26 好きな色
執務室のわきの長椅子に座り、ほんの少しだけ待つ。
(珍しいわね。いつもはすぐ来るのに)
ほどなく、公爵はやってくる。
私の向かいではなく、なぜか隣に腰を下ろした。
「忙しいのなら、後でも大丈夫ですけど」
「今終わらせた」
(あれ、声が低い。というか……少し機嫌が悪い?)
「大司教猊下に会ったそうだな」
そう言うと、公爵は私から軽く視線をそらす。
やっぱり不機嫌だ。
私が面会した大司教と、仲が悪いのだろうか。
「どうして知ってるんですか?」
「確かな者から情報を得た」
断言した。
しかも裏社会の情報みたいな言い方。ちょっと怖いんだけど。
「猊下はエトワールに『おじいちゃん』と呼ばせているそうだな」
(えっ。公爵の「確かな者からの情報」って、エトのこと?)
「しかも、アルージュが俺に虐められていないか、などと余計な確認までしたらしい」
「猊下が……私についてそんなことを?」
「お前の好きな色まで聞き出していた」
大司教、それほど詳しく私のことを調査しているなんて……
「完全に懐かれているようだ」
(ますます意味がわからないんですけど!?)
……ともかく、大司教との話の経緯は伝えておこう。
「私は猊下から、大聖女様へ献上するお菓子を依頼されました。お店の品を、本当に気に入ってくださったみたいで」
「依頼? 私的な話ではないのか」
あ、知っている口ぶり。
結婚前に私の身の回りを調べただろうし、当然かもしれない。
「猊下はアルージュの祖父だろう?」
「……養父の父なので、血の繋がりはありません」
父は家族の話をほとんどしなかった。だから私も踏み込まなかった。
「顔を合わせたのは、菓子店の開店初日が初めてです」
「ではやはり、個人的にアルージュのことを気にして来たのだろうな」
開店初日――どう見ても場違いな大司教が、店内をぎこちなく見回していた姿がよみがえる。
私が声をかけると、彼はわずかに目を見開いた。
あの表情は、幼い私にバレて慌てた、養父が仕掛けたサプライズのときの顔に、そっくりだった。
思い出すと、胸の奥がくすぐったくなる。
「祖父が私のことを気にかけてくれたなんて、考えたこともありませんでした」
「……お前を気にかけているのは、彼だけじゃない」
私は小さく頷く。公爵の言う通りだ。
「そうですね。店の従業員も頼りにしてくれます。それに! エトも四つ葉のクローバーをくれて、『おかぁしゃま、しあわせなるかな?』って言ってくれました!」
(エトの笑顔は天使なのよ!!)
胸をときめかせていると、公爵はカップを持つ手を止める。
月色の瞳が私をとらえた。
「俺を忘れるな」
カップを置く音が、やけに大きく響く。
「俺が一番、お前を気にかけている」
「……? ありがとうございます」
確かに最近は、彼がただ監視しているだけじゃなくて、安心感というか……
そう、忠犬という言葉が浮かぶ。
「アルージュが大聖女のところへ行くなら、俺が護衛する」
「えっ。でも執務は?」
「すべて差配した」
即答だ。さっきまで慌ただしかったのは、まさかこの準備?
「でも、大聖女様は教会で厳しく保護されています。彼女と会えるのは私だけかと」
「構わない。お前が他の男に懐かれることを、見過ごすことはできない」
どうやら公爵は、私が祖父の大司教と距離が縮まるのを相当警戒しているようだ。
いらない心配をかけたりはしない。
「ご安心ください。私は公爵夫人。大司教派になるつもりはありません。あなたの妻ですから」
「それなら、なおさら目が離せない」
彼は真っ直ぐ私を見つめる。
犬の姿ではなくても、嬉しさに尻尾がをぶんっと揺っている気がして、ふっと心がほどけた。
(ラウルドに避けられていた頃の私だったら、今はこんなに過保護な旦那様がいるなんて……信じられないわね)
「なぜ笑っている」
「旦那様が一緒なら、安心だと思っただけです」
「当然だろう。俺はお前を守る」
不敵に微笑むその美貌からは、さっきまでの不機嫌さがすっかり消えていた。
「ところでアルージュ、好きな色は紫だな?」
「ええ。でも……どうしてわかったんですか?」
「お前はよく、エトワールの髪を愛おしそうに撫でている」
公爵は自然な仕草で、私の赤髪に触れた。
(ということは、公爵は赤色が好きなのかしら)
その指先はあまりに何気なくて、優しくて。
私はそのまま受け入れていた。
(もしかして……本当の夫婦って、こんな風に触れ合うのかもしれない)
そう思った矢先、彼が静かに呟いた。
「だが俺は、お前に紫を贈りたくない」
(ん? その宣言、どういう意味?)
私は首を傾げる。
贈り物をしたくない、という意味ではないはずだ。
彼は普段から、たくさんしてくれているし。
「それって……私に別の色を贈りたい、ってことですか?」
当たっていたらしく、公爵は柔らかく目を細めた。
そして少し体を寄せると、私のつむじに顔を近づけてきて――温かい感触がした。




