32 大聖女の母
◇
聖務室の扉をノックして、入室の許可を得て中へ入る。
帳簿の山の向こうで、大司教が顔を上げた。
「……おお、ちょうどよいところに来た。先日の祈りの舞、大成功だった」
席を勧められ、私は向かいに腰を下ろす。
「大聖女に笑顔が戻った。それどころか司祭たちにまで変化があり、笑い声を聞くことが増えた。あなたのおかげだ」
「それは良かったです」
鬼ごっことかくれんぼに付き合った司祭たちは、それから家族や子どもと過ごす時間が増えたらしい。
中には「体力づくりの運動」を始める人まで出てきたという。
「そこでだ。あなたの発想を借りて、来月の啓示儀式を一新したい。あれは“退屈だ”と不評でな」
(あぁ……校長先生の長いお話より長い、あの儀式ね)
「例えば、あなたの甘味などを供えれば、神獣も私も喜ぶと思うのだが」
啓示儀式では、神獣への供物と同じものが大聖堂でも振る舞われる。
つまり、甘党の大司教も、食べたいということだろう。
「わかりました。なにか考えてみます」
「ありがとう。あなたにはいつも助けられている。だから……そ、その、だな」
大司教は言葉を途切れさせ、落ち着かない様子でもぞもぞし始めた。
「どうかされましたか?」
「つまりだな。私からあなたに、感謝の気持ちを伝えたいというか……」
こほん、と咳払いをしてから机の引き出しを開け、細長い小箱を取り出す。
中には、滑らかな風合いのハンカチが収められていた。
(エトの瞳のような紫色……そういえば以前、大司教が私の好きな色を調べていたわ)
この国では、“家族”が結婚すると、相手の好きな色のハンカチを贈って祝う。
「遅くなったが……結婚おめでとう、アルージュ」
はじめて名を呼ばれ、胸の奥がじんわりと熱くなる。
私たちの間に血の繋がりはないし、スイーツ店で会うまで交流も全くなかった。
形式だけの祖父に対して、どう距離を取ればいいのか、迷っていた。
けれど……不器用ながらも心を込めて、彼は私を家族として祝ってくれた。
「ありがとうございます、お祖父様」
「う、うむ……」
視線を泳がせる大司教の仕草が養父と重なり、思わず笑みがこぼれる。
こんな空気になるのは初めてで、くすぐったいような心地になる。
「と、ところで。聖務室へ来たのは、なにか用事があったのではないか?」
私は頷き、いただいたハンカチを丁寧に仕舞った。
「大聖女様が祈りを込めた品を、中庭の木に飾りたいと仰っています。そのようにしても、よろしいでしょうか?」
大聖堂内に『おもちゃ入りのポップな袋』を飾るなんて、司祭たちは腰を抜かすかもしれないけれど。
「よい。アルージュの相談だ。大聖女のためにも、特例許可は私が出そう」
「ありがとうございます」
ほっと胸を撫で下ろす。
大司教には、これも大聖女の回復のためになる可能性が、伝わっているらしい。
そうでなければ、これから話すことには進めない。
「その品は、大聖女様が心を込めて作られたブレスレットです。それが“お母様へ届くこと”を心待ちにされています」
大司教は言葉を呑み込み、視線を落とした。
聖女とその家族の安全のため、出自については厳重な機密なのだろう。
(でもこれは、大聖女様の回復に一番重要なことだわ)
私は意を決し、そっと口を開く。
「大聖女様が母を求めているのは明らかです。規律を改めれば、会えるようになるのではありませんか?」
「残念だが……教会が許可を出しても、母娘の再会は不可能だ」
「なぜですか?」
「それは……」
沈黙が落ちた。
窓の外で雲が流れ、室内に薄い影が落ちる。
「大聖女の母上は――女帝陛下だからだ」
その瞬間、息をするのも忘れた。
時間が止まったように室内が静まり返る。
外から聞こえる教会の鐘の音を聞いて浮かぶのは、あの日の記憶……
大聖女の『祈りの舞』と称して大聖堂を封鎖し、一日中遊んだ最後。
帝都を見たいと、塔から皇城を見つめていた、幼い横顔が胸にせり上がる。
――おおきくて、とおいですわね。
あの子は、会えない母を思っていたのだ。
「過去、皇族が私利のために聖女の啓示を悪用し、マナの聖水の被害が蔓延した。陛下はその過ちに胸を痛め、民へのけじめとして教会と距離を取っておられる」
つまり女帝は、君主としての責務から、大聖女と――“娘と”会わない、という選択をしている。
私の脳裏に、大聖女がぎゅっと握りしめた赤い花のブレスレットが浮かぶ。
――でも……どうわたせばいいのか、わかりませんわ。
あれは、心を押し込めてきた幼子の、ようやくこぼれた本音だ。
(知らないふりなんて、できない)
「では、帝国のためになると陛下が納得してくだされば――母娘は会えますね」
「……なんだと? 無理だ。陛下は啓示儀式ですら欠席なさるほど徹底しておられる。教会が願い出ても応じない」
「ですから、こちらから“お願い”するのではなく、陛下が“望む”形に整えましょう」
「しかし、どうやって?」
私は大司教に小声で、ひとつの策を耳打ちした。
「なんと……」
大司教は額に指を当て、短く息を吐く。
「あなたはまったく……次から次へと驚かされる。だが、その話を広めて、本当に陛下が“大聖女に会おう”と、ご決断なさるのか?」
「陛下の立場上、そうなります。こちらがどう動くかは、私にお任せください」
「ますますわからん。だが、面白い」
大司教はどこか楽しげに頷いた。
「よかろう。頼まれた準備は早急に進める。あの話も流しておこう」
「ありがとうございます」
噂って、まるで風のよう。
ひとたび吹けば、誰も止められない。
案の定、数日も経たないうちに、公爵邸へ一通の招待状が届いた。
女帝から公爵夫人――つまり私へ、“私的なお茶の席”のお誘いだ。
「順調、順調っと!」
大聖堂の中庭で、私はモミの木に飾られた赤いブーツに手を伸ばし、そっと微笑む。
(大聖女様……もう少しで、お母様に会えますからね)




