38 元夫の捕縛
息が止まる。
備品倉の棚の影から現れた男が、ゆっくりと振り返った。
かつて愛した、元夫。
「ラウルド……」
(大聖堂への立ち入りを禁じられているはず。どうしてここに?)
彼の身につけている記章が「臨時警備」のものにすり替えられている。
元聖騎士の知識を悪用し、警備に紛れ込んだのだろう。
目を凝らすと、彼の背後にある棚の背板に、かすかなレールの跡が見えた。
(まさかあの可動棚、『スミレに誓う禁断の愛』で、聖女ステラが使った抜け道?)
「動くな」
ラウルドは懐から、手のひらに収まるほどの氷柱のような塊を取り出した。
青い魔充具。
しかし表面の紋様は、まるで禍々しい生き物のように脈打っている。
(普通の魔充具じゃない。危険な魔術で、改造されているんだわ)
ラウルドは私に見せつけるように、改造された魔充具を突き出す。
「この魔充具を折れば、大聖堂に仕掛けた魔道具が暴走する」
「封魔下では、魔術は空中に放たれないわ」
「封魔の亀裂に仕掛けたら? その威力……折って、試してみるか?」
近年、帝都の天候が荒れやすい。
それは大聖堂の封魔が乱れているせいだと、小説に書かれていた。
(もし、ラウルドの言うことが本当なら……)
エトワールが。
大聖女が。
舞台に立つ子どもたちが、今も家族や来場者に見守られている。
万が一でも、誰かを危険にさらすわけにはいかない。
「……それだけは、やめて」
ラウルドの口角が、ゆっくりと釣り上がる。
「そうだ。昔みたいに、俺の言うことを聞くんだ」
やっぱり、私が従うと疑っていない。
(あの魔充具さえ取り上げられれば――)
私は彼の油断を見越し、ゆっくりと距離を詰めながらも平静を装う。
「大聖堂まで、何をしに来たの?」
「お前を救うためだ」
「……私を?」
「喜べ。神獣に、お前の肉体を捧げに来た」
(は……それって、生贄?)
あまりにも突飛な言葉に、思考が一瞬止まる。
そんな私を見て、ラウルドは満足げに語り始めた。
「大聖女の啓示はこうだ。『紫髪の幼子が凶獣を呼び出す』……その凶獣の正体こそ、この大聖堂で祭られている神獣! 喰われれば、悪喰は浄化される!」
そんなはずがない。
(小説の中のアルージュは凶獣に喰われて、「即・死亡」だったんだから!!)
「ラウルド、聞いて。神獣に肉体を捧げたら、そこで終わりなのよ」
「違う! 俺が、お前を救ってやる!」
「啓示の凶獣……神獣は、とても危険だったわよね? 召喚されれば、帝都が壊滅する大被害が出るわ」
「黙れ! 俺が正しい!」
ダメだ。何を言っても届かない。
(どうしてこんな人に、「愛されたい」と願っていたんだろう)
愛されないのは自分のせいだと、そう思い込んでいた錯覚は、もう解けている。
「それに、どうやって神獣を呼ぶつもり?」
「エトワールに召喚させる」
(はぁ!?)
思わず叫びそうになるのを、必死で飲み込んだ。
(そんな危ないこと、エトにさせられるわけないでしょ!!)
でもラウルドは、「名案だ」とでも言いたげに頷いた。
「あれはお前に懐いている。『お母様が病気だ』とでも言えば、簡単に従うだろう」
「卑怯よ。人の優しさにつけ込むなんて」
「はははっ! 騙される方が悪いんだ!」
彼は得意げに高笑いした。
その油断を、見逃したりはしない。
「その改造魔術、可動棚にも仕込まれてるわ」
私のハッタリに、ラウルドは反射的に背後を振り返った。
(今だわ)
彼の手元から魔充具をかすめ取り、素早く距離を取る。
「なにをする!」
(早く外へ……!)
ドアノブに手をかけた、その瞬間。
背後から腕を捕まえられ、床に引き倒された。
(魔充具を奪われるわけにはいかない!)
必死に身をよじって抵抗する。
身体が棚にぶつかり、木が軋む音とともに埃が舞い上がった。
「やめてっ!」
全身にぶわりと鳥肌が立つ。
以前は触れられなくて寂しかったはずなのに、今は息がかかるだけで吐き気がした。
「俺に従え!」
ぐい、と乱暴な力が加わり、私の手から魔充具がもぎ取られる。
「やめて! 助けて、旦那様っ!」
「お前の夫は俺だ!」
「違う! 私の旦那様は、私を大切にしてくれるわ!」
「黙れ! 俺を見ろ!」
「嫌っ……助けて! リュノール様っ!」
扉が勢いよく開き、外の光と空気が一気に流れ込む。
ラウルドが振り向いた瞬間、その背後に大きな影が落ちる。
「汚い手で俺の妻に触るな」
低く冷えた声と同時に、私からラウルドが引きはがされる。
公爵は元聖騎士の腕をねじり上げると、あっけないほど容易く床へ沈める。
「うぐあっ!」
ラウルドは白目を剥き、そのまま動かなくなる。
室内が静まり返る。
「だ、旦那様……! もしかしてラウルドの息の根、止めてしまいました?」
「残念ながら、生きている」
公爵は忌々しげに、押さえつけたラウルドを見下ろす。
「目の前で命を落とし、お前がこいつを忘れられなくなるのは嫌だ。覚えているのは、俺だけにしろ」
あまりにも平然とした物言いに、私は呆然と彼を見つめる。
「でも、旦那様……どうして、ここに?」
「アルージュと離れていることに、耐えられなくなった」
「……数分なんですけど」
「それでもだ。お前を一人にしたくない」
言葉は人間、行動は忠犬。
(旦那様が、助けに来てくれた)
緊張が一気にほどけ、私はその場に座り込んだ。
「ありがとうございます」
「当然だ。お前が助けを呼んだんだ。怖かっただろう」
彼の言葉に、安堵が押し寄せてくる。
(もう、大丈夫なんだわ)
ふっと力が抜けて、私は公爵の背中へ額を預ける。
(あ。彼が犬化してなくてもわかる)
見えないけれど、黒い尻尾が、ぶん、ぶんって振られてる。
しかも、いつもより多めだ。
「……こいつを押さえているせいで、お前を抱きしめられない」
不満そうに言う公爵の足元で、失神したままのラウルドの手から、青い魔充具が床へ転がり落ちた。
「あっ」
(この魔術紋、自爆するやつ!)
「旦那様、触れないでください」
私は改造された魔充具を拾い上げると、悪喰の力で魔力を吸い取った。
爆発の魔術紋がじわりと消え、魔力を失った魔充具は青から赤へ変わる。
これで普通の魔充具と同じだ。
「間に合ってよかった……」
ふう、と息をつく私の手元に、公爵が視線を向ける。
「解除したのか?」
「はい。それに見てください。魔充具にひびが入っています。そのときの小さな暴発で、ラウルドは気絶したみたいです」
完全に折れていたら、この備品倉ごと吹き飛んでいた。
公爵の冷たい視線が、失神したラウルドへと落ちる。
「この男の無知ゆえに、アルージュまで巻き添えになるところだった」
公爵はラウルドの懐を探り、もう一つの改造魔充具を取り出した。
「見たことのない歪な魔術だ」
「おそらく古の禁術です」
(これでエトから魔力を奪って、無理やり神獣を呼ばせるつもりだったのね)
魔術に疎いラウルドが、特殊な魔術が使われた改造魔充具を用意していた。
(背後に誰かいるわ)
まだ確証はない。
けれど、子どもたちの舞台を壊させるつもりはない。
「私は猊下に報告してきます。旦那様、ラウルドの護送をお願いできますか?」
「任せろ。もう二度と、お前に関わらせない形で引き渡す」
私は小さく頷き、身廊へ向かった。
その途中、気になっていたことを確かめるため、回廊脇の小部屋へ立ち寄った。
結界石で組まれた透明な結界の膜へすっと手を差し入れると、弾かれずにすり抜けた。
(やっぱり。悪喰で触れれば、結界を無効化できるようになってる)
ついでに、草餅を一つ拝借する。
ふわっと広がるよもぎの香り。癖のない甘さ。これこそ正義。
(私の悪喰の進化、思い当たるのは……公爵と軽食を食べた直後から、魔力が貯められるようになったことね)
草餅を美味しくいただいてから、私は再び大聖堂へ向かった。
(えっ!?)
関係者以外立入禁止の扉の前で、数名の聖騎士が倒れていた。
床には、改造された魔充具が無造作に散らばっていた。
「……ラウルドがエトに使おうとしていた物と、同じ魔術だわ」
これに触れた瞬間、警備の聖騎士たちは魔力を奪われ、声も上げられず気絶したのだ。
(でも……この魔術紋、見覚えがあるわ)
ラウルドとの婚約を認めてもらうため、ロンブル侯爵家を訪れた、あの日。
見たことのない、禍々しい魔術。
命が削られていく、愛する人とその家族。
それが――私が悪喰になった、原因。
(あの人が、ラウルドを操っていた魔術師だったのね)
私は扉を押し開け、階下を見下ろす。
「啓示の儀が終わる前に、さくっと片付けなきゃ」
点と点が繋がり、物語の全容がはっきりと見えてきた。
自然と、笑みがこぼれる。
「エトのお迎え、遅刻したくないしね!」
地下階段を進み、大聖堂の最下層へとたどり着く。
結界に守られた祭壇の上空で、羽ペンがひとりでに宙を踊っていた。
描かれる光の軌跡は星雲のように幻想的で、やがて淡くほどけて消えていく。
その光景を見上げる黒衣の男の唇が、わずかに歪む。




