それを僕らは夜明けと呼んだ
人類が地下に暮らして数百年。人工的な空の下で生き続ける暮らしはどんどんと貧しく、人々の心は疲れ果てていた。若く無謀な少年カリヨンは、地上に出て空を見てみたいという強い願いから、長らく住んでいたプラントを後にする。同じ想いを抱えた者たちと出会い、カリヨンは成長し、人々の抱える問題や矛盾を見つめ、地上を目指す。
頭上には、どこまでも突き抜けたような青色が広がっている。
それはゆっくりと朱色に染まったり、暗くなったときには無数の白い光が瞬いたりする。
それを彼らは『空』と呼んでいた。
だが、それは本物の空ではない。
人工的に作られた紛い物だった。
いくら似ていても、偽物は偽物だ。
その証拠に、所々には不自然な黒い点がいくつも浮かんでいた。
頭上を覆う信じられないほど大きな複合パネル。
遠い先祖たちが設置したその一部が壊れ、修理されることなくそのままになっているのだ。
だから、彼らは本物の空を知らない。
生まれたときから、死ぬときまで、ずっと地上の明るさを知らずに生きている。
大地の中、穴倉のなかで暮らしている。
一体いつまで、この地下暮らしを続けなきゃならないんだろうか。
どうして、地上に出ようとしないのだろうか。
カリヨンは強く思った。
太陽という無限の暖かさと光の象徴があるらしい。
雨が降るらしい。雷が鳴るらしい。
途方もなく広く、果てがないらしい――。
らしいばかりで、本当にそうなのかは知らない。
カリヨンが子供の頃、動画を見せてもらったことがある。
それは地上の、『本物の空と街』の光景だった。
はるか昔の映像資料に映る空はとても移ろいやすく、一つとして同じ顔をしていない幻想的な光景だった。
太陽に照らされてどこまでも広がる屋根と無数の人々。
視界に映るすべての範囲に水が降ってくる雨。
どこからともなく発生する稲妻と轟音。
そんな光景を一度でも見てみたい、感じてみたいと思った。
――プラント25198
それがカリヨンたちが住んでいる居住区の名前だった。
地下深くに掘られた超巨大な地下空間の連続。
彼らの世界だ。
一つのプラントにはおよそ400人が住んでいる。
特別な階級差もなく、『マザー』の差配によって成り立つ平等な社会。
でも全然裕福じゃない。
それどころか、年々暮らしが貧しくなっていた。
一つのプラントで生活物資のすべてが賄えるわけがなく、多くは中央から物資の供給を受けて生活していた。
だが、毎月の税をなんとかやりくりして支払っても、配給される物資は年ごとに少しずつ減少し続けていた。
お腹いっぱいに食事を楽しめたのはいつ以来のことだろうか。
特別な催しのときだけは、周りの人間が融通しあって、豪華な食事を楽しんだ。
こんなしょぼくれた場所にいつまでもいても仕方がない。
僕は空を見るんだ。
カリヨンは故郷を離れる覚悟を決めていた。
プラント25198はとても狭い空間だ。
人々は地下という限られた空間の中で、精一杯身を寄せ合って生きている。
だが、同時に生活に必要な衣食を供給するために、色々な工夫を行っていた。
たとえば壁や通路の端には無数の鉢植えが置かれている。
わずかな空間でも植物が育てられるようになっていた。
人々から出る二酸化炭素を少しでも吸収できるように、また狭い空間をわずかでも生産に繋げるために。
建物や道路などに白が多用されているのも、わずかでも照明の効果を高めるためだった。
階級差がない――つまり画一的な広さや高さの建物が無数に並んでいて、土地の者でないと細かな見分けがつかないうちの一つが、カリヨンの自宅だった。
カリヨンの父は厳格な人だった。
実直で、自分にも人にも厳しい。
カリヨンの気は強い方だが、それでも父に旅に出ることを伝えるのは、怯む気持ちがあった。
カリヨンなりに言葉を尽くして故郷を離れることを伝えた。
父はしばらく瞑目し、ジロリ、とカリヨンを睨みつけた。
「それでお前はここを離れるってか」
「ああ。もう心底うんざりなんだ。僕はもうこんな先の見えない場所で生きていきたくない。どうせなら未来に向かって生きていきたい」
「勝手な野郎だな」
「悪いとは思ってるよ。でも自分の人生だ。僕の好きにさせてくれないか。生まれたときから死ぬまで決められた道を歩き続けたくないんだ」
いや、違うか。
これがまだ、少しでも挑戦し甲斐のある未来を感じられるなら、それでも良かった。
だが、世の中は明らかにまずい方向に向っていて、何の改善も見られない。
真綿で首を絞められるように、少しずつ暗い未来に歩いていっているのだ。
そんな世の中を諦めて受け入れられるほど、カリヨンは賢くも愚かでもなかった。
「お前が赤ん坊から今まで育つのに、俺たちがどれだけ苦労してきたと思う。それを地上に行きたいとかいう自殺願望を叶えさせるためだなんて、悲しくて涙が出てくるわ」
「ドン詰まりじゃないか。このままここで苦労して暮らして、一体どんな夢があるんだ。ただ年を重ねるんじゃなくて、僕は生きたいんだよ」
「過去にお前のように地上を求めなかった奴が一人もいなかったと思うか。もし地上に出られるなら、誰かがそれを伝えたはずだ」
一瞬カリヨンは言葉に詰まった。
その通りかもしれないから。
だが、そうだと断言もできない。
どちらにせよ、中央プラントに比べてカリヨンたちが住む辺境のプラントはあまりにも物も情報も足りないのだ。
自分の目で確かめてみるまでは、信じられるものではなかった。
「そんなものはやってみなきゃ分からない。外が変わってるかもしれない。見切りをつけたのかもしれない。親父みたいに止める人間が出て、そもそも誰も外に出てないかもしれないじゃないか」
「どうしてもこのプラントを捨てたいというならば構わない。その時には親子の縁を切る。プラントに住む他の人に顔向けができないからな。今日からお前は赤の他人だ」
「っ…………! あぁ、分かったよ! 今日まで世話になった。用意してすぐに出る」
「危険な旅になるんだろう。別にすぐに出ろとは言わん。しっかり準備をしていきなさい」
親子の情とは何だったのか。
そんなにすぐに縁を切れるような関係だったのか。
カッと頭に血が昇って、足音もうるさくカリヨンは父親の前から離れた。
そんなカリヨンの姿を、父親がじっと見つめていたことにも気付かず。
自室に入って鞄に荷物をまとめていく。
プラントの数は膨大で、中央に繋がる道は遥か遠く険しい。
時には危険とも遭遇するだろう。
何を持っていくべきか、何を置いていくべきか、慎重に選ばなくてはならない。
水筒、ランタン、毛布、寝袋、このあたりは絶対に欠かせない。
身を守る武器には鉈を用意した。
ほどなくして、母親が部屋に入ってきた。
厳しい父親とは違い、母はとても穏やかで優しい人だった。
そういう意味では、夫婦で上手くつり合いが取れていたのかもしれない。
「お父さんを嫌いにならないであげて。あの人も必死なのよ」
「そんなこと言われたって、親子の縁を切るって言ってきたんだぜ。僕ももう他人のつもりで生きるさ」
「違うわ。あの人は自分だけじゃなくて、プラントに住む人たちのためにも、縁を切らないといけなかったのよ」
「……どういうことだよ」
「地上に出るということは、中央の意向に逆らうということよ。その責任はあなた一人で負えるものじゃないの。もしかしたら、あなたを生み育てたこのプラント全体の責任として処分されるかもしれない」
「そんな横暴が……? だって俺が勝手にやったことで、プラントのみんなには何の責任も……」
「本当にないと思う?」
重ねられた質問に、カリヨンは黙り込むしかなかった。
十分にあり得ることだった。
中央の意向は『マザーの下の平等』を謳っているが、実態は大いに矛盾に満ちている。
中央プラントに住む人の暮らしはもっと豊かだともっぱらの噂だった。
「私たちは運命共同体なのよ。誰かが問題を犯せば、その責任は皆で背負うことになるの。でも、縁を切って追い出された人は別……」
「それで僕を?」
「不器用な人だから、こうやって追い出すような形でもしないと、応援できないの。お父さんの気持ちを分かれなんて言わないわ。でも、お願いだから嫌いにはならないで」
「……分かったよ」
「気を付けてね。忘れ物のないように」
「母さんは引き止めないんだな」
「あなたはとても意志の強い子ですもの。きっと言ったところで聞かないでしょう?」
「うん……。ごめん」
「元気でね。愛してるわ、カリヨン」
母親はカリヨンの頭を抱き寄せると、しばらく無言になった。
確かに伝わってくる温もりに、カリヨンは何も言えなくなる。
これから出ていく自分に、生半可な言葉を伝えるわけにはいかない。
ただ一言、ありがとうとだけ礼を言った。
母親が部屋を去り、それからは誰とも話さず、カリヨンは一人で荷物を纏めた。
プラントの人たちと別れを交わすつもりはない。
翌朝、旅立ちのために弁当を持たされた。
「これは……?」
「中央プラントへの交通許可証だ。留学って名目にしてる。中央には教育機関がある。その許可証を持っていけば、通れる場所も多いだろう」
「親父……」
「生きろよ。死ぬにしても、その最後の瞬間まで生き続けろ。それが親の言いつけを破って危険な場所に向かうお前の責任だ」
「ありがとう……」
行くよ、と告げてカリヨンはプラントを後にした。
暗い、どこまでも延びた通路に足を踏み入れる。
後ろを振り返りたい気持ちを必死に抑えて、足を動かす。
振り返ると、決意が鈍って足が止まってしまうと、分かっていたから。
これがカリヨンの地上を目指す、遠い遠い道のりの、最初の一歩だった。





