34 女帝の温室
「噂には聞いていたが……誇張ではなかったようだ。公爵閣下の思慕は本物か」
「?」
「その宝玉は、公爵家の魂の象徴だ」
女帝は私へ視線を向けると、断言するように告げた。
「閣下はそれを預けたあなたを、“魂と引き換えにしても守る”と……君主である私に、つまり帝国に宣言している」
私はようやく、とんでもないものを首から下げていると知った。
(ヒッ、まさかの魂案件!? 失くしたら「ごめんなさい」じゃ絶対に済まないやつ!)
……帰ったら、できるだけ早く公爵に渡そう。
そう心に決めて表情を引き締めると、女帝は感心したように頷いた。
「さすがだな。これほどの寵愛を身にまとっても動じず、頬すら染めない」
(赤面要素、どこ!? どっちかっていうと顔面蒼白よ……!)
先ほどからペンダントが重い気がしてならない。
気を逸らすためにカップを持ち、紅茶の香りを吸い込んだ。
「噂以上の傑物のようだな、アルージュ夫人」
どうやら女帝には、絶句してお茶を飲む私の姿が、落ち着いて映ったようだ。
「友として招いたのは正解だった」
ガラス越しの光が降り注ぎ、アンティーク調のテーブルに並んだ銀の器がきらりと揺れる。
その皿の上では、事前に届けておいた私の菓子店のキャラ風スイーツたちが美しく飾られていた。
女官たちはその光景を見て、顔をほころばせている。
ただひとり、女帝だけは表情を崩さない。
「これが噂に名高い、アルージュ夫人の甘味か」
「はい。材料も本店と同じものを使っています。陛下のお口に合えば、それだけで光栄です」
毒見対策もあって予め渡してはいたけれど、これは本題への布石だ。
そのためにも――大聖女からしっかりと事前情報を仕入れておいた。
(女帝は「かわいいものが好き」らしいのよね!)
案の定、彼女は扇で顔を隠しているものの、視線はキャラスイーツに釘付けだ。
「この愛らしい生き物はなんだ?」
「パンダという異界の動物です。丸くて愛らしいので、モチーフにしました」
「確かにかわいらし……コホン。――失礼」
女帝の顔は扇でほとんど見えない。
それでも、視線がクッキーに吸い寄せられているのは明らかだった。
彼女は静かにそれを口にする。黒い瞳がほんのわずかに揺れ、ふっと吐息がこぼれた。
「これほどの美味は、はじめてだ」
気に入ってくれたようで、ほっと胸をなで下ろす。
女帝は静かに、しかし嬉しそうにクッキーを食べ続ける。
「噂通り、あなたは多才な方だな。近ごろは大司教猊下にも重用され、大聖女を母のように癒やしているとも聞く」
「大それたことはしておりません。ただ、大聖女様の笑顔を守りたかっただけです」
女帝の眼差しが鋭くなったけれど、微笑みは崩さない。
「でも、最近気づきました。守られて心が安らぐのは、子供だけではないと」
私はそっと腕を上げ、紫のブレスレットを示した。
「この品を息子から贈られたときは、本当に胸がいっぱいになりました。私の宝物です」
「……見たことのない、美しい宝玉だな」
「おもちゃです」
「……これが?」
黒い瞳がぱちぱち瞬き、それからブレスレットを凝視している。
(どう見ても、女帝の乙女心はうずうずしているわね)
背後の女官たちまで目を輝かせている。
「よろしければ、女官のみなさまもどうぞ。気軽に作れますので」
「まぁ! おもちゃとは思えない美しさ!」
「宝石より軽くて、姪も欲しがりそうだわ!」
包みを受け取った女官たちは、少女のようにぱっと笑顔になった。
「陛下には、こちらを」
他と異なる包みを渡す。
女帝はそれをほどき、赤い花を模したビーズのブレスレットを手に取った。
「ほう……私のは完成されたものか」
「はい。レオノール様が、赤い花を育てているお母様を想い、心を込めて作りました」
女帝の瞳がわずかに揺れた。
その背後では、赤い花が静かに咲き誇っている。
かつてマナの聖水の被害で命を落とした者たちへ捧げられた、哀悼の花々。
「……私は女帝だ。受け取るわけにはいかぬ」
「これは大聖女から女帝への贈り物ではありません。幼い子が母に喜んでもらいたい――ただそれだけの、純粋な願いです」
女帝はテーブルを爪で叩いた。
その小さな音で、温室の空気がピンと張り詰めた。
「あなたになにがわかる」
女帝は私を睨みつけ、絞り出すように声を震わせた。
「あの子の母親のつもりか?」
「いいえ。でも、私にも大切な息子がいます」
「実の子ではあるまい!」
「そうだとしても、私のかわいい子です」
女帝は立ち上がり、椅子から離れて背を向ける。
勢いで、そばに咲く赤い花々がそっと揺れる。
その光景に、大聖女が話してくれた言葉が胸に浮かぶ。
――おかあさまは、あかいおはなをそだてていますの。『これは、たいせつなことをおもいだす、とくべつなはなです』って、おはなししてくれました。
女帝がその哀悼の花を育てているのは、かつて皇族が犯した過ちを繰り返さないと、誓い続けるためだろう。
「……私は、よい母親にはなれぬ」
冷たい声なのに、その手はわずかに震えていた。
本当は――今すぐ娘を抱きしめたいのだろう。
けれど、彼女は女帝という立場から動くことしかできない。
「猊下からお預かりしたものがあります」
私は立ち上がり、教会の紋で封じられた書状を差し出した。
「……これは?」
「大聖堂で行われる、一新された啓示儀式の招待状です。内容は、私に一任されています」
私はにっこりと微笑む。
「陛下はこの国を誰よりも案じられています。ですから、この儀式の変更が危険ではないか、大聖女を害さないか。どうか、女帝としてお確かめください」
「つまりこの招待は……帝国のためだと?」
「もちろんです。ただ私としましては……私的なお茶に誘っていただいた“友人”として、陛下のご訪問を願っています」
「……あなたは噂以上に侮れぬ。そして強く優しいな」
女帝の険しい表情が緩み、ふっと笑みが浮かぶ。
そして招待状を丁寧に受け取り、封を切る。
温室に漂う花の香りが、ひときわ濃く感じられた。
◇
私は女帝の蝋印で封された返書を携え、大聖堂へと向かった。
大司教の険しい眉間が、驚きに引きつった。
「これは……陛下からの出席の返事!?」
私は彼に事情を説明しながら、中庭へ向かう。
木に吊るされたサンタブーツ風の袋へ、女帝の出席の手紙をそっと滑り込ませた。
翌日。
「アルージュさま、ブレスレットがなくなっていますの!」
大聖堂を訪れると、大聖女の弾む声が迎えてくれた。
「サンタさまですわ……! サンタさまは、おかあさまからのおてがみも、とどけてくださいました!」
中庭では侍女や司祭たちがざわついている。
「サンタ様は本当にいたのか!?」
そんな声まで聞こえてきて、ちょっとした騒ぎになっていた。
(ということは……私が持ってきたこと、誰にも話していないの?)
視線で聞くと――大司教は厳格な顔のまま、お茶目にウインクを返してきた。
人々の見上げるモミの木の飾りが、窓から注ぐ陽できらきらと輝く。
これから新しく生まれ変わる啓示の儀は、母娘の未来を変えるだけではない。
私自身にとっても、特別な出会いと別れを迎えるその日は、もうそこまで近づいていた。




