牙が鋭く性質も凶暴だ。肉食ではないものの、目についた動く物を突いて嬲る厄介な習性がある」
「それでしたら名前だけ聞いたことがあります。確か北部に多く生息するのではありませんか?」
ヴィジランスがこくりと頷く。
「木々の多い場所を好む魔獣だからな。俺のいた修道院の周辺でも、よく討伐対象になっていた。単体であればさして問題ないのだが、素早いだけに群れで襲われると非常に厄介だ」
「群れ、ですか。この辺りはヴォルツの生息域から、ずいぶんと離れていますよね。はぐれて流れ着いたんでしょうか……」
「それならば良いが、群れで移動してきたならば面倒なことになる。ヴォルツは肉食でないから、餌として狙われるのは作物だ。しかも奴らは繁殖力も高いからな」
「でしたら討伐を急がなくてはなりませんね。……ヴィジランスさん。私に手伝えることはありますか?」
魔獣相手に戦うことは出来なくても、後方支援なら役に立てるはずだ。浄化の旅で魔獣に遭遇することは少なくなかったし、戦闘時の邪魔にならない動き方も知っている。それを分かっているだろうヴィジランスは、だが難しい顔をしている。
彼のその横顔をじっと見上げていると、眉間に深く皺が寄るのが分かった。
「あなたには、安全な場所で待機して欲しいと思っている」
だが、と言って彼は小さく息を吐いた。
「それではあなたの気が済まないのだろう。……これはサミュエルにも頼まれたことだが、俺たちが討伐に出る間は、あなたにはフェルダイン邸に待機してもらいたい」
「任せてください。それまでに役に立ちそうな薬をたくさん作っておきますね」
「無理のない範囲で頼む。ああ、それと忘れないうちに伝えておくが、俺たちの以前に住んでいた人物について、サミュエルから少し話を聞き出しておいた」
話題が思いも寄らない方向に進んだことに、フィレーネは思わず目を瞬かせた。日除けにしているストールを少し上げて、夫の顔を覗き込んで問いかけた。
「前の住人……もしかして、フェルダインのご家族とお付き合いがあったんですか?」
「お付き合い、と言って良いかどうかは微妙なところだがな。ただ前の住人が先代領主の愛人である、ということはこの辺りではかなり有名だったらしい。サミュエルも若い頃、ふらりと訪れる先代領主の姿を何度も見かけたそうだ」
「……何度も。それでしたら噂になって当然ですね。今のご領主さまも、お相手の女性もさぞ苦労されたことでしょう」
「だからかどうかは分からないが、その女性が表に出ることはほとんどなかったようだ。表を出歩くのは使用人ばかりで、サミュエルはついぞ女主人の顔を拝むことはできなかったらしい」
事情が事情とは言え、ずいぶんと徹底した隠れぶりだ。
「では、その使用人の方は?」
「領主が代替わりする前に女主人が亡くなって、その数年後に亡くなったそうだ。とは言え近くの村に住む老齢の女性だったから、使用人の死に事件性はないだろう」
さらりと言うのにぎょっとする。
他に明かせない秘密を抱える以上、周囲に対する警戒が必要であることは分かっている。前の住人とのつながりから、フィレーネの過去に疑いを持たれることは避けなければならない。とは言えそこまで考えなければならいのか、と思うと背筋をなにかが這うような、そわそわと落ち着かないような思いがする。
平穏無事に暮らすということが、ずいぶんと難しいことに思えてならなかった。
「つまり……誰かに探りを入れられるような事態になっても大丈夫、ということでしょうか」
フィレーネが問うと、ヴィジランスは少し考えてから口を開いた。
「とりあえずのところは、だが。かと言って警戒を怠るべきではないだろう。それでも前の住人のことはバーナード助祭が整えた手筈どおりに、知らぬ存ぜぬという顔でいれば問題ない」
「実際に知らない訳ですから、下手に誤魔化す必要がないのは助かります。マリアさんたちとのご近所付き合いにも、影響が無さそうで安心しました」
ほっとして言うフィレーネに、ヴィジランスが小さく苦笑のような息を漏らした。
「あなたのより良い近所付き合いのためにも、ヴォルツの件はきちんと片を付けなければならないな」
「フェルダインの皆さんのために、ですよ。でもヴィジランスさんも、くれぐれも無理はしないでくださいね」




