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-15 ⅰ 少年騎士と女の子。







どう考えても時機を逸したとしか考えられない。


混乱していたのは滅茶苦茶になっていく指揮系統から容易に察せたが、余りにも酷かった。


前線に送り出されたのはまだ若く経験の浅い者ばかり。

改めて周りをよく見れば、今まで前後に居た年嵩の騎士や兵士は居なくなっていた。


翼竜での空中戦で有効なのは投擲出来るもの。弓矢や槍、小剣。魔術が使えるものは術を放つ。どれも当たり前に、放てば戻ってくるものではない。

飛び立つ前にはたくさん持っていた武器、敵に当たらなかったものはどんどん地上に落ちて無くなっていく。



そして周囲にいた味方も、先ず人が落ち、続いて主人を失った竜が後を追うように落とされていった。



その堪え難い光景。

逸早くこの場を去った上官たちに。

呪詛にも似た悪態を吐き、自分の非力さを心の底から呪った。


今落ちたのは、田舎に病気の父がいると話してくれた兵士だ。気が優しくて誰でも隔てなく接していた。


次に落ちたのは、ひと時同じ場所で同じく騎士見習いをしていた奴。

いつも威張って嫌な奴だったけど、剣の腕前は最後まで自分を上回っていた。


毒矢に打たれて苦しかっただろう。

火を放たれて驚いただろう。


気が付いた時にはもう遅い。

手を伸ばしても届かない。

それより何より、助ける術を自分は持っていない。


前を向いても、後ろを振り返っても、同じ色の外套姿も、同じ紋章も、もう居なかった。




これは何だと問うたところで、自分の中から答えは出ない。

答えてくれる大人も、もう後方に退いて戻ってこない。


腿の上を銀色の光が掠めていった。


その後ろにあったチタの翼に穴を空ける。


怒りの声をあげて向かっていこうとするチタに、前に出るなと手綱を引いた。


強い風は容赦なくチタの翼の穴を広げていく。


血の滲む脚を見下ろして考える。

変な痺れも無ければ、焼けるような痛みも無い。毒は盛られていなかったのだと僅かに希望を感じる。


自分がここで落ちても。

チタはきっと、自力で傷を癒して、こんな戦場ではなく、どこかの森で長く生きられる。


「チタ! 上だ、お前が行けるところまで上がれ!」


足で胴を叩いて手綱を思い切り引いた。


チタはすぐに息もままならない場所まで急上昇する。

下には蟻よりも小さな翼竜たちの姿が見えた。


誰も追ってこないことを確認して、薄れる意識の中で、チタに別れの挨拶をした。

声になって出ていたのかは分からない。

自分とチタを繋ぐ帯を解いて、手綱から手を離す。






「あれぇ?」


頬にぱたぱたと何かが当たる。

遠退いていく足音が聞こえる。


自分がまだ息をしている事にどっと疲れが押し寄せてきた。


なぜ生きているのかと思いながら、チタのことを考えた。

あの高さから助かるなんて、チタは相当に無理をしたはずだ。

主人を助けている場合か、何をしているんだ、せっかく自由になれたのにと呆れて細かい息を吐き出した。


また小さな足音が、今度は近付いてくる。

そして同じようにさっきの声。


「あぁれぇ?」


首元に落ちてきた冷たいものに、雨でも降ってきたのかと薄く目を開いた。


上には重なり合う木の葉の影がさらさらと揺れていた。

そこに雪が積もったように、小さな白い花が被さっている。


僅かに頭を巡らせて、声のする方を向いた。

動いたのはほんの少しで、どうにか視界の端でその人物を確認する。


小さな女の子が両方の手のひらを合わせて、上から覗き込むようにしていた。


何か声をかけるべきかと思ったが、口の中が張り付いたようで、呻き声も出そうにない。 瞬きもひどくゆっくりにしかできない。


女の子はじっとこちらを見た後、くるりと踵を返して駆けて行った。




手足にほとんど感覚が無いけど、酷い姿をしているだろう。もしかしたら身体のどこかが欠けているかも知れない。

醜く汚れてもいるだろう。

得体が知れなくて恐ろしいだろう。


放って置けばその内死ぬ。

だからもう、こっちには来ないでくれ。



口の中に少しだけ流れ込んできたものに、意識を戻された。


その冷たく甘いなにかは、今まで記憶にないほど美味しく感じる。


目を開くと先程の女の子が満足気に笑っていた。息が弾んで、額には大きな汗の粒が浮かんでいる。


合わせた手のひらの間、指の先から滴る透明な液体を見て、今口に入ったのは水だったのだと知る。


その小さな手に水を汲んで、自分の元まで運んできてくれたのか。


「チーターー!」


自分の翼竜の名を呼ぶ声に、急激に意識がはっきりとした。

なぜ、どうしてが交互にせめぎ合っている。


自分の上に濃い影が迫ってくる。

見覚えのあるその流れるような形に、喉が塞がれて息が詰まる。


太い声の怒声も、心を引き裂かれるような悲鳴も聞こえない。


さわさわと風に揺れる葉擦れの音。

遠くに聞こえる鳥の声。

かさかさと草を踏む音。


戦いから離れて遠くに来たのだけは分かる。

それならどうかここで生きてくれと、幼い頃から弟のように可愛がってきた相棒に、心の内だけで話しかけた。


声も出ない。

手足も動かない。


もう本当に疲れた。


「ディーディー……エーー!!」


叫ぶような女の子の声はとても遠くから聞こえてくるようだった。






次にアドニスが目を覚ましたのは、清潔で整えられた寝台の上だった。


片腕が折れていたが、利き腕は無事だった。

その時は分からなかったが、腿を掠めたものには毒が仕込まれていた。


毒抜きに随分とかかって、幾晩も熱にうなされた。


面倒を見てくれたのは竜狩りの一家だった。

自分の父と同じ年頃の、でも正反対の風貌の逞しいお頭。

優しく気さくな人柄の奥さん。

自分と年の近い息子。

それから小さな娘。


家名を聞いて驚いた。


騎士の間では物凄く有名だったので、危うく寝台から落ちかけた。


「よく無事だったな」

「……ひとつもそんな気はしないです」

「命をふたつも持ち帰った。これが無事じゃなけりゃ何なんだ?」


からりと笑っているお頭に、アドニスはとうとう愛想笑いもできなかった。


チタは小さなものを合わせれば、数えきれないほど傷を負っていた。


大きなものは翼に空いた大穴と、その翼を広げるのに重要な、一番に太い骨が折れていた。

翼の穴はそのうち自然に塞がっていく。

毒が触れた部分は体から遠い場所だったので大した影響はない。

折れた骨もきれいに継げたので、回復も早いと見立てを教えてもらった。


足の指も折れていたが、そこは曲がったままもう治癒してしまったと付け加えられる。


「チタの方はどんどん治って元気になってる。次はお前の番だな」

「俺は別に……」

「おい、なんだ『俺は別に』だぁ? なに? 格好付けてんの?」

「そんな! つもり……」

「いやいや困るなぁ。ウチも商売してるんだぞ、坊主。チタの主人ならさっさと体を治して、治療費の分は稼げよこら」




寝台で起きていられるようになり、すぐに歩けるようになると、後ろをちょこまかと小さな女の子が付いて回る。

特別なにをするでもなく、黙って後ろをついてくる。


「あっちに行っててくれないか」

「うぅ……や!」

「どうして付いてくるんだ」

「チータ……こいの!」

「……は? 何言ってんだ?」

「チータ! いいの!」

「リアリア……何言ってんだ、お前」

「リアリア! だめ! リア! ……ン!」

「リアンリアン」

「だーめー!」


地団駄を踏んで顔を真っ赤にして怒っている。


リアンは六歳だと聞いていた。

それにしては弟と比べれば体が小さく見える。それに六歳ならもっと喋れても良いはずなのに、自分の名すらまともに発音出来ていない。


「いいからあっちに行け、リア……」

「リア……ンー! リア……ンー!」

「やっぱりリアンリアンじゃないか」

「だーめー!」

「リアンリアンリアンリアン……」


さっきまで力が溢れんばかりにこもっていたのに、すとんと抜け落ちたようになった。


あ、とアドニスは瞬時に面倒に思う。

弟で散々見てきた。

これは泣く寸前の顔だ。


口元が震えて、それが伝わったように瞳が揺れる。みるみる水の球が盛り上がって、すぐにいくつも溢れ落ちた。


「あーーーー! ……あーーーー! ……あーーーー!」


この世の終わりかと言うほどの大声を張り上げ、息を大きく吸い込むと、吸い込んだ分だけ全部声にして吐き出している。


「え……ちょ……なんだよ、そんなに泣かなくても……」


屈みこんで手を差し出そうとすると、めちゃくちゃに振り回しているリアンの手にはたき落とされる。

折れた方の腕まで容赦なしだった。


声を聞きつけたのか、物凄い勢いでディディエがやってくる。


「リアン、どうした!」

「……ディー、ディー……!」


絶望の淵から手を伸ばしているようなリアンを抱き上げると、ぎゅうと力を込めてから腕を緩める。

リアンの肩越しにアドニスをぐと睨みつけた。


「リアンに何をした……」


大きな声を出さないように押し殺していたが、怒りの形相はアドニスをたじろがせる。


「別に、何かをしてなんか……しつこく付いて来るからあっちに行って欲しかったんだ」

「お前が心配だから付いて回ってたんだろ。どうしてリアンの気持ちを考えてやれないんだ」

「なんで俺がこいつの気持ちを汲まないといけないんだ」

「……もう二度とその言葉を言うな。誰に命を助けてもらったか忘れるなよ」

「俺は別に助けてもらいたくなんか」

「それも二度と言うな!」

「ディー!」

「ああ!違うぞ、リアン。ケンカじゃないからな?」


リアンはディディエの頬をむにむにと揉んで、頭をぎゅうと抱えた。

よしよしと撫でている。


「リアンは人一倍優しい心を持ってるんだ。お前みたいな奴でも心配してやれる」

「取り柄がひとつでもあって良かったな」

「……お前……よくもそんな……リアンに謝れ」

「……は? 言葉が通じないのにか?」


そっとリアンを地面に下ろすと、人差し指を立てて、リアンに向かってそこを動くなと優しく声をかける。


これから何が始まるか察したリアンは、ディディエに向かって駄目だといった趣旨の声を上げた。


目が座っているディディエに、アドニスは腰が引ける。

静かに向けられる怒りは、戦場にいた時のような恐怖を呼んだ。殺される、と本気で思った。


瞬き分の時間もかけずに、ディディエはアドニスに馬乗りになった。

手加減はもちろん無しで、場所を厭わず、力の限り拳を振り下ろす。


またリアンが力一杯泣き叫び、今度はお頭がすっ飛んでくる。


「とーたーーーー! とぉたーーー……ん!」

「お前らこの! くそボケ坊主どもが!!」


ディディエよりも素早く硬い拳が両方の頭に振り下ろされて、一瞬で鎮圧された。


泣いているリアンを、おぉよしよしと抱き上げて、くそボケ坊主どもに冷えた視線を浴びせる。


「お前らかわいいかわいい女の子泣かすとか、有り得んな。竜の餌にしてやろうか」

「でもこいつが!」

「言い訳か?! おお?!」

「…………違います」

「ディディエは薪割り五百本。アドニスは空の水瓶に水を汲め。あと風呂桶も満たせ……リアンー。今夜はお風呂に入るぞー! おとーたんが良いか? おかーかんか?」

「おかーかん!」

「…………ぇぇぇええ……そうかぁ。おかーかんかぁ……」


リアンを連れてとぼとぼ家に向かっていたのに、ぐるりと顔だけ後ろに向けて、地を這うような低い声で、日が暮れる前までに済ませろと言い置いて去っていった。


ディディエは頭に手を置いて、小さく痛いと呟いた。


「……コブが出来てる。お前は?」


アドニスも拳骨が落ちた場所に手を当てる。


「俺も……」

「コブが出来てりゃ心配ねぇわ……ほら、早く帰って本気でやらねぇと日暮れに間に合わない。行くぞ」


とぼとぼと歩きだしたディディエの後を追って、アドニスも重たい足を動かした。



お頭は何とか日暮れまでに出来そうな限界を提示しただけあって、本当にぎりぎりまで時間を要した。


片腕が不自由なアドニスを、先にやり終えたディディエも無言で手伝った。



窯に火を入れて風呂の水を沸かす。

中に声をかけてから外に回って、ディディエは火の番を始めた。


アドニスは何となくそれを黙って見守る。


しばらくしたらリアンの楽しそうな声が聞こえる。


母親の声に合わせて、一緒に歌を歌って、一緒に笑う声もある。


壁に背を凭れて、その声を聞いていたディディエも薄っすらと笑っていた。


横に並んで座り、アドニスも背中越しにその声を聞く。


「………………悪かった」

「………………謝る相手が違う」

「いや……お前の妹を馬鹿にして悪かった……ごめんなさい」

「リアンは…………言葉を持って無いんじゃない……上手く口に出せないだけなんだ」

「…………うん」

「あの小さい体の中には、色んな気持ちや言葉が詰まってて……でも上手に取り出せないだけなんだ」

「……ごめん」

「お前だってそんな時があるだろ? 気持ちを、上手に言えない……もどかしくて……悔しい時が……」

「…………ある…………あるよ」

「悔しくて泣くくらい、お前に言いたいことがあったんだ」

「……うん……ごめん」

「リアンに謝れ……それで二度と揶揄ったりするな」

「分かった」




リアンは実にこの二年ほど前に、森の中を彷徨っているところをディディエに発見された。


人として人の様に暮らし、言葉を覚えてそれを口にするのは、リアンにとって日が浅く、まだ難しい。


どんなにそのことをアドニスに言い募ってやろうかと、本当は喉元までせり上がってきていたが、ディディエは黙することに決めた。


リアンを更に貶める切っ掛けになりはしないか。


そしてまだ得体の知れないアドニスに対して、リアンのこの先の人生を左右するような、こんなに大事な話はできない。


この時点でアドニスは信用に足らないし、ディディエも達観できるほど人間が出来上がっていなかった。




ぐいと腕で顔を拭うと、ディディエは横に居るアドニスの肩をぐいと押した。


「風呂上がりは機嫌が良いから、謝るならそこが狙い目だ。蜂蜜入れた牛乳持って行ってやれ。一発で許してもらえる」

「は。……分かった……そうする。ありがとう、ディディエ」

「……俺にも同じもの持って来たら、今日のことは忘れてやる」

「……待ってろ、すぐ持ってくる」

「リアンの後だ」

「……リアンの後に」

「……ほら行け」


ディディエの助言の通りに従って、牛乳をごくごく飲んでいるリアンに、子ども相手のような話し方ではなく、気持ちを込めて、率直に謝った。


全てを飲みきった後は、にこにこと笑い、いいよと返事があった。


頬をぴたぴた叩く、小さくて温かい手が、もう気にしてないよと、言っているように思えた。


「あーと! アドー二ー!」

「アドニス……」

「アロニス!」


首に巻き付いてきた腕は細くて、抱き上げたら驚くほど軽かった。

風呂上がりの体はほかほか温かくて、触れ合った部分から響く、どくどくと打つ心臓の音に、ぎゅうと胸の内を掴まれた気がした。


弟たちだってこんなふうに抱き上げたことが無いことに、アドニスは胸の内側を掻き毟られる想いがした。










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