36 再会
公爵は腕に抱えていた赤い薔薇の花束を、そっと私に差し出した。
周囲の息を呑む気配と囁き声が、波紋のように広がっていく。
「お前が連日考え抜いた新しい啓示の儀だ。一番に祝わせてくれ」
「……ありがとうございます」
彼は今回、大聖堂の警備を引き受けてくれている。
封魔によって魔術が使えなくても、剣技と体術は一流だ。
「休憩のときに、エトの姿を見てあげてください」
「ああ。二人で見よう」
公爵を見送った、その直後。
背後から、女性の静かな笑い声が聞こえてきた。
「――歴代最強の冷徹な魔術師が、奥方のことになるとこうも簡単に懐柔されるとは」
からかうような声とともに、堂々たる風格の女帝が、女官と護衛を従えてこちらへ向かってきた。
人々がざわめくのも無理はない。
即位以来、女帝が大聖堂を訪れるのはこれが初めてなのだから。
私は一歩前へ進み、恭しく礼を取る。
「陛下、本日はご光臨を賜りまして、恐悦至極に存じます」
「よい。先日は有意義なひとときを過ごせた。あなたの知略と誠実さ、見事だった。このたび一新された啓示の儀も、民の益となることを期待している」
(よかった。手応えは悪くないわ)
女帝の言葉に胸を撫で下ろしつつ、彼女を大聖堂の最前席へ案内する。
見上げれば、天井には満天の星のような光が瞬いていた。
「あの幻想的な輝きは……魔術か? しかし大聖堂には封魔が巡り、魔術は使えないはずだが」
「封魔下で魔力を空中に“放つ”ことはできませんが、魔充具の魔力を魔道具に“移す”ことは可能です」
「なるほど。つまり頭上の輝きは、魔充具から移った魔力が動力……見事なものだ」
正面の垂れ幕に視線を移し、女帝は楽しげに笑った。
「さて。まずは大司教の長い朗読を拝聴する、というわけだな」
鐘の一打が高らかに鳴り響く。
広間にさざめく囁きは次第に消え、やがて静寂に包まれた。
するりと幕が上がる。
壇上に立っていたのは、大司教ではなかった。
ずらりと並んでいたのは、色とりどりの衣装に身を包んだ、たくさんの子どもたち。
掲げられたタクトが静かに振り下ろされ、子どもたちの呼吸はひとつに重なる。
伸びやかな合唱が、大聖堂いっぱいに広がっていく。
新たな啓示の儀に合わせて、前世で定番のクリスマスソングをアレンジしたものだ。
女帝は圧倒されたように息を呑み、やがて呟いた。
「……退屈な朗読では、ないのか?」
「啓示の儀の目的は、神獣に楽しんでいただくことです。来場者にも同じ時間を共有してもらうため、子どもたちが練習を重ねました」
「これが新たな儀の形……なるほど。実にあなたらしい」
曲が終わると、子どもたちは深々と一礼し、舞台袖へと下がっていく。
その背を称えるように、拍手が響き渡る。
視線の端では、大司教がすでに目元を押さえている。
……泣くのが早い。
そこへ小さな影がとてと近づいてくる。
エトワールだ。
背伸びをしながら大司教にハンカチを差し出し、身振り手振りで一生懸命慰めている。
(なんて心優しい天使なのっ!!)
愛しさに胸がいっぱいになる私の隣で、女帝がそっと口元を手で覆い、声を潜めた。
「まさか舞台には、レオノール……いや、大聖女も?」
疑問の声と同時に、カーテンが静かに閉ざされる。
場内が暗転し、静けさが訪れる。
やがて舞台手前に並んだ子どもたちが楽器を奏ではじめ、子どものナレーションとともに物語の幕が上がった。
「むかしむかし、心のうつくしい少女がいました」
スポットライトに浮かび上がったのは、金髪の幼女――大聖女だ。
粗末な服を着て、意地悪な姉たちに虐げられる、健気なヒロイン役を演じている。
「わたしも、おしろのぶとうかいに、いってみたいわ」
そう。前世でも、女の子が大好きだった、あの話。
(神獣の性別はわからないけど、きっと楽しんでもらえるはずよ!)
きっと、乙女心満載な彼女にも……
ちらりと隣に視線を向けると、女帝は大聖女のひたむきな演技に見入っている。
彼女の両手は、胸のあたりで固く組まれていた。
「なんと意地悪な姉たちだ……!」
そう呟いて、女帝はハッと我に返る。
私と目が合うと、少し照れたように小さく笑った。
「……観劇など、ずっと外交の手段に過ぎなかった。これほど心を奪われたのは、はじめてだ」
物語は進み、ヒロインが城の階段を降りる重要な場面に差しかかった、そのとき。
――バタン!
大聖女が転んだ。
脱げた靴が、ころころと舞台の上を転がっていく。
観客席の空気が、一瞬にして張りつめた。
「レオノール……!」
沈黙の中で、娘の名を呼ぶ女帝の声が震える。
それが届いたのか。
大聖女は顔を上げ、暗い客席――自分の名を呼んだ方を見つめて、にこっと笑った。
「だいじょうぶですわ!」
そのアドリブに、立ち上がりかけていた女帝は動きを止める。
「くつがぬげてしまっても……まほうがとけるまえに、かえらなくては!」
転倒が物語の演出だと観客に伝わり、張り詰めていた会場の空気は安堵の息とともにほどけていく。
やがてヒロインは幸せを手にし、物語は幕を下ろした。
温かな拍手が鳴り止まない。
女帝はハンカチで、そっと目元を押さえていた。
彼女だけではない。
子どもたちの成長に胸を打たれた大人たちの目が、あちこちで潤んでいる。
――パチッ、パチッ、パチッ!
(あの大きな拍手……エトの“ひみつのあんごう”ね)
私は舞台を作り上げた子どもたち、そして客席のかわいいスパイさんにも、心からの拍手を送った。
女帝の涙が少し落ち着いたころ、大司教が歩み寄ってくる。
「陛下、お楽しみいただけておりますか?」
「ああ。猊下の朗読は、思い出の中だけで十分のようだ」
女帝の率直な感想に、大司教は満足げに頷いた。
ふたりが静かな笑みを交わすのを見計らい、私は立ち上がった。
「陛下、ここからは猊下がおもてなしをいたします。どうぞ続きをお楽しみください」
(そろそろ、エトの出番だわ)
歩き出した私の背に、二人の会話が追いかけてくる。
「猊下、素晴らしい演出に心を打たれている。アルージュは演出家の才能まであったのだな」
「それだけではありません。本当に心優しい孫でして」
「友としても思いやり深いぞ」
“孫”と“友”。
その両方を公認された事実に、公爵の拗ねた後ろ姿がふと浮かぶ。
(なんとなく、旦那様が聞いていなくてよかった気がするわ)
そう思いながら、彼の待つ上階へと急ぎ、バルコニーのある一室へたどり着く。
途端、公爵は待ち構えていたように私の手を取った。




